ー風嘉へー
ガラガラと車輪の回る音が響く。
窓の外を流れ行く景色をボンヤリと眺めながら、鴻夏はまるで魂が抜けたかのように静かに馬車の座席に座っていた。
頭からすっぽりと白い薄絹を被っているので、細かな表情までは読み取れないが、昨夜まで放っていた神々しいまでの輝きはなく、まるで別人のようである。
またそうしていると、なまじ容姿が美しいだけに、まるで人形のようだった。
それを横目にチラリと見て取りながら、牽蓮は無言で書類に視線を落とす。
馬車の中は鴻夏と牽蓮の二人だけだったが、どちらも特に会話する気はないようで、終始無言のままであった。
昨日まで馬車に同乗していたのは、弟の凛鵜皇子であった。
その時は馬車の中で、凛鵜と尽きる事なく会話をしていたのに、今日から同乗しているのは湟 牽蓮で、その事が否応なく現実を突きつけてくる。
『私…本当に風嘉へ行くのね…』
今更ながらにそう思いながら、鴻夏は一人溜め息をついた。
正直わかっていたようで、実は何もわかっていなかった事を改めて思い知らされる。
今日から凛鵜が側に居らず、自分は一人なのだと思うと、心細くて堪らなかった。
そんな鴻夏の気持ちを更に追い落とすかのように、窓の外には昨夜過ごした花胤の国境の城が、すでに遠く離れて見えている。
おそらくあと少しで実際の国境となり、いよいよ風嘉側へと入る事になるのだと思うと、憂鬱でしかなかった。
しかしそれをどう思っているのか、牽蓮は特に何も語らず、少し窓の外を見ただけで再び書類に視線を戻す。
揺れる馬車の中でも特に気にした風もなく、次々と書類に目を通してはサラサラと決裁の署名をしているようだった。
あっという間に処理されていく書類の山を見ながら、そう言えばこの人は風嘉の高官だったなと改めて思う。
だが鴻夏がもう少し冷静だったなら、他国から迎える皇帝の花嫁に対し、同じ馬車に同乗しながらも、目の前で堂々と自分の仕事をしているなんて、非常識極まりない態度だと気づいたはずだった。
しかし良くも悪くもボンヤリしていた鴻夏は、逆に無駄に話しかけられなくてちょうどいい程度にしか思わなかった。
そして花胤の国境の城を出てから終始無言を貫いていた二人は、ふいに止まった馬車の歩みにほぼ同時に顔を上げた。
「止まれ!止まれ!」
次々と外から聞こえてくる声に、思わず窓の外へと目をやると、進行方向に巨大な石壁がそびえ立っている。
それを見た瞬間、鴻夏はついに風嘉との国境に着いたのだと思い知らされた。
白虎門。
西の風嘉との国境にそびえ立つこの門の事を、花胤の人々はそう呼ぶ。
それと言うのも、この門が花胤の西側に位置するため、四神になぞらえていつの間にかそう呼ばれるようになっていた。
他にも北の鳥漣との国境の門は玄武門、南の月鷲との国境の門は朱雀門そして海に面した東門を青龍門と言う。
これら四大皇国との国境にある門は、国のにとっても重要拠点となるため、それぞれの門は全て堅牢な石壁で覆われていた。
そして唯一の出入り口となる部分には、鋼鉄の分厚い扉が付いており、この西門にはその名の通り、見事な虎の意匠が施されていた。
またその門前には常に多数の門番兵が見張りとして付いており、例え花胤の皇族と言えども正式な通行証なしには勝手に通れない事になっている。
そしてその扉の前に今、風嘉使節団長である伯 須嬰が降り立っていた。
「我等はこの度、風嘉帝に輿入れされる事になった鴻夏姫を、お迎えする為に風嘉より出向いた使節団である。これより国境を越え、姫を風嘉の皇都へとお連れする。こちらが花胤帝からいただいた通行証である。どうぞお検めくださいますよう」
朗々とした声で伯がそう告げると、門番兵の隊長と思われる男が伯に近づいてきた。
そして丁寧に提示された通行証を確認すると、スッとその場で一礼する。
「お疲れ様でございます。確かに通行証は本物とお見受けします。どうぞお通りくださいませ。…おい、開門!」
「開門!」
隊長の指示に他の門番兵らも続いて唱和し、ギギィッと大きく扉の軋む音がして、ゆっくりと分厚い鋼鉄の扉が開かれた。
そして使節団の目の前に見渡す限りの白い砂原が現れる。
そしてその中を不自然なほど綺麗に整備された一本の石畳の道が、緩やかにくねりながら遥か遠くまで続いているのが見えた。
これが花胤から風嘉の皇都へと繋がる唯一の公道であり、途中いくつかのオアシスを中継しながら砂漠を横断する生命線とも言える道である。
今日はこの道を夕暮れまで進み、最初のオアシスまで辿り着く予定であった。
『これが…風嘉…』
国境を越えた途端、ガラリと変わった風景に鴻夏は思わず圧倒される。
始めて見る一面の白い砂原に、石畳の道以外、何もない風景。
緑豊かで公道沿いにも普通に樹木や建物が立ち並ぶ花胤と違い、あまりにも何もない殺風景な光景だった。
それをどう見てとったのか、本日始めて牽蓮が鴻夏に向かって口を開く。
「…殺風景な光景でしょう?この辺りも昔は公道沿いに少しは樹木があったのですが、先の戦でそれも枯れ果てました。今はただ白い砂が広がるだけの砂漠です」
「…砂漠…」
無意識にポツリと同じ言葉を繰り返すと、牽蓮がスッと窓の外を指差した。
つられて指差された方向に目をやると、公道沿いの遥か遠くに何か黒い山のようなものがボンヤリと見えた。
「…あの遥か遠くにうっすらと見えているのが、今夜泊まる予定のオアシスです。こうして見ると近いように思われるでしょうが、ここから半日以上はかかりますよ」
「え…っ?見えているのに⁈」
驚いて思わず聞き返すと、牽蓮は事も無げにこう答える。
「周囲に何もない砂漠だからですよ。何もないからこそ、この距離でもボンヤリと見てとれますが、実はかなり離れた場所にあるのです。砂漠で人が迷って命を落とすのは、こうやって距離感や方角が掴めなくなるからです。近くにあると思っていたものは、実は遥か遠くにあった…というのは、砂漠ではよくある事なんですよ」
淡々とある意味彼らしくそう語ると、牽蓮は窓の外から鴻夏へと視線を戻した。
そして意味深にこう告げる。
「…鴻夏姫。間違ってもこれ以降はお一人で行動なさいませんよう…。砂漠に慣れていない者が単独行動をすると、命の保証はありませんよ」
「…わかっています。砂漠どころか、私は花胤の宮殿の外にも出た事がありません。そんな人間が、知らない国で一人でどこかに行けるわけはないでしょう」
咄嗟に無難な答えを返したものの、突然投げつけられた牽蓮の言葉に、知らず鴻夏は警戒の念を強めていた。
牽蓮の言葉は、一見素人に砂漠の恐ろしさを語っただけのようにも取れるが、逆にすでに鴻夏が逃走しようとしている事を見越して、何か行動を起こす前に先手を打って警告してきたようにも取れた。
『この人は危険だわ。何もかもわかっていて、敢えて警告してきたようにも思える』
そんなはずはないと思いながらも、何故か牽蓮に自分の正体が気付かれている気がしてならなかった。
元々彼は弟の凛鵜とかなり親しい。
親しいからこそ、凛鵜そっくりの自分の事も実は男なのではないか?と疑っていてもおかしくはなかった。
しかし牽蓮はのらりくらりと、どちらとも取れるような態度を崩さず、肝心な事は何一つ語らない。
政治的な駆け引きもあって、わざと曖昧にしているのかもしれないが、それが余計に鴻夏を落ち着かなくさせていた。
チラリと鴻夏が牽蓮に視線を送る。
今ほど自分が表情がよく見えない薄絹を被っていて良かったと思えた事はなかった。
そしてそんな鴻夏の気持ちを余所に、牽蓮はひどく淡々とこう告げる。
「…それは大変失礼を致しました。ただ砂漠には蠍や毒蛇、狼など人間を襲う生き物がたくさんおります。またこういった国境付近は、どこも盗賊の巣窟です。我々も注意はしておりますが、姫も警戒を怠らないようご注意願います」
「わかりました。肝に命じておきます」
何とかそれだけ答えると、鴻夏はそのまま馬車の外へと視線を外した。
これ以上 牽蓮と会話をしたら、何をどう勘づかれるかわからなかった。
彼が一体どこまで知っているのか、またどう考えているのかはわからなかったが、今は少しでも早く彼から離れたかった。
『早く隙を見て姿を眩まさなければ…。今日からは事情を知っている侍女も居ない。もし着替えを手伝うなどと言われて、風嘉側の侍女に身体を触られたりしたら…いつ男と気付かれるかわかったものではない』
気持ちは焦るが、まだ陽は高くしかも辺りは一面の砂漠で見晴らしが良すぎる。
また同じ馬車に牽蓮が同乗している為、今のところまったく一人になる機会がない。
逃走の機会があるとすれば、最初のオアシスに着いた後だろうか…。
そっと景色を伺いながら、溜め息をつく。
この石畳の道沿いに戻れば、花胤まで辿りつけるのは確実だが、それでは遠目でもどこに居るのかバレてしまう。
だからと言って、慣れない砂漠の道を自分一人で越えられるとはとても思えない。
考えられる方法としては、オアシスの外へ逃走した振りを装い、その実オアシス内に隠れて追手をやり過ごす。
そして出来れば、これから花胤に向かう隊商を見つけて一行に加えさせてもらい、怪しまれる事なく花胤側へと戻る。
そんな都合良く事が運ぶとは思えなかったが、もはや一縷の望みに賭けるしかないように思えた。
そして風嘉に入って一日目の夕方、一行は予定通り最初のオアシスに到着した。
牽蓮の言った通り、最初から見えていたはずのオアシスは予想よりかなり遠く、途中 鴻夏はいつまで経っても距離が縮まらないのではないかと思ったほどだった。
しかし何とか着いてみると、さすがに公道沿いの正規オアシスなだけあって、そこにはかなり立派な街が存在しており、その中心にはこのオアシスを治める領主の館がそびえ建っていた。
白い石造りの瀟洒な建物は、華美ではないもののそれなりの風格を備えたものとなっており、鴻夏は砂漠の中に突然現れたこの立派な館が別世界のようにも感じていた。
そしてその美しい館に、一行は今晩一泊する事になったのである。
サラサラと水の流れる音が響いていた。
ここが砂漠の中だという事を忘れるほど、館の中は涼しく、また露台から見える街並には明るい橙色の灯りがたくさん連なり、街のあちこちに濃い緑の葉を伸ばした椰子の木が所狭しと茂っている。
着替えなどの世話のために、領主によって寄越された侍女らを丁寧に断り、何とか一人で入浴と着替えを済ませた鴻夏は、半ば呆然としながら目の前に広がる光景に目を奪われていた。
まだ花胤を離れて一日と経っていないというのに、ここは何もかもが違っていて、その事実が否応なしに自分が異国に来たのだという事を思い知らされる。
そう言えばこの館に入る前に見かけた人々も、随分と国際色豊かだった。
もちろんこの街に住んでいるのは、風嘉の者が一番多いが、浅黒い肌に黒い髪、金の瞳が特徴の月鷲の者、薄い金髪に白い肌、淡い青い瞳の鳥漣の者、そして黒髪に黒い瞳、真珠色の肌の花胤の者などもたくさん見かけた。
彼等は商品を仕入れに各国を旅をする隊商の者であったり、芸を見せながら祭りを渡り歩く技芸団だったり、武芸の腕を買われて隊商を護る傭兵だったりとそれぞれがそれぞれの理由でこの街に立ち寄ったようだった。
だから長くても数日過ごしたら、彼等はまた次の目的地を目指してここを旅立っていくのだろう。
『流れ行く人々とそれを迎える人々…ここはまるで夢現の街のようだ…』
そう鴻夏は思った。
もちろん花胤の皇都にも常に他国の人々が溢れていたが、一面の白砂原に突如現れたこの街は、その存在自体がすでに非現実的でどうしても幻のような印象を受けてしまう。
そして白砂原を赤く染めながら、大きな夕陽がゆったりと沈んでいく様を見たのも、こうして一面の星空の下、蒼く輝く白砂原を見たのも初めてだった。
その時その時でガラリとその印象を変え、すべてがゆったりと移ろっていくような街。
どうにも掴み所がなく、どこか懐かしいようなそれでいて厳しいような不思議な空間。
それがこのオアシスの印象だった。
その時ふと鴻夏は、この街が彼に似ているなと思ってしまう。
普段はその存在自体がボンヤリとしていて、さほど目立つ印象はないのに、時折何とも言えない強烈な気配を放つ男…湟 牽蓮。
双子の弟の凛鵜すらも、彼の不思議な魅力に囚われているように見えた。
かくいう自分も、気がつくと彼の存在を意識し始めている。
するりと相手の心の隙間に入り込むように、気がつくとすでにその存在を受け入れてしまっているような不思議な雰囲気の男。
彼にだけは、何となく自分が密かに企んでいる事を見抜かれている気がしていた。
けれど例え勘付かれていたとしても、自分は今夜決行しなければならない。
これ以上 花胤から離れてしまうと、とても自力で故国に帰る事は不可能だ。
だからもう少し夜が更けたら決行しようと、改めてそう思った時だった。
コンコンと突然 鴻夏の部屋の扉が叩かれた。
ギクリとしながらも、落ち着いて返答すると扉の向こうから伯 須嬰の声が聞こえてくる。
「お疲れのところ申し訳ありません、鴻夏姫。伯 須嬰です。ご都合がよろしければ明日以降の旅程について、少しご説明させていただきたい内容があるのですが、今 お時間大丈夫でしょうか?」
その声に慌てて夜着の上に上掛けを羽織りながら、鴻夏は努めて冷静にこう返す。
「…はい、大丈夫です。どうぞお入りになってください、伯将軍」
「では失礼致します」
そう返答する声が聞こえ、部屋の扉が開かれると伯が部屋の中に入ってきた。
そして伯だけだと思っていたのに、その後に引き続き湟 牽蓮も入室してくる。
予想外の牽蓮の登場に、思わず鴻夏に緊張が走ったが、牽蓮の方はニコリと微笑むと無言で部屋の扉を閉めた。
そしてそんな鴻夏の耳に、改めて伯の言葉が響いてくる。
「夜分に申し訳ありません、鴻夏姫」
「いえ、こちらこそこんな格好での出迎え、申し訳ありません。そろそろ休もうと思っていたものですから…」
「…それは重ねて失礼を…。それではなるべく手短に済ませさせていただきますね」
「よろしくお願いします、伯将軍」
ニコッと接客用の笑みを浮かべると、鴻夏はチラリとその横に控える牽蓮に目をやった。
しかし彼は澄ました顔で控えるのみで、特に何も語らない。
伯が丁寧に何かを説明してくれていたが、鴻夏は牽蓮が気になって、その内容の半分も聞いていなかった。
『何を考えているの…?わざわざ伯将軍に付いてきた割には、何もしようとしないし…。今夜あたりに私が行動を起こしそうと思ったから、伯将軍をダシに私の様子伺いをしに来たのかしら…?』
そう思って牽蓮の表情を探るが、正直何も読み取れそうにない。
一枚も二枚も上手の相手に、どう渡り歩こうかと思ったところで、ふと鴻夏は自分の名前を呼ばれた事に気付いた。
「鴻夏姫?」
「…はいっ?」
「私の説明は以上なのですが、何か疑問に思われた事などございましたでしょうか?」
気がつくと伯が不思議そうに鴻夏を見つめていた。
いつの間にか説明が終わっていたらしい。
「…あ、すみません。少しボンヤリしてました。大丈夫ですわ、伯将軍。ご丁寧にありがとうございます」
「本当に大丈夫ですか?お疲れなのでは…」
「あ、ええ…少し。旅する事自体が初めてですので、緊張しているのかもしれません」
もっともらしい事を言いつつ、ニッコリと愛想笑いを浮かべると、人の良い伯は心配そうに『無理なさらずに』と言ってくれる。
それを申し訳なく思いながらも、鴻夏は早く彼等に部屋から退散願いたく、重ねて言葉を続けた。
「…申し訳ありません、伯将軍。少し疲れているみたいです。もう休ませていただいてもよろしいでしょうか…?」
「それは気づかず大変失礼を致しました。では我々はこれにて失礼させていただきます」
「お気遣いありがとうございます、伯将軍」
儀礼的に挨拶を交わすと、伯は牽蓮を伴いそのまま素直に退室して行った。
結局 牽蓮は一度も口を開く事なく、ただそこに居ただけである。
だが退室間際に彼の口唇が、少し笑みを刻んでいた事を鴻夏は気づかなかった。
そして何も気づけなかった鴻夏は、その日の深夜に、ついに計画を実行したのである。
薄いガラス片を使い目立つ金の瞳を黒くし、髪もカツラで短くして、花胤の平民の男の子の服を着る。
肌も多少日焼けしたかのように茶色くし、頰にはそばかすを散らして、鴻夏はどこにでも居そうな下街の男の子に変装していた。
「まさかお忍び用の変装が、こんな形で役立つとは思わなかったな…」
自嘲気味にそう呟くと、鴻夏は鏡で再度自らの姿を確認する。
『大丈夫。この姿を見て、鴻夏姫だと気付く者は居ないはず…』
そう思ったところで、鴻夏は手早く持ち出す荷物を纏め始めた。
水と食料、お金に着替え、そして僅かばかりの薬といざという時のための換金用の小振りの装飾品もいくつか放り込む。
そしてそれらを布製の背嚢に詰め込むと、鴻夏は最後に護身用の剣を腰につけた。
正直 伯将軍と違い、体力的に考えても大人数と立ち回れるような腕前ではなかったが、それでも誰にも頼れない今は、自分の身を守るために必要不可欠なものだった。
それらを素早く装備すると、鴻夏は部屋の露台からそっと下の様子を確認し、誰も居ない事を確認してから軽々と飛び降りる。
途中側に生えている木の幹を中継しながら、スタッと綺麗に地上へと降り立つと、改めて周りを警戒しながら、鴻夏は小走りでその場を後にした。
その時、鴻夏はまったく気付いていなかったが、その様子を気配を消して物陰から確認している者達が居た。
言うまでもなく伯 須嬰と湟 牽蓮である。
牽蓮はクスクスと楽しそうに笑い、伯は呆れたようにこう呟く。
「…本当にあれは鴻夏姫なんですか…?」
「そうですよ。多分今夜あたりだろうとは思っていましたが、予想通りでしたね」
暗闇に走り去る鴻夏の姿を捉えながら、牽蓮が上に向かって命令を下す。
「そこに居ますか、嘉魄?鴻夏姫が館を出ます。悟られないように護衛してください」
「…御意」
スッとその場から一つの気配が動く。
それを感じながら、続けて牽蓮はもう一つの名を呼んだ。
「暁鴉」
「…お呼びでしょうか」
スッと目の前に黒づくめの装束に身を包んだ二十代前半ぐらいの女忍が降り立つ。
顔半分を布で隠しているため、はっきりとはわからないが、長い金の髪を一つに束ねた、なかなかに美しい女だった。
特に目につくのはその豊満な肉体で、女忍として鍛え抜かれたしなやかな筋肉はもちろんの事、その身体の線はきちんと女性らしい丸みを帯びており、まるで匂い立つような色気を醸し出している。
しかし牽蓮の方はあまり相手に興味がないのか、淡々と彼女に向かって命令を下した。
「申し訳ありませんが、しばらく鴻夏姫の身代わりを務めてくれませんか?輿入れ中の姫君が行方を眩ましたとなると、大騒ぎする輩が出ますので…」
「…それは姫を連れ戻せはいいだけの話では…?」
実に効率の悪い内容の指示をする牽蓮に、思わず暁鴉がそう反論すると、牽蓮は楽しそうにこう告げる。
「…姫にも色々と思うところがあるのですよ、暁鴉。皇都に入るまでにはお戻りいただきますので、二日ほど身代わりよろしくお願いしますね?」
和かに微笑みながらも、相手に有無を言わさぬ態度でそう告げると、牽蓮はもう暁鴉には目もくれず伯に向き直った。
「さてそういうわけで、須嬰。しばらく私も留守にしますね」
ニコニコと満面の笑みでそう告げる牽蓮に、伯が深い溜め息をつく。
「…璉、貴方ね。私がそれを許可するとでも思っているのですか?」
「まぁ…最終的に須嬰は私に甘いからね。大丈夫、ちゃんと結婚式までには戻るよ」
「そういう問題では…っ」
そう叫びかかったところで、気がつくともう牽蓮の姿が消えている。
「璉⁉︎どこに…っ」
「じゃあ後は頼んだよ、須嬰。あ、黎鵞から頼まれていた書類は全部処理しておいたから。じゃ、皇都で会おう」
何処からともなく暗闇から楽しげな牽蓮の声が響き、言い終わるが早いか、スッとその場から完全に気配が消えた。
そして無言で頭を抱える伯に、暁鴉が気の毒そうにこう尋ねる。
「どうします?今ならまだ追い付けますけど…」
「…連れ戻したところで無駄でしょう。言い出したら聞かないんだから…。こうなったら仕方ありません。暁鴉はしばらくは鴻夏姫の身代わりを務めるように。姫の服を着て頭から薄絹を被っていたら、早々バレる事はないでしょうから」
「はぁ…わかりました」
とりあえずそう答えながらも、本当にこの人も甘いよなぁ…と、暁鴉は心底呆れたように溜め息をつく。
しかしこれも仕事とは言え、しばらくは深窓の姫君の身代わりである。
窮屈そうな任務ではあるが、これも女忍の役割の一つかと暁鴉は面倒くさく思いながらも仕方なく諦めた。
一方そんな事になっているとは露知らず、鴻夏は誰にも見咎られる事なく、館を抜け出す事に成功していた。
もちろんそれは牽蓮が手を回していたからに他ならないのだが、そんな事に気付くはずもない鴻夏は、とりあえず厩舎から馬を一頭 拝借し、街に向かって走らせ始める。
心臓が今までないほどドキドキしていた。
不謹慎だが、かつてないほど気分が高揚しているのがわかる。
本当の意味で今、鴻夏は自由の身だった。
女の振りも要らない、皇族ですらない、ただの一人の人間として誰に気を使う事もなく、行きたいところに自由に行ける。
ずっと密かに憧れていた世界が今、目の前に開けていた。
『ああ…これでもう誰も騙さなくていいんだ。母上と凛鵜の体面も守れた。あとは鴻夏姫が事故で亡くなったように偽装して、このまま風嘉施節団に見つからないように花胤に戻れたら…』
そう思った時だった。
シュッと風を切る音がして、鴻夏は反射的に馬を竿立たせた。
ヒヒーンと馬は嫌がって嘶いたが、一瞬後にドスッと足下に黒い矢羽が突き刺さる。
慌てて興奮する馬を宥めながら、素早く周囲に視線を走らせると、木陰からわらわらと黒い影が出て来て、鴻夏はあっという間に複数のガラの悪い男達に囲まれてしまった。
…明らかに普通の男達ではない。
武器を片手に鴻夏を取り囲んだ男達は、どう見てもただの住人には見えず、ましてやこの街の兵士でもなかった。
『五人、いや六人か?こいつらは盗賊…?』
相手の正確な人数を確認しつつも、緊張で冷や汗が額を滑り降りる。
鴻夏姫ならまだしも、今は普通の下街の住人にしか見えない自分を襲うなんて、一体何が目的なのか?とそう思ったところで、ふいに男達の一人が重々しく口を開いた。
「おい、小僧。お前、今 領主の館から出てきたよな?」
「…見間違いじゃないかな?確かに近くは通ったけど、俺はそんなところに入れるような身分じゃないよ」
周囲の気配を探りつつ、鴻夏が緊張で身体を固くする。
まださほど領主の館からは離れていなかったが、この姿で助けを求める事は出来ない。
万が一にも自分が鴻夏姫だとバレれば、風嘉帝との婚姻を嫌がって逃げたと勘違いされ、下手をすれば戦争にもなり兼ねない。
ここは自分一人で何とかするしかないと、潔く覚悟を決めた時だった。
「おやおや、誰かと思えばいつぞやの賭博師くんじゃないですか」
突然この場にそぐわない、やたらとのんびりした声が響いた。
「誰だ⁉︎」
バッと一斉にその場に居た者達が振り返る。
まさか…と鴻夏は信じられない思いで、その男を見つめ返した。
夜風に男の亜麻色の髪が鮮やかにそよぐ。
そこに居たのは、馬に跨った湟 牽蓮だった。
数時間前に鴻夏姫として館で対峙したばかりなのに、どうしてこんな深夜にこの場所に牽蓮が現れるのか、まったく理解が出来ない。
しかしそんな鴻夏の疑問を余所に、男達はあっという間に牽蓮を危険人物と見なしたらしく、わらわらと武器を片手に取り囲む。
その途端スッと男の薄い翠の瞳に、静かに危険な光が灯った。
「お前…何者だ?」
「…ただの通りすがりの役人ですよ」
「役人⁉︎」
ギクリと男達に緊張が走る。
それを見てニコリと牽蓮が微笑んだ。
「はい、今夜はそこの領主様の館にご厄介になっております。今 騒ぎを起こせば、ここは館からさほど離れておりませんので、すぐにたくさんの兵士達が駆け付けて来ると思いますが、いかがなさいますか?」
ザワッと明らかに男達の間に動揺が走る。
それを見逃さなかった牽蓮は、さらに畳み掛けるようにこう囁いた。
「ここはお互いなかった事にするのが、賢いのではないでしょうかね?」
「ふん、助けを呼べれば…な。その前にあんたを殺ってしまえば済む話だ」
ふいにギラッと男達の雰囲気が変わった。
牽蓮一人なら何とかなると判断したらしい。
確かにいかにも優男といった感じの牽蓮が増えたところで、さして影響があるようには見えなかった。
それに対して、牽蓮が実に面倒くさそうに溜め息をつく。
「…さて、私としてはこの場は穏便に済ませたいところなんですがね。私のお願いは聞いてもらえそうにない感じですかね?」
「そうだな。まぁあんたがそこの坊やと一緒に、俺達の知りたい事を教えてくれれば、命までは取らないでやってもいいぜ」
ニヤニヤと数に物を言わせて、自分達の優位を確信している男達は、少しふざけた様子でそう答える。
しかしその返答を聞いた牽蓮は、ニッコリと微笑むとしゃあしゃあとこう答えた。
「…それはそれは、ありがとうございます。では私もあなた方の命までは取らないとお約束しましょう」
「何だと⁈」
「聞こえましたよね、嘉魄、總糜」
そう牽蓮が呟いた途端、ザッと彼の前にその身を守るかのように二人の忍が降り立った。
一人は鍛え抜かれた鋼のような肉体を持った、黒い短髪に陽に焼けた浅黒い肌が印象的な迫力のある壮年の男であった。
鋭い銀の瞳が獲物を狙う鷹のようで、見据えられた途端、思わず逃げ出したくなる。
そしてもう一方は、赤毛に青い瞳が印象的な忍にしてはやたらと派手な容姿の男で、年齢も二十代前半と思われる若い青年だった。
壮年の男に比べれば、明らかに迫力は落ちるものの、こちらはこちらで妙に人を喰った表情を浮かべており、それが逆に自分の腕前に自信がある事を物語っている。
そしてそんな彼等の登場に、その場に居た者達は完全に威圧され、無意識のうちにジリッと半歩ずつ下がり始めていた。
それを不敵な様子で伺いながら、若い方の忍がスッと一歩前へ進み出る。
その時 青白く光る月が、流れてきた黒雲に隠され、その場にゆっくりと深い闇が降りた。
そしてそれが合図であったかのように、二人の忍は同時に男達に向かって突進する。
特に何の会話もないまま、左右二手に分かれた忍達は、あっという間にその場に居た者達の急所を突き、その意識を奪っていった。
そして視界の悪い中、ドサドサッと何かが倒れ込む音だけが響き、再び雲の隙間から月が顔を出す頃にはすべてがもう終わっていた。
地面に意識なく転がる男達を放置し、二人の忍はすでに牽蓮の足元に跪いている。
その様子に思わず唖然とする鴻夏を尻目に、牽蓮は二人の忍に労いの言葉をかけた。
「…二人共、お疲れ様ですね」
「別にこのくらいはどうって事ありませんけど…こいつらどうします、主?」
二人のうち、赤毛の若い忍がそう尋ねる。
それに対し牽蓮は冷静に指示を下した。
「先程知らせをやったので、そろそろ館からお迎えが来るはずです。申し訳ありませんが、總糜はしばらくこの場に留まって後始末をお願いします」
「御意。主はどうされます?」
「私はこの場に残ると何かと厄介な事になるので、一足先に嘉魄らと離れますよ」
楽しげにそう答えると、牽蓮はまだ茫然としている鴻夏に馬を寄せこう告げた。
「さ、貴方も早くこの場を離れますよ」
「あ…、えっ?」
「早く!」
そう牽蓮に急かされ、鴻夏も訳もわからず馬を走らせ始める。
ひらひらと手を振って見送る總糜を置いて、鴻夏、牽蓮、嘉魄は急いでその場を離れた。
正直何がなんだかわからないが、とりあえず牽蓮が助けてくれた事だけは事実だった。
そして今更ながらに、彼が風嘉の中でも最上位に位置する高官なのだと理解する。
何故なら四大皇国の中でも、忍が常に警護に当たる要人はそうは居ない。
花胤でいうなら、皇帝である父とその皇后である母、そして凛鵜を含む皇太子候補の皇子三人のみである。
正直忍の数自体が少なく、その存在が希少であるが故に、例え皇族と言えども替えの効く者にはいちいち忍を付けてはいられないのが現状だった。
だからどうせ数が足りないのなら、貴重な忍達には各国で諜報活動をしてもらう方がいいと判断する国が多く、結果 大半の忍は要人警護の任には当たらず各国を暗躍している。
しかしその常識を曲げてまで、牽蓮には二人もの忍が付いていた。
どちらかが、たまたま現地で合流した忍だとしても、それでも二人体制で警護されるような要人など聞いた事がない。
『この人、一体何者なの?』
当然と言えば当然の疑問だが、その疑問に答えてくれそうな者はこの場には居なかった。
そしてそれだけではなく、この後 鴻夏はさらに牽蓮に対しての謎を深めていく事になるのである。
ホカホカと美味しそうな湯気を立てた料理が、目の前に並ぶ。
砂漠の中のオアシスだというのに、食料は充分過ぎるほどあるようで、卓の上には海の幸、山の幸をふんだんに使った各国の郷土料理が所狭しと並び、それぞれが食欲を刺激する香りを立てている。
それを目を丸くして眺めながら、鴻夏は今の状況がまったく掴めず混乱していた。
あの後 無事に街へとたどり着いた鴻夏、牽蓮、嘉魄の三人は、そのまま何故か牽蓮に連れられこの店で食事を共にしていた。
そこに遅れて、先程一人現場に残ってくれた赤毛の忍 總糜も合流し、何故か今 四人で食卓を囲んでいる。
そして鴻夏は今の状況がまったくわからずにいるのだが、残りの三人はそれをまったく気にしていないようで、それぞれが好みの料理を肴に酒や茶を嗜みつつ、今後に向けての会話をし始めていた。
「しっかし出だしから、エライのに当たりましたね、主?まだこれから詳しく尋問してみなきゃなりませんが、あいつらもどうも雇われて探ってただけみたいで、黒幕は別に居るみたいっすよ」
モグモグと勢いよく料理を口に運びながら、明け透けに總糜がそう告げると、牽蓮は酒杯を傾けながらあっさりとこう答える。
「まぁそんなとこでしょうよ。どうせ依頼の真の目的もわからず動いてただけでしょうから、大した情報も取れないでしょうね」
「私が一旦戻って、探りを入れてきた方がよろしいですか?」
ボソッと嘉魄がそう尋ねると、牽蓮は手にしていた酒杯を卓に置きながらこう答えた。
「…いや、嘉魄が戻るほどの事態ではないよ。あっちはあっちで、須嬰も暁鴉も居る事だし、何かあっても彼等の方で対処するさ」
心配いらないとばかりにそう告げる牽蓮に、鴻夏は思わずポツリと呟く。
「信頼…してるんだ…?」
その何気ない呟きに、一斉に卓に着いていた面子の視線が鴻夏に集まる。
言ってしまった後でしまった!と後悔したが、すぐにニコリと人の悪い笑顔を見せると牽蓮は鴻夏に向かってこう答えた。
「…当然ですよ。彼等とも長い付き合いですから、お互いがどういう人間かもよく知ってますしね…。それにここに居る嘉魄、總糜も含め、今の風嘉の土台を築いてきた者達は皆優秀なんですよ。彼等が人並み外れて優秀だからこそ、風嘉はたった三年でここまで復興出来たのです」
淡々とした口調ではあったが、そこには相手に対する揺るぎない信頼と愛情があった。
そしてそんな主の手放しの賛辞を、その場に居る嘉魄と總糜も穏やかな顔で受け止める。
それを見て、鴻夏は純粋にいいなと思った。
牽蓮の言葉の節々に感じる彼等への深い愛情や、それを受けての嘉魄と總糜の穏やかな気配を見ていれば、彼等がどれだけお互いを信頼し大事に思っているのかがよくわかる。
おそらくそれは自分が凛鵜に感じるものと変わらないほど強い絆なのだろうと、鴻夏は無意識に感じとった。
それにしても世間知らずの自分ですら、貴重な存在だと知っている忍を二人も従え、彼等と同じ卓で親しげに食事を共にする湟 牽蓮とは一体何者なのか?
ただの高官ではないのはわかるが、まったくその正体が掴めない。
そして今の鴻夏の最大の疑問は、どうして牽蓮がここに居て、自分を助けた上に街で食事を共にしているのか?という事だった。
彼は風嘉の高官で、本来ならは鴻夏を領主の館に連れ戻すべき立場に居るはずだった。
それなのに牽蓮は鴻夏を連れ戻すどころか、逆に街の方に連れてきて、今こうして食事を共にしている。
彼の警護をしている忍達にしても、特にその事を責める気配もなく、のんびりと食事を楽しんでいるようだった。
正直こんな事をして、彼等に一体どんな利益があるというのだろう?
どう考えても今のこの状況は不自然としか言いようがなく、それだけに鴻夏は戸惑いを隠せなかった。
『彼は私のこの姿を知っている。だから今ここに居るのは、館を抜け出してきた鴻夏姫だとわかっているはずなのに、どうして何も言わず連れ戻そうともしないの…?』
喉元まで出かかっている疑問は、どうしても言葉に出来なかった。
気まずくて、つい無言で視線を床に落とす。
その事に気付いているだろうに、牽蓮は何も語らず穏やかに酒杯を傾けた。
「あー、食った、食った!じゃあそろそろ今日はお開きっすかね、主?」
そんな鴻夏の気持ちを余所に、実に呑気な口調で總糜が尋ねる。
それに対し、さらりと牽蓮はこう答えた。
「そうだね。明日からまた旅で移動だし、身体は休めておくに越した事はないね」
「ですよね〜。で、主の事だから、当然今夜の宿も押さえてあるんすよね?」
その有り得ない質問に、思わず鴻夏が床から二人に視線を戻すと、牽蓮は懐から何かを取り出しがてらこう答えた。
「…ああ、この店の上が宿屋も兼ねていてね。とりあえず二部屋取ってある」
チャリっという金属音と共に、牽蓮の右手に少し燻んだ金色の鍵が二つぶら下がっていた。
「じゃあ、主。明日またな! 姫さんもおやすみ!」
清々しいほど屈託のない笑顔で、總糜がひらひらと手を振る。
その横で嘉魄が無言でペコリと頭を下げた。
「ああ、明日また…。おやすみ」
そう言って二人を穏やかな表情で見送ると、牽蓮は静かに部屋の扉を閉める。
忍の二人が退出した事により、自然と部屋の中には鴻夏と牽蓮の二人が残された。
そして鴻夏は素直にこう思う。
『何が、どうしてこうなった…?』
予想外の事態の連続に、鴻夏はまったく頭が付いていかず、牽蓮の用意した宿屋の一室で呆然と立ち尽くす。
牽蓮の選んだ宿屋は、豪華でこそないが綺麗に清掃された清潔感のあるところだった。
あの後用意した部屋へと先導する牽蓮の後ろを、ぐいぐいと總糜に促され、何だかよくわからないままここまで付いてきてしまったが、果たしてそれは正しい選択だったのかは疑問である。
そしてどう分かれて泊まるかで、今日初対面の自分達より、多少は面識のある牽蓮の方がいいだろうと總糜が主張した事により、いつの間にかこういう組み合わせで泊まる事が決定してしまった。
そして今、牽蓮と鴻夏は二人っきり、寝台こそ二つあるものの、生まれてからずっと女性として育てられてきた鴻夏にとっては緊張する事この上ない状況となっていた。
先程から心臓が、あり得ないほど早鐘を打っている。
そんなガッチガチに緊張している鴻夏の様子を眺めながら、牽蓮は人知れずクスリと笑みをこぼす。
そしてふいに鴻夏に向かって、声を掛けた。
「…結構遅い時間になりましたけど、その変装は落とさなきゃならないですよね」
「え…っ?」
唐突過ぎて一瞬何を言われたのかも理解出来ず、鴻夏は間抜けに聞き返す。
それを特に気にした風もなく、牽蓮は続けてこう言った。
「とりあえず下でお湯をもらえないか聞いてきます。その間にどちらの寝台を使うか決めておいてください」
淡々とそう告げると、牽蓮は鴻夏を一人部屋に残して出て行った。
それを視覚的に確認した途端、鴻夏はへなへなとその場にへたり込む。
そして両手で木の床の感触を感じながら、鴻夏は思わずこう呟いていた。
「…な、何なの、あの人…。何考えてんの?」
多分それが今の鴻夏の気持ちを、一番よく表している言葉だった。
パシャ…ンと静かな室内に水音が響く。
あの後しばらくしてお湯を分けてもらった牽蓮が戻り、鴻夏は促されるままにお湯で変装用の化粧を落としていた。
元々服から見える部分しか塗っていないので、全身ではないものの服が濡れてしまう事も考慮し、今は下着一枚の姿である。
一応部屋にあった衝立を二つの寝台の間に立てて、その影で落としているとはいえ、いつ相手が覗くかもしれないこの状況に鴻夏の心臓は口から飛び出しそうな勢いだった。
しかしそんな鴻夏の懸念を余所に、牽蓮はまったく覗く事もなく、気がつけば鴻夏は綺麗に化粧を落とし終わり、さっぱりした状態で
着替えまで済ませていた。
そしてその段階になってようやく、鴻夏は先程から世話になりっぱなしでありながら、牽蓮に対して何のお礼も言っていなかった事に気づく。
気づいた途端、急に自分で自分が恥ずかしくなって、鴻夏は慌てて自らの非礼を詫びるため衝立の影から飛び出した。
『…お礼、言わなきゃ…』
そう思ったのだが、目の前に飛び込んできた映像に再び鴻夏は凍りつく。
鴻夏はまったく気付いていなかったが、実は牽蓮の方も衝立の向こうで自らの汗を拭いていたらしく、彼にしては珍しく上半身がかなりはだけた状態でその場に立っていた。
しかも服の隙間から、驚くほど鍛え抜かれた肢体が覗き、そこに少し長めの髪が乱れがちに下りていてそれがまた壮絶に色っぽい。
今まで男の人に対して、色気など欠片も感じた事がなかった鴻夏だが、こんな事があるのかと自分でも驚くほど目が離せなかった。
それに対し、牽蓮が少し苦笑しながらこう告げる。
「…姫。そんなにまじまじと見つめられると、さすがに私も恥ずかしいんですが…」
「ご、ごめんなさいっ⁉︎」
牽蓮に言われた途端、ハッと我に返った鴻夏は、慌てて衝立の向こうに再び消える。
それを目の端で捉えながら、牽蓮はくすくすと笑いつつ乱れた服を手早く直した。
「もういいですよ、どうぞ」
そう声をかけると、おそるおそる鴻夏が衝立の影から顔を出す。
変装を取り、いつもの容姿を取り戻した鴻夏はやはり人並み外れて美しく、牽蓮は思わず素直に感想を述べていた。
「やはり姫はその姿が一番ですね。変装も悪くはないですが、その姿の方が貴女らしい気がします」
「…何言ってるのよ。私だとバレるわけにはいかないから、変装してたんじゃない」
照れ隠しにそう言うと、『それもそうですね』と牽蓮は気にした風もなくそう答える。
それを受けて、鴻夏はしばらくモジモジしていたが、ふいに意を決したように視線を合わすと勢いよく牽蓮に対して礼を述べた。
「あの…っ、先程は助けてくれてありがとう。あ、あと食事から泊まる部屋から、何から何まで世話になりっ放しで…その…」
「どういたしまして。別に気になさるほどの事でもありませんよ」
さらりとそう答えると、牽蓮は自らの寝台を少し整えそのままそこに腰を下ろす。
もう寝るだけだからか、髪は無造作に下ろしたままで、その様子がいつもより砕けた感じで鴻夏は落ち着かない。
何となく視線をあらぬ方向へと彷徨わせながら、鴻夏はそのまま続けて核心となる質問をぶつけてみた。
「で…でもその…よかったの?本当は私を連れ戻さないと、貴方の立場が悪くなるんじゃ…?」
「まぁ…確かに良くはないでしょうね。でも私としては、最終的に皇城にまで来ていただければ、別にその過程はどうでもいいんですよね」
予想外に軽い答えだったが、やはりこのまま見逃してはくれなさそうだ。
それを聞いて、鴻夏が少し恨みがましく牽蓮を見つめる。
「う…やっぱり皇城まで行かないと駄目…?」
「それは私にも立場というものがあるので、困りますね…。事情はどうあれ、貴女には風嘉帝と結婚してもらわないと」
「で、でも私がこのまま風嘉帝と結婚すると、何かとまずい事態が起こるんだけど…」
まさか自ら男ですとも言えず、鴻夏は実に歯切れの悪い答えを返す。
それを受けて、牽蓮は至極あっさりとこう答えた。
「…そのまずい事態が何かはわかりませんが、貴方を無事 皇城までお連れし、風嘉帝と結婚していただくまでが私の仕事です。申し訳ありませんが、最後までお付き合いいただきますよ」
ニッコリと微笑みながら実に容赦のない事を言うと、牽蓮は続けてこう言った。
「貴女をこのまま見逃すわけには行きませんが、代わりに普通では味わえない旅をお約束しましょう」
その時 目の前の男が、密かに見えない黒い翼を生やしていた事を、鴻夏は後になって気が付いたのであった。
続く