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黒猫は金魚鉢をひたすら覗く  作者: 蔵前
二 相棒様
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おかえりなさいませ、坊ちゃま

 自宅敷地内で、大きく溜息をつく情けない自分がいた。

 俺の自宅は渋谷よりの世田谷にある。

 この家はかなり広い土間を持つ古家を文化住宅に建て直したものだが、広い土間は屋内ガレージにするために壁と入り口を直しただけで残してあり、その改装により我が家はガラスの引き戸の玄関扉横に、工場のように輝くシャッターが煌めく外観だ。


 以前はガレージから直接自宅に上がれたが、結婚を機にガレージを完全に家と切り離すべく壁を増築したので、一度ガレージを出なければ家に入れない。

 そして建物一階は俺の自室に書斎と居間に台所と風呂があり、上階二部屋を同居している相棒が使っている。


 そう、俺は妻のいない家だから溜息をついたのではなく、家で待つ相棒との関係が拗れてしまったことで気がとても重いと、車庫内で二の足を踏んでいるのだ。


 俺より三つ年上の戦友で元副官でもある自称執事の田辺大吉は、戦後に不動産業を始めた時からのパートナーだ。

 終戦間近に逃げ後れて一緒にシベリア送りになった彼は、俺を当時のように隊長と呼び、執事としてこの家に住んで俺の世話をしてくれているのだ。


 また、不動産業と言っても最初は俺が親父から貰った渋谷にあった一棟の不燃性アパートの管理から始まったが、田辺の協力でそこから株投資や土地売買を繰り返して俺達の会社はそれなりの体裁を保てる程にはなっている。

 そして俺の結婚を機に、彼は俺達が管理する賃貸物件の一つへ移動する予定でもあった。


 しかしながら彼は今もこの家にいる。

 なぜならば、この家が未だに新婚家庭になっていないからだ。


 俺の長過ぎる新婚旅行に痺れを切らし、十二月二日に九州まで田辺と相良が俺達を迎えに来た。

 そして更紗は相良という鬼婆に連れ去られ、俺は田辺の監視の下に東京まで車を走らせる羽目になったのだ。


 俺の車は荷台は広いが二人乗りなのだから仕方がない。


 戦前に販売されていた15T型ダットサンのライト・ヴァンなのだ。


 そして田辺と俺はそこから二日三晩交替で運転し合い東京に帰って来たが、彼はその事を未だに許してくれない。


 自宅に戻った俺達は無言で風呂に順番に入り、勿論、一番湯は功労者だと田辺に譲り機嫌をとったが、俺が風呂から上がった頃には家の中には田辺の姿がなかったのだ。

 翌朝に彼が戻って来た気配がなかった事で、俺はとうとう彼に見捨てられたかと心配になり、何も食べずに仕事もせずに居間で彼の帰りを待っていた。


 十二月五日の深夜に帰ってきた彼は、居間の俺に驚いてのけぞったが、やはり冷たかった。


「俺は疲れていますので、このまま上で休みます。」


「俺のご飯は!」


「はい?」


「なんでもない。」


 俺はその夜、空きっ腹で眠れない夜を過ごしたことを思い出した。

 あの日から既に十七日も経っているというのに、俺達は以前の関係ではなくなってしまっているのだと、俺は重く悲しい気持ちでノロノロとようやくガレージの外に出た。

 大きく息を吸い込むとシャッターを下ろし、覚悟を決めて玄関扉を開けた。


「お帰りなさい。坊ちゃん。」


 これだ。

 彼は帰京してから俺をずっとこの呼び方だと、俺は寂しい気持ちになった。

 母の話で精神的に疲れてしまっていた俺は、今日に限って現状打開するべきだと田辺に向き合う気持ちを奮い起こした。

 俺は出迎えた彼をじっと見つめる。


「隊長は止めたの?もう俺を隊長って呼んでくれないんだ。田辺軍曹は。」


 彼は小柄でありながらも、軍曹時代はかなり怖い人だと恐れられていた人でもある。

 実際に兵士としてかなりの人でもあるが、外見がとにかく怖いのだ。

 本人には言えないが、九州の宮城が故郷らしく浅黒く彫が深いせいで、派手なシャツを着せたら南方のヤクザの人そのものになりそうなのだ。

 特に怒らせている今は冗談でも言えない。


「隊長って呼ばないでって、この間までは言っていたくせに。」


 俺がコートを手渡すと、コートを受け取った彼は軽くコートを叩いてから左腕に掛け、今度は右手を差し出した。


「君の俺への呼称が隊長か坊ちゃんの二択しか無かったって知っていたら、俺は隊長呼びに文句などつけなかったよ。そういえば、戦地でも軍曹は俺を隊長と呼んでくれなかったね。中尉ともね。あぁ、いつだって、坊ちゃん、だったよ。」


「坊ちゃんを隊長と呼ばなかったのは、あなたに付いて行けないと当時は考えていたからですよ。シベリアの収容所でこの人ならばと、それ以来隊長でしたけれど、俺は今回あなたに完全に呆れてしまいましたからね。ですから、また坊ちゃん呼びなのですよ。」


 俺は彼の答えに不満顔を見せながら、彼の左手に愛用の杖を渡した。

 杖と言っても、黒革を貼った持ち手を天辺に装着して、銀色の地の全体に黒い蔦模様の浮き彫りの装飾が施されただけの唯の鉄の棒だ。

 足腰が悪いわけではない。

 これ見よがしの武器を所持していると、お上に取り上げられてしまう決まりなのだから仕方が無い。


 俺のコートをコート掛けにかけると、田辺は杖を書斎へと片付けに行った。

 傘立てに立てると、傘の滴で鉄が錆びるからだ。

 俺は靴を脱ぎ、上がり框に上がり廊下にへと歩きながら呟いた。


「鉄って重いし、手入れも大変だし、材質を替えようかなぁ。」


「そんな馬鹿なことを考える時間がおありなら、普通に仕事をしてくださいよ。」


 書斎から出てきた地獄耳に叱られた。

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