第42話 10 この夜風と君へ
少年の言葉は静かに空気へと溶けていき、部屋には一瞬の静寂が訪れた。
セレナはわずかに眉をひそめ、まさかこんな問いを投げかけられるとは思わなかったのか、しばしの間、言葉を探すように視線を彷徨わせた。まるで、部屋の片隅に答えが落ちているのではないかと探すかのように。
「……どう答えればいいのかしらね。」
彼女の声がゆっくりと響く。珍しく迷いを帯びたその口調は、彼女らしくないほど慎重だった。
「正直なところ、私にもわからないわ。こんなことを聞かれたのは初めてだから。」
肩にかかる髪を指先で軽く払うと、セレナはどこか気だるげな口調で続けた。だが、その声の奥には微かに複雑な色が混じっている。
「それに、今までの人生でこんな話をする相手もいなかったし。」
彼女はふと琥珀色の瞳を細めると、少しだけ口元をゆがめ、からかうような口調で言った。
「正確に言うとね——あなたは、これまでで私が一番長く一緒に過ごした人間よ。」
そう言うと、彼女はくすりと笑い、肩をすくめた。
「人間の決まりごとなんて、私はあまりよく知らないし、深く考えたこともないわ。」
「生きる意味……?」
彼女は小さく首を傾げ、口元にわずかな微笑を浮かべる。
「私にとっては、ただ生き続けること。それだけかしらね。」
椅子の背にもたれながら、彼女の視線は窓の外の暗闇へと向かう。
「私はあなたたち人間とは違うの。欲望もなければ、何かを強く求めることもない。」
彼女の声は、まるで遠い昔から決まっていた運命を淡々と語るかのように、穏やかで、どこか冷ややかだった。
「何かを失ったことも、何かを手に入れたことも、一度もないから。」
彼女のその言葉は、静かでありながら、不思議とひどく遠いもののように響いた。
少年はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「……なんだよ、俺は一体何を議論してるんだろうな。」
自嘲するように笑いながら、少年は手のひらをじっと見つめた。
「『生きる意味』なんて……そんなものを考えられるのは、ちゃんと安定した生活を持っていて、この世界で生き抜く術を身につけた人間だけだろ。」
その声には、どこか投げやりな響きが混じっていた。しかし、彼はふっと力を抜いたように、少しだけ口調を和らげる。
「だけどさ……やっぱり、俺も見つけたいよ。」
少年はゆっくりと顔を上げる。
「俺は、かつて『生きる意味』を持っていたから。」
そう言った彼の目は、淡い灯りに照らされ、静かな夜の中で深い影を落としていた。
再び訪れた沈黙の中、窓の隙間から吹き込む夜風が、そっとカーテンを揺らした。
やがて少年は、静かにまぶたを伏せる。
「……こんな話はもういいや。」
気を取り直すように、彼は何気ない口調で尋ねた。
「それより、お前はどこに住んでるんだ? もしかして、悪魔だけが暮らす世界でもあるのか?」
彼の問いに、セレナは少し目を細め、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「私は悪魔なんかじゃないわ。」
片手で頬杖をつき、彼女は気だるげに言う。
「うーん……まぁ、私が知る限りでは、他に同じような存在は見たことがないけどね。」
「私が住んでいる場所は……」
彼女は言葉を続けようとして、一瞬だけ躊躇った。
夜はさらに深まり、窓の外にはまばらな星が浮かんでいる。
淡い光が静かな街を照らし、遠くの路地を朧げに浮かび上がらせていた。
——あの夜、二人は長い時間をかけて語り合った。
まるで、ほんの一瞬でもいいから、現実の重さを忘れたかったかのように。




