ー別離ー
そしてその後、二日目、三日目の行程は特に何事もなく順調に進み、一行はついに三日目の夕方、風嘉との国境の城に入った。
ここが花胤側にとって旅の最終地点、この後は再度皇都に取って返すだけとなる。
一方 風嘉側の使節団にとっては、ここからがようやく風嘉の皇都へ向けての帰還の旅路となる。
この城から風嘉の皇都までは、さらにあと三日ほどの行程となり、またさらにその二日後には風嘉帝 璉瀏と花胤皇女 鴻夏との結婚式が予定されていた。
つまり風嘉使節団は、あと四日以内に必ず鴻夏皇女を皇都に居る風嘉帝の元まで連れて行く義務があるのだ。
そしてその期限は、鴻夏が姿を眩まさなければいけない期限そのものでもあった。
少なくとも結婚式前には何とかしないと、確実に男の花嫁だとバレてしまう。
何としても花胤・風嘉両国の体面を潰す事なく、穏便に事を済ませたい。
いよいよここからが正念場だった。
この城を出た後はすべて一人で判断し、行動を起こさなければならない。
もう凛鵜には頼れないのだ。
そう思うとふいに目頭が熱くなる。
思えば自分が本当に困った時、判断に迷った時は、いつも凛鵜がさり気なく助けてくれていた。
だから何が起こっても、凛鵜さえ側に居てくれれば自分は安心していられたのだ。
でもこれからは凛鵜が居ない。
いつも自分の側に居て、優しく自分を守ってくれていた片割れとはもう一緒に居られないのだ。
自覚した途端、ポロリと涙が零れ落ちた。
そして言い様のない不安が、ゆっくりと鴻夏の心を支配していく。
どうしていいのかわからなかった。
もうすでに何が正しくて、何が間違っているのかも判断がつかない。
どうしようと思った瞬間、部屋の扉を叩く音がした。
ドキッとして慌てて涙を拭いながら返答すると、侍女の声がして花胤送迎団と風嘉使節団との最後の祝宴が行われるため、広間に来るようにとの指示を伝えられた。
「…今行きます」
何とかそう答えると、鴻夏は目を閉じて気を引き締めた。
『いけない、務めを果たさなければ…』
少なくとも今夜は花胤の皇女として、誰にも悟られずに完璧な皇女を演じなければならない。
逃走するのは明日以降だ。
今はまず花胤送迎団が安心して帰れるよう、しっかりと皇女の務めを果たそう。
強い決意と共にそう気持ちを切り替えた鴻夏は、皇女として皆の前に立つべく毅然とした態度で部屋を後にした。
大広間に賑やかな音楽が流れていた。
卓には食べきれないほどのご馳走が並び、美しい舞姫達がヒラヒラと金魚のように空間を泳いでいる。
そして広間の中は花胤側、風嘉側を問わず、送迎団の人々が楽しげに語らい、最後の宴を楽しんでいた。
その中でも一際目立つのは、やはり風嘉使節団長である伯 須嬰と花胤送迎団長の凛鵜皇子である。
伯は旅程一日目の夜に見せた素晴らしい剣技によって、両国の兵士達の垂涎の的となっていた。
やはり武人たるもの、どうしても絶対的な強さには憧れてしまう。
また伯自身がなかなかの美男という事もあって、この機に是非お近づきになりたいと思う者達が、列を為していた。
一方あの場で冷静な判断を下し、上に立つ者としての器量を垣間見せた凛鵜皇子にも、尊敬の念が集まっていた。
今まではその美しい容姿ばかりが噂されてきたが、彼もまた仕えるに足る人物であると兵士達に印象付けられている。
また普段はなかなか近付く機会が持てない皇族に、今なら容易に近付けるとあって、こちらもまた伯に負けず劣らずの人気ぶりであった。
そんな中 主賓である鴻夏はというと、逆に一人暇を持て余していた。
やはり皆、嫁入り前の皇女に下手に近付き、あらぬ誤解を受けたくないのか、さり気なく距離を取っている。
そのためわざわざ鴻夏に話しかけにくる強者も居らず、鴻夏は一人、上座に取り残される形でその場に残っていた。
『早く部屋に戻りたい…』
そう思いながら、一人特に飲みたくもない酒を暇つぶしに煽っていると、スッと目の前に誰かが跪くのを感じた。
驚いて視線を向けると、見覚えのある亜麻色の髪が目に入る。
「…退屈そうでいらっしゃいますね」
少し笑みを含んだ声で、そう声をかけてきたのは、湟 牽蓮であった。
先程からどこに居たのかわからないが、まるで最初からそこに居たかのように、実に自然に鴻夏の前に控えている。
それを見ながら、鴻夏は酒の勢いもあって少し意地悪くこう返した。
「そういう貴方はどうですの、牽蓮殿?」
「…まぁ、これも仕事の一環ではありますが、正直あまりこういう場は得意ではありませんね」
ニコリと微笑みながら牽蓮が答える。
多分自分に気を使って声をかけてくれたのだろうという事は容易に想像できたが、もはやすっかり荒んだ気持ちになっていた鴻夏は、つい彼に絡んでしまった。
「…そうですか。でしたら私などに気を使われず、早々にこの場を抜け出されてもよろしいのですよ?」
少し嫌味交じりにそう告げると、牽蓮はおや?といった様子で鴻夏を見返した。
その視線を感じながらも、鴻夏はプイッと拗ねたように視線を外す。
するとその様子を見て何を悟ったのか、牽蓮は少しクスリと笑うと、鴻夏に向かってこんな提案をしてきた。
「…なるほど。それはなかなか楽しそうな提案でごさいますね。でしたら、皇女自らこの城内をご案内いただけますか?私は今は風嘉に仕える身ですので、勝手にこの城内を歩けません」
ニコッと悪戯っぽく笑うと、牽蓮は鴻夏の返事を待つように口を閉ざした。
あまりにもしれっと、とんでもない提案をしてきた相手に、さすがの鴻夏も思わず相手を見返しそのまま絶句する。
「…貴方、本気で言ってるの…?」
ようやくそれだけの言葉を絞り出すと、牽蓮は特に悪びれもせずこう答えた。
「はい、もちろん。どうやら皇女も退屈されているようですし、いい気晴らしになると思いますよ」
ニコニコと笑いながら、そう告げる相手に鴻夏は思わず頭を抱える。
確か凛鵜も一目置いてるすごい教授だと聞いたはずなのに、もしかしてこの人は馬鹿なのか?と鴻夏は思った。
普通に考えて、この誘いは有り得ない。
深い深い溜め息をついた後、鴻夏は再び絞り出すような声でこう答えた。
「…貴方ね…私はこれから風嘉帝に嫁ぐ身なのよ?」
「左様でございますね」
「それを分かってて、嫁入り前の皇女と二人っきりになろうとする馬鹿がどこに居るのよ?」
思いっきりそう突っ込んでやると、その段階になってようやく気付いたとばかりに、牽蓮はポンと一つ手を打った。
「…ああ、なるほど?世間的にはそう取られますか。…うーん、それは気付きませんでしたねぇ。さてどうしたものか…」
あくまでものほほんとした様子で、牽蓮が真面目に首を捻る。
その様子を見て、さらに鴻夏は混乱した。
『この人、ホントに馬鹿なの?それとも単なる天然ってやつなの⁉︎』
予想外の事態の連続に、思わず相手の真意を測りかねていると、牽蓮はニコリと笑ってこう答えた。
「まぁ私が誤解される分には構いませんが、皇女があらぬ疑いをかけられるのは本意ではありませんので、それでは別の方法を考えましょう。…ところで皇女はチェスはお好きですか?」
「…嫌いではないけれど、それが何か?」
あまりにも唐突な話題転換に、思わずキョトンとすると、牽蓮は悪気のない笑顔のままこう提案した。
「それは宜しゅうございました。ではまだ宴も終わりそうにございませんし、私と一局いかがですか?」
「…え?」
「もちろん駒落ち対局で構いませんよ。私の専門は戦略・戦術論ですので、おそらくそうしないとすぐに勝負がついてしまうと思います」
そう言ってにこやかに微笑む牽蓮に対し、思わず鴻夏の負けず嫌いの性格に火が付いた。
トンッと目の前に黒の駒が置かれて、鴻夏がウッと答えに詰まる。
「チェックメイト」
ニッコリと嫌味なほど鮮やかに、牽蓮が勝利宣言をする。
オオッと周りがどよめき、それを受けながら鴻夏が仕方なく投了宣言をした。
「…参りました」
「はい、お疲れ様でした。そろそろお終いにしますか?」
「いいえ、勝ち逃げはさせないわよ?もう一回!」
思わずそう食い付くと、牽蓮は勝ち誇るでもなくこう答える。
「はぁ…ですが、待ち時間なしでQRRNB落ち(クイーン×1、ルーク×2、ナイト×1、ビショップ×1なし)でもダメでしたから、そうなると待ち時間なしの全落ち(キング、ポーン以外の駒全部なし)ですかね?さすがに私も、そこまでの駒落ち対局はした事がないのですが…」
「弱くて悪かったわね。というか、貴方が強すぎなのよ!これだけ不利な条件なのに、毎回それをひっくり返してくるなんて…一体どういう頭の構造してるの?」
ぶすっとしたまま鴻夏が尋ねると、牽蓮はニッコリと微笑みこう言った。
「それが私の仕事ですので。どんな不利な状況からも、勝利を導く方法を見出さなければ味方の被害は甚大になります」
「…貴方が戦術・戦略論の優秀な教授だったってのは、本当だったのね。こうして対局して見るまで、いまいち真実味がなかったけど…」
フゥッと派手に溜め息をつきながらそう言うと、牽蓮は心外だと言わんばかりにこう答える。
「なかなかに酷い言われようですねぇ。私は見た目、そんなに出来なさそうですか…」
「…少なくとも一見して、切れ者だと思う人は居ないわね」
はっきりそう言うと、ひどいなぁとボヤきながらも牽蓮は特に怒らない。
その段階になってようやく、鴻夏は自分がいつの間にか相手に対してすっかり警戒を怠っていた事に気が付いた。
『私ったらいつの間に…?いくらのほほんとしてるからって、この人は風嘉の高官なのに…』
改めてチラリと相手を盗み見ると、牽蓮は黙ってチェスの駒を並べ直していた。
こうして見ると、やはり容姿は可もなく不可もなくといった程度の普通の男だ。
雰囲気も実にのんびりとしていて、特に危険な気配は感じない。
『それに…多分暇を持て余していた私を見兼ねて、わざわざ相手をしに来てくれたのよね…?』
気がつけば、すっかりチェスに夢中になって結構な時間が経っていた。
牽蓮が来る前は誰も声をかけてくれず、退屈で時間を持て余していたというのに。
彼が話しかけてきた後は、楽し過ぎて本当にあっという間に時間が過ぎていた。
そしてそんな鴻夏の耳に、ついに宴の終了宣言をする凛鵜の声が響いてくる。
「皆 大義であった。風嘉の方々は、明日国境を越えて国にお戻りなる。明日からも続く旅路に備えていただく為、今夜はもうこれでお開きにするとしよう」
高らかにそう宣言すると、ワッと広間の中は最後の盛り上がりを見せた。
それを受けて牽蓮が穏やかにこう告げる。
「…時間切れのようですね。この続きはまた今度と致しましょう」
スッと優雅に一礼をすると、牽蓮は来た時同様、するりと人混みに紛れて居なくなってしまった。
止める間も無く、あっという間にその姿を見失ってしまった鴻夏は、広間を見渡し何とも言えない喪失感を味わう。
そして鴻夏は気づいていなかったが、その姿を遠くから凛鵜が密かに見つめていた。
まるで何かに耐えるように、一人強く拳を握り締めながら…。
そして風嘉使節団と花胤送迎団との最後の宴は、水面下で予想外の変化を起こしながらも、表面上は何事もなく終了したのである。
そして宴の後、凛鵜と共に自室へと戻った鴻夏は、扉を閉めるのとほぼ同時に凛鵜に向かって激しく抱きついていた。
宴の間は緊張感で忘れていられたが、今夜が凛鵜と過ごす最後の夜となる。
明日からはもう凛鵜が側に居ないのだと思うと、涙が止まらなかった。
それを優しく抱き締め返しながら、凛鵜の方もひどく辛そうにこう告げる。
「…泣かないで、鴻夏。いつか必ず迎えに行くから…」
そう繰り返す凛鵜の優しい声を聞きながら、鴻夏は無言で何度も頷いた。
例え気休めだとわかっていても、それが心からの言葉だという事はわかっていた。
そして立場上、この別離はどうにもならない事だという事もよくわかっていた。
だから今夜だけだ。
今夜だけは、何も考えず素直に一人の人間として泣かせて欲しい。
生まれた瞬間からずっと一緒で、まるで一対の物のように揃って過ごすのが当たり前だった。
悲しい事も辛い事も、そして楽しい事も嬉しい事も常に二人で分かち合ってきた。
離れる事なんて考えた事もなかったのに、現実は否応なしに二人に別離を強いてくる。
その現実が辛かった。
だから今夜だけは二人だけにして欲しい。
明朝にはこの想いをすべて隠して、誰にも知られず悟られず、花胤の皇子、皇女として堂々と皆の前で別れてみせる。
例えこの先 二度と会えないとしても、お互いが魂の片割れである事には変わりない。
永遠に相手を想い続ける…それだけだ。
そう思いながらも、凛鵜は心のどこかですでに二人の気持ちがすれ違いつつある事を感じていた。
元々鴻夏の方に、自分に対する恋愛感情はない。
あるのは双子の弟へ対する愛情だけだ。
だからいつか鴻夏は、自分以外の誰かに恋をするだろう。
それがいつ誰なのかまではわからないが、少なくともそれが自分でない事だけは確実だった。
…だが自分は違う。
自分のそれは、もはや双子の片割れに対する域を超えている。
この想いが届く事は永遠にないとわかっていても、誰よりも何よりも愛してる。
鴻夏以外の人間は皆同じだ。
だからこそ自身の結婚に関しても、凛鵜は政治的に最大限に利用する事しか考えなかった。
自分の後ろ盾になる権力を持った家を選び、そこから適当に年齢の釣り合う姫をもらう、それだけだ。
次に鴻夏に会う時には、おそらく自分達は今のような関係では居られないだろう。
もしかしたらお互いを敵として、戦場で相見えるかもしれない。
もしそうなったら、その時自分は一体どうするのだろう?そして鴻夏は…?
そう思った時、ふいに亜麻色の髪の男の顔が脳裏よぎった。
昔、誰よりも惹かれた男。
生まれて初めて、鴻夏以外で本能的に欲しいと思った他人だった。
そしてあろうことか今、鴻夏もあの男に惹かれ始めている。
自分はもしかしたら一番してはいけない選択をしたのかもしれないと、凛鵜は自らの選択を後悔し始めていた。
こうなるよう仕組んだのは自分だが、鴻夏はまるで吸い寄せられるかのように、急速にあの男に惹かれていっている。
そしてあの男もまた、無意識のうちに鴻夏を受け入れ始めているように見えた。
まるで渇いた砂に水が染み込むかのように、自然とお互いに馴染んでいく二人。
まだそこに恋愛感情は存在しないけれど、近い将来そこまでに発展する可能性は大いにあった。
そして漠然とした不安の中、時は無常にも刻一刻と過ぎていく。
朝陽が昇ったら最後、生まれてからずっと同じ道を共に歩んできた二人は、それぞれ別々の道を歩む事になる。
この先、二人の進んでいく道がまた合流するのかはわからないが、おそらくかなり高い確率で違う方向に進んでいくのだろうと凛鵜は思った。
そして皮肉にも凛鵜の予想通り、運命はこの日を境に、この双子の行き着く先を大きく引き離したのである。
まだ朝靄が漂う夜明け前、凛鵜は一人密かにある人物の部屋を訪れていた。
特になんの約束も取り付けていなかったのだが、相手は最初から凛鵜が来るのをわかっていたかのように、すんなりと部屋へと招き入れてくれた。
おそらく凛鵜が訪ねる直前まで、普通に寝台で寝ていたのだろう。
髪は整えもせず自然に下ろしたままで、出迎えた姿も夜着の上に上掛けを羽織っただけの状態だった。
そもそも到底人を訪ねて良い時間帯ではなかったが、それでも彼は怒るでもなく凛鵜に椅子を薦め、律儀に手ずから淹れたお茶を出してくれる。
そして卓の上で優しく湯気をたてるお茶を眺めながら、ようやく凛鵜はポツリとこう呟いた。
「…僕が何故ここに来たのか、その理由を聞かなくていいんですか?」
思い切ってそう尋ねたのに、相手は特に興味も示さずこう答える。
「別に…話したければ話せばいいし、言いたくないなら無理に言わなくてもいいと思いますよ」
「すべてお見通しって事ですか」
「…さてね?君は私の事を万能だと勘違いしてるようだけど、別に私の予想が全て当たるわけでもないんですよ」
淡々と事実を述べながら、湟 牽蓮は卓を挟んだ凛鵜反対側の椅子に腰を下ろす。
そしてそれ以上は何も言わず、優雅に自ら淹れたお茶を口にした。
その一部始終を無言で見つめながら、凛鵜は深い溜め息をつく。
そして観念したかのように、少し震える手で両手を組むと重々しく口を開いた。
「…これが一番いい方法だと思っていたんですけどね…。今になって迷ってるんですよ、僕は」
『何を?』とは牽蓮は聞かなかった。
ただチラリと視線を凛鵜に向けただけで、そのまま無言で先を促す。
それを受けて、堰を切ったようように凛鵜が語り出した。
「僕はやっぱり鴻夏をどこにもやりたくない。このまま離れたら、きっと僕等は二度と元には戻れない。そんな気がしてならないんです…」
珍しく本気の弱音だった。
普段の自分なら、決して他人に自分の本音や感情を語る事はない。
それなのに今、凛鵜は牽蓮に語るのを止められなかった。
「…頭ではわかってるんです。今更この縁談が止められない事も、鴻夏にとってこれ以上の嫁ぎ先はないって事も…。でも今回に限って僕の感情がついていかない。どうしても鴻夏を離したくないんです…!こんな支離滅裂な思考…僕らしくもない…っ」
一人頭を抱えながら、凛鵜らしくもなく感情的に言葉を搾り出す。
明らかに自分が矛盾した事を言っているのはわかっていた。
だからてっきり馬鹿にされるか、思いっ切り引かれるかのどちらかだと思っていたのに、意外にも牽蓮の反応は違っていた。
彼は静かに凛鵜の激情を受けとめると、事も無げにこう答えたのだ。
「…別に普通だと思いますよ」
「え…?」
「最適な方策と感情は別物です。誰だって無駄とわかっていてもする事はあるし、逆にどんなに良い結果を得られるとわかっていても出来ない事はあります。だから何をどう選ぼうと、貴方自身が悔いのないようにする事が一番いいと思いますよ」
端的にそれだけを告げると、牽蓮はまた一人静かにお茶を口にした。
それを見ながら、凛鵜はストンと肩の荷が降りたような不思議な感覚を味わう。
『…ああ、まったく変わってない。昔からこの人は、こういう人だった…』
ふいに凛鵜はそう思った。
思えば昔の自分は、いつも彼に語る事で冷静さを取り戻し、進むべき道を選択してきたように思う。
まるで流れる水のように冷静にすべてを受けとめ、鏡の如く事実のみを映しだし、あくまでも相手自身に考えさせ選択させる。
決して自分の考えを押し付けないこの人だからこそ、気がつくといつも頼っていた。
だがそれも彼が風嘉に戻ってからは一切なかったというのに、今回三年ぶりに再会してみたら、自分は離れていた年月すら忘れて無意識に彼を頼ってしまっていた。
そしてそれほどこの男を必要としていた自分に、当の凛鵜自身が驚いてしまう。
だが自覚した途端、フッと自分の心情に変化が芽生えた。
「…決めました。やっぱり鴻夏は貴方にお任せする事にします」
ふいにそう呟いた凛鵜に対し、スッと牽蓮が凛鵜へと視線を戻す。
そして二人の目が合った途端、凛鵜は牽蓮が何かを言う前に更に言葉を重ねた。
「逆に貴方以外に鴻夏を任せたくない」
「…君がそう言うのなら…」
凛鵜の強い決意を感じたのか、牽蓮はそれ以上何も言わず静かに視線を落とした。
それに対し、凛鵜がスッと頭を下げる。
「鴻夏をよろしくお願いします。僕の一番大切な人です。必ず守り抜いてください」
「…最善は尽くしますよ。君の大切な姉上だ。けれど絶対とは言えませんので、それでよければという事になりますが…」
そう答えながら、牽蓮が下ろしっぱなしの髪を掻き上げる。
サラリと目の前で色素の薄い亜麻色の髪が流れるのを見ながら、凛鵜はハッキリとこう答えた。
「それで充分です。貴方でも守り切れないような事態なら、もはや誰にも守り抜けないという事ですから」
「…随分と信用されたものですね。何度も言いますが、私は風嘉の人間ですよ?」
ポツリと牽蓮が呟いた。
その言葉に改めて牽蓮を見返すと、一瞬で目の前の男の雰囲気が変わる。
まるで肉食獣が獲物を前にしたような、鋭い射抜くような視線。
薄い翠の瞳が焔のように揺らめき、自分の姿を捉えているのを感じた途端、凛鵜は全身が畏怖で震えるのと同時に気分が高揚していくのを感じた。
そんな凛鵜に対し、豹変した牽蓮が更に言葉を紡ぐ。
「君の姉上を足掛かりに、花胤の征服を目論む可能性もあるのに、本当に大事な姉上を私に任せてしまっていいのですか?」
重ねてそう言った牽蓮は、間違いなく先程までの牽蓮ではなかった。
ゆらりと陽炎のように、男の周囲に他者を圧倒するような気配が立ち昇る。
『ああ、これだ。昔、一瞬で自分を虜にした、まるで抜き身の刃のように美しく危険な…』
ごくりと無意識に唾を飲み込みながら、凛鵜は努めて冷静さを装い、こう答える。
「そんな風に脅しても無駄ですよ。貴方が無駄な争いを好まない方だという事は、よく存じております。あと一度 懐に入れた相手に対しては、どこまでも甘い方だって事もね…」
そう答えるや否や、するりと凛鵜は身を乗り出し自ら牽蓮に口付ける。
それを避けるでもなく素直に受けると、目の前の男から一瞬でスッと敵意が消えた。
そして凛鵜の口唇が離れると同時に、困ったように溜め息をつく。
それを見て、ふふっと凛鵜が人の悪い笑みを浮かべながらこう囁いた。
「ほらね?僕を脅しても無駄ですよ」
「…まったく、殺気を放っている相手に無防備に近付くんじゃない。そんなんじゃ命がいくつあっても足りないぞ?」
敵意こそ消えたものの、ただそこに居るだけで相手を従わせてしまうような威圧感はそのままだった。
そこに居るのは、いつもの飄々とした雰囲気の優男ではない。
普段どうやって隠していたのかと驚くほど、圧倒的な存在感を放つ人物だった。
しかしそれに対し、凛鵜は臆する事なくこう言い放つ。
「貴方だからですよ。他の相手にはこんな事はしません」
「どうだか…。君の事だから、必要とあらば色仕掛けで相手を取り込む事もあるんだろう?」
「…必要とあらばね。使える物は自分の身体でも何でも使いますよ。ただそれも貴方には通じませんでしたがね…」
そう語りつつ、優雅に牽蓮の方へと近付いてきた凛鵜は、再びするりとその腕を牽蓮の首に回した。
そして艶やかに微笑むと、再び彼に向かって囁きかける。
「ねぇ、璉?僕は貴方から見て、まだ魅力ある存在かな…?」
「…どういう意味かな」
「わかってるくせに…。鴻夏をお願いするにあたって、僕からまだ個人的にお礼をしていなかったなと思って」
そう言うが早いか、凛鵜はそのまま牽蓮を長椅子に押し倒す。
それを冷静に受け止めながら、牽蓮は皮肉げにこう答えた。
「…なるほど随分と高そうな据え膳だな」
「やだなぁ。三年前まで毎日のように僕の部屋に通ってた人が、今更じゃない?」
悪戯っぽくそう言うと、凛鵜は再び牽蓮に口付ける。
それを甘んじて受けながら、牽蓮は凛鵜の身体を引き寄せ強引に体勢を入れ替えた。
そして相手に組み敷かれながらも、凛鵜は艶やかに微笑み身体の力を抜く。
少しずつ明けゆく外の気配を感じながら、二人は暫しの間、同じ刻を過ごした。
完全に陽が昇りきり、旅をするのに最適だと思われる快晴の朝、国境の城の前で風嘉使節団と花胤送迎団が対峙していた。
彼等の前には、双方の団長を務める伯 須嬰と凛鵜皇子の二人がおり、最後の挨拶を交わしている。
「…それでは我等はこれにて帰国させていただきます」
「旅のご無事を心よりお祈りしております。それから姉を…鴻夏皇女をよろしくお願い致します」
「心得ました。この伯 須嬰、命に代えてもお護り申し上げます」
そう伯が答えると、花胤送迎団の中からスッと鴻夏が進み出る。
今日も鴻夏は頭からつま先まで、ほのかに肌が透けて見える程度の白い薄絹をすっぽりと被り、周囲の人々からその美しい容姿を隠していた。
だが凛鵜の前で立ち止まると、自ら薄絹の裾を持ち上げ、その美しい顔を覗かせる。
「…凛鵜」
「元気で、鴻夏…。大丈夫、風嘉帝なら必ず君を護ってくれるから…」
「ええ、貴方も元気で…。いつか…いつか必ずまた貴方に会える日を待っているわ」
それだけ告げると、鴻夏は再び薄絹を下ろしてその顔を隠してしまった。
そうでないと、堪えきれず溢れた涙を他の人々に見られてしまうからであった。
「それでは鴻夏皇女はこちらへ…」
そう言って伯が鴻夏に手を差し伸べると、鴻夏は無言でその手に自らの手を重ねた。
「それでは凛鵜皇子、花胤の皆様、これにて我等は風嘉国へと戻らせていただきます。くれぐれも花胤帝によろしくお伝えくださいますよう」
「心得ました。道中お気をつけて」
「凛鵜皇子も…。それではこれにて」
そう丁寧に一礼をすると、伯は鴻夏の手を引き黒漆に金彩を施した豪奢な六頭立の儀装馬車へと誘った。
そこには湟 牽蓮が控えていて、馬車の前で丁寧に一礼をして出迎える。
鴻夏が無言で馬車の中へ姿を消すと、それに続いて牽蓮も馬車の中へと乗り込んだ。
その僅かな間に、チラリと牽蓮は凛鵜へと視線を返す。
二人の視線が交錯し、牽蓮はニコリと微かに微笑むと、馬車の中へと姿を消した。
それを確認した後、伯は軽やかに馬に跨ると高らかに出立の宣言をする。
「これより風嘉本土へと戻る。出立!」
それを受けてあちこちで出発の声が上がり、ゆっくりと風嘉使節団が動き出した。
それを見送りながら、凛鵜は胸の前で強く右手を握り締め、別れの感傷に耐える。
『鴻夏を頼みますよ、璉』
強く心の中でそう思いながら、去り行く馬車を無言で見つめる。
その時 馬車の窓が急に開き、白い薄絹をはためかせながら、鴻夏が顔を出した。
「凛鵜、これを…!」
「鴻夏…っ?」
思わず数歩前に出た凛鵜に向かって、鴻夏が何かを投げつける。
キラキラと朝陽を煌めかせて、凛鵜の手の中へと落ちてきたそれは、見事な黒曜石の耳飾りだった。
遠目に鴻夏の左耳の耳飾りが失われているのを見て、凛鵜は鴻夏が自分の耳飾りの片方を投げて寄越した事を悟る。
自分達はこの耳飾りの片方のように一対。
いつか必ず片割れの元へと還る。
そう言われたような気がした。
「凛鵜…っ、元気で…!」
「鴻夏も…!」
何とかそれだけの言葉を交わすと、鴻夏を乗せた馬車はゆっくりと風嘉国へ向けて旅立っていった。
その姿を見えなくなるまで静かに見送ると、凛鵜は手の中に残された耳飾りをそっと見つめる。
そして自らそれを左耳につけると、馬に跨り高らかに宣言をした。
「これより我等も皇都へと戻る。出立!」
それを受けてあちこちで出発の声が上がり、ゆっくりと花胤送迎団が動き出した。
こうして世に名高い『花胤の陰陽』の二人は、運命に誘われ、それぞれ別々の道を歩み始めた。
そしてこの別離を最後に、二人はそれぞれ違った立場で激動の時代を生き抜いていく事になるのだが、この時の二人はこれが永遠の別れに繋がる第一歩だとは気づいてもいなかった。
道は遠く厳しく、これからこの運命の双子に数々の困難を振りかける事になるのだが、まだそれの序章ですら始まっていない事をこの時点では誰も知らなかった。
続く