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黒猫は金魚鉢をひたすら覗く  作者: 蔵前
五 竹ちゃんの実家
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か弱い女

 長谷が主張する「子供の取りかえ」を確認すべく、皆川一家が運ばれた安置所へ、子供の顔を知っているはずの我が母を連れて向かう事になった。


 弟の家の虫事件の際に、弟夫婦ではなく母が近隣住人に頭を下げて周ったのだ。


 その虫事件も、幸次郎の妻美佐子が母の評判を落すためにか後援会の藤枝と外山宛ての歳暮を隠し、そのままにしたが故に虫が家中に湧いたというものだ。


 歳暮の中身は鰹節であった。

 それを美佐子に突きつけようにも、逆に美佐子に母がした事だと泣いて近所に言って回られる可能性のほうが高いので、原因を見つけた俺は虫が湧いたその物を内々に一人で処分したのだった。


 ゴキブリも嫌だが、大量の死番虫やカツオブシムシに纏わり付かれるのも大変気持ちが悪い物だと思い知らされた。

 それも屋根裏と床下で、だ。

 駆除しても駆除しても虫が溢れ出して怖いと、弟が家を売るはずだ。


 実家前で車を止めると、俺は思わず隣に座る長谷に尋ねていた。


「長谷、見えない悪事を繰り返して被害者ぶる人には、どうやって対処するのが正しいのかな?どうやったら幸運を呼べるかな。」


「君が思いつかないの?」


 彼はそう言っただけで、さっさと車を降りて俺の実家に入っていった。

 黒いコートの長い裾をはためかせて実家に吸い込まれるように消えた男の姿は、幸運ではなく悪運の運び手の様である。


「おや、勝手知ったるだね。ふうん、彼は我が家にも来た事があるのだね。」


 ブッブーとクラクションの音に振り向くと、弟のルノーが俺の車の後ろに着いていた。

 俺は車を少し移動させて、彼の車が敷地内に駐車できるように譲った。

 すると乱暴に停車させ、車から降りた弟は俺に一瞥もせずに屋敷へと飛び込んだのだ。

 都議で立派な跡継ぎのはずの彼は、寝起きのようなぐしゃぐしゃの髪をして、青い顔で乱れた格好をしていた。


「どうしたっていうの?」


 俺も車を止めて車外に出たが、実家の玄関に向かうよりも初めて見た弟の狼狽の姿に実家を呆然と眺めてしまっていた。

 すると、俺の後ろに人の気配を感じた。


「あの。大丈夫なのですか?」


「大丈夫って、何が?」


 振り向けば俺に声をかけたのは隣の家の女中であり、彼女はそっと俺に週刊誌を渡した。

 表紙の見出しを確認した俺は空を見上げて気持ちの整理をつけると、その記事のページをそっと開いて読んだ。


「ありゃ、美佐子さん、あの藤建の若社長さんと浮気してたのね。これはまた。」


 物凄く期待した嫌らしい目つきの女中にチップと一緒に週刊誌を返して、これが竹ノ塚家の好機になるのかさらなる危機なのか判断付かないまま、俺はアプローチを歩いて玄関へと向かった。

 そして俺がようやく玄関をあがり廊下に足を踏み入れると、屋内から弟夫婦の騒ぎ声が聞こえてきたのだ。


 騒ぎが起こっているらしき部屋は母の元サロンで、近隣の皆様は中庭を挟んだサロンの向かいの客間に詰めて首を伸ばして夫婦喧嘩に聞き耳を立てている。


「察しの悪いあなたがいけないのでしょう。こんな事態になる前に私に財産譲って離婚をすれば良かったじゃないの。」


「何度も離婚の話し合いをしたよね。君に家を譲るって話し合いをした時も、アパートメントを借りて賃料は僕が払うからと離婚を君に伝えた時も、君は嫌だって、もう別れたからやり直したいってこの家に逃げ込んだのでしょう。」


「それが馬鹿だというのよ。あなたが浮気でもしてくれれば私が離婚できたのに。これじゃあ私一人が悪者じゃないの!」


 夫婦喧嘩とはこういう会話だったかと、一瞬理解できない美佐子の物言いに呆然としたが、まず俺はその客間に入り、客達を無言で押し退けながら部屋を横切ると、中庭側の障子をパシンと音を立てて強く締めた。

 それからくるりと振り向いて、客達を威圧的に見回して微笑む。

 まぁ、手に持っている杖をトンと畳に無意味な打ちつけもついでにしたが。


「お騒がせしてすみません。恥ずかしながらご覧の通り皆様にお構いが出来ない状態でございまして。申し訳ありませんが今一度ご自宅に戻られ、再度のご訪問を承りたいと存じ上げますが、如何でございましょうか?」


 俺の口上にハハハとかすかな笑い声を上げた彼らは、怯えた鼠のように一目散に客間を飛び出して帰っていった。

 後には食い散らかされた菓子皿と湯呑みが累々と座卓に残されている、空っぽの小汚い客間の姿だ。


「ここを片してくれ!」


 声をあげると新しい女中が出てきた。

 見覚えがあるようでない、南国の香りがする美人だ。

 物凄い美人であるが、物凄い美少女の千代子には似ていない。


「君は最近?名前は?」


「あ、ハイ。松本サキと申します。お屋敷には今月から。」


 彼女は俺に振り返りもせずに答え、一心不乱に部屋の片づけを始めている。

 指先はあかぎれもなく細くしなやかだ。

 テキパキと動く手が、田辺の無駄の少ない手つきと重なった。


「お兄さんてお茶をやっていたよね。君も?」


 ガチャンと飲みかけの湯飲みを倒したらしく、零れたお茶が座卓から畳にまで滴っている。


「すいません。すいません。」


 酷くびくびくしながら、彼女は俺に土下座するように謝った。


「いいよ。謝るよりも早く拭いて。」


 客間を片付ける彼女を後に、俺は母の元サロンへと廊下を歩きだした。

 ただの鉄でしかない、杖も持って。

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