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明日には出ていく、から

 戸口であげた怒りの声とは反対に、彼は無表情で静かな佇まいであった。

 彼はその静かな風情のまますいっと静かに部屋に入り込むと、まず私を陵辱した男を脚を払って倒し、足でもって顔を情け容赦なく蹴り潰した上で、気絶しているその胴体をも蹴り上げた。


 それはまるで汚いゴミ袋を蹴って片付けるような所作のようだった。

 彼に怯えて彼の横をすり抜けようとした女は、彼に髪の毛を捕まえれて引き戻され、平手で顔正面を叩かれた。

 叩かれて鼻の骨が折れたのか、彼女は盛大な鼻血撒き散らしながら子供のようにぎゃあぎゃあと泣き喚き始めた。


「うるせぇな。」


 声もしぐさも蚊を払うようなものでしかなかったが、彼に手で払われた彼女は大きく弾き飛ばされ、転がった先でピクリとも動かなくなった。

 部屋は既に彼への恐怖で固まっているが、彼はそのまま歩きながら彼岸花の花を飛ばすかのように、女たちの顔を、バシ、バシ、と叩いて転ばせたのだ。


 叩かれた女達は叩かれた先からその場に倒れこみ、一様に鼻や口から血を噴出しながら昏倒していく。

 小汚い絨毯の床の上で体を丸めて震えている私を前に、彼はようやく表情を作った。


 あの、嘘臭い笑い顔だ。


「かなりやられているな。」


 彼に叩かれて口や鼻から血を撒き散らし死体のようになった女達の姿に、私は自分を殴る夫の姿を思い出し、彼に答えるよりも部屋の隅に四つん這いで下がってそのままガタガタと震えてしまった。

 全裸の体を隠すことも思いつかずに、ただただ震えていたのだ。


「どうした。もう大丈夫だよ。パニックか?」


 私に手を伸ばす彼の姿が、殴った後に私を抱こうとする夫の姿に重なった。


「ひっ。」


「あぁ、怖いのはこの俺ね。臭くて汚いけど我慢しな。」


 ふぁさっと生成りに近い色のものが私の視界を遮った。

 え、っと思う間もなく私はぎゅっとつかまれて、持ち上げられた。

 私は米袋のように彼に担がれたのだと理解し、心も頭も逃げるべきだと騒ぎ立てるが、体は恐怖によって完全に動かなくなっていたのだ。


 けれども彼は私の恐怖の実践などしなかった。

 私を診療所に運んで治療を受けさせただけでなく、新しい服まで買い与え、途方に暮れる私に未だ付き添っていてくれるのである。


「それで、どうする?帰る場所が無いんならさ、ひとまず俺の家においで。傷が癒えたら住み込みの仕事でも探せばいいしな。」


 なんと、嘘くさい笑顔を作ったその顔で、私の心がざわざわする声で優しい言葉までも掛けてくれるとは!


「あなたの家って、傷を癒しながらあなたに体で礼も?」


「そうしたいなら止めないよ。俺は悪徳警官ですからね。」


 そうしての半年後の今、であるが、不思議なことに彼は私に手を出したことはなく、私は仕事も探さずにずるずると彼の家でおさんどんをしている毎日だ。


「まるで、結婚前に思い描いていた新婚生活みたい。」


 畳んだばかりの乾いた洗濯物に、ぽとりと落ちた滴の染みが出来てしまった。

 ぽつ、ぽつと。

 玄関がガチャっと開き、彼が帰って来た事を知り、慌てて涙を拭い去った。

 それだけで次の涙が零れないのは、先ほどまでの悲しさなど彼の帰宅で払拭されてしまっている上に、胸の中が嬉しさでざわついているのだ。


「おかえりなさい。」


 刑事との暮らしは、まるで大きな外猫と住んでいるみたいな生活だ。

 家にいればだらだらと転がるばかりで、そして外に出ればいつ帰ってくるのかわからない。

 そしてふらっと帰ってきた癖に、食べるものがないと言って不機嫌になる。


 でも、気分を害しても、彼が私に手を絶対に上げることはない。

 猫みたいに恨めしそうにじとっと見つめるだけなのだ。


 私は笑いながらすぐに食事の支度にとりかかる。

 少しでも彼には長く家にいて欲しいからと。

 私は自然にできた微笑みのまま立ち上がり、彼を出迎えに台所に顔を出した。


「お帰りなさい。今日はこれでお終い?」


 彼はアパートの玄関口で座り込んでいた。


「どうしたの?」


 私に顔を上げた彼の顔は、初めて見る表情をしていた。

 疲れ切ったように目元も赤い。


「何か、あったの?」


「うん?戦死した戦友の妹が売春で生計を立てているようでね。俺はあいつを残して帰国したろくでなしだからね。まぁ、こんな話はどこでもあるよね。」


「そうね。それで、私が元気付けてあげましょうか。溜まっていたお礼もあるし。」


 彼は怒った顔つきとなった。

 憤懣のまま立ち上がろうとしたが、私がそれを許さなかった。

 無理矢理彼を押さえつけるようにして、私が無理矢理に口付けたのだ。


 私は命を求めるかのように、彼を激しく求めたのである。

 彼も私を求め、私は初めて得た幸せのように彼にしがみついた。


 私は明日にはこの家を出て行かなければならないのだから、せめて、今だけはという気持ちで。


 私は彼の言葉で、自分が娼婦であったことを思い出したのだ。

 普通の男であれば妻に望むことのない女だ。

 だから彼は自分から私を抱かなかったに違いない。


 あの日、父さん達と死んでいれば良かった。

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