ーお忍びの旅ー
ジリジリと鉄板で焼かれるような暑さの中、鴻夏は馬に揺られながら、本日何度目かの弱音を吐いていた。
「も…無理…」
「何を甘えた事を言ってるんですか。まだ出発して二時間も経っていませんよ」
呆れたようにそう答える牽蓮が、本当に鬼のようだと鴻夏は思う。
結局 鴻夏の一世一代の脱走劇はあっさりと失敗に終わり、鴻夏は花胤に戻る事も出来ず、何故か花嫁一行とも別行動で、今 砂漠のど真ん中を牽蓮ら三人と旅していた。
すでに正体がバレてしまっているため、特に変装もしていないが、服装だけは旅をしやすいよう男の子の物のままである。
そして今、鴻夏ら四人は何故か堂々と公道を外れ、一面何の目印もない砂漠のど真ん中を突っ切るような無茶な行路を進んでいた。
正直今何を目指してどこを進んでいるのかもわからないが、多分最終的な行き先は同じ風嘉の皇城なのだろうなとは思う。
だが何故わざわざこんな無茶な行路で、旅をしなければならないのか…やる事があまりにもぶっ飛び過ぎていて理解に苦しむ。
ただ鴻夏以外の三人はかなり旅慣れしているようで、この燃えるような暑さの中でも特に何の問題なくサクサクと進んでいた。
しかしこれが初旅となる鴻夏が、旅慣れしている彼等と同じ速度を保てるわけもなく、気がつくと自然と一行から遅れがちとなる。
そしてその度に、鴻夏は牽蓮に窘められる羽目になっていた。
そして本日すでに何回目かもわからない牽蓮の注意に、ついに鴻夏がキレたのである。
「あのね!私はあんた達と違って、旅なんてした事もないのよ?最初からあんた達と同じ速度で移動するなんて出来るわけないじゃない!」
「…それはこちらも考慮しないでもないですが、それでも姫は遅すぎなんですよ。下手に逸れられると面倒ですし、第一この進み具合では夜になっても次のオアシスまで辿り着けません」
いきなりバッサリと容赦なく言い切られ、鴻夏はグッと言い澱む。
自分が皆の足を引っ張っている自覚はあるが、だからと言って何も自分も好き好んでこんなキツい行路を進んでいるわけではない。
もっとマシな道ならば、自分だってここまで足を引っ張らないはずだとは思うが、何故か行路に関しては牽蓮が頑として譲らない。
どうも彼にはどこか寄りたい場所があるようで、花嫁一行と行動を共にするとその場所を通らないから、こうしてわざわざ別行動しているようだった。
…しかし問題なのはそこではない。
その牽蓮の行きたい場所とやらに、何故自分まで付き合わないといけないのか…?それが納得いかないのである。
そこに行かなくてもいいのなら、こんな強行軍で進む必要もなく、皆の足を引っ張る事もなくなるのだが、それに関してはずっと牽蓮に却下され続けていた。
結論から言うと牽蓮の行きたい場所に、鴻夏も連れて行く事が本来の目的のようである。
その理由までは知らないが、何も知らない鴻夏にしてみればいい迷惑な話であった。
そしてイライラしながらも馬を進めていると、それを見兼ねたのか、總糜がスッと馬を寄せて話しかけてくる。
「まぁまぁ姫さん、そんなに怒らないでよ。せっかくの可愛い顔が台無しっすよ? 主もあれで特に悪気があって言ってるわけじゃないんだし…」
「…あれでわざとだったら、もうすでに一発殴ってるわよ?」
物騒な事を言ってのける鴻夏に、おやおやと言わんばかりに總糜が尋ねる。
「あらら、実はもう結構キテます?」
「当たり前よ!何なの、あいつは⁉︎昨日はちょっといい奴かと思ったのに」
ブツブツと文句を垂れながら、怒り散らすと總糜は少し困った顔をしながらこう答える。
「あー…まぁ主もちょっと言葉足りないっすよね。でも主のやる事には全部ちゃんと意味があるはずなんで、悪いけど最後まで付き合ってやってくれないっすかね?」
まるで親しい友人を庇うかのような口振りに、鴻夏はふと興味を惹かれた。
そしてこの機会に、湧き上がった疑問をそのまま相手にぶつけてみる事にする。
「…昨夜も思ったけど、貴方達って随分親しげよね?」
「まぁ…普通の主従関係とは違うっすね」
「普通とどう違うの…?」
何気なく聞き返した言葉だったが、聞かれた總糜の方は困ったような表情でこう答えた。
「…姫さん。俺らみたいなのはね、お偉いさんにとっては使い捨てが普通なんすよ。でもうちの主は冷徹に見えて、実は身内にもの凄く甘い人なんす。それこそお偉いさんなのに、俺らみたいなのも見捨てる事が出来なくて、命張って自ら助けに来ちゃうようなお馬鹿さんなんすよね。…だから立場上は主従なんすけど、俺らにとってあの人はかなり特別な存在なんすよ」
衝撃的な言葉だった。
皇族が『影』と呼ばれる忍達に守ってもらうのは当然の事だと思っていたが、まさかその彼等が使い捨て同然の扱いを受けているとは知らなかった。
そしてそんな彼等を、牽蓮が家族のように大事にしている事も…。
『…優しい人…なのかも…?確かに私も昨日から何だかんだで世話になってるし…』
ふと気づけば鴻夏は昨夜からずっと、牽蓮に助けられっぱなしなのである。
今も自分を見捨てて行く方がよっぽど楽なはずなのに、文句を言いつつもちゃんと皇都まで連れて行こうとしてくれている。
大体 鴻夏のような砂漠を知らないド素人が、こんな場所で一人 逸れたら、間違いなく渇き死にするか獣か盗賊に襲われて殺されるかのどちらかしかない。
だからそうならないよう、口煩く注意してくれている牽蓮は、実はかなりの世話焼きなのかもしれないと今になって鴻夏は思った。
そしてその事に一旦気づいてしまうと、今まで上辺だけ見て一人で怒って拗ねていた自分が急に恥ずかしくなってくる。
仕方ない、もう少しあの男に付き合ってやるか…と鴻夏が少し照れながらも、諦めたようにそう思った時だった。
バサッという大きな音と共に、目の前の光景が一面真っ白になった。
そしてふわりと何かに包まれる感触がして、白一面の光景が消え去ると同時に、その影から牽蓮の顔が覗く。
いつの間に目の前に来ていたのかと、驚いて声も出ない鴻夏に対し、牽蓮はまったく動じる事なく淡々とこう告げた。
「…陽射しが強くなってきました。姫が今お使いの外套では防ぎきれないと思いますので、どうぞこれをお使いください」
「…あ、ありがとう…」
「いえ、それより急がないと。この辺りは夕方になると砂嵐が起こりやすくなります。荒れ始める前に次のオアシスまで辿り着かないと、皆の身に危険が及びます」
そう言いながら、丁寧に鴻夏に外套を巻いてやると、牽蓮は再び何事もなかったように前を向く。
ある意味、事務的とも取れる態度だったが、それでも鴻夏は気付いてしまった。
牽蓮が自分に着せてくれたこの外套は、おそらく彼が鴻夏の為にわざわざ用意してくれた物だ。
何故ならその外套は、派手な模様こそないものの、誰がどう見ても明らかに女性物で、しかも裾に細かな金糸の刺繍が施されたかなり上等な物だった。
そして彼は先程、夕方になると砂嵐が発生する危険性があると言った。
つまり朝から口煩いくらいに鴻夏を急かしていたのは、彼なりに鴻夏の身を案じての事だったのだとふいに理解出来たのだ。
『なんだ…単に不器用なだけで、実は良い人なんじゃない』
気付いた途端、自然と鴻夏に笑みが溢れる。
それを鋭く見逃さなかった總糜が、こっそり鴻夏にだけ聞こえる声でこう囁いた。
「…ね、だから言ったでしょ?うちの主は身内に激甘なんすよ」
「私も…身内に入れて貰えてるの…?」
「もちろん。だって姫さんは、風嘉帝の妃になる人だからね」
そう言われた途端、何故かチクンと胸のどこが痛むのを感じた。
『…そう…か。私は彼にとっては、主君の妃になる姫。だからこうして無条件に大事にしてくれてるのね…』
つい先程までの暖かい気持ちが急激に萎んでいくのを感じながら、鴻夏は一人足元に視線を落とした。
牽蓮が自分にも優しいのは、単に主君への忠誠心の表れに過ぎないのかと思うと、なんだかとても惨めな気分だった。
…ここに居る嘉魄や總糜は違う。
彼等はちゃんと、牽蓮に彼等自身の事を大事に思われている。
だが自分は花胤の姫という立場がなければ、彼にとって何の価値もない人間だ。
そう思うと、まるで自分だけが異分子だと言われているような気がして、鴻夏はひどく哀しくなった。
そしてそれっきり、鴻夏は總糜とも話す気分になれず、そのまま無言で馬を進める。
總糜もそんな鴻夏の気配を察したのか、付かず離れずの距離を保ちつつも、それっきり何も話しかけては来なかった。
そして元々が無口な嘉魄と何を考えているのかわからない牽蓮、相変わらず賑やかに鴻夏以外に話しかけ続けている總糜の姿を見ながら、鴻夏は黙々と旅路を急ぐ。
その甲斐あってか、初心者にはかなりキツい速度での旅ではあったが、陽が沈み切る少し前に、鴻夏ら四人は何とか小さなオアシスに辿り着く事が出来た。
そしてその夜、鴻夏はまた初めての体験をする事になるのである。
満天の星空の下、小さいながらも緑豊かなオアシスで、鴻夏は一人固まっていた。
目の前にはいつの間に組まれたのか、大きめの焚き火が煌々と揺らめき、ぐつぐつと鍋の中身を煮え立たせている。
その横には白い大きな布を張って作った簡易天幕が立ち、拾い集めた石を積んで作った簡易の竃では、小さな薬缶がシュンシュンと賑やかに湯気を沸き立たせていた。
その平和な光景を見ながら、鴻夏は思わず呆然と立ち尽くす。
着いた時にはまったく何もなかったはずなのに、自分が少し離れている間に、その場はまるで魔法のように居心地のいい空間に作り変えられていた。
その事に純粋に驚くと共に、鴻夏は何もしなかった自分が恥ずかしくなる。
思えばこのオアシスに着いてからというもの、牽蓮等は何もした事のない鴻夏を放置し、それぞれが何かの作業をしていた。
実は鴻夏も何か手伝おうとは思ったのだが、それを言う前に牽蓮に『先に水浴びをしてきてください』と大きめの布を渡され、一人湖へと追いやられたのである。
そして言われた通りに、旅の汗と埃を落として戻ってみると、もはや現場はこの通りで、鴻夏は自分一人が何もしなかった事が気まずくてしょうがなかった。
『聞いてないんだけど…』
最初に頭に浮かんだのは、それだった。
いくら自分が世間知らずの姫とは言え、さすがにこれはないと思う。
自分が呑気に水浴びをしている間に、彼等はテキパキと焚き木を集めて焚き火を起こし、その合間に簡易テントを張ったり料理の下ごしらえなどもして、あっという間に今夜の寝床と夕食を完成させてしまった。
皆疲れているはずなのに、文句一つ言わずに作業をして、水浴びから戻ってきた鴻夏を暖かく迎えてくれる。
「あ、姫さん、お帰り〜。ちょうどもうすぐ夕飯が出来るよ」
そんな鴻夏の気持ちも知らず、總糜が明るく声をかけた時だった。
「おや?ちょうど良かったみたいですね」
ふいに後ろから牽蓮の声がした。
びっくりして振り返ると、そこにはいつの間にか両腕にたくさんの果物を抱えた牽蓮が立っていた。
「牽蓮殿っ⁉︎…え、果物??」
「…ああ、はい。ここのオアシスに結構 自生してるんですよね。姫は何がお好きです?」
ニッコリと微笑みながら牽蓮が言う。
それに何か返答する前に、總糜がその場に強引に割って入ってきた。
「ちょっと主〜?勝手に一人でフラフラしないでくださいよ。主に何かあったら、俺と嘉魄のせいになるんすからねっ⁉︎」
「ああ…ごめん、ごめん。でもほらここは小さいオアシスだから、他の旅人も居ないみたいだし…」
少しバツが悪そうに牽蓮がそう言うと、總糜はチチチと指を振りながら、すかさずこう答える。
「ダメっす。そう言って前もフラフラ歩いて盗賊に襲撃されたじゃないっすか」
「あー…そうだったかな?」
「そうっすよ。もうホントに勘弁してくださいよ。あの時は最終的に黎鵞にその事がバレて、俺 一ヶ月ぐらいマトモに口聞いてもらえなかったんすから…」
ぶつぶつと文句を垂れる總糜の言葉に、鴻夏が思わず反応した。
「黎鵞…?誰なの、その人…?」
思わず初めて聞いた名を復唱すると、ピタリと牽蓮と總糜の動きが止まる。
もしかして聞いちゃマズかったのかな…とも思ったが、すぐに牽蓮が説明してくれた。
「…崋 黎鵞、風嘉の氷の宰相殿です。ここにいる總糜は、実は黎鵞殿の専属の影なんですよ」
「えっ⁉︎總糜って牽蓮殿の忍じゃなくて、風嘉の宰相様の専属なの⁉︎」
「そうっすよ〜。こう見えて俺、結構優秀なんすよね」
しゃあしゃあと得意げにそう言ってのける總糜に、牽蓮が余計な一言を付け足す。
「まぁ元々、總糜は黎鵞殿が連れてきた忍ですしね。その事もあって、總糜は黎鵞殿にだけは頭が上がらないんですよね」
「ちょっ…主、余計な事まで教えないで」
少し赤くになって照れている總糜に、鴻夏は思わずおや?と思う。
確かにこの反応は、初めて見る總糜だ。
今までふてぶてしいやらチャラチャラしてるわで、忍にしてはやる気があるのかどうかも怪しい感じだったが、それも牽蓮が本来守るべき主人ではなかったからなのかと思うと、少しだけ納得する。
そして納得すると共に、新たな疑問が湧いてきた。
「あれ…?總糜が宰相様の専属の影なら、今 宰相様は一体誰が守ってるの?」
さすがに放ったらかしという事はないとは思うが、守るべき主人の側を離れてまで、何故 總糜がここに居るのか?という疑問もある。
しかしそれに対し、牽蓮は実に曖昧な返事を返した。
「…ちゃんと代わりの忍が付いてますよ。大丈夫、ほぼ四六時中一緒に居るはずなので、總糜がここに来ていても彼の身は安全です」
「ま、俺に比べたら、かなり頼りない奴っすけどね…」
ちょっと不満そうに總糜がそう付け加える。
それに対し、珍しく寡黙なはずの嘉魄がボソッとこう呟いた。
「…お前の場合は、相手が誰だろうと気に喰わないだけだろう」
「ちょっ、嘉魄のオッサン!普段無口なくせに何でこんな時だけ参戦してくんの⁉︎」
思わぬところからの横ヤリに總糜が焦ってそう言うと、嘉魄はそれには答えず、また黙々と焚き火に小枝を追加する。
どうも言うだけ言っておきながら、總糜の質問には答える気がないらしい。
その勝手気儘な態度に、さすがの總糜もカチンときたのか嘉魄に対して怒鳴り続ける。
「ちょっと?無視すんなよ、オッサン!」
「まぁまぁ、總糜。嘉魄は事実を言ったまでだし」
返事をしない嘉魄に代わり、ポンッと總糜の肩に手を置きながら、牽蓮がにこやかにそして問題とは少しズレた答えを返す。
そんな牽蓮に対し、總糜は振り返り様に掴みかかりながら、弾丸のように話を続けた。
「もー、また主はそうやって嘉魄の味方ばっかする!いくら俺が黎鵞の専属だからって、冷たくないっすか⁈」
「いや、そういうつもりはないんですけど…。でも總糜の黎鵞至上主義は、今に始まった事でもないですしねぇ…」
襟元を軽く掴まれながらも、あくまでもにこやかに牽蓮が答える。
それに対し、はぁ〜っと派手に溜め息をつくと、總糜は諦めたように手を離した。
「…もういいっす。どうせ俺は主にとってはオマケっすから。それよりあいつ…ホントに大丈夫だろうな?黎鵞の髪一筋でも傷つけてたら、マジでただじゃおかないからな」
愚痴の後半が、何気に代理の忍に対するものだという事はさすがに鴻夏でもわかった。
どうも牽蓮らの言う通り、總糜の自分の主人に対しての思い入れは半端ないようだ。
それに対し、牽蓮は呑気にこう答える。
「ま、大丈夫じゃないかな?確かに嘉魄や總糜に比べたら頼りないかもしれないけど、彼もそれなりに優秀だよ」
「どうっすかね?ま、こっち来る前に散々 脅しておいたから、多分俺が戻るまで死ぬ気で警護はすると思うけど」
何気に物騒な事を言う總糜を横目に、取ってきた果物を皿代わりの大きな葉の上に並べながら、穏やかに牽蓮が語る。
「…そんなに虐めないであげてくれないかな?彼 打たれ弱いんだから」
「えー、一番ひどいのは主っしょ?あいつ毎回もう嫌だって言ってんのに、いつも身代わりにしてんじゃん?重圧でおかしくなりそうって、毎回死にそうになってるっすよ」
「あ、そうなんですか?それは悪かったですねぇ」
のほほんとそう答えながら、果物をすべて並べ終わった牽蓮が立ち上がる。
そして話についていけずに困っていた鴻夏に向かい、牽蓮は唐突にこう言った。
「さて、姫。夕食の用意も整った事だし、皆で食事としましょうか」
焚き火の灯りを背後に受けながら、薄闇の中でニッコリと牽蓮が微笑んだ。
パチパチと火の爆ぜる音を聞きながら、鴻夏は薦められるままに、手渡された木の器に盛られた汁物に口をつける。
「!美味しい…」
思わず溢れた本音に、それを聞いた牽蓮や總糜らが釣られて微笑む。
その視線にも気付かず、鴻夏は再び汁物を口に運んだ。
『嘘…やっぱりすごく美味しい』
旅先での料理という事もあり、正直見た目はかなり素朴な物であったが、その予想外の美味しさに鴻夏は夢中で料理を口に運んだ。
「あ、これもこれも美味しい」
渡された干し肉を軽く火で炙ったものも、薄く切られたパンもどれもこれもが美味しい。
一日中砂漠を旅し、疲れ切った体にはこれらの暖かい湯気の立つ料理は格別に染み渡るようだった。
正直そこまで料理に期待していなかっただけに、これはかなり嬉しい誤算だ。
しばらくは完全に周囲の事を忘れて、夢中で料理を頬張っていたが、ある程度お腹が落ち着いてくると急に現実が戻ってくる。
唐突にハッと我に返って顔を上げた鴻夏は、自分が他の三人にずっと注目されていた事に気付いて思わず真っ赤になった。
「あ、あの…?」
何で注目されてるのかと聞こうとしたら、總糜が感心したようにこう呟く。
「…姫さん、結構食べるんすね。俺 お姫様って人種は、無駄に格好つけて人前ではあんまり食わないのかと思ってたっすよ」
そう言われた途端、鴻夏はカーッと顔に血がのぼるのを感じる。
『しまった…っ!つい美味しくて普通に食べちゃった!』
今更後悔しても遅いが、あまりに初歩的な失敗に自らが情けなくなる。
貴族の作法としては、人前で特に男性の前で貴婦人がガツガツと料理を食べるのは無作法にあたる。
大抵は一皿につき一口程度だけ手を付けて、あとは残すのが礼儀なのだ。
馬鹿馬鹿しい事かもしれないが、貴婦人たる者は、常に優雅でそつがなく、どちらかと言うと少々 現実味が薄い余裕のある振る舞いが要求される。
そのため実はお腹ぺこぺこでも、人前ではほぼ食べずに、後で人目のない控え室などでこっそりといただくのが普通なのであった。
ところが鴻夏は今回それをすっかり忘れて、まったく残す事なくどの料理もしっかりと一人前を平らげてしまった。
こんな初歩的な無作法をするなんて、花胤の姫として恥ずかしい事この上ない。
そのため思わず真っ赤になって俯いていると、それを見かねたのか、さりげなく牽蓮が助け舟を出してくれた。
「まぁ健康的でいいんじゃないかな?格好つけて食べなくて倒れられるより、しっかり食べて明日に備えてくれる方がよっぽどいいし、出された料理を残される方が私は好きじゃないよ。だって誰かに作ってもらった物を残すなんて、そっちの方がよっぽど失礼だと思ってるからね」
淡々とそう語りながら、牽蓮は優雅な手付きで手ずからお茶を淹れると、一人一人に丁寧にお茶を手渡した。
鴻夏も差し出されたお茶を受け取りながら、そっと牽蓮に視線を向けると、目が合った途端に穏やかに微笑んでくれる。
そして牽蓮の意見を受けて、總糜もあっけらかんとこう答えた。
「まぁそれもそうっすよね〜。俺もよく貴族の女って、なんで人前で『もうお腹いっぱい』とか言って残しときながら、影でガツガツ食うんかな?わっかんね〜な〜って思ってたんすよ」
「あの…その、残すのが礼儀なのよ…」
ボソッと鴻夏が呟くと『マジで⁉︎』と總糜が食いついてくる。
あまりの恥ずかしさで頬を染めながらも、鴻夏は正直に自分の非礼を詫びた。
「…ごめんなさい。あまりにも美味しくて、つい完食しちゃったけど、貴族の女性としては無作法だったわ」
思わず縮こまって謝ると、心底わからないといった顔で總糜が答える。
「ん?別にいいんじゃね?主の言う通り、食いたいもんは好きなだけ食えばいいじゃん。残す方がおかしいっすよ」
「…總糜の言う通りだ。ここは別に皇城じゃない。礼儀なんて別に気にしなくていい」
珍しく無口な嘉魄も賛同の意を示す。
そして最後に牽蓮が穏やかにこう告げた。
「この通り總糜も嘉魄も特に気にしてないですし、私もさっき言った通り、残される方が好きじゃないんですよ。だから姫も貴族の勝手な礼儀なんて忘れて、普通にしててくれればいいですよ」
今まで言われた事もない台詞を言われて、鴻夏は目から鱗が落ちるような気がした。
ずっと自分が常識だと教え込まれてきた事が、果たしてどこまでが正しくてどこからが間違っているのか…。
だんだんとよくわからなくなってきた鴻夏を余所に、牽蓮らは再び楽しげに語り出す。
それを目の端で捉えながら、鴻夏はこの旅の間に自分を取り巻く色々なものが急激に変化していくのを感じていた。
果たしてそれが鴻夏にとって、良い変化なのかどうかはわからない。
ただ一つだけ言えるのは、自分の中にすでに彼等に対する何かが育っていて、それのせいで自分はもう彼等を裏切るような事は絶対に出来ないという事だった。
そして軽く溜め息をつきながら、鴻夏は何もかもが予定外…とそう思ったのだった。
そして食事を終えた一同は、しばらくは片付けをしがてら思い思いに語らっていたが、すぐに明日からも続く旅に備えて、交代で身体を休める事にした。
もちろん旅慣れていない鴻夏だけは、疲れを翌日に持ち越させないため、火の番は免除である。
まずは嘉魄から火の番をする事となり、残りの三名はそれぞれ簡易天幕の中で外套を巻きつけ横になった。
しかしこの時も初めての野宿に何をどうしていいのかわからず戸惑う鴻夏に、牽蓮は一からすべてを整えてくれた。
また總糜や牽蓮は本当に外套一枚で横になるだけだが、それだと旅慣れていない鴻夏では身体が痛くなるからと、鴻夏のところだけはありったけの布類を敷き詰め、ふかふかにしてくれている。
さらに砂漠の夜は冷えるからと、鴻夏にだけは外套の上に毛皮まで掛けてくれていた。
正直至れり尽くせりで世話をされるだけで、何の役にもたってない自分を情けなく思っていると、その考えを読んだのか、静かに牽蓮がこう告げた。
「…姫。今、姫は自分が何の役にもたってないと、そう思っていらっしゃるんでしょうが、人にはそれぞれ役割というものがございます」
「役割…?」
そう返すと、牽蓮は頷きながらこう答える。
「そう、例えばそこに居る總糜や嘉魄は、主人の影としてその身を護衛し助けとなるよう仕える事が役割です。彼等はそう出来るだけの能力があり、またそのための特殊な訓練も受けております」
そこで一旦言葉を区切ると、牽蓮は穏やかな眼差しで鴻夏を見つめる。
そして続きを待つ鴻夏に対し、再びゆったりと口を開いた。
「一方 姫の役割は、人をより良き方向へ導きその生活を護る事でございます。大半の者は善良で迷いやすく、自らの身を護る術すら持ちません。身分のある者は、そんな彼等が飢えたり苦しんだりしないよう、治安を安定させその生活を豊かに保つという責任があるのです」
「責任…」
暗示のように同じ言葉を繰り返しながら、鴻夏は不思議とその言葉に重みを感じていた。
そう言えば花胤に居た頃に師事していた家庭教師が、何かそれに近い事を言っていたような気がする。
その時聞いた言葉はもっと難解で、やたらとご立派な内容だった気がするのだが、今 牽蓮が言っているのはおそらくそれと同じ事のような気がしていた。
そして鴻夏は牽蓮が遠回しな表現ながらも、彼なりに自分を慰めてくれているのだという事に気付いてしまう。
それに気付くと同時に、鴻夏は思わず相手にこう聞き返していた。
「…つまり私の役割は別にあるのだから、今は貴方達が私に尽くしてくれていても、特に何も気にしなくていいと言いたいの?」
「左様でございます。むしろ今の姫の役割は、私達に尽くされる事でしょう。下々の者にとって、上の者に尽くす事こそが喜びに繋がります。姫はむしろ私達にお世話をさせてやってるんだとでも思っていてください」
澄ました顔でそう答えると、牽蓮は穏やかにこう告げる。
「さ、そろそろお休みください。明日も一日砂漠の旅です。明日は今日よりもたくさん頑張っていただきますよ」
それだけ言うと、牽蓮はそっとその場を離れようとした。
ところがそれに気付いた途端、鴻夏は思わず半身を起こしながら牽蓮の外套の裾を引いてしまう。
予想外の事に驚いて見下ろす牽蓮の視線を感じながら、鴻夏は頰を赤く染めつつ、俯き加減にボソッとこう呟いた。
「あ、あの…その、寝付くまで側に居てくれないかしら…」
消え入りそうな声だったが、ちゃんと相手の耳には届いたらしい。
少し微笑む気配がして、牽蓮は再び無言でその場に座り直した。
そして鴻夏に横になるよう促し、乱れてしまった外套と毛皮を掛け直しながらこう囁く。
「安心してお休みください。寝付くまでお側におります」
サラリと鴻夏の目の前に、牽蓮の亜麻色の髪が流れた。
それをボンヤリと眺めながら、鴻夏は思う。
『綺麗…。焚き火の灯りに透けて、まるで風にそよぐ金色の麦の穂のよう…』
何となく触ったら気持ち良さそうだなと思いながら、旅の疲れもあり、鴻夏はすぐにすうっと自らの意識を手放した。
だがその時、鴻夏は無意識にある物をしっかりと握り締めていた。
そしてそれに気付いた牽蓮が、少し困ったようにこう呟く。
「…困りましたね。これだとここから動けない…」
鴻夏が無意識に握り締めていたのは、実は牽蓮の髪だった。
それを見て、總糜が楽しげにこう答える。
「いいんじゃないっすか?火の番は俺と嘉魄で充分っすよ。主は姫さんに付いててあげてください」
その言葉に嘉魄も無言でこくりと頷く。
何も知らずに眠り続ける鴻夏の寝顔を眺めながら、何となくその場に穏やかで優しい空気が流れた。
そしてしばらくして、軽い溜め息と共に牽蓮が諦めたようにこう答える。
「…ではお言葉に甘えて、私も今夜はこのまま休ませていただきますよ」
「どうぞ、どうぞ。いや〜、どうなる事かと思ったけど、意外と主と姫さんって合ってるのかもね」
「またいい加減な事を…」
突然妙な事を言い出した總糜に、牽蓮が呆れたような視線を向けると、何故か嘉魄までこう呟く。
「いや…總糜にしてはいいところを突いてるかもしれませんよ」
「嘉魄?君までそんな事を言うんですかっ」
驚く牽蓮に總糜が笑う。
「ほら、嘉魄のオッサンまでああ言ってますよ?主みたいに捻くれてるのにはね、姫さんぐらいの純粋培養が丁度いいんす。俺はそう思いましたね」
勝ち誇ったようにそう宣言する總糜に、牽蓮は疑いの目を向ける。
自分と鴻夏が合っているなんて、とても信じられなかったが、無意識に自分を引き留めようとする鴻夏に対し、悪い気がしていないのも事実だった。
チラリと何も知らずに眠り続ける鴻夏に、牽蓮は再度視線を投げる。
意識もないのに、しっかりと自分の髪を握り締め続ける鴻夏は、こうして見るとまだまだ幼い子供のようだった。
おそらく産まれた時から、常に一緒に居た弟の凛鵜皇子と引き離されて、不安と緊張の日々なのだろう。
そう思うと、何となく無理に引き離すのも可哀想な気がして、牽蓮は諦めたようにそのまま目を閉じた。
とにかく明日もまた砂漠の旅が続く。
今は少しでも体力の回復に努めよう。
そう思った牽蓮は、鴻夏の側で座ったままの状態で眠りについた。
翌朝 簡単な朝食を済ませた一行は、早々に次のオアシスに向けて旅立っていた。
各自無言で馬を進めながらも、鴻夏は朝から後悔と反省の連続である。
まず朝 穏やかな牽蓮の声に起こされ、目を開けた鴻夏は、昨夜と変わらず同じ場所に座り続けている牽蓮の姿にまず驚いた。
そして次に、自分が無意識に牽蓮の髪を握り締めていた事に気付き、真っ赤になって慌てふためく。
それに対し牽蓮は特に何も語らず、鴻夏が髪から手を離した途端、スッと立ち上がってその場から離れていった。
サラリと昨夜 綺麗だと思った亜麻色の髪が宙に靡き、牽蓮が簡易天幕から外に出て行く。
その毅然とした後ろ姿を眺めながら、鴻夏はやけにドキドキしていた。
『あ、あれ…?私ったらどうしちゃったの?相手はあの牽蓮殿なのに、何でこんなにドキドキしてるの…?』
自分で自分の反応に驚きながらも、鴻夏は牽蓮から視線を外せない。
昨日までは少し頭が良いだけの普通の男だと思っていたのに、今朝はやけに彼が輝いて見えていた。
どうしてそう見えるのか、その理由を鴻夏はまだ知らない。
だがいつかその答えに気付いた時、鴻夏と牽蓮はどうするのか…その結論は現時点ではまだ遠い先であった。
そしてその後、相変わらず何の目印もない砂漠の中を進みながら、鴻夏の中に別の迷いが生じ始める。
風嘉帝との結婚式まであと三日。
予定通りに挙式を行うなら、あと二日以内に風嘉の皇都に辿り着かなければならない。
だがこのまま牽蓮達に連れられて、本当に皇都まで行ってしまってもいいのだろうか?
男の姫が嫁いできた事で、風嘉と花胤との間に戦争が起こらないとも限らない。
でもここまで来てしまっているのに、今更自分が失踪したら、今度は同行していた牽蓮達が罰せられてしまう。
…それだけは嫌だった。
こんなに自分に良くしてくれた牽蓮達に、迷惑をかける事なんて出来ない。
でもこれ以上、誰の事も騙したくなかった。
いっそ自分は男だから、風嘉帝とは結婚出来ないと言ってしまった方が良いのだろうか?
それとも素知らぬ顔で、挙式してしまった方が良いのだろうか?
ジリジリと焼け付く陽射しの中、八方塞がりの考えに囚われながら、鴻夏は一人深い溜め息をつく。
何度考えても、いい答えは出なかった。
正直今ほど自分が賢くない事を恨めしく思った事はない。
そしてこの時、鴻夏は気づいていなかったが、悶々と悩み続ける鴻夏の様子を無言で伺っている者が居た。
言うまでもなく湟 牽蓮である。
彼は自分の考えに囚われている鴻夏を眺めながら、一人 意味深な笑みを浮かべていた。
そしてそれに気付いた總糜が、さり気なく牽蓮にしか聞こえない声でこう囁く。
「主、今なんか悪い事を考えてたっすよね?」
「…何でそう思うんです?」
「だってすっげぇ、悪い顔してた。主がそういう顔してる時って、大抵なんか企んでる時だもん」
そう言われた牽蓮が、クスリと笑う。
「別に…?ただいつ気付くかなぁと思っただけで、特に何も企んでませんよ」
「どうだかなぁ?主は常に何か企んでるから、もうそれが当たり前過ぎて、自分でも気付いてないだけなんじゃない?」
相変わらず失礼な事を平気で本人にぶち撒けながら、總糜は疑いの視線を牽蓮に向ける。
それを受けて、さすがに牽蓮も呆れたように反論の言葉を口にした。
「…前から思ってましたけど、ホントに君は黎鵞以外はどうでもいいと思ってません?」
「いや、そうでもないっすよ?ちゃんと今もこうして主を警護してるじゃないっすか」
「君の場合は、皇都に戻るついででしょう。あんまり人を極悪人扱いしないで下さいよね?今回の件も、別に私が仕掛けた事ではありませんから」
「んー…でもそれを最大限に利用しようとはしてるっすよね?」
そうすかさず總糜が突っ込むと、途端にぴたりと牽蓮が黙り込む。
無言という事は当たりなんだなと思いつつ、總糜は再び口を開いた。
「主…そもそもあの姫さんが訳ありなのも、気付いてますよね?」
「…總糜も気付いてましたか」
「そりゃあ、忍ですからね。嘉魄も気付いてただろ?」
そう總糜が話を振ると、嘉魄も無言でこくりと頷く。
それを横目に見て取りながら、總糜は牽蓮に対し、再び口を開いた。
「そんで主はどうする気なんです?正直俺は面白ければどうでもいいんすけど」
相変わらず本来の主人以外はどうでもいいんだなと思いつつ、素直に牽蓮がこう答える。
「…花胤の美人に預かると約束したからね。ちゃんと最後まで面倒みますよ」
その答えを聞いて、總糜がヒューッと軽く口笛を鳴らした。
そしてそのまま、感心したようにこう呟く。
「へー、まさか主がねぇ…。まぁ姫さん、良い子みたいだし?何となく泰瀏様も気に入りそうな感じしますもんね」
「そうだね…。そういう總糜は、姫の事をどう思っているんです?」
珍しく牽蓮の方からそう問われて、總糜がうーんと首を捻る。
「んー、そうっすねぇ…。まぁ嫌いではないっすね。偉い人特有の嫌な感じはしないし、結構な美人だしね」
いかにも面食いらしい発言の總糜に苦笑しつつ、牽蓮は続けて嘉魄にも答えを求める。
すると言葉少なに嘉魄もこう答えた。
「…私も嫌いではありません。總糜の言うように、姫には不快感を感じませんので…」
嘉魄の答えを受けて、牽蓮が満足気に頷く。
それを確認し、今度は總糜が牽蓮に尋ねた。
「んじゃ、主は?主自身は姫さんの事、どう思ってんの?」
そう問われて、牽蓮は穏やかにこう答えた。
「そうですね。君達の言葉を借りるなら、私も嫌いではないですよ。今までああいう感情優先型の人間は周りに居なかったので、次にどう動くのかが読み切れなくて、なかなかに面白い…」
まるで珍しい研究対象を見つけた教授のように、牽蓮は悪戯っぽい笑顔を見せる。
それを見ながら、總糜はあっさりとこう要約した。
「ふーん?つまり主も結構、姫さんの事を気に入ってるんすね」
「…何でそういう解釈になるんです?」
「え、だって、主って基本 身内以外には興味ないじゃん?しかも誰でも無条件で身内扱いするわけでもないし…。でも姫さんの事は、もう身内扱いしてるっしょ?」
あっけらかんとした口調で總糜にそう言われ、牽蓮は思わず考え込む。
そしてまったく気付いていなかったが、言われてみればそうなのかなとようやく自分でも気が付いた。
まさか会って数日の人間をもう身内扱いしていたとは、自分でも驚きである。
ところがそんな牽蓮にとどめを刺すかのように、總糜がケタケタと明るく笑いながらこう言った。
「姫さんもなかなかやるねぇ。あの綺麗でおっかない弟くんの言うように、さすが『花胤の陰陽』の太陽の名は伊達じゃないってか」
あっさりと痛い事実を突かれ、牽蓮は静かに深い溜め息をついた。
どうやら事態は、牽蓮自身も読み切れない方向に進んでいるようであった。
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