親孝行と覚悟を決める
美佐子は戦時中に空襲で家が焼け、父親は戦死し、さらに疎開先にて母と妹を栄養失調で亡くしている。
疎開先から一人戻った彼女が我が家を訪ねて来た時は、ボロボロのもんぺ姿に骸骨のようにやせ細った身体で、戦前の女学生の頃の見る影もなかったそうだ。
その事情だからこそ、俺の戦死の報を受けたその一年後に、俺の二歳年下だった弟が彼女と結婚したのである。
「幸次郎さんと喧嘩をしてしまいました。別れる前に皆様にお世話になりましたからせめてご挨拶だけでもと。」
夜中に呼び鈴を押されて大きな鞄を持って訪問した実家のない嫁を、「そうですかサヨウナラ」できる人間などいない。
寝巻き姿で出てきた両親は内心がっかりしながらも、彼女を家の中にあがらせてしまったのだそうだ。
そうして、再び母は様々なものを奪われ、追いやられているとそういうわけだ。
俺も溜息をつくと、応接間の壁に飾られた六号サイズの絵を見つめた。
何を奪われてもこれは死守した模様である。
これは俺の絵だという。
俺の三回忌に母が画廊で見かけて衝動買いしたという、本物かどうかわからないが、アンリ・ルソーによる一枚の絵である。
熱帯の木々の中の葦のような草むらに、ぽつんと眠るトラのような熱帯の生き物の背中が見える、という構図だ。
母は荒野で死んだ俺が行くのはこんな世界だと、これが俺の絵だと宣言したそうだが、俺はそんな世界は嫌だと絵を見た時に考えた。
そして実の息子が生きて帰って来てもこの絵を手放さず大事にする母の姿に、やっぱり唯の趣味の衝動買いだったような気がしていた。
しかし、俺の妻には母の気持ちがよくわかるようだ。
何しろ結婚前に母に招かれた彼女は、サロンに一歩足を踏み入れた途端に、目の前に立つ母に挨拶を口にするよりも俺の横で叫んだのだ。
「あ、恭一郎の絵がある!」
「ウソ、俺は絵の話を君にはしていないよね。親父か母さんから聞いていた?」
母は「俺」「親父」と乱暴な言葉を使った俺を流し、彼女の驚いた表情と見開いた真ん丸の瞳を更紗を食い入るようにして向けていた。
妻は、当時は婚約者だったが、俺達が見つめる中、取り繕うどころか猿のようにケケケと憎たらしく笑った。
「あの寝ている獣が恭一郎だよ。外見は似ていないけどね。誰もいないとだらけてしまう所はそっくりでしょ。」
俺は生意気な婚約者の額を、つんと指先で軽く突いた。
天野更紗、俺の十以上も年下でいまや竹ノ塚更紗となった俺の愛妻で美しい彼女は、黒曜石のような瞳を煌めかせながら俺を見返して、ニヤニヤと笑みを浮かべるだけだ。
腰近くの長く艶やかな黒髪に飾られた白く完璧な顔は俺の理想の顔でもあるが、その顔を悪戯そうに歪めているその時は憎たらしさが先にたった。
そこで俺は更紗ではなく母に尋ね返していた。
「僕はそんな怠け者ですか?」
フフフと母は笑うだけで答えずに、だが嬉しそうに更紗と目線をかわして笑いあった。
「え、母さん、本当にそうだったの?この絵の風景が母さんの思う天国じゃなくて、この獣が、この僕でしたか?」
母は口を押さえて声を出さずに笑い転げているが、目元に涙が溢れてきていて、俺は思わず彼女を抱きしめた。
すると、更紗の静かな声が俺に真実を告げた。
「お母さんは恭一郎にもうゆっくりしていて欲しいって、その時に思ったんでしょ。この獣のように。もう、暖かい所で好きなようにだらけてゆっくり眠っていて欲しいって。」
俺は腕の中で泣いて震えている母を愛おしく思いながら、帰国してあの絵を見て感じたことを彼女に初めて伝えた。
「俺は天国があの絵の風景じゃ嫌だから母さんよりは先に死ぬものかって、父さんに絵の話を聞いた時に考えたけどね。母さんがあの絵を買った頃は、収容所で俺も死に掛けていた頃だったから、もしかして、俺に幸運を呼ぶ絵なのかもしれないね。」
母は笑うどころか本格的に泣き出してしまい、俺は母を抱えてソファに座り、更紗は母の隣に座って静かに彼女の背中を撫でていた。
あの日以来、母は更紗が娘同然である。
「サラちゃん」
などと呼んでいるのだ。
更紗は「サラちゃん」ではないはずだ。
決してない。
眠るだらけた獣の絵を見つめながら、俺は再び溜息をついた。
生きて還った息子にはだらけさせる気がない母親に、俺は諦めを持って顔を向けたのだ。
「それで、どうして僕がご近所の気味の悪い事件を解決したら父さんの引退の話がなくなるのでしょうか?」
いつものフィクサーの顔を取り戻した母は、口角を上げて悠然と微笑んだ。
物凄い悪巧みの顔だ。
「やはりあなたが跡継ぎだと知らしめるためよ。あなたを担ぎ上げるためなら、最近諍いばかりの後援会も再び結束を固めるでしょう。」
「それで危機感を持った美佐子が母さんに譲歩する姿も見えるようですね。」
自分の計画に悦に入ったか、母親は嬉しそうに目を細め、クククっと小鳥のような笑い声をさざめかせた。
俺は大きく嫌味たらしく息を吐き、了承して帰途に着くしかなかった。