第49話 10 古き記憶に指先を染め、夢のように揺れる
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夜が静かに訪れ、深く澄んだ墨色の空が村を覆う。雲間を時折星が瞬き、家々のかすかな明かりだけが揺れていた。その静寂の夜の中、幽霊は再びニックスの身体をそっと支配した。
「はあ……また僕の番か」
微かな動揺とともに彼は起き上がる。身体がわずかにぐらつき、額に皺が寄った。
「まったく……この身体のバランスの悪さときたら、階段さえもままならない」
そう呟きながら、彼はドア枠に手をかけ、半ばよろめくように部屋を出る。夜風が頬を撫で、清涼な感触が現実感を取り戻させた。
しかし彼の頭の中には、朝見えた夢子の頼みがまだ残っていた。
(あの女……本当に手伝った方がいいのか?そもそも僕には何の義務もない。でも抵抗しても勝てそうにないし……)
幽霊は自分の掌を見つめ、そっとひと握りする。
(こんな状態じゃ戦どこか、まっすぐ歩くのすら難しい……)
昨晩の断片的な記憶を頼りに、夜の道をふらふらと歩いていく。やがて、見慣れた木造の庇が目に入った。
「……多分、ここだな」
そう呟いた次の瞬間、穏やかだがほんのりとした重みを帯びた声が門先から響いた。
「やっぱり、来たのね」
月明かりが夢子の長い髪を銀色に染め、彼女の輪郭を優しく浮かび上がらせた。
幽霊は軽く鼻を鳴らし、肩をすくめる。
「来なきゃ来ないで、どうにかして来させる気だろ?それだけ君にとって大事なことならね」
夢子は首を振りつつも、瞳の奥にある疲れと決意を隠せなかった。
「そういうやり方はしないわ。私の力も、もう前のようには強くない」
彼女は少し声を落としながら続ける。
「だから、今のあなた……手伝ってくれる?」
幽霊は答えず、そのまま家へ入り、植物の香り漂う木製の椅子にどっしりと腰かけた。
「じゃ…とっととやるか」
夢子の瞳が一瞬きらりと輝く。そっと微笑みが零れた。
「ありがとう、本当に……この件、私にとってはかけがえのないものなの」
幽霊は目を閉じ、からかうような口調で返す。
「で、なんでそこまであいつに会いたいの?あの時代じゃ、王様まで『不死の魔女』って言って、賞金までかけてたくらいだろ……みんなあんたのこと獲物みたいに狙ってたんじゃないのか?」
夢子の表情が淡く変わり、まるで遠い記憶をたどるようになめらかになる。
「あの人……私が誰かなんて知らなかった。ただ偶然、出会って、それだけ。」
彼女はそっと息を吐いた。
「質問もされなかった。ただ救ってくれた。」
低く響く声で続けた。
「その時初めて……人間も善意を持てると気づいたの。あの人がいたから、今の私があるの」
幽霊は少しほほえんで、椅子にもたれかかった。
「へえ、ほんとに珍しいね、不死の魔女が人情語るなんてさ」
しばらく沈黙が流れた後、彼は重く口を開く。
「じゃあ、余計な話はいい。さっさとその記憶を見せてもらおうか」
夢子は頷き、小さく息を吸った。
「それじゃ…失礼します」
彼女はそっとニックスの額に手を当て、温かな魔力をそっと注ぎ込む。
瞬間、幽霊の視界がゆらりと揺れた。光と影が反転し、夢子の記憶が津波のように押し寄せる――
白い服を血が染め、胸を貫かれた剣。彼女は赤い湖に倒れ、目の前には光に透ける人影が立っていた。輪郭だけが見え、顔は闇に溶けていた。
夢子はぱっと目を見開き、反射的に手を額から離す。瞳には恐怖と衝撃が広がっていた。
「な、あなた……いったい……!!」
幽霊は即座に反応し、鋭く目を細める。
「おい……いま、俺の記憶、見ただろ?」
空気がピンと張り詰め、二人の間を強い緊張が覆った。
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