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黒猫は金魚鉢をひたすら覗く  作者: 蔵前
十二 嘘吐き男によるパーティ
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本当に大事な人

 今朝は全身の血が一気に下がるほど恐ろしかった。

 朝食後の居間での穏やかなひと時は、テレビのニュースで一気に悲壮感に襲われたものとなった。


 父は飲んでいたコーヒーカップを絨毯に落として染みを作り、誠司を息子の一人に入れた百花は両手で顔を覆って泣き出した。

 耀子は真っ青な顔でテレビ画面を睨んでいる。

 そうすれば、たった今聞いたばかりのニュースを覆せるかのように。


 私はお腹の子の事があるからと、昨夜のうちに誠司から電話で概要は伝えて貰っていた。


「ちょっと死んだふりするから。」


 ぶつ、つーつーつーだ。

 誠司は耀子に伝えていなかったの?


「母さん。彼は機転の利く若者ですから心配いりませんよ。それにあれはオースチンの骨組みではないじゃないですか。僕の車と同じルノーです。彼はきっと、いえ、絶対に無事ですよ。」


「え、幸ちゃんは車に詳しかったの?」


 幸次郎の言葉に、思わず「幸ちゃん」と出てしまった。

 耀子が「幸ちゃん」と何度も繰り返すからに違いない。


 幸次郎は彼女の長男に似ているのだそうだ。

 真っ直ぐで甘え方を知らない頑張り屋の長男。

 誠司が似ているという次男は、弟妹が強請ると自分の宝物さえあげてしまい、何も無くなったと影で泣く馬鹿な子だったのだそうだ。


 確かに、そこは誠司そのものだ。

 真っ直ぐな幸次郎は真っ直ぐに私を見つめて答えた。


「僕は骨組みは好きですよ。何でもね。実は鳥が好きなのは恐竜が好きだからです。あの骨を見てどのような生き物か想像するのは楽しいでしょう。鳥って恐竜に似ていると思いませんか。」


 父の朗らかな笑い声が居間に響いた。


「幸次郎君は見ただけで骨組みを理解するから凄いよ。いつでもうちの大学に遊びに来て。図書館の鍵をあげるから好きに本を読んでもいいよ。君に古生物学者の加藤君や、獣医で生物学者の久保田君を紹介したいから、月曜の教授会の後の昼食会に君を招待していいかな?皆も君のような向上心の高い優秀な若者が大好きなんだよ。」


「よろしいのですか?天野教授。光栄ですよ。」


 父は最近名誉教授であるばかりでなく、大学の理事長の一人ともなっている。

 彼は最近取った新しい特許のロイヤルティーの三分の一を大学の自分の学部に行くように設定して、税金逃れの手段と大学での発言権を手に入れたのだ。


 多分誠司という猿回しが父の後ろについているのは疑うべくもないだろう。

 このホヨホヨにそんな事を思いつく頭はないはずだ。


「幸ちゃん、本当に誠司は大丈夫だと思う?」


 耀子はドサクサに紛れて「幸ちゃん」呼びをはじめた。

 だが、耀子が評する恭一郎よりも立派で紳士な幸次郎は、そのような些細なことは聞き流してにっこりと微笑んだ。

 誰もが票を入れたくなる信頼できる顔である。


「勿論です。彼はそんな馬鹿はしませんよ。ねぇ、お義姉さん。」


 彼の言葉で耀子と百花は私を睨み、私は「真っ直ぐな幸ちゃん」に向かって大きく舌打をした。


「やっぱり!」


 幸次郎は私の所作に大きく笑いを弾けさせた。

 それでもその場は彼によって安寧を取り戻したのだから良しとしなければ。


 だが、今回のことで私は誠司の存在を見つめなおしたのも事実だ。

 誠司が私の側にいることは当たり前であり、そして、今日初めて誠司が私の前から消えていなくなったらどうしたら良いのかと思い当たったのだ。


 私は誠司こそ愛していた?


 私は受話器を持ち、夫の住む家に電話をかけた。


「更紗、どうかしたのか?誠司から話を聞いていなかったのか?」


 あぁ、温かい恭一郎の声。

 彼の声も失いたくない。

 目を瞑り、彼との新婚旅行の日々を思い出す。

 とても破廉恥で享楽的な日々。

 それは誠司とは絶対に行えないと瞬時に思った。


「更紗?」


「あなたの声が聞けてよかった。抱きしめられるならあなたじゃないと嫌。でもね、誠ちゃんがいなくなったらって考えたらとても辛いの。だから、あの馬鹿の声が聞きたいから代わってくれる?私のお兄ちゃんの無事を確かめたいのよ。」


 ハハハと深い笑い声が電話口に響いた。

 恭一郎の声はなんて素敵なのだろう。

 抱きしめられて暖められた事を思い出した。


 私達は冷たくて美しい海に感動して飛び込んでは、お互いを暖めあったのだ。

 そのうちに暖めあうためだけに敢えて海に飛び込んだ。

 そして、飛び込まずに海を眺めて延々と抱き合う日々が続いた。

 私達は海で凍え死ぬほど馬鹿でもない。


「待って。やっぱり、あなた。もう少し私に喋って。それから誠ちゃんで良い。私はね、おなかがプクプクして金魚がいるような変な感じよ。あなたは、今どんな?」


 再び恭一郎が笑い声を立て、私の耳を官能にびくびくとさせた。


「笑い声も良いけど、何か喋ってよ。私はあなたが側にいなくて寂しいの。」


 言葉が勝手に飛び出して、そして涙まで出てきた。


「早くあなたの側に行きたい。愛しているの。お腹の中の金魚がいなければ、飛び出してあなたの所に帰るのに。早く一緒になりたい。」


「俺もだよ。愛してる。」


「よくも恥ずかしげもなく人前で言えるよね、そんな言葉。」


「あ、誠司。更紗がお前のニュース聞いて心配だって電話だ。代わるか?」


「あなた、たった今誠ちゃんの元気な声が聞けたから平気。早く誠司を追い払って私にだけあなたの声を聞かせて。」


 耀子は恭一郎を「アブサン」だと評した。

 まぁ、唯のメチルアルコールとも言ったが。

 禁断の酒。

 それは彼そのものだ。

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