第十二話 親長卿御出家之次第
応仁文明の大乱が起こったのは、政元が挙兵した明応二年(一四九三)より三〇年近くも前の応仁元年(一四六七)のことであった。天皇御所でさえも兵火免れるあたわず、帝(後土御門天皇)はやむなく室町第に逃げ込んで、しばらくの間、将軍義政との同居を強いられている。
このように、戦史に残る大乱をご経験あそばされた帝なので、御所にあらせられながらもこたびの騒ぎを聞こし召され、先の大乱を昨日のことのように思い起こされては
「いまの鬨はなにごとやらん。甍の焼ける臭いはいずこから漂い来るやらん」
と深く御軫念あそばせたもうところひととおりではなかった。そこで壬生晴富は、武家(幕府)に事の次第を問い合わせることとした。もっとも、武家とはいっても将軍義材は奉公衆や奉行衆といった側近を河内に連れ出していたので、その問い合わせる先は、騒ぎの中心人物政元だった。
政元は青ざめながら問い合わせる晴富に
「次第速やかに主上(天皇)に言上奉るゆえ、いまは心配ご無用とのみお伝え下さりませ」
と返事をしてその場は誤魔化したが、身を具足で固めている様はどう見ても尋常ではなく、ただごとではないなにかが起こっていることだけは確かであった。晴富はほとんどなにも知らされることなく、青い顔のまま御所に帰るしかなかった。
翌日、政元は晴富に対して、河内出兵中の義材を廃し、香厳院清晃を還俗させて新たに将軍に据える旨を報告した。加えて政元は、此度河内出兵に先立ち、無名の帥を諌止する献言あまたあったにもかかわらず、義材がこれらをことごとく無視し、政長の私戦に諸侯を駆り出したがゆえのこれは義戦である旨を言上した。そしてこれが、他ならぬ富子の意志であることも。
政元は緡銭の束を唐櫃に入れて進上した。「御訪」である。
壬生晴豊が政元のこれら言い分を主上に復命すると、主上は速やかに権大納言勧修寺教秀、同じく権大納言甘露寺親長、右近衛権少将三条西実隆といった朝家の重臣を召し出された。今後の対応を諮問あそばすためであった。
もっとも、主上の大御心は既にお決まりであらせられた。
このころ、足利が将軍に任官されること既に十代約百六十年に及んでおり、足利家がその職を占有するというのが世間一般の常識になっていた。その足利家の家長である富子が義材排除を命じたということは、足利家の総意として義材排除、清晃擁立を選択したということになる。
それはそれでいっけん理屈が通っているようにも思われるが、いくら将軍が足利家の職だといっても、任命権者が天皇であることには変わりない。
武力によって官職が動かされるようなことがまかり通るなら、煩わしい宣下の手続きなどおよそ意味を持たないではないか。あれは一体何のための儀式だったのか。朕が信認し、正規の手続きに則って任じた将軍を、いかに富子のやることとは申せ廃するなど言語道断の所業――。
かく思し召して帝はお怒りあそばされたのである。
なので帝は義材排除、新将軍就任については反対である旨の思し召しを前提として、三人の廷臣に諮問あそばされた。そのお怒りは、勝仁親王(後の後柏原天皇)への譲位すら厭わぬほど激越であらせられた。
そういった主上のお怒りに敢然と異を唱えたのが権大納言親長卿であった。
「恐れながら言上奉ります。主上のお怒りごもっともなれど、践祚の儀につき懸念これあり。用途(銭)をいかに用立てあそばされんと思し召しか」
主上は御簾の奥から
「朝廷諸経費はこれまで足利が負担して参った。清晃とやらが将軍になりたいと申すなら、それに支払わせれば良い」
とお答えあそばされた。親長は続け言上した。
「清晃は昨日まで香厳院の僧侶だった身。銭などおよそ持ちあわせてはおじゃりますまい」
「ならば富子に負担させよ」
「それも難しうおじゃります」
「何故か」
「慈照院殿(義政)ご存命ならばいざ知らず、寡婦となった尼御台が先年、亡き今出川殿(義視)より散々な仕打ちを受けたことは既にご存じかと思います」
所領を没収され、屋敷も破却された。仕えていた多くに暇を与え、いまは身の回りの世話をする最低限の人数が近侍するばかりまで零落している。幕政に容喙し新関を設置し、朝儀に必要な用途を献上した往時の勢いが富子から失われて既に久しい。
「ならばどうせよと申すのじゃ」
主上の玉言に含まれる怒気が温度を増す。しかし老臣親長も負けてはいなかった。怒りのために前後の見境を失いつつある主上を諌止できるのは、主上より十八歳も年上で今年七十になった朝家の重臣親長しかいなかった。
「それはこちらが教えてもらいとうことにおじゃります。お腹立ちまぎれに譲位に踏み切ったところで用途がなければ沙汰止みにするしかおじゃりませぬ。かくのごとくんば世上より嘲りを受けるは他ならぬ主上。出来ないことは最初から仰せ出されぬことです」
「出来ないこととはなんぞ。では政元に負担させよ。そうじゃ、それが良い」
「政元と仰せか」
「言ったがどうした」
「主上におかせられては、政元の下剋上にお腹立ちありて譲位を仰せ出されたのではおじゃりませぬか。で、結局その政元の銭にすがりついて譲位あそばされるのでおじゃりますな? そういうことでようおじゃりまするな?」
政元のやることが気に入らないから譲位しようというのに、その費用は政元だのみか――。親長の諫言は正論であった。
「なにごとも親長の申すとおりしておっては、朕の意などあってなきがもののごとくではないか」
かく宣ってご不満をお隠しあそばさぬ主上。
「他のことならばいざ知らず、譲位の儀ばかりはいま少しお待ちあれと言上仕っているのでおじゃりまする。そもそも武家に転変はつきものであり、帰趨が明らかになったうえは、朝家が武家に引き摺られて右往左往する必要はおじゃりませぬ。あとは武家の好きにさせておけば良いのです。譲位の儀も、武家の申沙汰を待つべきでおじゃります。武家は我らのことをどうせ放ってはおけぬのですから……」
譲位はいずれ武家側から言い出すだろうからそれまで待て――。帝を宥めるため言ったつもりだったが、まさか親長は、眼前の後土御門天皇から後柏原天皇、そして後奈良天皇と三代にわたって譲位が果たされず、武家から半ばほったらかしにされる未来の話など、神ならぬ身に知る由もなかっただろう。
この諫言の直後、自責の念から親長は官をすべて辞したうえで出家している。
主上が譲位を仰せ出されたのならば、その意を体するのが廷臣としての本来の役目だ。世が世ならば誰憚ることのないめでたき儀だったはずが、用途不足のせいとはいえ反対せざるを得なかった親長の苦衷察して余りある。
朝家の台所事情を少しでも助けるための、口減らし目的の出家とするのは穿ちすぎか。