竹ノ塚家の内情と自分の身の上
俺は父の応接間の重厚な応接セットのソファに腰掛けており、向いに座っている母は心を落ち着かせるためにか小さなカップを持ち上げた。
彼女の持つカップの中身は、ホットチョコレートなるものだ。
これは欧州の父が贈った物ではなく、俺の結婚により親戚付き合いをするようになった富豪の相良耀子の息子からの海外土産である。
俺の妻は元伯爵家の裕福な天野家の者で、名を天野更紗という。
天野家は裕福でも、相良家とは実は親戚関係に似は無い。
それなのに相良家が親戚として出てくるのかは、俺の妻の更紗が幼少時に母親を亡くしているという身の上が関係する。
天野家の当主となる大学教授の父は、植物学者として特許も著作も多く持つ優秀な人だが社会常識から遠く、娘である彼女も言うに違わずだ。
そこで更紗の友人であり母親代わりと自負しているらしき相良が、更紗の婚約から結婚式の手配の全てを采配したのだと、そういうことだ。
きっと結婚後も俺の姑として相良が君臨するだろう事を、俺は婚約当時も疑わなかったが、現在は強い確信どころか怖い姑を体験中である。
けれどもそんな俺を姑から庇ってくれる者もいる。
相良の愛息子の相良誠司であるが、彼は更紗の兄と自称し、更紗の夫である俺を兄と慕ってくれるのだ。
彼は二十三歳の若輩ながら、その有能さから相良の片腕となり、終には相良の養子となった男なのだから、俺には百人力ぐらいの存在だ。
「あんまり矢野ちゃんを頼らんで上げて下さいよ。」
俺の自称執事はそう言って俺を窘める。
それは、相良となった誠司が養子になる前の姓で「矢野ちゃん」と呼ばれても気さくに返事をする気安い男であったとしても、相良に見出される前はヤクザも怯える愚連隊白狼団の頭領であり、手下を相良警備会社に押し込んだ現在も、押し込んだからか、やはり彼らの頭領であり危険人物でもあるからだろう。
友人の警察関係者も、誠司が危険な男だと俺を諫めてくる。
「あいつは切れたら怖いんだから、頼るのもいい加減にしてあげて。」
……あれ、単に俺が諫められていただけか?
あ、話がそれたが、俺の母がうっとりとして飲んでいるのが、その素晴らしき誠司君からのお土産のものだと言う事だ。
本当に仕事も出来て危険な男なのだ。
誠司君は仕事が物凄くできるが、彼の素性を元チンピラぐらいにしか考えない経済界の人間達は、やっかみも込めて「相良のツバメ」と彼を呼んでいる。
誠司は自分への渾名を知っていながら怒る事も訂正もせず、それどころかこれ見よがしに、女性に対してソフィスケイトされたエスコートをする。
その姿は堂に入ったもので、彼がその渾名を最大限に利用して取引相手を油断させているのだと俺は考えている。
敵を油断させろは、戦術の基本であるからだ。
そして、我が母もそんな奴に一瞬で垂らしこまれた。
彼は大柄で精悍で厳つく見える顔立ちという一見強面であるが、彼が微笑んだ途端に不良のような雰囲気に甘さが加わって、まるで映画俳優のような魅力が溢れ出すのだ。
俺の母が言うにはね。
彼女は俺の結納式も兼ねた食事会で誠司に出会い、誠司に微笑まれた一瞬で彼に陥落したのである。
「私の子供達も見栄えが良いと思っていたけれど、やっぱり華がある人は違うわねぇ。顎の小さな刀傷もいかにも悪い子って感じで素敵。おまけに気配りも細やかで凄く優しいのよ。あなた達、もうちょっとどうにかならない?」
どうにもならない俺と弟は、相良から用意された帰りのリムジンの中で、実の母を目の前に乾いた笑いをハハハと仲良く上げるしかなかったと思い出す。
そのリムジンの中は、俺達竹ノ塚家が微笑ましくいられた最後の機会で在ったのかもしれない。
雛人形のような母の右側には父がお内裏よろしく機嫌よく座り、母の左側には着飾った美佐子が微笑んでいた。
そして俺達兄弟はその向いに座り、豪勢な相良主宰の食事会の話で盛り上がっていたのである。
それがなんと、竹ノ塚家は今や修羅の家だ。
しかし、それ以前も母が見えないところで我慢していたというのであれば、庇える状態となった今の方が良かったのかもしれない。
庇うといっても母を慰めるだけだが。
何しろ美佐子の攻撃は「被害者ぶる」のである。
普通の嫌味や嫌がらせならば母は対処できたであろうが、美佐子は自分が母に苛められていると言っては人前で泣くのである。
母は泣かれるたびに彼女に譲歩し、そしてお気に入りの着物や宝石を譲り、そして終には母が「私のサロン」と呼んで彼女の趣味で溢れていた客間を奪われてしまったのだ。
父はそのことでようやく事態を認識し、激怒すると幸次郎を呼びつけて叱りつけた。
幸次郎はそこで妻を連れて都議会館近くのアパートメントを借りて移った。
だがしかし、なぜか美佐子だけが幸次郎と大喧嘩したからと舞い戻ってきたのだ。
両親が追い出したかった美佐子だが、両親は結局美佐子を自宅に受けいれるしかなかった。
なぜならば、彼女には帰る場所となる実家がないという身の上だかである。