死にたがり
木下は祥子の作った朝食に舌鼓を打つと、誠司のオースチンで帰っていった。
彼には既に妻子があり、朝帰りした埋め合わせに家族をドライブに連れて行くのだという。
元気そうだが疲れの見える木下に声をかけた。
「大丈夫か?君は寝ていないだろう。」
玄関で座って靴を履く彼は、人好きのする笑顔で俺に返した。
「ここに来るまで車の中で寝ていましたし、ドライブは妻が運転しますから大丈夫です。寝過ぎで頭を叩かれる可能性が高いですけどね。」
「奥さん、運転ができるんだ。」
俺は誠司と同い年の彼に妻子がいることにさえ驚いていたのに、彼の妻が運転も出来ると聞いてさらに驚かされていた。
そこに誠司が口を挟んできた。
「木下の奥さんは俺よりも運転は上手いよ。昨年まで耀子の運転手をしていたからね。」
「お前は普通に運転が下手だろう。」
「あ、ひどい。」
「でも不思議だね。耀子さんが女性運転手を雇うのはわかるけど、自分こそ運転したいって言わないの。」
「耀子は賢いからね。自分が免許を取ったら更紗も!ってなるでしょ。」
「俺も耀子さんを大事にしないとね。婿いびりももう少し我慢する事にするよ。」
俺達は玄関で笑いあい木下を送り出したのだ。
その後はすぐにケーキを買いに行くと田辺が祥子と千代子を連れ出し、誠司は風呂に入って寝たいと風呂場に消えた。
ようやく居間は空っぽだと、俺はゆっくりと立ち上がった。
俺は先程妻から電話を貰い、気分が高揚している。
きっと長谷とは大違いだろう。
「やっぱりさ、君は死にたがりかな。」
俺は自分の書斎の戸口に寄りかかり、サイドボードの前に黒い影のようにして立つ長谷に話しかけた。
まるで子供が宝物を望むような目で、彼はサイドボードの中を眺めていたのだ。
「酒だって。竹ちゃん達は楽しく飲んでいたんでしょ。俺は今まで大忙しだったからね。相良誠司の行方不明の捜索に借り出されたりねぇ。」
いつもの笑顔を顔に貼り付けて振り向いた彼は、ウイスキーボトルとグラスを両手に掲げて俺におどけると、サイドボードから離れて書斎机の前の応接セットに腰掛けた。
そうして勝手知ったる風に俺の酒を並々とグラスに注ぎ、さもおいしそうに彼はそれを口に含んだ。
「あの最高級のブランデーに手をつけない君が不自然だと思わないかな?」
彼は俺に答えず、目線も寄越さずにグラスだけを掲げた。
「竹ちゃんは?」
「いらないよ。」
長谷は着替えてあるようだが、スーツから出ている首筋から火傷の痕のような赤黒いものがチラリと見えた。
「君は怪我の手当てもしていないのだね。服を脱いで、俺が手当てをするよ。」
長谷はそれには反応して、黙って衣服を脱いだ。
脱ぐ時に顔をしかめた所から想像したとおり、火傷はかなり広い範囲だった。
「医者に行こう。大丈夫だ。俺の行きつけの口の堅いやつだ。」
「伊藤廉太郎には会いたくないなぁ。」
矢張り、長谷は俺の全てを探って知っている。
伊藤廉太郎は俺の隊の一人で、現在近所で診療所を開いている。
元々衛生兵のそれも医師免許持ちの軍医だったが、なぜか俺の隊に流された憐れな男だ。
彼が隊にいたからこそ、俺は容赦なく長谷の足を撃ち抜けた。
俺の隊の一番の年長で、現在四十一になる彼は今も昔も腕がいいのだ。
「伊藤のところで俺は君と話をしたいのさ。さぁ、行こう。」
伊藤の診療所は俺の家の数百メートル先だ。
そして、「伊藤整形外科」の看板に訪れる患者が脛に傷のあるものが多いためか、「あそこは骨折した患者が棺おけで出てくる」とご近所では評判だ。
つまり、もぐり診療もやっているのだ。
ヤクザの抗争による銃創の手術に、売春婦の堕胎手術。
人に言えない大怪我は伊藤整形外科に行け、が、裏の世界の合言葉だ。
診療所内の患者は、待合室に抗争相手がいても絶対に諍いを起こさない。
くだらない面子よりも伊藤の腕と存在が大事だからだ。
「あぁ、長谷君じゃないか。どうした?帰国以来じゃないか。足はどうだ?」
ごま塩を振りかけたような白髪交じりの坊主頭にキリンによく似た顔の伊藤医師は、俺が連れてきた長谷に驚いて、そして大いに喜んだ。
「邂逅のセリフの前に長谷の体を見てやって。馬鹿をやって火傷が酷いんだ。」




