プロローグ1/2
祖父の遺言状に記されていた、私の婚約相手の名を聞いた時、我が耳を疑った。
「お兄様、嘘でしょう?」
驚きに目を見開いたまま兄に問えば、難しい顔のまま、ゆっくりと口を開く。
「冗談でも言える訳がないだろう?これを読めばわかる」
相次いで両親を流行病で亡くした私たちの後見人として、祖父は今までずっと陰日向に私たちを守ってくれていた。
その祖父が遺した遺言状に書かれていたのは、私と、社交界でその名を馳せる、アレクセイ・ヴェッヘンバウアー伯爵との婚約だった。
*****
祖父の遺言状を読ませてもらった私は、ソファの背もたれにぐったりと寄りかかった。いつもは口煩い兄も、その様子を見ても何も言わなかった。
ーーー当然だ。
ヴェッヘンバウアー伯と言えば、その麗しい見目と共に、華々しい噂は社交界を駆け巡っている。
どこそこの未亡人と懇意にしている、だとか。どこぞの大商人の娘と観劇していたのを見た、だとか。主に女性関係ばかりが目立ってはいるものの、政治面でも宰相閣下から一目置かれている、という話だ。
そんな善きにつけ悪しきにつけ、常に社交界の噂の的となっている御仁と『婚約』とはーーー。
いっそ、この遺言状は無かったことにして、丸めてポイっとすることは出来ないのだろうか……?
口には出さなかったが、そんなことを考えている私の顔をじっと見ていた兄はゆっくりと頭を振った。
「大方、これを無かったことに出来ないだろうかと考えているんだろうが、それは出来ない。なぜなら、この遺言状と共に、国王陛下のご署名付きの婚姻約定書があるのだ。この文書を許可なく破棄でもしてみろ、どうなるかわかっているだろう?」
ーーーぐっ……バレてる……。
青い顔をした私に、心底気の毒そうな視線を寄越しながら、兄は断言した。
「結婚式は来年になる、それまで婚約者殿と親睦を深められるように努めるしかないだろう……せめて三年、頑張ってくれないか。三年経って、それでも無理なら帰ってきても良いぞ」
祖父が亡くなったのが先月、一年喪に服して明けたら結婚式という意味だーーー。
頭がクラクラしてくる。
「お兄様、そのお言葉、文書にして署名してくださいません?」
「……アデリーヌ、そこまで言うか?」
「ええ、後でそんなことは言ってないと言われたら、私はこの家に帰って来られないではないですか?三年も我慢せねばならないのですよ?」
「そうとも限らんだろう、もしかすると、夫婦となれば上手くい……」
「ありえません!」
兄の言葉をぴしゃりと遮って憤然と立ち上がる。
「とにかく!三年経ったら戻ってくるのですから。文書に残してくださいね!」
私は兄に捨て台詞を吐くと、そのまま執務室の扉を乱暴に開けて廊下に出た。
廊下で待っていた私付きの侍女、ライザが、一瞬目を泳がせてから私の後ろに控える。
あれだけ大声を出していれば、聞こえていたのも仕方ないだろうと小さくため息を吐いた。
それにしても遠い昔の、祖父と今は亡きヴェッヘンバウアー元伯である親友の約束が元だというのは理由としてわからなくはないものの、世俗に疎くはなかったはずの祖父が、なぜあんな遺言を遺したのか、私にはさっぱりわからない。
遺言が【絶対】ならば、三年我慢するか、相手から断られるように仕向ければ良いだけだが、どちらのほうが我が家にダメージが大きいのだろうか……自室へと向かいながら、この降って湧いた災難に、どう立ち向かうのが最善なのか、考えていた。
*****
私はアデリーヌ・シュトラーゼ、家は子爵位を賜っている。
今年17歳になったばかりで、刺繍やダンス、礼儀作法は不得手、乗馬や剣を嗜むのは祖父からの影響で、お陰で令嬢として許されるギリギリ程度に日焼けしてしまっている。
だから、兄はどう思っていたかは知らないが、到底嫁ぎ先があるとも思っていなかったし、嫁げたとしても所謂名門貴族などとは無縁だと思っていた。
それが、なぜ?!ーーーよりによってヴェッヘンバウアー家なのだ……全くもって災難としか言いようがない。
ヴェッヘンバウアー家と言えば、現当主のアレクセイはスキャンダラスな人物ではあるが、王家の血筋も入った名門の家名である。何代か前の当主に、何番目かの王女殿下が嫁いだとかなんとか聞いたことがある。
自室に戻ってソファに座り、ぼんやりしているとライザが紅茶を運んできた。
「お嬢様、最近流行しているハーブティーという飲み物です、疲れていらっしゃる時に良いそうですよ?」
変わった香りに訝し気な顔をしているのを気付いてか、ライザが言い添えた。
「そう、ライザは物知りね……物知りついでに聞きたいのだけれど」
「なんでしょうか?」
「ねえ、婚約破棄されるのと、出戻るのと、どっちが私のダメージが大きいと思う?」
「え?!そ、それは……その……」
ライザが目に見えて狼狽えるので、思わず笑ってしまった。
「執務室でのやり取り、聞こえてたんでしょう?あれだけ大声を出せば、聞こえていても不思議じゃないわ、だから、率直な意見をお願い」
「そう、申されましても……」
ライザはしどろもどろになっているが、私は知っている。ライザが恋愛小説が大好きで、侍女仲間と男女のあれこれについて、しょっちゅう話していることを。
「お願い、ライザの意見を聞かせてちょうだい?」
私が小首を傾げると、ライザは観念したとばかりに重い口を開いた。
「率直に申し上げてよろしいのですか?」
「ええ、ええ!もちろんよ!」
私がソファから身を乗り出すと、ライザは神妙な顔をしつつも目をキラキラと輝かせて口を開いた。
「社交界でのヴェッヘンバウアー様のお噂は、私達、下々の者にまで届いております。お嬢様がどの程度ご存知かはわかりかねますが、お噂になるお相手のご婦人方が……」
そこまで言って、ライザは伺うように私の顔を見る。
「どうぞ、続けて?」
「あのー……本当によろしいんでしょうか?率直に申し上げて」
ライザは前掛けの裾を指先で弄びながら、上目遣いで私の顔をじっと見る。
「ええ、もちろん。あら、お相手のご婦人方が、それはそれは美しい方々で、とでも言うつもりだったんじゃないの?……私に遠慮は無用だわ、続けて、お願い」
再度、言質を取ったことで安心したのか、そこからは澱みなく意見を述べる。
「では、恐れながら。お噂になる方々は、いずれも蝶や宝石に例えられるほどお美しい方々ばかりで、嫋やかな方や艶やかな方、バラエティに富んでいらっしゃるとか。それでヴェッヘンバウアー様のお好みは一体どんな方なのだろうかと、そちらも年頃のお嬢様の間では大きな関心事なのだそうです。アデリーヌ様が決してお好みではないということではないと思いますが」
「そんな慰めはいらないわ、自分のことは自分が一番良く知ってるもの」
「はぁ……そうですか……」
ライザなりに気遣ってくれるのは嬉しいが、私自身がよくわかっているのだ。あのヴェッヘンバウアー伯爵のお眼鏡に叶うわけがないことぐらい、百も承知だ。
私が目線で先を促すと、ライザは気を取り直し、続ける。
「それで、『ダメージ』ということですが……嫁いでお戻りになられますと、やはりお世継ぎに恵まれなかったことに原因があるのではと勘繰る向きも出てきますので、ご結婚前に、その、お約束を無かったことにされるのが、よろしいのではないかと……思う……のですが……」
段々と尻すぼみに声が小さくなっていくライザだったが、私はにっこりと微笑んだ。
「ありがとう、ライザ。とても参考になったわ」
「あの、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なにかしら?」
「まさか、とは思いますが。お嬢様、婚約破棄をされるようになさるおつもりでは……」
「そうね、ライザも言ってたけど、離縁されるより、破棄されるほうがいいような気がするわ」
「ええっっ!!まさか、本当にそうされるおつもりですか?!」
「心配しないで、ライザのせいではないから」
「ですが……」
ライザはオロオロしてあちこちに視線を彷徨わせているので、私はゆっくりと立ち上がり、ライザの手を包み込んだ。
「いいのよ、私はヴェッヘンバウアーの奥方になれるわけがないのだから、ライザのせいではないの。だから気にしないで、本当よ?」
私がライザの顔を覗き込んでウィンクすると、ライザはようやく落ち着いたようだった。
「でも、一つだけ約束してくれる?」
「は、はい!」
「ここでの話は二人だけの秘密、ね?」
「も、もちろんです!誰にも言いません!」
こうしてライザを共犯者に引き込んだ私は、その日からどうしたら婚約破棄されるのか、ライザと作戦会議を重ねることになった。
まず、ヴェッヘンバウアー伯爵がこの話を認知しているのかどうかを確かめねばならない。もしかしたら、祖父が先走って陛下に署名を頂いただけで、肝心の相手がご存知ではない可能性もあるからだ。
まず、数多の夜会に出席しているヴェッヘンバウアー伯爵はともかく、最低限の夜会しか出席しない私にはほとんど招待状の類もやっては来ないので、ヴェッヘンバウアー伯爵にどうやったら会えるか、ということから検討せねばならなかった。
本来ならば祖父の喪が明けるまでは夜会の類も欠席しなければならないが、現当主ではないので、そこまで形式に縛られなくともよいらしい。そこで、縁戚の爵位持ちの中でも特に羽振りの良い男爵家で夜会が行われるとのことで、義姉の弟が出席するのにかこつけて、連れて行ってもらえることになった。
「お義姉様、お手を煩わせてしまって申し訳ございません」
「アディはもう少し社交をしたほうがいいと思っていたぐらいだから、私は嬉しいのよ。エスコートは弟がしっかり勤めてくれるはずだから、遠慮なく楽しんでくるといいわ」
あの兄がこんな素敵な義姉を捕まえてきたことは驚くべきことなのだが、どうも兄の猛アタックに義姉が絆されたのが真相らしい……夜会に行く馬車の中で、義姉の弟であるオットーから教えてもらった。
オットーにエスコートされて馬車を降り立った私は、その煌びやかなお屋敷に圧倒されてしまった。
17歳という年齢の割に、全く夜会慣れしていない私は、捕まっているオットーの腕に思わずしがみつく。その手をポンポンと緩やかに叩いて、小声で「大丈夫だ」と言ってくれたお陰で、少し呼吸が楽になる。
今日はオットーの連れ、ということで招待されているので、玄関口で私の名が高らかに告げられることはなく、ゆっくりとメイン会場に入ると、そこには色とりどりのドレスの花が咲き、楽団のゆったりとした調べに合わせてダンスを楽しむ者、グラスを合わせて談笑する者、思い思いにこの時間を楽しんでいる。
通りかかったウェイターからドリンクを受け取ったオットーが私にも手渡してくれる。
「さて、ヴェッヘンバウアー伯爵も招待されているはず、だけど……まだ来ていないようだね」
そう、噂ではよく聞いていたのだが、私はヴェッヘンバウアー伯爵の絵姿を見たことがないので、どの人物がそうなのか、全くわからないのだ。祖父は肝心なところが抜けている、と内心悪態を吐いていた。
そんなことを考えながら、踊る人々をなんとはなしに眺めていると、玄関で高らかにファンファーレが鳴り「ヴェッヘンバウアー伯爵ご到着ー」と告げる声が響いた。
途端にご令嬢方の視線が会場の入り口に集まり、私もそれとなくそちらを眺めていると……。
金の髪は光を受けてキラキラと輝き、その体躯は細すぎず太すぎず、すらりと伸びた長い手足が優雅に歩を進めると、どこからともなくほう……というため息が聞こえてくる。
傍らにはブルネットで陶器のような白い肌、ぽってりとした紅い唇が艶めかしいご婦人を伴っている。
そして遂に私の目の前をその人が通り過ぎーーー。
呆然とすること、しばし。
はっきりとわかった、私はお呼びではないと。
これほど、神に愛された人はいないのではないかと言うほどの、神々しさを纏った顔貌を持った人間を見たことがない。彫りが深いが、嫌みなほどではなく、凛々しい眉のカーブは完璧だ。そしてその瞳はこれまた宝石で出来ているのではないかと思うほど美しい碧。微笑を称えた唇も薄すぎず厚すぎず、もう人間ですらないのではないかと思うほどだった。
オットーが食い入るように見つめている私の背中にそっと手を当てる。
「彼がヴェッヘンバウアー伯爵、アレクセイ殿だ。ご感想は?」
「……神に愛されし方、ですわね。私など、到底お呼びではありませんわ」
その言葉を聞いたオットーがクスクスと笑う。
「お呼びでないなんて、そんなことはないと思うよ?アデリーヌ嬢は、健康的で溌剌としていて……」
そのまま続けようとするオットーの腕をグッと掴む。
「オットー様、結構です。自分で自分のことぐらい、承知しておりますから」
思った以上に力を込めてしまっていたのか、オットーの顔がやや顰められたので、力を緩めて俯いた。
私にはあの方の奥方など務まらない、絶対に無理だと、心に刻み込む。
「オットー様、申し訳ありませんが、私、気分が優れませんので先に失礼してもよろしいでしょうか?」
私の申し出にオットーが驚いた顔をしている。
「あ、アデリーヌ嬢、まだ来たばかりだよ?ああ、休憩室を借りたらどうかな、ちょっと待ってて」
「オットー様!」
私の呼びかけも虚しく、オットーは使用人に身振り手振りで説明しているようだ。
仕方なく、使用人の案内で男爵家の一室を借りることになった。
だが、ドレスを着ているのでベッドに潜るわけにもいかず、息を吐いてソファに凭れると、先ほど会った神々しい男を思い浮かべ、頭を振った。
あんな人の婚約者であることすら、苦痛だった。目の前を通り過ぎて行ったということは、向こうもこちらを知らないし、『婚約』自体を知らない可能性が高い。やはり、これは兄に頼んで国王陛下に破棄して頂けるようにお願いするしかない、と考えが纏まったが、あまりにも衝撃が過ぎたのか、頭がぼんやりとしている。
普段の私であれば、絶対にしないだろう、部屋にあった葡萄酒をグラスに注ぎ、ぐぃっと煽った。途端に喉がカッと熱くなり、そのまま食道を下りていき……うっかりしていた、軽食ぐらい摘まんでおくのだった……と思った時には、すでに瞼がくっついていた。