第二話 別れ
ケイはレンと心を通わせ、幸せな日々を送っていた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。
ある日の朝、都から迎えがやってきた。ついにクーデターが成功し、ケイは皇帝に即位する事になったのだ。覚悟はしていた事だった。しかし、最近では、いっその事クーデターが失敗して、レンとこのまま一緒にいられればいいのにと思うようにまでなっていた。
まだ眠っているレンの寝顔をケイはじっと見つめた。
《レン、絶対に迎えに来るから。黙っていなくなる事を許してくれ》
ケイは身支度を整え、ソウ家を出た。
輿に乗って出発を待っていると、しばらくして外から、
「ケイ」と自分を呼ぶ声がした。それは愛しいレンの声だった。
ケイが輿の隙間から外を伺うと、従者の一人がレンの方へ歩み寄ろうとしていた。誰であっても、レンに危害を加える事は許せない。
ケイは、
「待て」とその従者を止め、輿から下りた。
ケイの姿を見たレンが、相当ショックを受けた様子で立ち尽くしていた。その姿に、ケイの胸が痛んだ。
「ごめん、レン……」
「ケイ、これは、どういうことだ?」
ケイは周りの従者たちに、
「少し話をしてくるから、ここで待っていてくれ」と言い、それからレンに向かい、
「全部話すから、行こう」と言って歩き出した。
二人は、少し離れた場所に移動した。
レンと向かい合わせになり、ケイはレンに深々と頭を下げた。
「レン、本当にごめん」
レンは困惑した表情を浮かべていた。
「……どういう事なのか、説明してくれよ」
ケイは覚悟を決めて、
「私は、本当はこの国の皇子なんだ」と答えた。
レンの顔色は真っ青になった。
「皇子ってことは、ケイは、男なのか?」
ケイは頷いた。
「ああ。男だ」
すると、レンの表情がみるみる険しくなった。そして、ケイを睨んで、
「俺を騙してたのか?」と言った。
ケイの鼓動は一気に速くなった。レンはケイとの恋愛を男女の恋愛だと認識しているのだという事を、これまで忘れがちだった。いや、問題を先送りして考えないようにしていたのかもしれない。レンはどんな事があっても自分を愛してくれる、そんな思いがあったのも確かだった。しかし今、目の前のレンの表情を見て、ケイの心に一気に不安が押し寄せた。
ケイは慌てて弁明した。
「ごめん。仕方がなかったんだ。私は命を狙われてて……。それで、女の子のフリをしてここに逃げてきた。そうしなければ、殺されていたんだ」
「でも、だからって、なんで俺にあんな……。俺の事をからかっていたのか?」
ケイは首を振った。レンに遊びだったと思われるわけにはいかない。
「違う。からかってなんかない。私はレンの事を……」
ケイが真摯に自分の気持ちを伝えようとすると、レンが、
「やめろよ!」と声を荒げた。
「レン……」
「男のくせに、気持ち悪い!」
「――――!」
ケイは頭が真っ白になった。レンからそんな言葉を聞く事になるとは、思ってもみなかった。
レンはケイを睨みつけ、
「俺は、絶対に許さないからな! もう俺の前から消えてくれ!」と言って、その場から走り去ってしまった。
残されたケイは、レンの後姿を茫然と見送った。
都へ向かう輿の中、ケイの頭の中を、レンの絶望した表情と、軽蔑した目、そして、非難する言葉が何度も駆け巡った。
都へ着くと、それからしばらくの間は目まぐるしい日々で、レンの事を考える暇もなかった。しかし、やがて落ち着いてくると、頭の中は再びレンの事でいっぱいになった。
《このままではおかしくなりそうだ。無理やりにでもレンを連れて来よう》
ケイはレンを連れて来るよう命令を出した。しかし、使いに出した者たちはレンを連れては帰らなかった。ケイが去った後、レンは実家を出てしまい、行方が分からないと言うのだ。ケイは愕然とした。レンは一体どこへ行ってしまったのか。
それからも、継続してレンの行方を探させたが、良い報告がないまま、四年もの月日が流れてしまった。その四年の間に、ケイは皇后と側室を迎えたが、彼女たちには全く興味が湧かなかった。みな見目の良い少女たちだったが、レンとは比べようもない。
ところが、ある日突然朗報が舞い込んできた。側近のシュ・コウが、ついにレンの足取りをつかんだのだ。コウは、宮廷内随一の切れ者で、そして、唯一ケイが信頼を置ける人物だった。
ケイは、
「馬を用意しろ」とコウに命じた。
コウはさすがに驚いた様子で、
「まさか、陛下が直接行かれるのですか?」と尋ねてきた。
「ああ。他の者には任せられない。今度こそ絶対に逃すわけにはいかない。必ずレンをここへ連れて来る」
「……かしこまりました」
ケイは数名の従者を連れて馬を駆り、レンがいるという山里へ向かった。途中一泊し、翌日の早朝、再び出発した。一刻も早くレンに会いたかった。
やがて、木々の間から、小さな庵が見えてきた。きっとあれに違いない。
そこで、一旦馬を止め、従者たちにその場で待つようにと命じた。ケイは、レンと二人きりで話がしたかった。
ケイは従者たちを残し、一人で庵の方へ向かった。近づいて行くと、庵の前に人がいるのが見える。あれがレンなら良いのにと思いながらさらに近づいて行くと、その人が本当にレンのような気がした。そして、その人の前で馬を止め、ケイはやはりレンに違いないと思い、
「レン?」と尋ねた。
レンは、黙ったまま、持っていた箒を足元に置くと、ケイに頭を下げた。そのよそよそしい態度に、ケイは傷つきつつも、馬を降りてレンに近付いた。
ケイは、
「顔を上げてくれ」とレンに言った。
レンは、言われたとおり顔を上げた。成長はしているが、以前と変わらず、透き通った美しい目をしている。目の前にいるのは、間違いなくレンだった。
「やっぱりレンだ。やっと見つけた」
ケイは胸がいっぱいになった。何年経っても、やはりレンはケイの心を惹きつける。
ケイは、
「会えて良かった」と心の底から言った。
しかし、レンは冷めた表情だった。
「畏れながら、皇帝陛下が供も連れず、このような場所へいらしたのは、ゆゆしき事と存じます。一体いかなるご用でしょうか?」
レンの冷たい言葉に、ケイは胸を突きさされたような気持ちがした。
「ずっと、レンに会いたかったんだ。本当はすぐに迎えに来たかったけど、レンが実家からいなくなってしまって……。ソウ氏はレンの居場所を教えてくれなかったし、探すのにこんなに時間が掛かってしまった」
「なぜ、私をお探しだったのでしょう?」
頑ななレンの態度に、ケイは胸を締め付けられた。
「レン……。まだ私を許せないのか?」
「私は一介の下級官吏の子。皇帝陛下がわざわざお探しになるような者ではございません」
「レン、お願いだから、そんな風に言わないでくれ。以前のように、親しく接して欲しい」
「あの頃、私は子供でしたし、皇帝陛下とは存じ上げませんでしたため、無礼を致しました。ですが、今は以前のように致す事はできません」
このままではだめだ。今こそ、きちんと自分の気持ちを伝えなければならない。そう思ったケイは、レンの両腕をつかんだ。
「本当に申し訳なく思っている。レンに本当の事を言えず、結果騙す事になってしまった。だけど、信じて欲しい。私は本当にレンの事が好きだったんだ。ずっと忘れられなかった」
レンは驚いたような表情を浮かべたが、すぐに目を伏せた。
「陛下はなぜ、男である私に、そのようなことをおっしゃられるのでしょうか」
やはり、レンはケイが同性である事を気にしているようだ。しかし、レンは確かにケイを好きでいてくれていたはずだ。その気持ちをもう一度取り戻してもらいたい。
「私にとって、レンは世界にたった一人の存在だ。レンと別れてから、一日たりともレンの事を考えなかった日はなかった。レンも私の事を好いていてくれていただろう? 私が男だと分かったら、急に気持ちが変わってしまうものなのか?」
あんなに心を通わせたのだ。自分に対する気持ちがそんなに簡単に消えてしまうなんて信じられない。
しかし、レンは表情をこわばらせたままだった。
「畏れながら、子供の頃、私が陛下に恋心を抱いていたのは確かです。ですがそれは、陛下が女性だと思っていたから、そして、皇帝陛下だとは存じ上げなかったからです。私にとってはもう過去の事。終わった事です」
ケイは頭が真っ白になった。本当に、レンは、もうまったくケイへの気持ちがなくなってしまったのだろうか。しかし、それでも、ケイは決してレンを諦める事はできなかった。レンのいない人生は考えられない。ケイは意を決し、レンを力強い目で見つめた。
「レンの気持ちは分かった。だけど、私の気持ちは変わらない。レンが私の事をどう思っていようといい。私の側にいてくれないか?」
「え?」
レンは驚いた様子でケイを見つめた。
「都に一緒に来て、私の側にいて欲しい」
「何をおっしゃられているのですか?」
「私はレンを連れて帰りたい。言っただろう? 必ず迎えに来ると」
「私を連れて帰って、どうするつもりなのですか?」
「側に置いて、一生愛する」
一世一代の告白だと思った。しかし、レンは無情にも、ケイに頭を下げ、
「畏れながら、それはお受けしかねます」と答えた。
ケイは必死になった。
「レン、お願いだ。ただ、側にいてくれるだけでいい。それだけでいいから……」
「いいえ。できません」
「レン……」
レンの気持ちはそんなに冷めてしまったのだろうか。失ったものの大きさに、ケイは生まれて初めて、悲しくて涙が出そうになった。
レンは少し戸惑った様子で口を開いた。
「私は、今年の官吏登用試験を受けるつもりです」
「え?」
思いがけないレンの言葉に、ケイは目を丸めた。
「受かれば、来年入宮する事になります」
「本当に?」
「はい」
「良かった。来年都に来るんだ」
「受かれば、です」
やっと一筋の光明が差した気がした。このまま別れる事にはならなさそうだ。レンが都に来るのなら、まだ機会はある。
「レンなら絶対に受かる。間違いない。そうか、来年、入宮するのか」
「ですから、陛下がお考えの『お側にいる』というのとは違うかもしれませんが、お近くには参るかと存じます」
ケイは頷いた。
「分かった。レンが都に来てくれるのなら、それでいい。それまで待っている」
ケイは、レンが都に来たら、絶対にもう一度気持ちを自分に向かせてみせると思った。
レンはケイに頭を下げ、
「恐縮にございます。ですので、今日はどうか、このままお帰り下さい」と言った。
「ああ。分かった。今日は帰る。レンが都に来る事を本当に待っているからな」
ケイはそう言って、その日は素直に帰る事にした。