ー旅立ちー
風嘉の使節団が皇城に到着してから二日後、連日長々と続いていた祝宴も終わり、ついに鴻夏は花胤帝らに見送られ、風嘉使節団と共に国境の城へと旅立った。
花胤側の送迎の長は、弟の凛鵜皇子。
母である翡雀皇后とは、昨夜 離宮内で旅立ちの挨拶をしたのが最後となったが、凛鵜とはまだ国境の城まで一緒に行ける。
それが少しだけ嬉しかった。
そして略装とはいえ豪華な輿入れ用の衣装に身を包み、弟の凛鵜皇子に手を引かれ、両国の送迎の使節団の前に現れた鴻夏は、いつにも増して光り輝いていた。
この日の鴻夏は、鮮やかな朱色の絹地に金糸で細かく花の刺繍を施した衣装を身に纏い、同じく金地に多彩な色で幾何学模様を刺繍した帯を締め、首には三連にもなる大粒の金真珠の首飾りをかけていた。
そして花嫁らしく、頭からつま先までほのかに肌が透けて見える程度の白い薄絹をすっぽりと被り、周囲の人々からさり気なくその美しい容姿を隠している。
一方 弟の凛鵜皇子の方はというと、男性らしく黒絹を基調とした上品な衣装で、そこに銀糸で大きく龍の刺繍を施し、帯は銀地に玉虫色の糸で鴻夏と同じ幾何学模様を刺繍した粋な仕様の物を身に付けていた。
彼も今回は送迎の長として、普段よりも豪奢な旅装に身を包んでおり、これまた鴻夏に負けず劣らず輝いている。
思わず姉弟共に、圧巻と言わざるを得ないほどの美しさであった。
これには送り手側の花胤にしても受け手側の風嘉にしても、お互いが今この場に使節団の一員として選ばれ、双子と共に居られる事が誇らしかった。
また皇城から国境の城へと続く沿道には、旅立つ二人の姿を一目見ようと、大勢の人々が詰めかけ、地を揺るがすほどの歓喜の声と共に地上を埋め尽くしている。
その声をどこか遠くで聞きながら、鴻夏は弟の凛鵜と共に、黒漆に金彩を施した豪奢な六頭立の儀装馬車に乗り込んだ。
「いよいよ出立ね…」
窓の外を見ながら、ポツリと鴻夏が呟く。
それをどこか夢見心地で聞きながら、凛鵜は無言で鴻夏を見つめた。
この旅が生まれてからずっと共に居た、自分の片割れと過ごす最後の三日間となる。
終着点である風嘉との国境の城に着いた時が、自分と鴻夏の別れの時。
自分はそこからまた皇城へと取って返し、鴻夏はそこから一人、そのまま風嘉の使節団と共に国境を越えて風嘉の皇都へと向かう事になる。
これが最善の策と自分で決めた事でありながらも、未だに凛鵜の心は揺れていた。
出来る事ならば、この愛しい魂の片割れを誰にも渡したくない、離したくない。
誰の目にも触れさせず、触らせず、自らの手で護って誰よりも幸せにしてやりたい。
だが今の自分には、まだその力がない。
またこれ以上 鴻夏をここに留め置けば、これから起こるであろう骨肉の争いに巻き込むだけでなく、より自分の望まない場所に嫁がされてしまう可能性が高い。
そうなるくらいならばと、凛鵜は自ら手を回して今回の縁談を取りまとめた。
そして裏であの男の確約も取り付け、何もかも予定通りに事が運んだというのに、自分の感情だけがそれに付いていかない。
何度も行くなと言いそうになるのを堪えながら、凛鵜は一人 葛藤に耐えていた。
一方 鴻夏もまた、母皇后と弟の凛鵜のために素直に風嘉に嫁ぐ事を決意したものの、男である自分が皇后になるべく他国に嫁ぐという事実に思い悩んでいた。
母と弟の立場を守るためには、皇女として風嘉に嫁ぐしかないのはわかっている。
だが何の罪もない風嘉の人々まで騙す事に、何の抵抗もないわけではない。
また自分の夫となる風嘉帝は、稀代の戦上手として有名な武帝である。
もし自分がこのまま姿を眩ます事が出来ないまま風嘉の皇城に辿り着き、そこで男だとバレてしまったらどうなるのか…。
風嘉側が男の皇女を差し出された事に怒り狂って、そのまま花胤に攻め込まないとも限らなかった。
だからこそ自分は、風嘉帝に出会う前に何としても姿を眩まさなければならない。
理想は国境の城を越え、風嘉側に入った直後、なるべく花胤国から離れていない位置で行方を眩まし密かに花胤側へと戻る事。
今ひとつ現実味がない案だったが、もう
それしか方法はないように思えた。
しかしその時、ふいに鴻夏の脳裏に亜麻色の髪の男の台詞が蘇った。
『…貴女が気になさっている点については、大体予想がついています。その事について、現段階で私の口からは何も申せませんが…、悪いようにはしないという事だけはお伝えしておきましょう』
あの夜、確かに湟 牽蓮はそう言った。
そして訝しみ、不安を隠せない自分に対し、更にこう告げたのだ。
『貴女の願いを本当に叶えたいのなら、敢えて何もせず、そのまま流れに身を任せる事です。それがおそらく貴女にとっての最善の策になるでしょう』
まるで占い師のように、淡々とそう告げた牽蓮は、暗にそのまま何もせず風嘉帝に嫁ぐよう鴻夏に念を押した。
牽蓮の言った事を言葉通りに取れば、鴻夏がこのまま粛々と風嘉帝に嫁ぐ事が一番いい結果になるという事になる。
しかし男である自分が嫁いで、風嘉側に一体何の利益があるというのか?
世継ぎも産めない、まさしく形だけのお飾りの皇后など、邪魔にこそ思えど有り難く思う要素など何一つない。
あれは自分を本当の女性だと勘違いしているからこそ出た言葉のはずだ。
そうでなければ説明がつかないと、鴻夏は冷静にそう分析した。
だからこそこの三日間で、自分は凛鵜と共に最も成功率の高い策を練り、見事逃走を果たさなければならない。
そんな二人の想いも知らず、沿道には人々の祝福の声が溢れ、先触れの者によって撒かれた花弁が鮮やかに宙を舞っていた。
そして地を揺るがすほどの歓喜の中を、風嘉使節団と花胤送迎団に護られながら、鴻夏と凛鵜の二人を乗せた儀装馬車がゆっくりと駆け抜けていく。
おそらく自分達の姿などまったく見えていないだろうに、それでも熱心に馬車に向かって手を振り続ける人々の熱狂ぶりに、鴻夏は終始圧倒されていた。
同時にこの婚姻による風嘉との同盟に、こんなにも人々の期待が集まっているのかと思うと、その無言の重圧に押し潰されそうになる自分がそこに居た。
ずっと国民の税金で贅沢な暮らしをさせてもらってきたのに、女性皇族としての唯一無二の義務も果たせず、ただ逃走する事しか出来ないなんて…。
その事実が心苦しくて仕方がなかった。
そんな時だった。
ふいにガタンと急激に馬車が止まった。
突然の事に思わず顔を見合わせた鴻夏と凛鵜の耳に、すぐさまお付きの者の激しい誰何の声が聞こえてくる。
「無礼者!こちらをどなたの一行か知っての狼藉か⁈花嫁行列の先を塞ぐとは、何と無礼な…その命、もはや無き者と思え!」
「お…お許しを…。幼い子供ゆえ、人波に押されてそのまま倒れ込んだだけにございます。決して行手を塞ぐつもりは…」
震え怯えた声で、ただひたすら謝罪を続ける女の声が聞こえてきた。
そっと窓から様子を伺うと、幼い子供を抱えた女性が、お付きの兵士の前でガタガタと震えながら平伏している。
どうやら熱狂した人々に押され、子供が馬車の前に弾き出されてしまったらしい。
間一髪で引く事こそなかったが、もし間に合わなければ花嫁行列が血で穢れる事になっていた。
そうなればもう、不吉な花嫁としてこの縁談自体が流れる可能性もある。
そのためお付きの者怒りは至極当然の事であった。けれど…。
「ええい、黙れ!どのような理由があろうと、皇女の馬車を止めるなど許される事ではない!お前達、この者達をすぐさま引っ立てい!」
怒り興奮し、容赦なく兵隊長がこの哀れな母子を罪人として引っ立てようとする。
しかし泣き叫ぶ子供の声を耳にした途端、思わず鴻夏は叫んでいた。
「お待ちなさい!」
凛した美しい声に、ピタリと兵士達の動きが止まった。
そしてキィッとふいに馬車の扉が開くと、弟の凛鵜皇子に手を引かれ、花嫁行列の主役である鴻夏が突然その場に降り立つ。
各国にその名を轟かせた『花胤の陰陽』の
突然の登場に、その場に居た者達は一瞬で雷に打たれたかのように平伏した。
「…兵隊長、一体これは何の騒ぎだ?」
すでにおおよその見当はついていたが、敢えて凛鵜が事の詳細を尋ねてみる。
すると畏まった状態で、兵隊長が凛鵜に対し詳細説明を始めた。
「はっ、この者達が皇女様の馬車の前に突然飛び出してきまして…。もう少しで花嫁行列が血で穢れる事態になるところでした。そのため今、罪人として引っ立てようとしている次第にございます」
そう恭しく報告すると、それを受けて鴻夏がふいに口を開く。
「…それは必要な事ですか?聞けばその者達も悪気あってした事ではないと言っております。実際に血で穢れてしまったのなら罪にもなりましょうが、こうして何事もなく済んだのであれば、特に罪に問う必要もないでしょう」
「お…皇女様、しかし…」
「…兵隊長、姉上もこう仰せだ。今回は恩赦という事で、その者達は無罪放免としてやるがよい」
重ねて凛鵜にそう言われ、兵隊長も目を白黒させながら渋々引き下がった。
それを受けて、ワッと周囲が双子の対応に対し賞賛の声を上げる。
その様子を少し離れた場所から見て取りながら、風嘉使節団長である伯 須嬰は、素直に感嘆の言葉を口にした。
「若いのに、なかなか寛容で出来たお人柄のようだな『花胤の陰陽』のお二人は…」
「…持って生まれた育ちの良さ故だろう。そもそも成り上がりの血筋の我々とは、最初から人種が違うのさ」
そう捻くれた意見を述べたのは、湟 牽蓮である。
普段は飄々として掴みどころのない雰囲気の男だが、この時ばかりはやけに毒々しく冷たい雰囲気を醸し出していた。
彼等は牽蓮の言葉通り、先の大乱がなければ、とても今のような立場に就ける家柄でも血筋でもなかった。
伯 須嬰は今でこそ将軍職に就いているが、元々はただの兵隊長の家柄でしかなく、大乱がなければどんなに武勇を重ねようとそれ以上の地位は望めなかった。
湟 牽蓮に至ってはその出自も不明で、大乱前であったなら、一介の官僚になれたかも怪しい状況だった。
風嘉の大乱は確かに歴史に残る数々の不幸を生み出したが、その反面、才智ある有能な人材がその能力に見合った地位に台頭するための機会をももたらしていた。
今の風嘉の急激な復興は、家柄だけで無能なものが要職を占めていた体制を一掃できたからこそのものである。
そもそも現 風嘉帝である璉瀏帝ですら、皇族とは名ばかりの末端の血筋だった。
『一番玉座から遠い皇子』と謗られてきたように、皇帝の側室とはいえ母親は他国から連れて来られた奴隷に過ぎず、その母も出産と引き換えにその命を落としていた。
そして時の皇后により、生まれてすぐに森に打ち捨てられ、先帝である纜瀏帝に助けられなければ、たった一日も生きれずにこの世を去っていたかもしれない。
また助けられた後も何かにつけて常に命を狙われ続け、皇族とは言いながらも何の後ろ楯もないまま、ただ自らの才智のみで修羅場を生き長らえてきた皇子である。
あの大乱がなければ、彼もまた風嘉の玉座に座る事は一生なかったはずであった。
だからこそ牽蓮は、『成り上がり者集団』と自分達を皮肉ったのである。
一方 花胤帝を父に持ち、その正式な皇后を母に持つ『花胤の陰陽』の二人は、遠目に見ても凛として澄んだ空気を放ち、誰よりも気高く美しく自信に満ち溢れていた。
自分達には一生かかっても出せないその雰囲気に、牽蓮は反感を抱くと同時にどうしようもなく惹かれてしまう。
まるで炎に吸い寄せられる蛾のように、その輝きが毒と知っていても、人々は焦がれ跪き彼等に仕えようとしてしまう。
そこには持って生まれた品格の差というものが確かにあった。
「皮肉なものだな…。誰よりも玉座から遠いと言われ続けた男の下に、誰よりも高貴なあの皇女が嫁ぐのか…」
「おい、牽蓮!」
思わず窘めようと声を荒げた伯を置いて、牽蓮は敢えて一人で馬を進める。
それを慌てて追いかけると、伯は牽蓮と並んで馬を進めながら、少し声を低めてこう告げた。
「…牽蓮、どこで誰が聞いているかもわからん状況なんだ。今みたいな不用意な発言は、極力控えてもらおう」
「はいはい。相変わらず慎重な事で」
「牽蓮!」
「…心配しなくても、この縁談を潰すような事はしませんよ」
幾分皮肉げに微笑むと、それっきり牽蓮は思考の海へと自らの意識を追いやってしまったようだった。
それを横目で見ながら、伯もまたふいに自らの思考に囚われる。
復興してきたとはいえ、まだまだ不安定な情勢の中、この縁談は果たして風嘉にとって吉と出るのか凶と出るのか…。
漠然とあの美しすぎる皇女が嫁いでくる事で、四大皇国を中心に何かとても大きな変化が起こる予感がしていた。
それが風嘉にとってよい変化であればいいのだが…と思いつつ、伯はチラリと隣で馬を進める男に目をやった。
普段は常にふざけた態度を崩さないが、その実 誰よりも事の先を読んでいて、一歩も二歩も先に流れに合わせた手を打ってくるのがこの男である。
彼自身はこの先の未来がどのように動いていくと読んでいるのか、伯はつい聞いてみたい衝動に駆られた。
しかし相手は珍しく自分の思考をまとめるのに夢中なようで、伯の視線にも気付かずかなり深く考え込んでしまっている。
そうこうしているうちに、再び何事もなかったかのように進み始めた花嫁行列は、熱烈な人々の歓迎の中、順調に一日目の行程を終え、日没頃には予定通りの宿屋に辿り着く事が出来た。
そして一行に束の間の平穏な夜が訪れたと思われた矢先に、新たなる事件が起こったのである。
澄んだ美しい月に照らされながら、この宿屋一 立派な部屋で、鴻夏と凛鵜の二人は密かに今後の対策について話し合っていた。
すでにお互い入浴も済ませ、ゆったりとした女性用の夜着に身を包んだ鴻夏は、例え素顔であっても人並み外れた美しい少女にしか見えなかった。
それを横目に見ながら、同じく男性用の夜着に身を包んだ凛鵜は、鴻夏そっくりの美しい顔を曇らせ心配そうにこう尋ねる。
「…本当に決行する気なの、鴻夏?」
「仕方ないじゃない。花胤の対面も保ちつつ、正体もバレないようにするには、これしか方法が思いつかないんだもの」
深い溜め息をつきつつ、鴻夏がそう答えると、凛鵜は更に顔を曇らせる。
「…鴻夏。やっぱり現実的でないよ、その作戦は。そもそも今日だって、まったく一人になる時間が取れなかったじゃないか」
「そ…れはそうだけど…、でも他に何かいい方法がある?」
キッと敢えて挑むように凛鵜を睨むと、思いがけず彼の口から信じられない言葉が零れ落ちた。
「…いっそ正直にこちらの事情を話してみるとか…」
「正気なの、凛鵜?そんな事をしたら、貴方や母上の身に危険が及ぶだけでなく、この花胤もどうなる事か…」
自分でそう答えながらも、鴻夏は軽く想像しただけでゾッとする。
いくら復興中とはいえ、風嘉は四大皇国の一つであり、しかも現皇帝は稀代の戦上手と名高い璉瀏帝である。
もし自分の事が原因で両国間に争いが勃発したら…この花胤が壊滅的な打撃を受ける事は必須だった。
そんな事は世間知らずの自分ですら、容易に想像できる事なのに、なぜこの段階になって凛鵜がそんな事を言い出したのか…。
誰よりも賢い凛鵜らしからぬ言動に、不思議に思って見返すと、凛鵜は痛ましい表情で搾り出すようにこう告げた。
「この国は…長く平和で居すぎた。だからもう根底から腐ってきてるんだ。風嘉で起きた大乱は、今後どの四大皇国でも起こり得る話だ…。現に昨年、月鷲でも先帝の一族を皆殺しにして、本来ならば皇帝の位に就けないはずの鴎悧帝が即位している。次はうちもそうならないという保障はない」
「凛鵜…」
「だから僕は、鴻夏が嫁がなければならないのなら、出来るだけ安全な場所に行って欲しい。風嘉はまだ情勢不安はあるけれど、それでもあの国は今、璉瀏帝を中心にしっかりと纏まっていてその地位は絶対に揺るがない。おそらくこの縁談以上に最適な嫁ぎ先はないと思う」
「でも…私の秘密を知って、それでも皇后に迎えたいと風嘉側が思うと思う?世継ぎも産めないお飾りの皇后なんて、どう考えても無用の長物でしかないわ」
幾分 自嘲気味にそう呟くと、凛鵜は静かに首を横に振った。
そして何かを堪えるような複雑な表情を見せると、鴻夏に対してこう諭す。
「…自分を過小評価しないで、鴻夏。君の事を知って、君を欲しがらない人間なんてこの世には居ないよ。僕だって本当なら誰にも君を渡したくない。僕に君を護れるだけの力があればこんな事には…」
「貴方のせいじゃないわ、凛鵜。皇家に生まれた限り、自国に有益な国や一族に嫁ぐのは当たり前の事よ。むしろその責務すら果たせない私の方が問題だわ」
そう鴻夏が呟いた時だった。
階下からキャーッという甲高い悲鳴と共に、人々が争う気配が沸き起こった。
思わず顔を見合わせた鴻夏と凛鵜は、すぐさま護身用の剣を片手に身を固くする。
するとすぐにバタバタと扉の外に侍女が駆けつける気配がし、二人の許しも請わないまま慌てて中に飛び込んできた。
「凛鵜皇子、鴻夏皇女、ご無事ですか⁉︎」
「何事だ?」
「は、はい。賊の侵入にございます。皇女の結納の品が狙いのようで、今 宝物番の兵士と盗賊とが争っております」
「盗賊⁉︎」
異口同音にそう叫んだ鴻夏と凛鵜の耳に、階下での争いの声が聞こえてくる。
花胤と風嘉の合同使節団を襲うとは、大胆不敵な犯行だったが、どう考えても盗賊らが無謀であったとしか言えなかった。
何故ならこの一行には武勇で名を馳せた、風嘉の伯将軍が同行していたからである。
ふいをつかれ、最初こそ兵士側の方が押され気味になっていたが、そこに一人の男が駆けつけた。
黒髪に濃い蒼の瞳、日に焼けた浅黒い肌を持つその男は、言うまでもなく風嘉側の使節団長を務める伯 須嬰である。
彼も鴻夏達と同じく割り当てられた自室で寛いでいたが、階下の騒ぎを聞きつけ、いち早く剣を片手に駆けつけてきた。
そして一瞬で、その場の情勢を反転させてのけたのである。
「す…ごい」
その場に居合わせた人々は、あまりの事に圧倒され完全にその動きを止めていた。
十数名からなる盗賊らに次々と斬りつけられ、あと少しで宝物部屋の扉を破られそうになっていた兵士達は、まるで黒い疾風のようにその場に現れた伯将軍の神憑り的な剣技に目を見張る事となる。
剣を抜いた瞬間もわからないほど素早い抜きに、彼が通り過ぎた後にようやく相手が斬られた事に気付くほど速い斬撃。
しかも一撃で確実に相手の反撃の力を削ぎ、その命までは取らないよう、絶妙に致命傷は避けて斬り捨てている。
そのあまりの強さにあっという間に形勢は逆転し、花胤の増援の兵士達が到着する頃には、すでに盗賊らの大半は床に転がり抵抗の力を無くしていた。
「…すでに勝敗は決しています。もう彼等は抵抗も出来ないでしょうが、早めに捕らえた方がいいですよ」
あまりに信じがたい事実に、駆けつけたもののそのまま凍りついて動けなくなっていた花胤の兵士達は、ふいに響いた冷静な指摘の声に急激に現実へと引き戻された。
妙に淡々とした口調でそう指摘したのは、言うまでもなく湟 牽蓮である。
階上から階段をのんびりと降りてきた彼は、伯将軍と違い腰に剣すら帯びず、手ぶらでフラリとその場に現れた。
いかに文官とは言え、盗賊の侵入現場に丸腰で現れるとは、もはや命知らずか馬鹿としか言いようがない。
このままでは危ないと花胤の兵士達が焦ったところで、ふいに物陰から牽蓮に向かって盗賊の残党が斬りかかってきた。
「危ないっ!逃げて!」
思わずそう叫んだが、どう頑張ってもこの距離では間に合わない。
もはや誰もが血飛沫をあげて倒れ込む牽蓮を想像したが、予想に反し彼はかすり傷一つ負わなかった。
何故なら盗賊の剣が振り下ろされた瞬間、スッとその後ろに黒い影が立ち、一瞬で盗賊の方が斬り捨てられたからである。
目の前で血飛沫をあげて倒れ逝く盗賊を見つめながら、牽蓮は助けられる事を微塵も疑わなかったのか、まったく微動だにせずその場に立ち尽くしていた。
そしてドサリと自らを襲った盗賊の体が床に崩れ落ちたところで、ようやく衆人の目に剣を手にした伯将軍の姿が晒される。
予想外の救出劇にワッとその場が盛り上がる中、伯はフゥッと深い溜め息をつきながら、自ら剣を振って盗賊の血を払った。
「…まったく、心臓に悪い事をしないでくれませんか?お陰で手加減が出来ず、彼だけ命を奪ってしまった…」
責めるようにそう呟く伯に、牽蓮は人の悪い笑みを浮かべる。
「それは悪かったですね。でも君なら当然、助けに来ると思ってましたから…。ま、私としては間に合わなかったのなら、それはそれで別に良かったんですがね」
「牽蓮、貴方また…」
また悪い癖が出たと言わんばかりに、伯が眉をひそめると、牽蓮はそのままスッと膝をつき、ついさっき絶命したばかりの盗賊の死体に近づいた。
そして迷わず相手の覆面を剥ぐと、その容姿の特徴を改めポツリと呟く。
「…月鷲の者か…」
「彼等は傭兵としても、各地で活躍していますからね。今回も盗賊を装っただけで、目的は別にあるかもしれませんよ?」
ようやく動き出した花胤兵達に事態の収拾を任せると、伯も膝をつき、牽蓮と共に自らが斬り捨てた死体の検分する。
「…なるほど?それも一理あるが、ただの盗賊の線も捨てられないな…。こんな無謀な計画、こいつらが捨て駒でもない限り、実行するのは馬鹿のする事だ」
辛辣な口調でそう語ると、牽蓮は再びスッと立ち上がる。
その段階になってようやく、夜着の上に上掛けを羽織っただけの姿の鴻夏と凛鵜の二人が駆けつけた。
突然の『花胤の陰陽』の登場に、その場に居た者全てが慌ててその場で跪く。
そんな中、一瞬 鴻夏と牽蓮の視線が階段の上と下とで交錯した。
ニコリとまた掴み所のない笑顔を見せると、牽蓮もまたスッとその場で跪く。
周囲の視線が双子に集中する中、ゆっくりと階段を降りながら、凛鵜が落ち着いた口調で状況を確認した。
「…状況は?」
それに対し、花胤の兵隊長が慌てて人波を掻き分け報告に走ってくる。
彼は改めて凛鵜の足元に跪くと、今わかっている限りの情報を詳細に報告した。
「はっ、闇に乗じて侵入した賊にふいをつかれ、一時危うい状況に陥りましたが、風嘉の伯将軍のお陰で事なきを得ました。宝物は全て無事、こちらの被害も怪我人が数人出た程度で、明日以降の旅路に何の問題もありません」
「そうか、それは重畳。…伯将軍」
ふいに凛鵜に名を呼ばれ、伯がスッと一歩前に進み出る。
「はっ、こちらに」
「この度は賊への対処に対し、将軍には多大なご迷惑をおかけしました。花胤国内でこのような事態…情けない限りです」
「いえ、被害も少なく何よりでごさいました。また私の今回の任務は、鴻夏皇女を無事 我が君の元まで送り届ける事。それは風嘉国内に限らず、この道中すべてにおいてでございます。ですからどうぞお気になさらずに」
「…お気遣い痛み入ります。しかしお一人で十数名にも及ぶ賊を制圧とは、さすが世に名高い伯将軍。一騎当千の強者との噂は誇張でもなんでもないようですね」
ニッコリと艶やかに微笑むと、凛鵜はチラリとその後ろに控える牽蓮に目をやった。
それに対し、牽蓮は素知らぬ顔で気づかない振りをしたが、凛鵜はそれを許さずわざと彼に話を振ってくる。
「今回の襲撃、ただの賊の仕業なのかそれとも他の思惑が絡んでいるのか…貴方はどう分析されているのです、牽蓮殿?」
突然の凛鵜の問いに、ザワッと周囲がどよめいた。
まさか花胤の皇子が他国の一文官に、いきなり事の真相についての意見を求めるとは思わなかったのだ。
まさに異例中の異例の事態だが、聞かれた方はと言うと、それすら読んでいたかのように冷静にこう答える。
「…そうですね。いささか判断材料が少のうございますが、捕らえた賊らの身体的特徴、その行動等を分析した限りでは、ただの盗賊の仕業とみなして問題はないかと思われます」
「…貴方がそう判断されたのなら、それで間違いないでしょう。兵隊長!」
「はっ、皇子」
「さすがに一夜に二度の襲撃はないと思いますが、見張りの数だけ増やして交代で休んでください。捕らえた賊は、皇都に連絡し連行させるように。明日は予定通りの時刻に出立します」
オオッと再び周囲がどよめいた。
まさか凛鵜が他国の一文官の意見をそのまま信じ、その後の判断まで下すとは思わなかったのだ。
皇子がそこまで信頼を寄せる、あの文官は何者だ?と周囲の視線が牽蓮に集まる。
そして兵隊長が、恐る恐る意見を述べた。
「凛鵜皇子、その…よろしいのですか?他国の一文官の意見を、そのまま信用なさって…」
「問題ありません。彼の事はよく知っています。信頼するに値する人物です」
きっぱりとそう言い切る凛鵜に対し、実に迷惑そうに牽蓮が呟く。
「凛鵜皇子…。今の私は風嘉の文官です。もう少し疑ってかかってもよろしいかと」
「…貴方が無益な争いを好まない事はよく知っています。それにこれから同盟を結ぼうとしている花胤に対し、罠を仕掛けるような方でもありません。そうと知っていて、わざわざ疑う方が時間の無駄でしょう」
自らもっと自分を怪しめと告げた牽蓮に対し、凛鵜は事も無げにそう答えた。
そのやり取りを聞きながら、鴻夏は凛鵜と牽蓮の間に、何か強い絆のようなものがあるのを肌で感じる。
凛鵜は基本誰にでも優しいが、その代わりかなり警戒心が強く、ある一定以上は他人を近寄らせないところがある。
ところが牽蓮に対しては、何故かその壁を一切感じないのだ。
『むしろ凛鵜の方が、彼を慕っているような…?こんな凛鵜、初めて見る…』
生まれたその瞬間からいつも隣に居て、お互いの事を何でも知っているつもりでいたのに、鴻夏は初めて見る凛鵜の姿にひどく戸惑っていた。
それと共に今 目の前に居る湟 牽蓮という男について、詳しく知りたいという欲求が頭をもたげる。
しかし鴻夏が何か言葉を発する前に、事態は収束してしまい、そのまま何も話せないまま自室に戻る事になってしまった。
凛鵜に促され、幾分後ろ髪を引かれながらも、素直に自室に戻ろうとした鴻夏は、最後にチラッと牽蓮を盗み見た。
ところがその瞬間、まともにバチッと相手と目が合ってしまう。
あまりに予想外の事態に、つい焦ってしまった鴻夏に対し、牽蓮はまったく動ずる事なく無言でニコリと微笑んだ。
それに対し、鴻夏は慌てて目をそらす。
当座の方針も決まり、『花胤の陰陽』も去った今、残された人々もまたそれぞれ各自の持ち場や自室へと戻っていった。
それは今夜、大活躍であった伯と牽蓮の二人も然り。
そしてそれぞれの激動の一日目が、ようやく幕を閉じたのであった。
翌朝、その後は何も起こらず無事平和な朝を迎える事が出来た一行は、予定通り二日目の行程を進むべく宿屋を出立した。
今日も沿道沿いには数多くの人々が詰めかけ、口々に祝いの言葉を述べながら、鴻夏達の乗った擬装馬車に向かって熱心に手を振り続けている。
それを窓越しにボンヤリと眺めながら、鴻夏は弟に対し、昨夜から疑問に思っていた事を口にした。
「ねぇ、凛鵜。あの湟 牽蓮という方は、一体どんな方なの?あといつからあんなに親しくしているの?」
いきなり鴻夏から予想外の話を振られ、さすがの凛鵜も一瞬言葉を失う。
しかしすぐさま気持ちを立て直すと、凛鵜は努めて平静にこう答えた。
「…いきなりどうしたの、鴻夏?牽蓮殿と何かあったの?」
「何かあったのは貴方でしょう?私 家族以外の他人に、あんなに気を許してる凛鵜を初めて見たわ。一体どういう関係なの?」
そう問い詰められ、凛鵜は自分でも驚くほど動揺する。
『僕が気を許してる…?この僕が⁉︎』
確かに三年前、彼が風嘉に戻るまでは誰よりも親しくしていたと思う。
自分は今より更に子供で、日々周囲から向けられる悪意や猥褻な行為に耐え兼ね、全てにおいて萎縮していた。
そんな時に彼に出会ったのだ。
まるで抜き身の刀身のように鋭く、そして刹那的な激情を秘めた彼に。
一目でこの人が欲しいと思った。
理屈なんてない。
ただ本能的にそう思ったとしか言えない。
だから何にも興味を示さない彼を、自分の方に振り向かせたいと強く思った。
必要以上に彼に話しかけ、事あるごとに彼を追いかけ自分という存在を焼き付けた。
そして最初ただ迷惑そうにしていただけの彼が、徐々に自分に好意を示し、側に居る事を容認してくれるようになった時は、本当に嬉しかった。
また彼が初めて自分の部屋を訪れてくれた時は、ようやく彼の特別な存在になれたようで誇らしかった。
けれど…それも三年前にあっさりと終わってしまった。
それまでなんの音沙汰もなかったのに、彼はふいに届いたたった一枚の手紙で、あっさりと祖国に戻る事を決めてしまった。
そして父皇帝の反対を押し切り、強引に帰国しようとする彼に、凛鵜は仕方なく手を貸し、彼を祖国へと帰してやったのだ。
それを最後に、今の今まで彼とは手紙一つ交換する事なく過ごしてきたというのに…。
「…鴻夏。僕と牽蓮殿はそんなに親しそうに見えた?」
「え、ええ…。うまく言えないけど、何というか…強い絆のようなものを感じて…」
「そう、絆…ね」
俯き加減でその細かい表情までは読み取れなかったが、毒を孕んだ冷たい空気を感じ、鴻夏は一瞬ゾクッとした。
しかしパッと顔を上げた瞬間、そこに居たのはいつも通りの優しい顔の凛鵜で、鴻夏は先程感じたあの気配は自分の勘違いかと思ってしまった。
そしてそんな鴻夏の耳に、追い打ちをかけるように明るい凛鵜の声が響いてくる。
「牽蓮殿が三年前まで、皇立学院の教授だったって事は前に話したよね?」
「え、ええ…」
「僕はあの頃、牽蓮殿の戦略・戦術論に心酔してて、彼の研究室にしょっちゅう入り浸ってたんだ。だから言うなれば、僕は彼の一番弟子みたいなものなんだよ」
ニコッと穏やかに微笑むと、凛鵜はさらに言葉を続ける。
「…牽蓮殿はとても優秀な教授だったよ。だから父上も、牽蓮殿が帰国を願い出た際、それを許さなかった。でも…牽蓮殿はそれを無視して、祖国に戻ってしまったんだ。だからこそ先日の宴で、父上は牽蓮殿に対してあんな言い方をしてたんだよ」
そう説明されて、やっと鴻夏は先日の父皇帝との妙に確執のあるやり取りについて、その理由を知ったのであった。
だがそれと共に新たな疑問が湧いてくる。
『あの人、そんなに優秀な方だったのね。確かにどこか只者ではない雰囲気は感じていたけれど…、でも本当にただの文官なのかしら?』
何かしっくりと来ないものを感じて、鴻夏は一人首を捻った。
昨夜も侵入した賊を討伐してのけたのは伯将軍で、彼自身は剣など振るっていない。
それどころか現場に丸腰で現れ、周囲を焦らせたというのに、あの時 本当に彼は斬られる寸前だったのだろうか?
遠目に見かけただけなので、あまり自信はなかったが、鴻夏にはなぜか彼が斬られるようには見えなかった。
むしろ襲いかかっていた賊の方が、今にも斬られそうな気がしていたのだ。
彼は確かに丸腰だったというのに。
あと自分の思い過ごしなのかもしれないが、彼に対峙するといつも何とも言えない違和感を感じるのだ。
まるで本来跪かせるべきでない相手を、間違って跪かせてしまっているような…そんな何とも言えない独特の違和感。
いつも感じるわけではないのだけれど、ふとした拍子に強くそれを感じる。
為政者だけが持つ、そこに居るだけで相手を従わせてしまうような圧倒的な存在感。
もちろん彼も風嘉の政治を担う重要人物と聞いているので、そういった雰囲気を出していてもおかしくはないのだけれど…。
『本当にそれだけ…なのかしらね?』
何故かその説明では、うまく納得が出来ない自分が居るのを鴻夏は感じていた。
その頃 馬車の外では、並んで馬を進めながら、牽蓮が伯に延々と説教をされていた。
いつもなら話途中で抜け出し、最後まで聞かないのだが、花嫁護送の任務途中とあってはそういうわけにもいかず、牽蓮はうんざりとした表情で溜め息をつく。
しかしそれを目敏く見つけた伯が、さらに怒り出し口調が過熱してしまった。
「牽蓮!ちゃんと人の話を聞いてます?」
「あー…はいはい。ちゃんと聞いてますよ」
「聞いてませんね?貴方ね、いつもそうやって人の話を上の空で聞いているから、いつまでたっても行動を改めないんです!」
しまったと後悔してももう遅い。
これは一体あと何時間続くんだと心の中で思いながら、牽蓮はげんなりして視線を外した。
正直 伯がここまで口うるさくなったのは、自分のせいなんだろうなとは思う。
確かに元々説教くさいところはあったが、最初出会った時はこうではなかった。
むしろ武人らしく、どちらかというと言葉少ないタイプだったようにも思う。
もちろんそれはよく知らない相手だったからこそ遠慮していたという事もあるのだろうが、今では流れるように自分に対して延々と文句を垂れるようになった伯を見ながら、これは喜ぶべきなのかどうなのかと牽蓮は思った。
それに対し、また伯の怒鳴り声が響く。
「ほら、また聞いてないっ!」
「あ…いや、その…」
「牽蓮、貴方ね?自分が悪いと思ってないから、そういう態度になるんです!」
「あー…いや、そういうわけでもないんですが…」
「ほう?ではなぜ何度言われても、自分勝手な行動を改めないのです?」
畳み掛けるようにそう言われ、これはもう何も言っても無駄だなと牽蓮は諦めた。
しかしふいにピタリと伯の説教が止む。
おや?と思い相手を見返すと、妙に真剣な表情で伯がこちらを見つめていた。
そして目が合ったと同時にこう囁く。
「…お願いですから、もっとご自分の事も大切になさってください。貴方が常に人々を大事にしてくださるように、周囲の人々も同じように貴方の事を心配している事を忘れないでください」
「…わかっているよ。ありがとう、須嬰」
ふわりと珍しく穏やかな笑みを浮かべると、牽蓮は再び前へと視線を動かした。
続く