第49話 最終章 ありえざる森
四人は背を合わせ、全方位に視線を向けて立ち尽くした。汗が首筋をつたい、落ち葉を揺らす風の音さえ恐怖をかき立てる。
「やっぱりこの森……おかしい……」一人が歯を食いしばる。「俺が広域魔法でこの辺全部――」
その時だった。
地面が生き物のようにぐにゃりと動き、突然、泥の中から黒い影が飛び出し、彼の足を掴んだ!
「したっ……足元だ!」
彼が叫ぶや否や、残りの三人が手を伸ばす。しかし――
間に合わなかった。
彼の下半身は瞬く間に湿った土に飲み込まれ、必死に伸ばした指先も、絶望と共に沈んでいった。
「くそっ!」
もう一人が振り返った瞬間、どこからか伸びた蔓のようなものが、獲物を捕えるように彼の体を絡め取り、霧の奥深くへと引きずりこんでいった。
「うわっ……! 待って……!」
二人が、消えた。
わずか数秒の出来事だった。
五人いたはずの冒険者たち……気がつけば、もう二人しか残っていなかった。
風はまだ吹いていた。霧は深く、森は恐ろしいほど静かだった。
「逃げろ!!早く──もう……勝ち目はない!!」
隊長の叫びは、喉を裂くような絶叫だった。掠れた声に焦りと絶望が滲み、響き渡るその音に森も一瞬息を潜めたようだった。彼が後ろを振り返ると、まだ現実に戻れていない隊員が一人、呆然と立ち尽くしていた。瞳は微かに震え、まるで魂が抜けかけているかのようだった。
「しっかりしろ!!」
乾いた音と共に、隊員の頬に一発の平手打ちが飛んだ。その強さは、夢の中から無理やり現実へと引き戻すような衝撃を与えた。隊員はハッと我に返り、すぐに隊長の後を追ってよろめきながら走り出した。
「こっちだ!左側の木の幹に……あのとき付けた印があるはずだ!」
隊長は息を切らしながら叫び、前方の林を指差す。
「もうすぐ外に出られる!出られさえすれば応援を呼べる……魔女がこの森にいることは、もう確定している!」
揺れる木の影、唸る風。背後の森は生き物のように、じわじわと彼らの逃げ道を飲み込んでいくようだった。
だが──
希望が視界に見え始めた、その瞬間だった。
「ま、待って──!!」
先を走る隊員が突然足を止めたかと思うと、次の瞬間──地面に仕掛けられた魔法陣が彼の足元で閃き、眩い光が弾けた。
ドン!!!
爆音と共に火花と土煙が舞い上がり、森が一瞬、燃えさかる地獄と化した。隊員の身体は衝撃波に弾き飛ばされ、地面に激しく叩きつけられる。意識を失った彼の周囲で、残る火の粉がまるで地獄の舌のように、静かに揺れていた。
「……くそッ!!」
隊長は歯を食いしばり、助けに戻ろうとしたその時、ふと──
森の奥に、何かの影が、ゆっくりと近づいてくるのを感じた。
それを見た瞬間、彼は一切の迷いを捨て、踵を返して全力で駆け出した。落ち葉と泥に足を取られながらも、彼はひたすら出口を目指して叫ぶ。
「俺が生きて外に出て……援軍さえ呼べれば……みんなを助けられるんだ!!」
全身全霊を込めて、彼は最後の道を駆け抜けた。記憶に焼き付いている、あの「出口」へ──
しかし、彼がたどり着いたその場所は──
出口ではなかった。
目の前に広がっていたのは、見覚えのない森の風景。
静まり返った木々、うごめく霧、まるで……何も変わっていないかのように。
「う……そだろ……出口が……変わってる……?」
震える手で周囲を見渡した彼の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
消えたはずの仲間たちが、何事もなかったかのように、そこに倒れていた。
だが、彼らの身体には──泥ひとつ付いていない。
拘束の跡も、出血もない。
まるで、最初から何も起きていなかったかのように。
「な……何が……さっきまでは確かに……」
隊長の呟きは風に溶け、瞳の焦点は徐々に彷徨い始めた。
「まさか……この森そのものが……」
「うふふ、そう。その“まさか”よ。」
背後からひんやりとした声が、まるで霧のように忍び寄ってきた。
どこか心地悪い微笑を含んだ、異様な女の声だった。
彼が振り返ろうとしたその刹那──
青白い魔力の光線が、音もなく背中を貫いた。
凍えるようなエネルギーが体内に流れ込み、彼の身体は金縛りに遭ったように硬直した。意識は潮が引くように、一気に暗闇へと飲まれていく──
風がその場を撫で、彼のポケットから一枚の地図がヒラリと舞い落ちた。
地図に描かれていたのは、現実には存在しない、“幻の森”。
つまり──
この森は、最初からこの世界に存在してはならない場所だったのだ。
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