第40話 17 コーヒー、それともミルク?
夜の帳が降り、微風に揺られる温泉の湯気が静かに立ち昇る。幻想的な霞に包まれ、まるで世界全体が穏やかで温かな静寂の中に溶け込んでいくようだった。湯面がゆるやかに波立ち、夜空に瞬く星々を映し出し、このひとときを一層夢幻的で心地よいものにしていた。
「もうもう、そんな歴史の話はやめようぜ。過去は過去さ。」
ナイトは温泉の縁にもたれかかりながら、ゆったりと体を伸ばし、満足げな笑顔を浮かべて軽やかに言った。「それよりも、こうして温泉に浸かって、心も体も癒されることが一番大事だろ?」
ニックスはその言葉を聞くと、ふっと口元に微笑みを浮かべ、温泉の湯面に映る揺らめく光をじっと見つめた。まるで、遠い記憶の奥に思いを馳せているかのようだった。
「そうだな……でも、なんだか昔のことを思い出したよ。」
彼は静かに口を開き、視線をフィードへと向けた。「フィード、お前覚えてるか?俺が前に言ったこと。俺が強くなろうとした理由。」
フィードは首を傾げながら少し考え込み、答えた。「うーん……たしか、元の世界に早く帰るためって言ってたよな?」
「そうだ。」
ニックスはゆっくりと頷き、どこか懐かしそうな表情を浮かべる。「当時の俺は、とにかく強くなりたかった。少しでも早く元の世界に戻るために。そして……英雄として戦うのも、結構楽しかったんだ。」
そう言いながら、彼はふっと自嘲気味に笑った。その笑みには、かつての自分を振り返る淡い後悔のようなものが滲んでいた。
「でも今思うと……あの考えは、あまりに浅はかだったよ。」
湯の波紋が穏やかに広がり、彼の思索に寄り添うように揺れていた。
「ナイトにも以前聞かれたんだ。俺が剣を振るう理由は何なのかって。」
ニックスは少し間を置き、静かに目を閉じた。「あのとき、俺はすぐに答えられなかった。」
夜風がそっと吹き抜ける。ひんやりとした空気が肌を撫で、温泉の水面には夜空の星々が淡く揺れていた。それはまるで、記憶の断片が静かに漂っているかのようだった。
「でも、今ならはっきりと言える。」
ニックスはゆっくりと目を開け、湯気の向こうに輝く星を見上げた。その瞳には、確固たる決意が宿っていた。
「俺が剣を振るうのは——守りたいものを守るためだ。」
彼の声は落ち着いていたが、確かな力強さがあった。「守るための力を持つこと。自分の意志で道を切り拓くこと。それこそが、俺の剣を振るう理由なんだ。」
その言葉が空気に溶け込むと同時に、温泉の水面がわずかに揺れた。まるで彼の覚悟に応えるかのように。
ナイトは一瞬驚いたように彼を見つめ、それから破顔し、朗らかに笑った。「ははっ!そりゃあ、めでたい話じゃねえか!」
彼は湯から勢いよく立ち上がると、拳を高く突き上げた。「自分の存在価値を見つけるなんて、そう簡単にできることじゃねえよ!これはもう、盛大なパーティーを開いて祝うしかねえな!」
ナイトの弾けるような声に、周囲のみんなも思わず笑みを浮かべた。湯気に包まれた温泉に、どこか温かく、和やかな空気が広がっていく。
——
温泉から上がった後、みんな浴衣に身を包み、ゆっくりと夜の風を感じながら外へ出た。湯上がりの火照った肌に、ひんやりとした夜風が心地よく吹き抜ける。
エイトは誰よりも早く席につき、一杯の温かいコーヒーを手に取った。そして、湯気が立ち上るカップをそっと口元に運び、静かにひと口味わう。彼の表情には、なんとも言えない満足げな色が滲んでいた。
その姿を目にしたフィードは、思わず目を瞬かせ、クスッと笑いながら言った。
「おい、エイト。温泉の後にコーヒーなんて……なんか、俺のじいちゃんみたいだな。」
その言葉に、みんながくすくすと笑い、夜の空気に穏やかな笑い声が広がっていった。




