回想
その便箋を手に取った時、はっと少女の笑顔が目の前に現れた、そんな気がした。
俺の28年間の人生で、女の子、ましてや女性となんてまともに会話したことすらない。いつだって根暗な人生だったからだ。
思い当たる少女はただ一人しかいない。20年前に亡くした、ただ一人の妹の笑顔だった。
親父はごく普通のサラリーマン、母親は専業主婦という、ごく平凡な家庭に俺は生まれた。生まれて初めての記憶は、産まれたばかりの妹を力いっぱい抱き上げたことだ。
側から見れば、普通の幸せな中流階級の家庭に見えたかもしれない。だが、この時から家庭の歪みは始まっていた。目には見えない心の病が母親を蝕んでいたことに誰も気づかなかった。
俺の名前は透。ごくごくありふれた、普通の名前である。
妹は、亞莉子。母親が名づけた。純日本人の家庭に生まれて、なぜ俺と違い日本的でない名前を付けたのかは分からない。なぜなら母親も今は亡き人物だからである。
この頃の俺には分からなかったけれど、亞莉子が産まれた頃から母親は異常な行動は始まっていた。親父がそうこぼしていたのを覚えている。夜中に家を飛び出して絶叫しながら近所を徘徊したり、カッターナイフで家の中の壁紙を切り刻んだり。食事も気まぐれにしか与えられなかったので俺はいつも腹を空かしていたし、妹も成長が遅かったのだと思う。
それでも5年間無事に過ごせたのは、親父が懸命に俺たちの世話をしていたからである。
今思えば、親父は間違っていた。気遣うのは子供よりも、母親の心のほうだった。親父は親戚や会社の世間体を最優先に考え、母親を病院に連れていかなかった。そんな日々が3年は続いた。
そして、俺は6歳、妹は3歳。人見知りが激しい俺と、荒んだ家庭に閉じ込められている妹とはどこの誰よりも仲良しになっていた。世間体を気にする父親、心が壊れかかった母親。そんな二人よりも俺と亞莉子は一番の家族だった。
そんな環境でも、妹は言葉を覚え、会話ができるようになってきた。幸い近所には小さな図書館があったので、母親が俺たちに憎悪を向けたときの避難所になっていて、閉館の時間まで入り浸ることが日常になっていた。
図書館での行動は専ら妹に絵本を読み聞かせる事だった。お化けの絵本、妖精の絵本など、俺の読める範囲のコーナーはすべて読みつくしたと言ってもいい。
そんな数ある絵本の中で、妹が最も気に入った絵本は、オーソドックスなお姫様になって幸せになる話ではなく、不思議の国のアリスだった。
なぜ、不思議な国のアリスが一番好きなのか、妹に聞いたことがある。
「だってアリスは亞莉子のことなんでしょう?亞莉子は大きくなったらアリスになるんだもの」
どうやら妹は自分と同じ名前であるアリスに自分を重ね合わせているようだった。大きくなれば、そんな幻想も消えるだろう。サンタクロースを信じたこともない俺は、そう思うことで口を閉ざした。
そんな日々が2年間は続いた。相変わらず妹とは仲が良く、広告の裏に落書きをしたりすることもした。妹はプライドが高いのか、自分では絶対に絵を描こうとしない。代わりに俺が、妹のリクエストに応え女の子の絵を描くことが習慣になっていた。
色の数が少ない色鉛筆からあれこれと指示を出されては、俺はその通りに女の子の絵を描く。
妹が描いてほしいという女の子の絵は、お姫様ではなく、決まってアリスの絵だった。
「髪の毛は黄色で、目の色は青。お洋服は赤で、白いエプロンを着けてるのね。頭と胸のおリボンは黒じゃなきゃダメだよ!そんなかわいくない目はだめ~、もっとかわいくしてよ!」
そんなダメだしをくらったおかげで、絵だけは上達したといっても良い。
そんな和やかな日々は突然幕を下ろした。
母親が亞莉子と共に心中したのだ。理由は分からない。ただ、心中する数日前から怒ったような独り言が多かった気がする。
俺が小学校に行ってる間、自宅のマンションの10階から亞莉子を投げ飛ばし、母親自身も飛び降りたと言う。
幸か不幸か、俺はこの辺りの記憶が曖昧なままである。
少し印象に残っているのは、親父が豹変したことである。吉祥寺のボロアパートに逃げるように引越し、浴びるように酒を飲み始めた事だ。仕事もろくに行かない様子で、あれほど気にしていた親戚の目も気にすることなく堕落していった。
俺はそんな親父を見て、将来の希望も見出せず、高校に行く事も無かった。ただ、ふと思いつくとアリスの絵を描いている自分がいた。もともとの才覚もあったのか、それとも無意識に絵を描くことに執着していたのかは分からないが、なんとなくイラストレーションの専門学校に通うことにした。
酒に溺れてても息子への愛情は1ミクロンはあったのか、イラストを描くためのパソコン一式を買ってくれたのは驚いた。
これまたなんとなく専門学校を卒業し、えらくマイナーなゲーム会社に就職した頃、親父はアルコール依存症で亡くなった。