第54話 02 風が指し示す方角
――「夜、わたし……今すぐ中に入らないといけないの?」
星は小さく顔を上げ、瞳に灯るかすかな光を映し込みながら、その奥に揺れる感情を必死に隠そうとしていた。
「うん、そうだ。」
ニックスは静かにうなずき、穏やかな声色の奥に揺るぎない決意をにじませる。
彼は手を上げ、手首に巻かれた小さな装置を指先で軽く揺らした――精巧な腕輪のような形をしており、金属の表面には淡い光がやわらかく走る。
「見てごらん。これ、君の手首にも同じものがあるだろう? これがあれば中で迷子になることはないし、どこにいてもすぐに君を見つけ出せる。」
彼は少し間を置き、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「だから、心配はいらない。それに……中の世界はとても綺麗なんだ。本当に。たった一日だけでいい。人に預けるのはどうしても不安だし、かといって君を戦場へ連れて行くわけにもいかない。これが、僕にできる唯一の守り方なんだ。」
星はまだわずかに迷いを帯びていた。
ニックスはその表情を見て、そっと彼女の髪を撫でた。その仕草には、まるで兄が妹をあやすような温もりがあった。
「信じてくれ。僕は絶対に君を捨てたりしない。たとえ世界中が君を見放しても、僕は迷わず君と共に歩き続ける。だって……君は僕にとって初めての妹なんだから――血のつながりはなくてもね。」
星はゆっくり首を振り、長い睫毛がわずかに震えた。
「わたしは、夜がわたしを捨てるかどうかなんて心配してない……。そんなこと、ずっと前からわかってる。過去も未来も、夜は絶対にそうしないって。」
その声はかすかに震え、目尻には小さな涙がきらめいた。
「わたしが心配なのは……夜がまた傷ついたらどうしようってこと。王都のとき、夜は一週間も眠り続けてたでしょう? それに……お医者さんは、夜の魔力神経がもう損傷してるって……」
彼女の言葉は冷たい水のように胸を締めつけ、恐怖と無力感を孕んでいた。
「本当に怖いんだ……夜が大丈夫って言ってくれても、やっぱり怖い。もし夜まで失ったら……わたしはもう、本当に誰も頼れる人がいなくなっちゃう……」
ニックスは言葉を失い、そして次の瞬間、強く彼女を抱きしめた。
その腕の中で、自分の体温すべてを注ぎ込み、少しずつ彼女の恐れを溶かしていくように。
「ごめん……こんなに心配させてたなんて。君がそんな想いを抱えてるなんて、考えもしなかった……」
星は顔を上げ、瞳の奥で涙がきらめいた。
「じゃあ……約束してくれる? もし本当に命を落とすような危険にあったら……全部を捨てて、一人で逃げてくれるって……」
ニックスは沈黙した。
――できるはずがない。そんなこと、絶対に。
星はその沈黙を答えとして受け取り、苦く、けれどどこか優しい笑みを浮かべた。
「だからこそ、心配になるんだよ……。でも、夜がそんなに優しい人だから……わたしは夜の妹でいたいって思ったの。」




