前編
「秀二、もう少しで着くぞ」
僕らは移動している。これから行く、引越し先へ。
父の声で起こされた僕は眠い目を手でこする。
「後どのくらいで着くの?」
「そうだな…三十分くらいかな」
すっかり深い眠りについていたようで、起きた時には景色もがらんと変わっていた。
街のトンネルを抜けたら、そこは緑が囲む大自然が待ち受けていた。木々が次々と横切り、森林浴を通った光が車中に差し込んでいた。
目を見張った。初めて見る、目の前の大自然が珍しかった。間近で見る自然を堪能し、興味も興奮も抑え切れないほど、とても不思議な心地でたまらなくなっていた。やはり都会と田舎では、これほど別世界のように感じるのか。
窓を開けて空気の違いを感じた。粋で自然と体が取り込まれるようだった。心地のよい風のベッドに乗せられて、まるで雲に乗り南へと移動しているようだった。肌が敏感に風を感じ、その空気を感じ、澄んだ脈絡さえも見えた。
期待と不安を立ちこめた感情を閉じ込めて、僕は窓の外を眺めていた。
車は走る。景色は変わり、多分この辺りが中心的町なのだろう。杉並に沿って通りに並ぶ商店には活気にあふれ、人々が行き通っていた。
「あれ。ここ一方通行か」
通り特有の一方通行に、道に迷ってしまい、時間を費やした。
その通りから離れたところに小さな通りがあったが、そこの商店は活気がなかった。休みの日だというのに開いている店が少ない。
だがそれらもすべてが初めてだった。この商店というものも初めてで、八百屋も初めて見た。豆腐屋も初めて見た。
「そろそろだよ。ほら、あのマンション」
商店街から住宅地へ。そんなにも高くないマンションが天に向かって背伸びをしていた。そしてその上から見下ろす空は都会で見るよりも寛大で、広く遠くにそれが永遠に、高くすけるように青かった。
狭い道に入り曲がりくねり、狭い駐車場に入る。
見上げれば遠くで見たよりも、まるで天にそびえる塔。まだ自身が小さいせいもあるため、見上げるだけで後ろに倒れそうだった。
「業者さんはまだだな。早く着きすぎたな…」
僕らが住む部屋は最上階にある。僕らは部屋に向かった。
まだ何もない。まだ新居なので太陽に照らされた部屋はまばゆく、鏡のように我が身が映し出された。
そして僕はそのつるつるとしたフロアを走り抜け、真っ先にベランダへ向かった。
僕はそこで、大きな白い山が浮かんでいるのを見た。空の青は爽快であり、水に映る顔は自分を映し出し、まるで心が洗われるようだ。ただ自然の空は見たことがなかった。煙や濁った大気を通して見たことがあるだけだった。見つめたその先にはまだ続きがある奥が見えるようで見えない。果てしなく続く先の見えない遠く高く、僕らが住んでいた空があるのだろうか。同じ空だとは思えない。
「いい眺めだなぁ」
僕の後ろに父がいた。
確かにそこからは空だけではなく、町も一望できる。人が動き、車が狭い道に入るのが見え、町を越えたちょうど向こうの空の下に萌えたように見える山々が壮観だった。すばらしい観覧場だった。
僕は景色に圧倒されていた。
「あ、業者さん」
このベランダの下。一台のトラックがマンションの駐車場に入って来たのが見えた。
「ほら、行くぞ」
父に肩を押され、まだ足跡さえも残さずに家を出た。
業者は帰り、引越しの準備はもう終わるだろうというところで僕と父は夕食にしようと近くのコンビニでインスタント食品を買った。そしてこの家では初めてのご飯となり、初めての夜が迫る。
父は湯を沸かしてラーメンを作っていた。やかんがピーっと鳴る。
テレビはもう見える。だが床に直に座っているので骨が砕けそうな気持ちであった。だから寝転んで地べたに這いつくばり、テレビは見ずに聞いていただけであった。
いつもなら外から車の音は耐えなかった。そして窓の外からあふれる光。昼間とさほど変わらない生活。しかしこの閑静な住宅街はなんだろうか。いつも騒音を耳にしているようだったので逆に物寂しいほどの静寂に気付いてしまう。珍しかった。それに外は暗く、空は昼間とは違う、真逆の暗さ。すると時々一つか二つ、光瞬いているものが見えるのである。
父はキッチンから湯気が立ったラーメンを持ってきた。そして硬い床の上に座ってそのまだ半茹での麺を噛みちぎる。
そして先に食べ終わった父は箸をおき言った。
「今日はもう遅いし、続きは明日な」
僕はもう疲れていた。それを聞けてよかったのだが、また明日と引き延ばし明日またこの作業の続きをすることは憂鬱でたまらない。
僕にはこの他に疲れていてもしたいことがあった。せっかくこの町に引っ越したのだから、どうしても散策をしてみたかった。
僕がそわそわしているのを父は察していた。
「終わったら、外にでも行くか。たぶん、昼までに終わるだろうから」
当然のように僕はうなずいた。
食器を片付け、今日は疲れたのでもう寝ることにした。風呂に入り、歯磨きをして、父にお休みと言い、すでにベッドのみは整えてある僕の部屋に入った。ほかに勉強机、部屋の隅に積み上げられているダンボールの箱。今はまだとても広い部屋に感じるが、明日になったらこれらが片付けられ、瞬く間に狭くなるのだろうが。
今だけこの自分だけの優越感を味わいながら、部屋の電気を消して布団に入る。
カーテンの向こう。そこには光さえも飛び込まない。マンションの最上階。そこは他とは遠く隔絶された空間にさえ思える。差し込む光は街頭のぼんやりとした光がやっと届く程度だ。それにカーテンの間から見える景色。ちらっと見えた瞬く星。大きな闇の底に沈む光に照らされた星は、まるでブランコに揺らされながら眺めているようだった。
ドアの向こうから聞こえるテレビの音。冷蔵庫の低周波。耳に触れる空気。時々窓をたたく風。車の行き交う交差点。遠くの山から聞こえてくる自然の息吹。
ここに来て、ここにいて、ここで寝て、初めての衝撃ばかりだった。都会なんかより、はるかに田舎のほうがいい。それは何が違うもので僕にそう思わせた理由さえ考えなくても頭に浮かぶ。
また明日片付けだと鬱に思いながらも、いつの間にかその後の外出のことが頭の中を埋め尽くしていく。それに埋もれるように、僕は夢の中へと落ちていった。
町の商店街に出てみると、車上で見た時よりも風景は違って見えた。一歩ごとにこの土地の歴史が理解できるようで、ただ単純にこの町を知れた。まるで地面深く、昔から存在していたこの土地本来の生気さえ感じる。
僕らは商店街を歩き、町一番のデパートを見て、人の少ない昭和から残っているのだろうかと思わせる建物の横を歩き、そして空が広く、気持ちよい風が抜ける公園に入った。
近くのベンチに座り、僕は歩き疲れてすっかりお腹がすいていた。そんな時、僕の目にコロッケの屋台が見えた。僕はそれを見ていた。すると父は僕の表情でそんなことさえ分かるのだろう。
「ほら、買って来い」
お金を渡され、僕は意気揚々に屋台に向かって駆け出した。
もちろん父の分も忘れない。正景におつりとコロッケを渡して、僕らはそのコロッケを食べた。よほどお腹がすいていたのだろう。僕はそれをいともたやすく食べ終えた。
ベンチに寄りかかり、中央の噴水を見る。複数の家族が公園で一週間の労をねぎらっていた。
僕はその家族らを見ていて、うらやましくなった。僕には母がいない。父が言うには僕が幼い頃に病死したと言う。だが母と写った写真はないし、家族そろって写った写真などもない。だから僕はうらやましかった。そのあまりにも普通すぎる情景が、平和の象徴にさえ思え、美しくも感じた。美徳の言葉が似合う。
「どうしたんだ、浮かない顔して」
父は僕の横顔に気付いた。自分でもそんな顔を作り、ため息までしていた自分にようやく気付いた。
「いや…母さんって、どんな人だったのかなって」
生まれてから見たことがない母の面影が自分には鮮明に想像ができ、だが父からの情報はいまだない。だから性格や格好は想像のみで、ただ理想の母としかなかった。優しく、美しく、誰もが望む理想だった。
父はその平穏な顔立ちから急に険しい顔になって、僕から目をそらした。
「…そうか」
母の話題を僕が望むと、父は口をつぐむ。まるでそれをしてはいけない。触れてはいけない。父は常に母の話を拒む。思い出したくないのだろうか。たぶん、辛かったのだろう。なにせ父と母の写った写真さえもないのだから。
だが父はなぜそこまで母のことを思い出したくないのか。それが知りたい。母が病死で死んだというなら、口惜しむほど悔しいはずだ。それならば母についての一つや二つは口からこぼれてしまうだろう。しかし父は意識して言おうとはしていなかった。
ただ時間が過ぎて、嫌な空気をわざわざ呼び寄せてしまった。コロッケ屋の店員は快活にコロッケを売りさばいていた。すぐそこにいる家族の子供たちが遊び騒ぐ声がここまで届くのに時間がかかった。
この公園は平日誰もいないのに、休日に家族連れが多く訪れる。遊具もないし広場もないし、ただ噴水とベンチがある憩いの場であった。とうていサッカーや野球などはできない。せいぜい鬼ごっこぐらいだろう。それで休みの日は家族連れが来ることを見込んでコロッケを売りに来る売店が現れる。
小鳥のさえずりが聞こえ、雲が太陽を横切る頃、正景は言う。
「そろそろ帰るか」
まだ日は高かった。この公園を帰る家族なんていなかった。しかし僕もうなずいた。ここにいてもしょうがないし、それに早くここから逃げたかった。父もまた同じ心理にあったのだろう。
僕はただ父の影を追うだけでよかった。そうすれば家にいつか着く。そして途中で自分の部屋に入って、今日はなるべく父と顔を合わせないようにしよう。
並ぶ桜の木、舞い散り僕は知ることさえ許されない。父の横顔が時々見ることができる不穏な雰囲気を消し去ることはない。父の頬に桜の花びらが貼りついた。
その時はすでに、何もかもが都会に戻ってしまったようだった。
「明日から学校だな…大丈夫か」
「うん…」
明日から学校。楽しい日々はあっという間に過ぎてしまった。あっちへこっちへ町を放浪し、この町の地理を知った。ついつい外に出てあれをしよう、これをしようと一人遊びをこうじていた。時々地元の子供なのだろう、見かけることがあった。僕はその子達を見ると電柱や茂みに隠れた。楽しそうだった。だが僕は話しかけられないほど自分が臆病なのは分かっていた。しかし友達がほしいというわけでもなかった。その時は独りのほうがより気楽だと、彼らが目の前を通り過ぎるとほっと胸をなでおろす思いだった。
僕は席を立ち自分の部屋に戻った。そしてベッドにもぐった。
明日から学校。そう思うたびにただぐずぐずとベッドの中で丸くなり、朝が来るのを遅くしたく、いつまでもベッドの上に指で円をなぞっていた。それは輪廻のリング。単なるおまじないであった。これから起こる先のことを予兆しているもので描いたのか。それとも時間を止めたいと一心で描いたのか。それとも他のことだったのか。自分でも分からなかった。
僕は布団から顔を出し、天井を見上げた。まだ真新しい、真っ白な天井。ただ広がるその光景は何も面白みさえない。
目にそんなものを写しながらただ無情に、明日の転校先に行った自分の姿を想像し、さらにそれよりも先のこと、つまり学校生活の未来を過去と照らし合わせて描いていくと、ただ自分にとっていいとは言えるものではなく、むしろ嫌な方向に向かっていた自分の回路を知った。その回路を断ち切りたいと何度思ったことだろうか。あまりのネガティブさで自分が嫌いになる。時に直すと思い立った時があったが、三日坊主よりも悪かった。
自分を操れない理不尽な気持ちに押しつぶされそうながらも、無情であることは今の状態で保つことができる唯一の方法だった。
僕の目先を冷気がふわふわと浮かび、時々僕の鼻先をくすぐる。かすかな月明かりが空気中を舞うほこりを照らす。まるで一瞬、時が止まったように、それらは星に見えた。
窓から差し込む月明かり。部屋に入る光の先へ目を向ける。そこには光のたまり場、水たまりのように光があふれているのだった。特にどういった発見でもない。だが誇れるものでも見つけたように、その発見は金山よりも真価を問えるものだった。僕はその小さな発見で舞い上がった。
長い夜は続く。深夜の明かりを頼るのは月と星と街灯だけ。それ以外はない。きっと外は寒空の下、夜勤に勤めた会社員が終電に乗り帰路についているのだな。しかしここまで静かだと本当に時間が流れているのかと心配してしまう。それははなはだ都合のいいことなのだが、それで困る人は多いのだろう。
隅にたまっていた光は戻るべき場所へ帰っていく。
リビングを出てドアを閉める音がした。
今このマンションのこの一室、寝ようとはしないものは僕だけとなった。いや、寝たくないというわけではないのだが、明日がどうしたらやってこないか、を研究しているうちにこうなってしまったのだ。そうだ。そうに決まっている。
町はついに静寂か、僕の五感が感じているものはない。半永久的な時間が流れるだけだった。
ただどうしようもない。もうどうにかしようとも、どうにもならない。なぜなら日が明けたのである。日が明けてしまったら、どんなことがあろうと朝が来る。永遠に朝日が昇らなければ永遠に夜である。そうすれば人は起きなくて一生が寝て過ごすことになるのだが。
そんな叶えられない思いを抱きながら、僕は家を出て思い足先を学校に向けていた。
正景は来ない。僕は強がって父の好意を拒絶した。内心は定かではなかったが、僕はもう子供じゃない。そう自分で思っていたのだが、いざとなると父の好意は天使の差し出す手より確かなありがたいものだった。
町を駆ける小学生が学校に向かう。学校は一人遊びにこうじていた時に位置は確認している。それに迷う理由なんてない。この子らについていけばいいのだから。
だが僕はその元気な子供たちのことを知るはずもない。僕をもの珍しい眼差しで横を駆け抜ける。
歴史を感じる古い学校に着いて右も左も知らない校舎内にて迷った。これは予想外だった。やはり父に初日だけついてきてもらえばよかったと後悔を感じる。いまさら後輩なぞ無駄なことなのだが、悔やみきれないのが事実である。
校舎内も古かった。外見を見れば当然で昇降口から廊下、そしてどこか分からない教室の前まで、まだ一度も修復さえしていないような気がした。
そこで立ち往生していた僕はどう職員室に行くかを考えた。しかし誰もここを通るような気配はなく、この廊下から見えるのは果てだった。ただ職員室に行きたいだけなのに、なぜ迷わねばならぬのか。それに外見、そんなに大きくない校舎で迷うのは、やはり地理感が悪いせいなのだろうか。
考えても何もならない。僕はとりあえず昇降口に戻ることにした。
「どうしたのかな」
そこで会ったのは公務員らしきおじさんだった。形相は恐ろしく、声も低かった。僕は恐れた。こう尋ねて実は誘拐犯であることを隠しているのではないか、と不審に思った。
僕は少し距離を置いて、いつでも逃げられる態勢をつくった。
「そうか、今日は転校生が来る日だったかな?君はそうなのかい?」
「…そうです」
「よし、それなら、職員室に連れて行ってあげよう」
おじさんは顔に似合わず親切だった。父に言われたことがある。人は見かけ通りだと。しかしそれは決して当てはまるものではなかった。
ともかく助かった。職員室に入った時には転校早々、怒られてしまった。あまりに遅すぎたので全校集会に出られなかったのだ。それで僕は直接、教室にて紹介されるようになった。もうそろそろで全校集会も終わるそうだ。それまで職員室の一角で座って待つことになった。
職員室のにおいというのはどこも同じようで、給湯室からコーヒーが香る。そして印刷機のインクのにおい。それに加えて入り混じるタバコのにおいは僕にとって苦痛だった。大人はこんなところが好きなのだろうか、と車に染み込んだ独特の臭いさえも思い出した。
職員室に座って留まるのは初めてのことだったので、普段も入ってやることなのだが、辺りを見回してみると、やはりその学校の特徴がうかがえる。人の机の中を覗いているようで、それは楽しいことなのである。
すると一人の先生が僕の前に現れて言った。
「相模君…だっけ。そろそろ行こうか」
担任になる人であろうか。そのように見える。
その先生に先導されるまま職員室を出て、いまだ誰も通ったことを確認していない廊下を通り、ある一つの教室に入った。その教室は騒いでいるのがドアを開ける前から分かる。
静まる教室。向けられた静観の視線。そして再びがやがやと騒ぎ出す。
先生は気にせずに言うのだった。
「静かに。紹介する。転校生の相模秀二君だ。仲良くしてやってくれ」
さらに騒がせる原因だった。転校生というものは、それはそれは珍しい者であると自分でも理解し、この反応も承知している。しかしいつになっても慣れないものだ。
視線を向ける彼らに僕は教室にいる誰とも目を合わせることができず、目のやり場に困る。ここで気の遠くなりそうな気持ちであった。体が火照る。そしてその後に訪れる寒気。これはいつになっても耐え難い。
僕は探した。
すると端の列の一番後ろ、最も暗い席に誰かがいた。その隣には誰もいない。色黒の短髪で、鋭い目を持っていた。彼は誰とも話さず、目を誰もいないどこかに向け、さらに僕にさえ興味を示していないように見えた。一切僕に関心を持とうとしないし見ようとさえもしない。
僕はその時、どことない仲間意識を感じた。
「そうだな…席は、後ろの片倉の隣だ。あの空いている席だ」
僕が席に向かう途中、視線を送られ続けたが、僕にはそれよりも彼のことが気になっていた。それに彼の隣に座れる。それが初対面にも関わらず心が躍るようで、気付くと今の自分がおかしく感じる。
その席に座り、この先どうなるか分かっていたが、通りに質問攻めされた。だが僕には興味はない。隣の彼は先ほどから変わらない姿勢でいた。
隣に座ってみればなおさら分かる。もとより深い絆が深く刻まれていたような、僕にだけ分かる、いやもしかしたら彼にも分かっているのかもしれない。
質問されることはいつも同じで、その質問に対する答えはすでに決まっていた。彼らは僕に興味があるのだろうか。むしろ興味がないはずがない。
果たしてこの熱がいつまで続くのか、僕はそれさえ分かっていた。
互いに合い違う興味の矛先は常に一方通行だった。
「ほら、静かに。今日は…」
休み時間の間、僕は彼に話しかけることができず、ひたすら質問攻めにあっていた。時々平和な時間が訪れたと思うと、それは一時の間で、彼に話しかけるまでには至らなかった。
聞きたい事はたくさんある。学校をどう過ごしているのか。実際の校風やクラスの雰囲気。町の秘密。それに一年中色黒なのかとか。
今日は午前中に帰れる。そしてその帰り道、僕は早速できた友達と帰ったのだった。結局彼とは一度も顔を合わせないし話しさえしていない。
だがその日、僕は最高に楽しい日を過ごした。
友達もできたし、それ以上に遊ぶという目的以上を達成できたのだから、今日はまるでこれからの学校生活を予兆しているのだろうかと思ってしまう。
ふさぎこむ自分に対して明るく接してくれた周囲が、過去のまとわりついていた思いさえも取り払ってくれるようで、不思議と馴染み、居心地がよくなってしまった。
その夜、僕は父に今日の学校のことを多く話した。父は身を入れて聞いてくれるようで、その聞き方は尋常ではなかった。父の目の奥には違う何かが見えていた。だが僕には分からなかった。ただ今日、これから楽しくなりそうで心が踊り、生きがいを感じていた。
昨日の夜がまるで嘘のようだ。
僕はベッドにもぐる。昨日の寝不足で眠かったはずなのだが、心の弾みは増すばかりで勢いを、衰えることを知らなければ止まることを知らなかった。
僕は次の日から、一変とした生活を送ることになった。友達と約束して遊ぶし、もう友達の家にお邪魔さえしたし、後は夏休み遊びまわることが今度の楽しみだった。父もそんな僕を見て言うには、変わったな、と。しかし僕には自覚がなかった。ただへ以前と変わらぬ日々を送っているだけ。それも何週間が過ぎようとしていた。だが僕はまだ彼と話をしたことがなかった。
彼はいつも黙して話そうとしない。そして人との関わりも持とうとしないで、誰もが彼と関わらない。だから彼はいつも独りでいた。僕が彼に話しかけようとすると、友達はそれを妨害するようなタイミングで話しかける。そのまま休み時間が終わってしまう。
だが彼と僕は話せる機会がやってきた。この教室に二人だけが残されたのだった。
図工の時間、僕は忘れ物を取りに教室に戻った。するとそこにたまたま遅刻していた彼も教室の前で鉢合わせたのである。
もちろん他クラスは授業で、この教室には誰もいない。
僕はもう昔の人見知りで不安で押しつぶされる僕なんかではない。今では自分から話しかけることができる。
「おはよう」
彼の名前は分かっている。今まで出席を取り、それで名前は知った。
片倉は僕の声が聞こえなかったようにしている。それは無視しているのか、それとも届かなかった。僕の胸の中では後者が立っていた。
「おはよう」
今度は聞こえるように話しかけた。すると片倉は返事をする。
「…おはよう」
片倉の声は出席をとる時だけにしか聞いたことがなかった。たった今聞いた声もまた同じように、低音質の暗がりが好きそうで、人にはきっと届かない声だった。
これが僕と片倉が交わした初めての言葉。
僕は忘れ物を取りながら片倉に言う。
「一緒に行こうよ」
しかし片倉はまた話そうとはしない。むっつりとした表情で僕を警戒しているわけでもなく、ただ避けているようであった。
「行こうよ」
一度したことをまたしてみた。そうすれば答えてくれるだろうと僕は思った。
「…俺に関わるな」
それを聞いた時、僕の中で積み上げた、いや積み上げ途中のレンガが一気に崩れ落ちた。それに押しつぶされたようで、やるせない思いでいた。
僕は教室を出ていた。僕は片倉の言うことに決して承知したわけではない。ただ自分の中に潜む本能に従ったまで。だが僕は悔しかった。自分が片倉の一言ですべてが否定されたようで、悔しかった。
片倉と挨拶だけして揚々となり、そして崖から突き落とされた。
たまらなかった。僕は人生で最も屈辱とも等しい時を過ごした。
たったそれだけの時間で、ここに来てからの日々を忘れてしまいたかった。
僕は振り返ることもせず、のそのそと図工室に入った。
ただ辛かった。悔しかった。苦しかった。
その夜、僕はもう再び見ないであろう、見たくない夢をまた見てしまった。
ひどい夢だ。ただの夢、過去の夢。まだはっきりと脳裏に焼きついている。せっかく剥がれ落ち、後はちりとなって風に吹かれてなくなるのを待つだけだった。
僕は目覚め、冷や汗だか分からない尋常な汗を背中に筋となって流れるのを感じた。まるで何本もの滝のようであった。
落ち着き横になるも、再びその夢を見るのではないかと寝付けない。僕は狭い場所を右往左往に動いた。体中で恐怖を認識したのは、眠るその落ちた先を想像してしまい、そこから這い上がれないように思えたからだ。
それにあの時の彼の目はまるで野獣の目で、一瞬だったと思ったその間が長く感じられたのである。片倉に恐怖心を持っているのだろうか。そのおかげで僕は硬直していたような心地がしていたのだ。
明日、片倉とどう顔を合わせればいいのだろうか。関わるなと言われて、素直に従うような僕であるのは知っていた。しかし僕は変わった。ここに来て、いろいろな人と出会って変わった。僕はそう確信している。そうでなければ困る。僕は何のために引っ越して来たのか。
闇夜は寝静まった町を包んでゆく。そして永遠か。影は部屋に忍び込んでくる。
明日、片倉にもう一度だけ、これが最後で終わりにさせよう。もしまた関わるなと言われた時には、きっぱり好奇心さえ喪失しよう。だけど会話が続き、片倉も僕を受け入れてくれるのなら、友達になろう。
僕はそう心中に刻んだ。
「おはよう」
僕は教室に入るなり、隣の席に座る片倉に挨拶をした。
昨日のことで勇気が必要だった。僕はしばらく話しかけられなかった。することを先にして、その間に自身に生き血を与えていた。
片倉はやはり話そうとしない。人と関わるのが嫌いか、はたまたシャイなのか。
また同じことを繰り返さねばならないのか。
「ねえ。僕のこと、無視してる?」
僕はつい本心を声に出してしまった。
しかし片倉は言う。
「…関わらないほうがいい。君のためだ」
片倉は断固として僕と関係を持とうとしない。
だが僕の思いが通じたのか、話し方は変わり穏やかになったように思える。僕はその小さな進歩がうれしかった。
それで調子付いてしまい、片倉に話しかけるが、友達は僕を誘ったので一時その場を離れることにした。
「あいつとは関わらないほうがいい」
「そうだよ。関わるなよ」
片倉のいないところまで連れてこられて、そう言われた。
「何でだよ」
すると僕は嫌な予感がしてたまらない。そしてぞくぞくと背筋を凍らせるような寒気さえ感じた。
それは昔、同じ僕。思い出した。
「母さんに言われた…あの子と関わるなって。だから相模も関わらないほうがいいって」
「そうだよ。絶対よくないって」
なぜという理由もなく、自然と苛立ちはどこからともなく込み上げる。
「なんでそんなことを言うん?」
「そりゃ…やっぱり母さんに…」
「君はお母さんに言われたからってそんなことを言うのかい?」
「それは…」
「それだったら、僕は嫌だ。大人の言うことは絶対か?」
友達の目つきは急に変わり、きっと眉を吊り上げた。
「君は母さんを馬鹿にするのか」
「僕はそんなことを言っていない。君がどう思うか、自分で決めろって…」
「それだったら君はずっとあいつのそばにいればいい。そうすればいい。君は今から友達じゃない。それと、もう僕に近付くな」
「それだったらこちらこそ願い下げだ」
僕と顔見知りの間にいたもう一人の友達はどうしたらいいのか分からず、ただ困惑で今にも泣きそうに仲介を試みようとしていたが、その必要はなくなった。
僕はそっぽを向き、足早に教室に戻った。
その後、後悔と懸念に襲われながらも、新たな決意を胸に刻み入れた。
あの教室いる子供は皆、疑似の得体なのだろう。そういえば、誰もが片倉を無視するような素振りをするのだ。まるで軽蔑視したような目で見て、さらに避けるように歩く。
僕もその一人となった。不純なあいつのお付き、というような名目で。
しかし僕はまたあの中に混じりたくないと思った。そうすればまた、平和な日常というような生活が送られる。だがそれは本当に僕にとってもいいものなのか。
またあの時と同じに戻ってしまった。前にいた学校と同じ。その前にいた学校と同じ。さらにその前にいた学校と同じ。だが今度は何かが違っているような気がした。それは何者も目の前の障害はなく、一つの目的に対してひたすら向かえばいいからだ。
それで僕は一人になったわけだが、一人になったような心持はなかった。
今日も何も話さないようなクラスと片倉。だが僕は片倉に話しかけた。
すると片倉は言う。
「お前、戻れ」
僕はあの涙もない集団に戻る気がさらさらなかった。それにもう戻れるはずなんてない。きっと元友達は見向きさえしないだろう。
「俺はしょうがないが、お前はどうにでもなる。今のうちなら間に合うぞ」
そう言うと片倉はそそくさと帰っていった。
自分でも変だと思うが、その後をこっそりとつけてみることにした。まだ片倉の家は知らなかった。どんなところか知ってから帰ろうと思った。
それは好意や親近感などの興味からなるもので、僕には自制できないものだった。
見つからないように電柱や塀に身を隠してつけた。そして行き着いたところは小さなぼろいアパートだった。
アパートの階段を登ったことを確認すると、僕もその後をつける。
「おい。何をしてんだよ」
僕は驚き、その声のするほうを振り向いた。
「何つけてんだよ。お前、俺のストーカーか?」
そこには片倉がいた。僕はまた、驚いた。
「さっきここを上ったんじゃ…」
「ここのアパート、無駄に二つ階段があんだよ」
ただ僕は自分の立場という、自分のやっている行為を恥ずかしく思った。そしてそのやりきれない思いでその場を早く逃げたかったが、片倉は言う。
「とりあえず、ここじゃ何だ…上がるか?」
住宅地よりも郊外にたたずむアパート。そこに片倉の家はある。そしてその二階の一番奥の部屋、そこで片倉は暮らしている。
中に入ると物が部屋のいたるところにあり、多分もとはもっと広々としているのだろう。
その狭い場所を通り、僕らは居間に入った。
「今日はおふくろ、仕事でな」
両親共働きなのだろうか。僕は空いている場所に腰をかけた。
「それでお前は何で俺をつけてたんだ?」
その理由はない。ただ好奇心からつけてきたなんて言ったら、きっとどんな目で見られることだろうか。まさにその日、僕は変わり者の仲間入りだ。
それにしても片倉の目はどことなく弾みというのか、いつも見ている目よりは生きているようにうかがえる。それはまるで、ここに人が入ったのは僕で初めてであるかのようだった。
「まあ…人の家って、どこか気になるもんじゃん」
「ははは…お前って面白いやつだな」
片倉は笑いながら言うが、僕にとってその言葉は初めての体験をさせた。僕はうれしかった。そんなこと、生まれて初めて言われた。
僕はどこからともなく現れる熱を体で感じた。
「そんなもんか…ま、くつろげよ」
僕は言われる前にくつろいでいた。それはこの部屋の独特のにおいというか、その染み付いた何年もの年月が、僕にはそれがどことなく懐かしく、僕の家庭とどこか類似しているものがあったような気がする。家の中はまったく正反対なのだが、どこか、自分の心の部屋、そこを開けてみると、やはり似ていた。
片倉は楽しそうなステップを踏みキッチンに消え、また戻ってきた。その姿はまさしく喜びに間違いない。僕は暗くなっていく外を見た。
「理由はともあれ、何で俺に近付くんだよ」
持ってきた飲み物を目の前に出した。
もう僕にこのつけたという事実は別に警戒するようなことはなかった。それにこんなに話すやつなのか、と圧倒されてしまった。
それほど友達などと無縁の僕らだったのだろう。
「ただ…僕はいつも一人でいる君が気になって…」
片倉は急に黙り、僕を見ていた。その目は怒り狂う犬の目に変わった。
「…そうか。それで俺がかわいそうだと思ったのか…」
片倉は自分で持ってきた飲み物を一気に飲み干して、微笑むと言った。
「もう…帰れ」
片倉から微笑は奪われたように消え、僕はその変わり様に唖然としていた。
まだこの部屋に入室してから五分とも経っていない。出されたコップの中身も変わらなければ指紋も付いていない。この部屋に痕跡は残していない。
そして僕は威圧で追いやられるような心地をしながら外へ追い出された。
「じゃあな」
強く突き放された言葉で僕は勢いよく突き飛ばされて腰を強く打った。結局僕は何をできるというわけもなく、ただドアの前で見ているほかなかった。きっと骨まで振動したであろう辺りをさすり、ひたすらこらえることしかできなかった。
外はもう闇に包まれる寸前で、僕は重くなった腰を持ち上げて片倉家を後にした。ちらちらと後ろを見てドアが開かないかと確かめながら見てみたが、それが再び開くはずはなかった。
僕はまだ一度しか通ったことがない、殺風景な風が吹く道を家に向かって歩いていた。いつもより外灯が暗く思える。帰れることは分かっている。ここは山に囲まれた集落で、いつかは知っている道に出る。そんなに大きくないことは知っていた。だが今日のこの時間、僕は長い距離を歩いて帰宅した。
それは僕が片倉を怒らせてしまったのか、考えていたからかもしれない。それにあの調子だと明日は学校で話してくれもなさそうだと思った。またもとの関係に戻ってしまうのだろうか。そう考えるだけで寂しくてたまらない。だがそれは一瞬の思考であった。まだ回転を仕切ることができないままの頭を整理しながら、僕はひたすら自分の思いに向き合った。
いつからか。僕が人に対して不信を抱き始めたのは。
確かそれがきっかけで僕は一時、不登校になった覚えがある。この事実は今では心の奥底に棄て、扉を閉めて出入りはしない。一方的な捨て場だ。またこのようなことが起こった時、僕は同じところに棄てずにまた新たな部屋を作る。その回数だけ引越しをした。
ここに来て、変わったと思った。心の優しい人が多くいると思った。それだから僕に友達ができた、と思った。しかしそれは偽りで覆われていた。
それなら一人のほうがいい。僕は自ら、自らの身を誰も知らない穴に投じた。
そこで考えたこと。僕は恐れた。自分にとって有益、良いという情報は聞き入れるのと同じように、その逆をする。自分がよっぽど大切で、まるで自分がいいように見られたいように、飛び切りの偽善を振舞い、素の自分を出さない。いつしかは自分の影が本当の姿に思えてしょうがない。
その時だっただろう。僕は人が信じられなくなった。いや、それは言いすぎか。比較的信じ難くなったことには違いない。
そして今はどうだろうと家に帰って自問してみた。すると自答するための答えが見つからなかった。いくら考えたところで、今の僕には見つかるはずがなかった。
次の日、僕は落胆と後悔と、不安を背負って学校に向かった。学校に遅れそうだったから早足で歩いていたつもりだったが、時間はゆっくりと流れていた。
変わらないクラスの中で、僕はしばらく孤独だった。僕を見るものはいない。時々見られる気配はするのだが、それは僕の後ろのものを見ているようであり、僕もそのことを望んでいた。隣の席にはいつもいる片倉はいない。それはつまり、姿かたちがない。
僕は一人、今ここに片倉が現れた時のシミュレーションをひたすら繰り返していた。どのような目で入ってくるところを見て、どう話しかけて、どう対応すればいいのか。それは自分がその時、確かな行動をして昨日のことを帳消しにしようと思っているが、一向に進まない。
結果、そのような苦の状況を脱することはできず、片倉は教室に入り堂々と自分の席に座った。
授業に、休み時間に、給食時に、放課後に。切り出そうとも切り出すことができなかった。止めることもできない時間をただ眺めているだけで、距離を置きながら一人でいることを不思議に思っていた。
僕はその日、ついにすれ違うまま帰るのだな、と覚悟した。そしてまた明日。明日なら違った条件下にいるかもしれない。だがまた明日、と繰り返す一途をたどるのかもしれない。
帰り道、狭くなってゆく道に夕陽が一筋垂れ、僕はその一本を渡らなければならなかった。それゆえ、背後に伸びる影が戻る道をないものとしていた。
一人という日々を過ごして一週間は経っただろうが、僕にはそれよりも数十倍に長く感じられた。いよいよ相戻るようなことができなくなってしまったかと半ば諦めかけていたところであった。
片倉は振り向かないし、僕も話しかけることができず、日増しに悪化していくというネガティブな思考のみが脳に働きかけ、毎日が無常の限りまわり続けた。
しかしそんないつもと同じだと思われたある日のことであった。下校途中、僕は人の気配を感じたのだ。僕はそれが誰だか分からなかった。そして不安と恐怖に襲われ、足を速めた。立ち止まって振り返り、誰だか分からない人と対峙する勇気はなかった。今度、あの角を曲がるに折、その一瞬に誰だか見よう。
そうして僕は角を曲がるまで、ひたすら背後に迫る人影を気にしながら、もしという対策を案じていた。逃げることよりも、きっと倒してしまおう。自身の過剰な過信は何度もしたことがあるが、実際その場に遭わせたら、きっと逃げの一手を先行するに違いない。
僕はつばを飲み、気を落ち着かせるよう体に言い聞かせた。そしていよいよ角を曲がることになり、流し目で視界に入った人影を明確にしていく。だんだん大きくなっていくその姿は、年中色黒である、片倉だった。
探偵のように電柱から電柱へ、身を隠しながらこちらを窺い、こちらが気付いているににもかかわらず、彼はいまだ気付いる様子ではなかった。
それならば、と僕は角を曲がったところで、すぐさま走った。そしてすぐ、片倉に見られない陰に身を潜めた。
息を潜めていると、片倉は角を曲がってきた。きょろきょろと辺りを見回し、すっかり困惑したような顔を浮かべていた。片倉はこちらに向かって歩いてきて、僕は笑いをこらえながら、片倉を通り過ぎるのを見ていた。初めて通る道なのだろうか。おそるおそる、一歩が遅かった。
僕は確かに片倉が通り過ぎるのを見ると、気付かれないように背後に迫った。そしてわっとおどかしてやった。
「わぁぁぁ…」
片倉は突然のことに驚き、退き、しりもちをついた。呆然とした表情から発せられた声はあまりに間の抜けていた。案の定、人通りはなかったのでこの姿を見ていたのは僕だけだ。
片倉もそのことを気にしていたようで辺りを見回してから、何も言わずにゆっくり立ち上がった。尻を払い、僕を見る。
何を思っているのか、それぐらい、僕には分かっていた。
「それで、何で僕をつけたんだ?君、僕のストーカーか?」
「いやぁ…人の家って、気になるもんじゃぁ…ないかな」
すっかり片倉の顔は赤くなって、目を合わせようにもできないようだった。
一瞬、片倉と僕は目が合った。その時、互いに笑みをこぼしてしまい、そしてしばらくぶり会っていなかったかのように笑い、そして無言で僕は家に向かって歩き出し、片倉も僕の後を歩いた。
あれからしばらく何も話していないというたまったストレスを晴らすかのように、怒涛ともいえる勢いで話し出した。
そうか。互いに話し出せなくて、ただぐずぐずしていただけだったんだ。まだ交友が少ない僕らにはまだ学ばねばならないことだったんだ。気付かないことやそういうことではなくて、単に知らないことを見つけようと知っているところをいくら探索したところで何にもならないことを知った。
僕らは肩を並べ、僕の家を目指した。僕は家を紹介するつもりだ。これから片倉がまた僕の後をつけないようにするためである。
出会ってまだ三ヶ月ほど経っていないが、僕にはもう三年も四年も経ったように思える。まるで昔からの幼馴染であったかのように、二人三脚で意気投合していた。
勉強はついていけているし、小学生らしい遊びは毎日、日が長いから時には遅くまで遊んで父に怒られたっけ。時にはまた片倉と喧嘩して、だけどそれは回数を重ねていくうちに、そのしばしの停戦期間が短くなり、時期に消滅していた。
梅雨の間、もちろん僕らは外で遊ぶことはできない。だから大概室内で遊ぶ。
今日もその雨なのだ。冷たくない、ただ生ぬるい気持ち悪いばかりの雨の中、僕らは僕の家へ目指した。いくつもの水溜りを飛び越え、雨の後味を避けようとしていたのだが、水溜りに飛び込んでしまったり、傘をこうもりにしたりしていたので、結局全身に雨を浴びてしまった。
高いマンションの階段を駆け上がり、今日は父が出かけていたので玄関のドアは自分で開ける。そしてこんなこともあろうと出かける前に用意しておいたタオルで体を拭き、そして上着を扇風機で乾かした。
今日はどうする、などと片倉と話していた。どうせそれは決まっていることなのだが、確認の意味で交わしたことだ。そんな大それた意味はない。
僕らはゲームをしながらよく話す。僕はもともとこの土地にいなかったからこの土地について知りたいと思っていた。それで夏休みに行くのだ。
「ここの町ってさ、山に囲まれてるけど、こうやって雨が降ると、溜まらないのかな?」
「そんなはずないだろ。おわん型だからってダムみたいに水がたまるもんか。しかもよ、それだったら、この話してる前に町は水没してるって。そんな発想、したこともなかったよ」
「じゃあ水はどこに行くんだよ」
「そんなの土にしみこんで、蒸発して雲になって、雨が降って…その繰り返しだよ」
「でも前住んでたところは、強い雨が降っただけで洪水に近い状態だったよ」
「…きっと土がなかったからだろ」
時々世間話というか、あまりに僕が無知であることをあらわにしていた。時々集中し、余裕ができたら話し出す。それをサイクルのように組んで時間がある限り続く。
「そういえば滝、ここら辺にあるだって言ってたじゃん」
「言ったな」
「それでさ、連れてってよ。そこ。実は僕、滝なんて見たことないんだよ」
「都会人は知らないことがたくさんあるんだな。まあ、俺もビルなんて代物、テレビでしか見たことないけどな。まあ、夏休みになったら連れてってやるって…ところで、お前はかなづちなのか?」
「いや、何で?」
「都会人のイメージ」
「何だよ、それ。都会に対する偏見じゃん。僕だって田舎のイメージ、臭くて何だかしけったところかと思ったし」
「おい、それは言いすぎじゃねえか。しかも俺は人柄とかのイメージなのに、何でお前は田舎自体の侮辱なんだよ」
「何だって侮辱しあってることには五十歩百歩だろ。それに人柄を侮辱したのも全体を侮辱したのと同じことだろ」
僕らは一時ゲームを中断して、面と向き合った。
「そんなの関係ねえよ。だっておかしいだろ。そこら辺はきちっとするぞ。俺は絶対同じじゃない。だってそうだろ。侮辱の対象が違う」
「いやいやいや、ぜんぜん違うから。だってさ、結局…もうどうだっていいよ。やろう」
「…そうかもな。話しても終わらないな、こりゃ」
僕らは向き直り、ゲームの続きを始めた。言い合いは雨でかき消された模様、後に新たな話題に移るのだった。
今日だって同じ一日が同じように過ぎていくのを、二人で過ごしていた。毎日という日々が楽しかった。たとえ友達といえる人が学校に一人しか、町にいる人で一人しかいなくても、僕はそれでいいと思っていた。変わらない日も、永遠の友達も趣がある。
時間が過ぎるのを忘れて、僕らは夢中でゲームをやっていると、父は帰ってきたようでリビングのドアを開けた。
「ただいま。ひどい雨だな…おお、友達か」
「あ、おじゃましてます」
「いいよ。いいよ。ゆっくりしていって。私は自分の部屋にいるから」
父は陽気に出て行った。何しに入ってきたのか分からないが、とりあえず僕のことが気になったのだろう。父はぬれた足をひたひたと廊下に音を落とし、部屋に入っていった。
僕は雨が嫌いだ。濡れるし、気持ち悪くなるし、いいことなんてない。だが父は好きだと言う。僕はある時、その理由を尋ねたことがあった。それは雨が奏でる美しい音楽に耳を傾けると落ち着くからだと言う。さすがに作家の言うことだなと、生半可に理解しながらも感銘を受けていた。しかし僕は嫌いであることには変わらない。それはいつか、昔、雨の日に因縁でもあるかのようだった。
外は相変わらず雨がやむ気配がない。少しずつ暗くなっていっているのは分かるが、雲が濃くなっていくように思えて、雨が降り終えれば明るくなるだろうと考えていた。しかし僕はいまだ、この土地に水がたまらないかと不安を募らせていた。
それとは一方、そんなことをまったく気にしていない片倉は言った。
「そういえばさ、お前の父さん、何やってる人?」
「作家だって。僕は読んだことはないけど。部屋にたくさん本があったけど、僕には読めない文字ばかりだった」
「へー、すごいじゃん。今度ぜひとも部屋を見させてもらいたいものだ」
「だけどいつも入れてくれないんだ。僕は本当に父さんが部屋に入っていく時、ちらっと見ただけ。僕が入るのが嫌みたい。集中できないし、荒らされたら嫌だって」
「それはあるかもな。俺だって…いいや。作家って気難しいな」
「そうだね」
「それよりも、入ろうという試みは?」
「ないね。人の嫌がることはしない主義なんでね」
「それはそうだな。逆鱗に触れないのが利口だな」
ガラスをたたき、まるで部屋に入ろうとしている。先ほどよりいっそう激しく思える。滝のように降る雨に対し、部屋は湿気に覆われていた。ストーブは置いていないがだんだん暑くなっていくようだった。いまや雨の音なぞに気にしないようになっていた。
「もうこんな時間か」
時計を見た片倉は言った。長い針が動き、やっと時間の流れを思い出した。
「もう帰るの?」
「どうしようかな…なかなか止まないし…母さんもまだ帰らないし…」
「それなら食べていくといいよ」
まるで外で盗み聞きでもしていたのか、父はリビングに入ってくるなり言った。僕もそれはいいと思った。僕は片倉の言葉を待った。
「いや…もしかしたら早く帰ってくるかもしれないんで…やっぱり帰ります」
「そうか…」
父は以外に友好的だ。人に対してなら誰にでも優しい父の姿は知っている。そんな姿を見てしまうと、想像で浮かび上がるまだ見ぬ母の面影というのだろうか。きっとそうなのだろう。理想が浮かび上がった。
片倉には父がいない。その理由は分からない。やはり聞きづらい。
僕には母がいない。僕がまだ立って歩けない頃に死んだと父は言う。
僕は時々、片倉を憧れる。こんなことを言ってはきっと殴られるだろうが、母がいてうらやましい。それなら片倉も父がいてうらやましいとでも言うだろうが、きっと僕はそのことに腹立たしく思わないだろう。
「帰ります。おじゃましました」
「こんな雨だし、送っていこうか」
「いや、迷惑をかけるのでいいです。ありがとうございました。おじゃまします」
ここから早く出て行きたい様子で、あまりに丁寧なお辞儀をしてそそくさと片倉は出て行った。
父は片倉の背中を追うように見て、玄関のドアが閉まるまでずっと一点を見ているようだった。そんな片倉に執着する父が気になった僕は父に尋ねた。
「父さん、気に入ったの?」
父は体をこっちに向かせるが、首は固定されたままで言った。
「いや…どこかで見たことあるって言うか、なにか他人事には思えなくてな。デジャブ、的な」
僕にはデジャブという言葉は知らなかった。だが父の勘には不思議と同意できた。僕にも初め出会った時、そんな心地がして無償に何かが駆り立てられた。ぞくぞくとするような、不思議な気持ちが。
どうなのだろう、正直なところ。心のどこかで、どうしても片倉が遠くにいる人に思うことができなかった。今では友達の関係であることがそう思わせるのではなく、初めから出会った瞬間、一度会ったことがあるというような違和感というか首を傾げる表現に近いのか、いや特別な何か、きっと父の言うデジャブと同じなのだろう。つまりそれが僕の心を異なるものに変えた。
「そろそろご飯にしようか。お前も手伝ってくれ」
「あ…うん。分かった」
僕は今やっているゲームを切り上げ、父と台所で夕飯の仕度を始めた。支度の時も、食事の時も、話題に乗っていたのは片倉のことだった。
夏休みもあと少し。そのことを実感しながら正月のように遠く待ちわびていた。
片倉と今日も遊び、しかし今日は片倉の用事で早く別れた。
家に帰れば父はいた。机に向かって仕事をしていた。
僕はただいまと言うだけで、邪魔してはいけないと忍び足で自分の部屋に向かった。
電気をつけて、ふとカレンダーを見た。そういえば今朝もカレンダーを見たのを思い出し、今日は七夕であったことも思い出した。
そういえば今日は七夕か。天の川、見えるかな。
窓を開けて空気の入れ替えついで、夕暮れに染まる空を見上げた。
よくよく見てみれば、星は見えるだろうか。きっとあそこにあるだろう。夜になったらあそこからあそこまで、天の川が見える。きっとそうなのだろうな。
夜を楽しみにしてそれまで何しようかと考えていると、父の声がした。
「帰ってるのか?」
僕はうんと言い、部屋を出た。
「今日も片倉君と遊んだのか」
「うん。そうだよ」
今日も夜が来て、そして空を見上げれば瞬く星が見えるのだろうな。まだ夕暮れだが、それはすぐに訪れるのだな。
テレビなんか見て、夜を待ち遠しくしていると、電話が鳴った。父は台所で皿を洗っていた。
「俺、片倉だけど、これから大丈夫か?」
「え、何で?」
「いいから。ほら、出てこいよ。いつもの場所で待ってるからさ」
予想は付いていた。七夕であるから、きっとどこかよく見えるところでも連れて行ってくれるのだろう。
「ちょっと待って…父さーん。これから出かけてもいい?」
「何でだ?」
「天の川見に行く」
「遅くなるなよ」
「分かった…いいよ。すぐ行く」
電話を切った時、父は皿を洗い終えたようで、リビングに出てきた。
「気をつけて行けよ」
「分かってる。行ってきまーす」
もう七時になるだろうか。まだうっすらと明るいくらいで、やや暗いところも石があるくらい分かる。しかしどの家にも灯りはついているところもあった。向かう途中、窓から湯気が立つところから、呑気に鼻歌なんかが聞こえる。何の歌だろうか。窓を開けた家からにぎやかな食卓、そしてテレビの音が聞こえる。それに合わないセミの声。虫の声。邪魔したいわけではないだろう。人工と自然に分かれて、夜は自由ににぎやかに騒がれている。
その最中でようやくいつものところに着いた。
「何だよ。どっか行くのか?」
僕は分かっている。次に何を言うか分かっている。どこに行くか、なんとなく予想がついている。顔では表さないよう気を付けている。心の中で今、腹を抱えて笑っている。
「いいところだよ。ほら、行くぞ」
片倉を先に僕はその後をついていく。店先から遠く遠く離れていった。道に交う人はどこへ行くのだろうか。家に帰る人だったり、きっと僕らと一緒の目的の人もいるだろう。
知っている道は続く。きっとまた、知らないところへ連れて行ってくれるのだろう。
わくわく心を躍らせてついていく。景観は見渡す限りの水田に変わる。山の方へ向かっている。堂々たる山は夜の静けさに動かなかった。自転車をこいで景色は右から左へ移り変わっていく。
「どこまで行くんだ?」
「あと少し」
何回尋ねても片倉は同じことを繰り返すだけで、ただ僕は片倉の背中を見つめる。そしていつの間にか真っ暗になっていた。移る目は空に向けられた。
真っ暗な背景にまばゆいばかりの原石が散りばめられていた。こんなもの、都会では見ることはできなかった。父から聞いたことがある。空気の清浄さで見える星が違うのだとか。しかしそこからは天の川は見えなかった。山のほうだろうか。
いつの間にか、左右、山に囲まれていた。山の谷間だろうか。
「ほら、着いたぞ」
小さな丘の下。自転車を止めそこを駆け上がり、立ったまま口はぽかんと開け、自転車上とはまったく違う空を見た。
山と山の間。そこから伸びたような木の陰。ざわざわっと揺れるのは、竹だろうか。そして今まで見たことのない川が山から山へ、流れている。そして水底には宝か。わくわくする。あれを取り出してみれば、手にとってみれば、きっと美しいことだろう。
片倉は隣に座った。
「お前もここに寝てみろよ。気持ち良いぞ」
それもそうだった。風も吹いてきて、丘を沿って走るのだ。
「ああ、気持ち良いな。お前、ここによく来るのか?」
「ん…ああ」
何だか聞きづらいことを聞いてしまったような気がする。片倉の声がおかしかった。それに黙り込んでしまったまま、その横顔はじっと夜空を見つめていた。思いつめているように見えた。何か感じられるものがある。何か流れ込むような、その、思い出が。
しばらくすると、肌寒くなるのを感じた。そういえば、こんな夜に父と以外で外と出ているのは初めてだった。
ざわざわ、と林はざわめいている。
「時々な、黄昏っていうか…好きなんだ、この場所」
片倉の口は突然開いた。もう話すことはないだろうと思っていた僕はただその言葉を聞きながら、夜空を見つめ続けていた。
「何ていうか…思い出すんだよ、昔のことから今までのことをな、いちいちさ。これからどうするか、とか、未来、将来、どうなるかとか、考えちゃうんだ。そうするとさ、自然と時間も忘れて、唯一自分の時間が持てる場所なんだ…それにここの風景も良いし」
苦笑いだろうか。そうには見えない。照れているのだろうか。そうにも見えない。不思議な笑みを浮かべている。そのうっすらと見通すような目から、空に映る星が見えた。
「昼に来てみろよ。すっごいいい景色だぜ…時々、ここで絵も描くんだ…」
「絵?絵って絵画?どんなの描くの?」
意外な事実だった。片倉のこんな容姿でありながら絵を描くなぞ考えられなかった。ただ何よりも興味と好奇心が後押しして、その絵が見てみたいと思った。
「今度見に行くよ。いい?」
「…いや…なんでもない」
片倉は僕に背を向けるようにして寝返りを打った。
どうしても僕は知りたかった。片倉が初めて、自分から自分のことを言った時だった。
「どうして、どうして?いいじゃん。見せてくれたって」
「いや…ちょっと…」
「夏休み中には見せてくれる?」
「いや…」
「何で?何で?」
そうして僕らはそんなこの先、進展さえ見えないことを延々と繰り返して、片倉が逃げるように立つと、その話は途絶えた。
家に帰る途中も片倉は断固として話そうとはせず、分かれ道では、じゃあな、と言って片倉はまだ僕が追ってくると思っているのか、ものすごい速さで帰っていった。
僕はさすがに追いかける気はしなかった。疲れた、とかあきらめた、とかではなく、結局は、きっと見せてくれるだろう。いつしか片倉に対してそんな信頼を抱いていた。
僕にもやりたいことがあると言いたい夏休み。それも無情に出される宿題。学年を重ねる毎に、また宿題が少なければいいと強く思う気持ちと比例して宿題はますます増えるように思える。それをせみや夏の強い日差しは嘲笑うかのように強く僕を照りつける。
それも夏休みがやってきたせいでもあるが、これは喜びなのか、それとも悔やむべき気持ちなのかは明確ではない。しかし分かることは、気持ちがすべて悔やんでいることではないということだ。
それで終業式なんてものは意外に短くその中の校長の話は、まあ生徒にしてみればどうだっていいもの、それは先にある夏休みに憧れの目が輝いているからであり、こんなことを言っては嘘になるが、校長のありがたい話に耳を傾けているうちに時間はあっという間に流れてしまっていた。
炎天下の下校で僕は片倉と肩を並べた。これから何する。夏休みはこうだ。そうだ、と議論も交えながら、主に夏休みをどう快適に過ごすかが議題で、また今日は午前での下校のため、午後の予定も立てていた。そして別れるところで別れ、暑い中走って帰った。汗も気にせずに、だが蒸し暑いながら時々吹く風は僕の体を冷やした。
帰ると父はいて、クーラーのよく効いた部屋でワープロを打っていた。
「お帰り。今日は午前だけなのか」
「うん、そうだよ…仕事?」
父は手を止め、立ち上がると、キッチンに向かった。
「ああ。悪いな。昼はこれからなんだ。待ってくれな」
まだ遊ぶまでの時間は十分にある。それまで何をしていようか。
汗のせいで体はすっかり冷えた。そしてあまりの寒さに耐え切れなかった僕はくしゃみをした。父はそのことに気付いてシャワーを浴びるよう言った。
風呂場から出た時にはもう昼食はできていた。食べながら今日の予定を父に話していると約束の時間はあっという間に来るもので、時計を見ないで夢中に話していたので時計の針はもうすぐ約束の時間だった。
昼食をあっという間に平らげて部屋から財布を持ち出し、家のドアを思い切り蹴るようにして開けた。
暑かった。さっきまでいたような場所に思えず、その暑すぎる太陽の日財にめまいさえ感じた。このままではいつ倒れてもおかしくないな、と思いながら先を急いでいた。
約束を守ろうと走ったが、少し遅れてしまった。そこにはすでに片倉はいて、こちらに気付くとムスッとした表情で言った。
「遅れてるぞ。何かあったのか?」
理由なんて、ただ父と話していただけだなんて言えるはずがなく、一生懸命に違う理由を作り出そうとした。
「いや…財布がどこか見つからなくて…」
僕は片倉にジッと見られたが、ぼろが出ないようにすると余計なつばを飲み込んでしまった。しかし片倉は納得したのだろう。片倉の顔は和らいでいった。
「ふーん、そうか。そんなことより、行こうぜ」
そんな片倉の何か垢抜けたような言葉を聞くと、暑い中一生懸命になっていた自分が滑稽に思えてくる。自分が恥ずかしく、もしかしたら別に隠すようなことでもなく、穴があったら入りたい気持ちであった。
しかしそのような気持ちなぞ、泡が消えるように時間が経つにつれて消えていく。消えたのではないのかもしれない。片倉といるとそんなことも忘れてしまう。同時に時間も忘れてしまうことなんてしょっちゅうで、たまに遅く帰れば父に怒られたりもした。だが決してそのような暮らしが嫌いなわけではない。
たった二人だけなのだが、いつもいつも、毎日毎日、変化のない繰り返しを送っているだけなのだが、時間はあっという間に過ぎるのは相変わらずで、だが不思議にその繰り返しは嫌ではなかった。その一日が貴重な時間であったのは確かなことで、今考えてもそれが海岸に落ちるきれいな貝殻に思えてくる。一枚一枚が形や色が違ったり、その変化を見るのも面白いし、二枚の貝殻を見つけ合わせるのも難解だが楽しいだろう。
青い空、白い雲、緑の山、見渡す限りの田んぼに澄み切った空気。それは独特のにおいをかもし出した土のにおい。
僕らは町を離れて田んぼのあぜ道を歩き、駄菓子屋に向かった。片倉はもうすぐだ、を繰り返し、田んぼの狭いあぜ道を落ちないよう気を付けながら、まるで平均台の上にいるかのように歩いて舗装されている道を目指した。
ポンポンポンと水道からくみ上げられた水が水田に流されて、そのせいなのだろうか蒸発する水蒸気が目に見えるようであった。その道中、ぴょこぴょこと僕の前を飛ぶ虫が見られる。
しばらく歩くとコンクリートにたどり着き、橋を渡ろうとしたらそこから透き通るような水が見えた。つい足を止めて水面の先を見た。何かいる。土に身を潜めている赤い甲羅がそこにあった。
「ザリガニが珍しいのか?」
初めて見たその生き物は前住んでいた付近の川では到底見られなかった。これほど透き通っているわけではなく、汚く濁っており、そこにごみを投げ捨てる人がいたのはよく覚えている。自転車上から、車上から、大きなゴミ箱に投げ入れた。
ザリガニはこちらを窺っているように見えた。
「ああ。テレビでは見たことがあるけど、生では見たことがない」
片倉はまさにその言葉を言った僕を改めて見なおすと笑い出した。
「変なやつだな、お前。ザリガニなんて全国各地にいるじゃん」
そんなことを言われたって、全国の一部のいないところに住んでいたのだからしょうがない。
馬鹿にされてもそれは僕が無知なわけではないのだから気にしなかったが、あぜ道を通った時、僕は足を滑らせて危うく水田に落ちようとしたのを片倉が見て笑われたのが今でも癪だった。
駄菓子屋に着いて、僕はまた驚いた。駄菓子や自体も初めて見たものだったのだ。今にも屋根の瓦が一斉に崩れ落ちてきそうな粛然とした古屋でまさかと思った。遠くから見たら物置か、すっかり廃れて中には蜘蛛の巣だらけの家かと思い、その先を見ていたが、片倉が指差した先にはこれがあった。
出入り口頭上にある看板が落ちてこないかと警戒しながら入ろうとしたが、暗さと静けさが涼しさを誘い出して休憩所に入る風は風鈴を鳴らし、僕らは開放的な空間に吸い込まるように入った。
僕は何かめぼしいものに目を向けていた。店内をいつの間にか一周二周と終わり、三週目に入ろうとしていた。その時になるとさすがに小さなお菓子が見えるようになっていたが、いよいよ五周目に入り、お菓子を見続けるのも疲れて店内を見渡すと、ここの店主だろうかおばあさんがいることに気付いた。
「うわっ」
存在感も影さえもなかったから、あまりに驚いたのでつい声を上げてしまった。
おばあさんはぎょっと目をこちらに向けたので、目が合ってしまった時やるせない気持ちになった。
片倉は寄ってきて、僕の横腹を突いた。そして小声で早く決めろ、と言う。
僕はすぐに初めから気になっていたものを手に取り、会計できるのかどうか分からないおばあさんによってあっという間に会計され出口に向かったが、片倉が水の入った箱からラムネを取り出すのを見て、また会計を済ませた。
僕らは外に出て店先のいすに座った。僕はこのラムネはどのようにして開けるのか分からなかったが、片倉があっさり開けるのを見て、見よう見まねにやろうと思ったが、できなかった。すると片倉は開けたラムネと僕のラムネを交換してくれた。
ラムネは買った時から冷えていて、この暑さの中で頬に当てると生き返るという言葉がよく似合う。以前に暑いからと同じように頬に氷を当てたことがある。しかしその時とは違う冷涼を感じられた。片倉と同じタイミングで息をつき、まるで老人二人がのほほんとしている様子そのものだった。
そういえば今日は学校へ行ったのだな。さっき昼食を食べたっけ。あれから何時間が経っただろうか、などと今日あったことを思い返していた。するとそのことには気が付かなかったのだろう。陽で焼かれている道の向こうからやってきた人影があった。
僕は片倉のほうを見ると、遠く空の向こうを見ていたので、わき腹を小突いてやってくる人影を教えた。
「チッ…」
僕はその笑いながらやってくるやつらと片倉の舌打ちを聞き、その関係を曖昧だが把握した。
この店の前で自転車は止まり、降りると片倉を呼ぶのであった。それはまさしく悪役らしい低い声であるのだった。
「おい創一。お前、ここで何やってんだ?」
「もう来るなって言ったはずだろ。」
脇からにやけた顔がひょっこりと出てきた。そしてもう一人、何も面白いことがないのに笑う男がいた。
「お前らが勝手なことを言っていただけだろ」
片倉は相手の顔も見ることもせず、淡々とラムネを飲み続けた。なにやら以前から因縁の仲らしいのだが、その因縁になったわけは分からない。しかしそれが分かったということでどういうことでもないし、特に知ろうとは思わなかった。だがやつらは上級生らしいのだ。なぜ片倉につるむのか。それだけは気になった。
そしてその中のリーダー格の男が言った。
「お前の隣のやつは誰だ?」
「おい…今年転校してきたやつだろ」
隣にいた男がその男に言った時、そいつはぽかんとした顔をした。
「あ…そうだったな。それでその…こいつは誰だ?」
「お前に教える必要があるか?」
片倉は頬を緩め、今にも噴出しそうな顔をして相手の目は見ることができないようだった。
片倉がそんな頃、店先に吊るされた風鈴の音が鮮明に鈴の音のように伝わってきた。
そしてその場所にいることに体が熱くなってきたようで、額から汗がにじみ出てきていた。脇にいた男がそのことに気付き、横目でその様子をうかがうと、さっさと後ろの男を連れて駄菓子屋に入っていった。
そのことに気付いたのがもう一度風鈴が鳴った時で、目の前の男は辺りを見回し、ついにすでに駄菓子屋の中にいる二人を見つけた。
そしてそれを見つめると、またこちらとにらみ合い、棄て台詞を残していった。
「もうこの駄菓子屋に来るなよ」
額の汗をぬぐい、やつは中へ入っていった。
「なんなんだろうな…あいつ」
僕はどうしてもその関係の中へ入りたい理由はなければ、入ろうとする理由はなく、それは不和に思えたからかもしれない。だけど最後にはその関係があまり悪いとは思えなかった。なのはこの二人が何か衝突して、いつまでもそれが固いもの同士で緩和されずに長く停戦ラインを保ってきたのだろうと考えたからだ。それにそんなに悪いやつには見えなかった。外見は意外に物を言うことを、僕は知っている。
「行こうよ。もう飲み終わったし、それにここにはもう用はないしね」
「ああ…悪かったな、なんか」
片倉はうなじを触り、首を回して疲労を感じているようだった。
「いやいやいや。また来ようよ。あの人、面白いし」
「そうかぁ?俺、あまり応対したくない。疲れる」
僕は笑い、片倉も笑う。そして僕らはまた干上がる道を歩いていき、また違うところへ転々と歩く一日は早く過ぎるのだった。少しの間の滞在だけだったが、僕が行きたいというところは大体行った。
前にもこんな日があったような気がする。遠く空の向こうに消えていった一日だった。
あいつらとの出会いもあったし、それはこれからを予兆しているようにも思えて、充実な生活というのが目に見えていた。
「あいつ、お前の何なの?」
「あいつは…一応、上級生なんだけど…いつからか無駄に俺に絡むんだよな」
そのことは片倉さえも分からないらしいのだが、どうやら大体の目星が付いているようだった。しかしそれを知ろうとはしなかった。いつかは分かるだろう。そんなアバウトな考えを持っていて、分かることに自信があった。
不思議に思うかもしれないが、時々そういう勘が言うものの多くは当たることを僕は知っている。
片倉と別れ家に帰る途中、余っていた陽を眺めると、ようやく夏休みが始まるのだな、と実感した。そして今年の元旦を思い起こすと、こんなことを望んではいなく、まして予期もしておらず、不思議でたまらなかった。
「行こうぜ」
今日も片倉と遊ぶ。
一昨日も昨日も今日も明日も明後日も、夏休みの間は遊んで過ごす予定ではあるが、宿題があることは忘れてはいない。少しずつだが進めている。しかし片倉と会うと勉強会と称しても遊ぶ日は続いている。
そして夏休みが始まって、一週間が経った。
この一週間の間に僕の行きたいところを片倉は案内をしてくれた。そして出歩いて知れば知るほど、自然の魅力に引き込まれて、さらに視野を広げるように興味も大きくなるのであった。
前に僕の家で片倉と話した。そのことを実現すべく、片倉は連れて行ってくれた。
町から田舎へ、風が自由に行き来するが、陽をさえぎるものはなく、暑かった。そして田舎道で汗を流し、遠くに見えた山のふもとまで行った。さっきまでセミの声は遠くあったが、こだまさえ聞こえてきた。
生い茂った草は僕の背丈ぐらいあり、斜面は緩やかながら、そこから頂上を望んでも見えることはなった。まるで世界一高い山にさえも見える。
「はー、高いなぁ」
「おう。この山はちまたじゃ有名だからな」
ふもとの弧に沿って自転車を走らせると、観光用なのだろう、登山口が見えた。その近くに自転車を止め、片倉は先に行った。荷物を持ち、僕もその後を続いた。
むっとする空気に、山登り。時々僕の前をよぎる虫に、さらにセミの声が左右から聞こえる。俺の声のほうが大きいぞ。俺の声が大きいぞ、と競い合っている。それらは僕の疲労の加速剤となる。
いくら観光用の道だからといっても、斜面を登ることは足にこたえた。
「ほらほらほら。早くしないと置いてくぞ」
片倉は身軽に次々と階段をのぼっていき、僕が見えなくなるぎりぎりのところに常にいるのであった。
よくよく考えると、僕は登山すること自体が初めてだった。よくテレビなんかで登山するのを見かけ面白そうだなと思ったことがある。しかしこの登山というのは何が楽しいのか、まったく分からない。暑いし、足は痛くなるし、疲れるし、いいことなんてない。
僕は息を切らしながら片倉の背を追っていた。その影に追いつくこと、それは山の中腹辺りに着いた頃だった。
「ほら、こっちだ」
片倉は僕を待っていたらしく、僕が追いつくまでの間、十分に休んでいた。
「まだあるの?」
「まだあるの。でもあと少しだぞ」
片倉はさらに、茂る道なき道のジャングルの向こうへと入っていった。
きっと僕は顔を曇らせていることだろう。
そのなき道に僕もしぶしぶながら、自分の責任を確かに感じてその草を掻き分けて進まなければならなかった。
半そでで半ズボンなので、草の爪で引っかかれた。蒸し暑さが体力を奪い、中途半端な斜面が簡単に歩くことを妨げる。いつか倒れるだろうなと考えながら、するとこれは皮肉なのかなと思った。
そして歩くこと何分ともなかった。
きっとあれはそうなのだろうな。耳に流れるように入ってくる音は確かに水と水が激しくぶつかり合う音。
僕らは開けた場所に出た。急に涼しくなった。陽光が滝つぼに降り注ぐ幻想的な空間が目の前にぱっと開けた。洞窟の向こうは溢れんばかりの水源にたどり着いたわけだ。
「わぁ…」
飛び跳ねる水しぶき。閑静で唯一の轟音を鳴らす一本の水柱。そして大きなアーチを描く虹。澄んだ空気が涼しく、照るように熱い頬を冷やすのだ。
きっと生き物たちの憩いの場なのだろう。
片倉は岩場をぴょん、ぴょんと飛んで、水場まであっという間にたどり着いた。
「おい、お前も来いよ」
僕はその超人的な、野生的な片倉に感服した。僕も同い年で同じ人間だと、不器用ながら岩と岩の間に足を挟まないように、傷を負わないようにして岩の上を、バランスだけを頼りに歩いた。水にぬれた岩に苔が生えていた。足の裏がぬるっと感触は悪かった。
遠回りすればこんな思いをしないで済むのだが、片倉の行動に惹き立てられた感情があった。童心とでも言うのだろうか。野生の心とでも言うのだろうか。ただ羨ましく、たまっていたものが急に溢れんばかりの力となって行動を示したのだろうか。
やっとの思いで着いたところに待っていた片倉はもう海パン姿になっていた。
「おっせえぞ」
そう言って片倉は岩の上から水面に向かって飛び込んだ。
飛び散る水しぶきを避けようにも岩の上なので避けられず、しかし冷たくて気持ちよかった。早速服を脱いで、片倉に続いた。
水面にぶつかる瞬間、それは未知な空間に飛び込む気負いで勇気がいるものだったが、それはすんなり体に浸透するようで、さっきまで嘘のように熱かった体は一気に冷やされた。しかしこのことはもう、初めての経験ではないような気がした。
飛び込んだ底はそこまで浅くはなかった。水面下を見てみようと水の中で目を開けてみる。底は浅いところがあれば深いところもあるらしく、水の流動もある中で明晰に目に映った。泳いでいる魚も小さくて、僕が近付くと岩陰に隠れた。
水から顔を出すと片倉は目の前にいた。
「どうだ?いいところだろ」
「うん。こんなところだとは思わなかった」
意外と広いところで、端から端まで泳いでみたのだが、それだけで疲れてしまった。そのおかげで一度岩に座った。
泉というような、それがふさわしかった。自然のエネルギーが満ち溢れて、確かに分かったことは、水で染みるはずの傷は痛みさえ感じていなかった。ここに来るまでに負った傷を見ると、急に痛みを感じるのだった。
片倉も僕のことを気遣ってくれたのだろう。僕の目の前まで来たのだった。
「どうした?傷が痛むのか?」
「ここに来るまでさ、葉っぱとかで切っちゃったみたいでさ」
急に片倉は笑い出した。
「そんなのつばでもつけてりゃいいんだよ。なに可愛いこと言ってんだよ」
片倉の笑いは止まらないようで、本当に僕は傷が痛かったので、勝手に笑えばいいと思ったのだが、長くその笑いを聞いていると腹が立ってきた。
僕は無言で立ち上がり、そしてぐっと足に力を入れて、片倉の頭めがけて跳んだ。
片倉はすぐに水にもぐったが、それもすれ違いで片倉の背中を思い切り蹴った。
そして僕はすぐに片倉からなるべく遠いところまで泳いだ。
「このやろ」
片倉が顔を出す頃には僕は対岸近くまでいた。しかし片倉も勢いよく僕の後を追ってきた。
ここで過ごした時間は覚えていない。だがこの後、滝の上から滝壺めがけて飛んだのは覚えている。よくテレビで見たことをやってみたかったのだ。大自然に住む子供たちは本当にこんなことをするのかと不審に思ったのだが、実際そうなのだと自ら実感した。
そしてもうこれ以上皮膚はふやけないだろうな、というほど泳いだ。
そしてそろそろ帰ろうかと片倉と話していると、茂みの向こうから見慣れた顔がぬっと出てきた。
「おい、片倉。なにやってんだ。もうここに来るなって言っただろ」
見たことある顔。それはあの駄菓子屋であった奴だった。あの時と同様、脇に二人ついている。どうやら昆虫採集に来ていたようで、手には網、肩からはかごをぶら下げている。なんともそれがおかしな状態だった。大きな図体に小さなかごのアンマッチが僕らを水の中で窒息させようとしていた。
「お前こそ、ここに何しに来たんだよ」
片倉は笑いをこらえて、大体の予想ができていながらも、どんな答えが返ってくるのかが楽しみでしょうがないようだった。
「そんなの決まってんだろ」
「俺たち、ここで泳いでたけど?」
「ん…もう、ここの水は使えねえな」
そんなはずがないのは分かっている。片倉も誘導しているのも分かる。脇にいる二人は顔をゆがめた。それは単なるたった一人のわがままだった。
「じゃあな。気を付けて帰れよ」
「何だと、こいつ…これでもくらえ」
せっかく採ってきたのであろうカブトムシをカゴから取り出して、それをこっちに投げつけたのだ。そしてカブトムシは解放されたのだと思ったのか、空高く羽ばたいていったのだ。
「おいおいおい…せっかく朝から探したのに…」
脇の二人は本当に残念そうにしていた。
「うるせえ。こうなるとは思わなかったんだよ」
誰だって投げればどうなる、そんなこと、分かるに違いない。実際、その脇の二人がそう言っているじゃないかと気付かせてあげたかった。
二人は切ない顔で男のもつカブトムシのいないカゴの中を見て、ただ放心状態でいるのが精一杯だったようだ。
「このやろ…恥かかせやがって…」
この泉に入ろうとする男に向かい、片倉は楽しそうに言った。
「ここ、俺たちは入ってるけど」
「…まあ、今日は勘弁しといてやる。今度会った時は、ただじゃおかねえからな…それにもうここに来るんじゃねえぞ。ほら、行くぞ」
そういう前に二人はふらふらと茂みの向こうにいなくなってしまうところだった。男もその後を追いかけた。
「やっぱり、いい奴にしか思えないんだけど」
「そうか?変な奴の間違いだろ」
なるほどそのことも分かるが、それ以前に僕の心の中には曇ったものはなかった。
やつらがいなくなっても、僕らはもう少し泳いでいた。タオルなんか持ってきていたが、それを使う必要はなかった。しばらく岩の上に座っているだけで、暑い太陽の日差しですっかり乾いてしまうのであった。
ああ、またここに来るのはいつだろうかと背にした時も、冷涼なマイナスイオンがいまだに僕らを誘う。
だが誘いに乗ることはない。またいずれ、ここを訪れることを願うばかりだった。
ああ。なんで楽しい日々は早く進むのだろう。アインシュタインの相対性理論。前に父に教えてもらった。その時はさもと頷くことはできなかったが、今でもあやふやだが、なるほどとなんとなく首を縦に振ることぐらいはできる。
しかしそのたった短い時間で育まれた友情はたかが知れたものではない。それは自負できる。片倉はそう思っていないかもしれない。なんて、そんなことは思ったことがない。それぐらいの自信はおのずとついてきていた。もともと僕の体の中にはそんな昨日が備わっているらしい。
そうであるから、たとえ遊ばない日があろうとも、きっと崩れない友情、それがあると信じている。だが今は夏休み。昨日も今日も明日も遊ぶに決まっている。
それにしても、片倉の家にまた来るとは思わなかった。というのは以前ここに来た時、片倉に出て行けと言われたきりだったからだった。しかしその片倉から、今度は来てなんて言われた。
あらゆる感情が交わる不思議な思いで、首をかしげるようなことがありながらも片倉の家に入った。
「くつろげよ」
そんなに部屋は変わっていない。しかし他人の家だというのに、何故か親しみを持つ。ゆったりと、くつろげるようなその環境は同化という言葉が似合うだろう。
片倉はまた同じような、僕はデジャブを見た。
なんとも和やかな。クーラーが効いた部屋で、窓を通して外が暑いのを眺める。セミの声が聞こえる。窓に虫が横切る影が映る。
この空間はどうやらゆっくりと時間が流れるようで、きっとそれは僕の気持ちがゆったりとしている証拠なのだろう。
それにしても、これはなぜだろう。居心地というのがまるで家と変わらないのだった。どうしたものか。きっと家に帰ると言いつつ、このままここに居座りそうな気がした。
片倉は奥の部屋から戻ってきた。
「俺の家、何にもないだろ」
そんなことはない。さっきから気になっていたものはある。天井に雨漏りでできたのだろうか。隅に黒いしみがあった。しかしそれ以外は何の変哲もない一般の家庭と変わっておらず、テレビもあるし机もあるし、その家独特のにおいもある。だがそれだけは何か異質なものには思えない。僕のかぎなれたにおいと非常に似ていた。
ただいつの間にか、洗脳されたかのように意識は頭の上を危うく浮かんでいた。どうしてそのようになっていたのか。それほど難しい理由はなかった。
そういえばと頭にぱっと浮かんだものがある。片倉の絵だった。
僕はそのことを片倉に要求してみたのだが、それは無駄な抵抗であったらしい。片倉はどこかに隠しているらしい。押入れを探っていても、決して出てはこなかったのだ。するとその代わりとして出てきたのは野球盤だったのだ。
片倉はそれに目を付けたのか、僕を押入れの前から遠ざけて奥にある野球盤を引っ張り出した。
野球なんて知らなかった。ましてやり方なんて知らなかった。しかしその小さな球場で動く選手を、テレビで何回か見たことのある中継から想像を張り巡らして、できる限り動かした。部屋にぶら下がる電灯があのまぶしい限りのライトで、きっとあの台所から聞こえる低い電子音が観客の声の代わりとなっているのだろう。そういう想像に気付いた時には、自分が恥ずかしく思った。
そうして次第に選手の残像は薄れていって、ただ楽しむものに変わった。僕の背中から熱は引いていった。
夢中になってやっていた。アパートの廊下を歩く人の足跡、当然そのような音は耳に届かなかった。そしてそれに気付いたのはようやく、ドアが開いた時だった。
「ただいま…」
女の人の声。その声には疲れたような、やつれたような、ただそれだけでまだ見ぬ顔は思い浮かべられた。
女は台所に向かい、換気扇を回した。
「誰か友達来てるの?」
「うん。そうだよ」
すると台所から女はやってきた。一枚扉を開けて、僕らを見ているのだろう。そして僕に目を向けた。
「こんにちは…」
「…こんにちは」
女はまだ火が付いていないタバコを指に挟み、顔は強張っていた。
これが片倉の母親だろうか。髪は茶髪で、背の高いすらっとした細身の体。前に聞いたような話では、まるで年の老いというのは見せていないようで、おばさんというには失礼な気がするし、ましてお母さんというのはなおさらおかしい。
一人で戸惑いを表情に表さないように気を付けていたのだが、しばらく流れた沈黙はその場に不調和を生み出していたのは言うまでもない。
そこで取り持ってくれたのは片倉だった。それでその場は一段落着いた。
だがそれでおしまいではいけないと、何かが僕の心を咎めたのだった。
目が合ったその時、何か本能的に、ポテンシャルのような、何かがぱっと目覚めたような心地、そして電流が体内を駆け巡り続け、終着地点が脳だったせいで身震いさえしたのだった。
僕はしばらく片倉の家にいたわけだが、すると無性に家へ帰りたくなった。そのわけは分からなかった。少し遊びつかれたから。少々騒ぎすぎて迷惑だと思ったから。隣の部屋に片倉のお母さんがいたから。
さもあらずとも、もう外は暗くなり始めていた。
そして僕はただ五歩の距離を歩いて顔を出して目を合わせるような勇気はなく、壁を隔てて僕は呼びかけた。
それでは悪いと思っていたものの、それ以上のことはできず、それ以下のことも失礼だと思っていた。その中途半端な気持ちがそうさせたのだった。
「お邪魔しました」
霧がかった、もやもやとした心のまま気になることは家に帰っても晴れることはなかった。逃げるように帰ってしまって、何だかやるせない。思い出すことをしたなら、かっと耳が熱くなる。
夕食時に父と話すこと。
「今日も片倉君とか?」
「そうだよ」
「本当に仲良しだな…よかったな」
空を眺めるように向こうを見るその姿勢は、ここにある空気を震わせて波長として伝達されるのが分かる。その空の向こうを、僕も見ているのだが、それは父ほど定かではないのだろうな、と思う。きっと大人になれば分かるだろうな、と思う。
それにしても、何所とともなく頭に浮かぶのは片倉の母だった。
その日眠るまで、この食事中も、風呂に入っていても、あまりの宿題をやっていても、僕が眠りに入るまでベッドの中でも眠気にさえ打ち勝つほどだったから、おかげで次の日の朝は目をこすりながら起きたのだった。
ただ、いまだに感じる心に宿る残り火が鎮火しそうなのを、少しでも長く、いやいつまでも残そうとランタンに移されるのだった。ひたすら油を差し忘れぬよう、時々頭の片隅にその一片を置いておく。
炎はゆれる。ゆれるのはきっと、時々風が吹き込むからだろう。
これからの参考にしたいと思いますので、良かったら感想をお願いします。よりよい作品作りにご協力ください。