第55話 03 月下の幻術師イリヤ
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エリーサは反射的に身を翻し、必死に駆け出した。しかし、巨大な鎌を握る怪物たちはあまりにも速い。黒い残影のように疾走し、瞬きの間に背後へ迫ってくる。
「水魔法――流星雨!」
彼女が杖を高く掲げると、次の瞬間、天空が崩れ落ちるように豪雨が降り注いだ。無数の雨滴は鋭い弾丸へと変わり、奔流のごとき威力で怪物たちの身体を貫く。だが――おぞましいことに、貫かれた肉体は崩れ落ちることなく、裂け目は幻のように消え、弾力のある橡膠のように瞬時に元へ戻っていった。彼らは悲鳴すら上げず、痛みを感じている様子もない。
「どうすれば……?このままでは際限なく追われるだけ……体力は必ず尽きる。方法を……見つけなきゃ……」
呼吸は荒く、足取りも乱れる。振り返り魔法を放とうとしたその時――また、あの寒気を伴う違和感が押し寄せた。
眼前の景色が唐突に砕け散る。壊れたデータの断片のように点滅し、途切れ、乱れる。世界そのものが文字化けのように引き裂かれ、次の瞬間、場面は切り替わった。
気づけば、エリーサは果てしない夜空に浮かび、身体は急激に失重。耳を切り裂く風鳴りと共に、落下していく。
「また……場面転換……?やっと……逃げ――」
ほっとした刹那、あの鎌を持つ怪物たちも同じように現れ、彼女と共に落下していた。悪夢は終わっていなかったのだ。
「雷魔法――雷霆万撃!」
焦燥を帯びた詠唱と共に、杖から紫白色の稲光が奔る。無数の雷が血管のように夜空に走り、交錯し、煌めく天網となって怪物たちを覆った。天地を震わせる轟音。眩暈を起こす閃光。
だが、雷が収束した後も――彼らは無傷のまま立っていた。苦痛も痙攣もない。ただの抜け殻のように。
「ありえない……雷さえ効かないなんて……誰か……誰か助けてぇ!」
叫びは悲鳴に近く、虚空に引き裂かれたように反響した。
一方その頃、遥か深い森の中――
幻術を操る少女、イリヤは巨大な岩に腰を掛け、静かに月を仰いでいた。銀の光がその顔を照らす。姉と同じく小さな鼻梁、透き通るような瞳、白磁のような肌、淡い光を帯びる桜色の唇。その小さな身体は夜の中でひときわ際立ち、知らぬ者が見れば、本物の月の精と見間違えるだろう。
「意外だったな……こんな不測の人物が現れ、幻術をここまで乱すなんて……」
イリヤは小さく呟きながらも、その瞳は揺るがず静謐なまま。
「でも大丈夫。あの“目覚めた人”なら、もうお姉様が対処している。お姉様は最強で、一番賢くて、一番可愛い。絶対に負けたりしない……。私はただ、この幻術を維持すればいいだけ。」
夜風に乗るその声は、盲目的なまでの信頼と崇拝を含んでいた。
だが――その頃、彼女の姉は確かに敵を押し込んでいたものの、ニックスは真逆。重傷を負い、立つだけで激痛に耐える彼の身体は、今にも崩れ落ちそうになっていた。
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