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黒猫は金魚鉢をひたすら覗く  作者: 蔵前
三 千代子様
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新妻はなんだってするのだ

 昨夜は久しぶりに夫の、そう「おっと」と私が呼び愛する彼の声が聞けたのだ。

 左腕に傷跡が増えてしまったが、これは直ぐに塞がり消える傷だ。


 問題ない。


 それに夫の声が聞きたいからと敢えて怪我をして、純真な子供の心を傷つけたのだ。

 傷が残ったとしても私が悪いのだから、これは仕方が無いことだ。

 その上今回の事で耀子が夫を食事に招待しようとも言い出してもいる。

 私に恭一郎を会わせなければ、私が今後もわざと怪我をする状況を招くと、彼女は合点がいったのだろう。


 さすが裸一貫で敗戦後に財産を築いて富豪となった女だ。

 目端が利く。

 彼女は冷静になった後に気づいて、私にもの凄い目線を送ってきたのだと思い出す。


 それでもこれは私の白星だろう。

 私は恭一郎を手にするためなら何でもするのだ。


 私が夫に出会ったのは十一歳の頃。

 姉の婚約者と紹介されて、私はなんて素晴らしい男だと子供の癖に一目惚れしてしまったのだ。


 涼やかな秀でた額に形の良い鼻や口元。

 そして印象的な目は優しく微笑む。

 彼は少々痩せぎすだがそこは別にかまわない。

 体に残る痣も指が三本しかない右手も、どうでもいいくらい、私には彼が美男子で愛すべき男なのだ。


 彼は来年の三月二十五日に三十歳になる立派な大人でもあるが、悪戯が大好きな悪い大人でもある。

 そして私を幸せにしようと必死だ。

 私は彼が側にいるだけで幸せそのもので在るというのに。


 よって、彼に会えない私は今や不幸のドン底だ。

 普段であれば飛び出して彼の元に戻ってしまうが、私のお腹に入り込んだ悪魔を大事に育てなければならないのだから仕方がない。


 つわりという悪阻が東京に戻った頃から始まって、今はどんな食べ物の臭いを嗅いでもトイレに直行だ。

 乳房まで少し脹れて痛い。

 あぁ、お腹がぽこぽこして、まるでお腹の中で金魚が泳いでいるようだ。


「更紗、レアチーズケーキなら食べれるかしら。レモンの風味を強めに甘さは控えめに作ってみたのよ。」


 カシミアのセーターにロングスカート姿の耀子が盆を持って私の部屋に入って来た。

 フンワリとさせた豊かな長い髪を下ろし、ワイン色のセーターを着た彼女は年齢を感じさせない美女だ。

 少々釣ったアーモンドアイの大きな瞳は優美に輝き、その笑顔は、亡くなった実母が生きていればきっと私に向けただろう、優しい母親の表情でしかない。


 相良は私の父が犯罪に巻き込まれて行方不明の頃に知り合い、事情を知って私の保護者となってくれた大恩ある女性だ。


 そして、彼女が養子にした相良誠司。


 戦災孤児の彼は同じ境遇の仲間を集めて白狼団なるものを作っていたが、私の境遇を知ると仲間に入れて、その上彼の妹として守ってくれた優しい男だ。

 彼は大柄で厳つい雰囲気であるが、元々整った顔立ちにスタイルもよく、その気になれば簡単に女性を虜に出来る男でもある。


 あんな素晴らしい男が自分の保護者になったのだ。

 あの千代子という子供は、私に彼を奪われまいと必死だったのだろう。


「更紗、それで食事会にはあの子も呼びたいのだけれど、大丈夫?」


 全てわかっている顔で、耀子は私にケーキを差し出しながら尋ねてきた。


「恭一郎に会えるなら、私はもう悪さをしないから大丈夫よ。」


「あの子に私達は謝らないといけないわね。」


 耀子は私の血を見て、咄嗟に千代子を叩いてしまったのだ。

 叩いたのは顔ではなく手でしかなかったが、幼い子供に手を上げた事の無い女性はそんな自分の行動に狼狽し、そして酷く落ち込んだ。


 けれど、そんな彼女の落ち込んでいる姿を目にしても、全く後悔の念が沸かない私はロクデナシだ。


 誠司には「酷い奴」だとよく叱られる。

 私は誠司を思い出しながら自然とふふっと笑いが出た。

 耀子のケーキが悪阻を招かず喉を通り、ホットレモネードに幸せを感じているのだから尚更だ。


「ママ、気にしないで。悪い子は叩かれて当たり前ですから。」


 私は最近彼女をママと呼ぶ。

 結婚して竹ノ塚百花たけのつかももかが義母となり、私は彼女を「おかあさん」と呼ぶ。

 彼女も私を娘扱いしてくれる素晴らしい人だ。

 けれど、耀子は孤児に近い私の母親であったのだ。

 彼女を「母」と呼ばずになんとする。


 私はそれで恭一郎と婚約した頃から、耀子を「ママ」と呼ぶようになったのだ。

 初めて耀子をママと呼び、理由を話したら泣かれてしまったが。

 耀子は戦争で夫と三人の息子を亡くし、娘は戦後に男手を失った家になだれ込んできた暴漢達に乱暴されたがために自殺してしまったのだ。


 彼女の娘はその時、私が彼女と出会った時と同じ十四歳であったという。


「更紗?」


 幼い子供に対抗心丸出しの私に、耀子はいぶかしげな顔を見せた。

 私はあの少女の顔を思い出した。

 彼女が耀子に叩かれると、咄嗟に誠司は彼女を抱き上げて庇ったのだ。

 すると、誠司にぎゅっと抱きしめられた彼女は、私を見返してニヤっと笑ったのである。


 あの小悪魔め。


「だって、あの子は誠ちゃんは私の方が好きって、私に喧嘩を売ったのよ。」


「それで、あなたは何て答えたの。」


「誠ちゃんは今も昔も私のものよって。」


 子供を叩けなかった女性は私の頭をパシっと叩き、大きな溜息を出した。


「私はあの子に叩いたことを謝まらなければ。この、馬鹿娘。」


「じゃあ。ママがあの子に同じ事を言われたら、ママはどう返すの?」


「誠司が最後に選ぶのは私よって。」


「酷い、ママの方が酷い!」


「あら、そうね。喧嘩を売られたのならば謝る必要はないわね。」


「その通りだわ、ママ。」


 私達は顔を見合わせてニンマリと微笑みあった

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