第50話 16 今は、君と一緒に踊りたいだけなんだ。
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「この転送魔法、確かに便利だけど……発動の仕方があまりにもおかしすぎるだろ……」
ホウ・ペイは額を押さえながらぼやいた。「まるで何かに飲み込まれて、吐き出されたみたいな感じだったぞ……おまけに石にぶつかって、まだ頭がズキズキしてるんだ……」
「はいはい、文句はそのくらいにして。」
背後から聞こえる夢子の声には、どこか愉快そうな色がにじんでいた。「ほら、目の前を見てみなさいよ。」
ホウ・ペイが不満げに顔を上げた瞬間、息を呑んだ。そこにはまるで幻想のような光景が広がっていた。
森にそっと抱かれた天然の温泉湖。夕陽が湖面に金色の輝きを投げかけ、湯けむりが静かに漂っている。湯気は霞のように空気を包み込み、湖全体が柔らかな光に照らされていた。その景色はまるで、時間の流れさえ忘れてしまうほどの静けさと温かさに満ちていた。
「……綺麗だな、ここ。」
二人は浴衣に着替え、温泉へとゆっくり入っていく。湯が肌を優しく包み込み、まるで疲れた心を癒してくれるかのようだった。
「どう? ちょうどいい温度でしょ。」夢子が問いかける。
だがホウ・ペイは妙に落ち着かない様子で、視線を泳がせていた。
「な、なに? 体調でも悪いの?」夢子が不思議そうに顔をのぞきこむ。
「いや、違うって……ただ……」
ホウ・ペイは顔を少し赤らめながら、ぽつりとつぶやいた。「なんで君が俺と同じ湯船に入ってるんだ? 普通だったら向こう側に入るもんじゃないのか?」
夢子はくすっと笑いながら、あえてからかうように言った。
「えっ? もしかして……照れてるの? やーん、このスケベ。きっと今まで彼女いなかったでしょ~?」
「違うっ!」ホウ・ペイはすぐに否定した。「それを言うなら、君だってパートナーいないだろ? だって、誰が300歳超えのおばあちゃんと付き合いたいと思うんだよ?」
「誰が"おばあちゃん"よっ! 私は若くてキュートな美少女魔女よ、このバカ!」夢子は怒って水を跳ね返す。
二人は子どものようにじゃれ合いながら、笑い声が温泉に反響していった。空はすっかり夜の帳に染まり、月が優しく二人を照らしていた。
ホウ・ペイはぽつりと語りだした。
「……なんだか昔を思い出したよ。昔、屋敷で開かれた舞踏会。みんなが楽しそうに踊ってる中、俺だけ外のベランダで、星を見てた。」
「へぇ、舞踏会に出たことあるの?」夢子が驚いたように目を見開いた。
「もちろん。俺は元貴族の家の出だからな。」
ホウ・ペイは少しだけ寂しそうに笑った。「まぁ、今はただの貧乏冒険者だけどな……でも、本当の夢は、パティシエになることだった。だからこそ、ケーキを作る魔法まで勉強したんだ。」
「うそ……あなたがパティシエ志望なんて……」夢子は素直に驚いていた。
「まぁ、苦しい時期もあったけど……それはもう過去の話だ。」
ふと彼は問いかけた。「ねえ、君は……踊ったことある?」
夢子は首を横に振った。「まさか、ここで私と踊ろうって言うんじゃないでしょうね?」
「ダメ?」ホウ・ペイが首をかしげて笑う。
「……ダメってわけじゃ、ないけど。」夢子の顔が少し赤くなった。
「じゃあいいじゃん。」ホウ・ペイは手を差し出した。「ちゃんと踊れなくてもいい。俺もこれが初めてなんだ。……音楽はなくても、これは僕たちの初めてのダンスだから。」
夢子は少しだけ迷ってから、その手を握りしめた。温もりが、静かに伝わる。
「……うん、じゃあ、踊りましょう。」
音もリズムも不規則で、不器用なステップ。
でも、ふたりの心だけは確かに繋がっていた。
月明かりと湯けむりに包まれながら、彼らは誰にも邪魔されない“ふたりだけの舞踏会”を踊り続けた。
不恰好でもいい。ぎこちなくてもいい。
それは、世界でいちばん優しく、美しい夜のダンスだった。
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