ー再会ー
色とりどりの綾織物や煌びやかな宝石類、貴重な茶葉や陶器類。天に向かってそそり立つ立派な象牙や珍しい香木など、次々と用意されていく鴻夏の嫁入りの持参品が、皇城の一室に所狭しと並べられていた。
父皇帝に告げられた輿入れの日まで、あと十日。だが三日後には風嘉との国境付近の出城に向けて、鴻夏は旅立つ事になっていた。
そこにはすでに風嘉からの出迎えの一行が到着しており、鴻夏はそこで正式に花嫁として風嘉側に引き渡される事になっている。
すでに父皇帝の名で、国中に御触書が出回っており、今 花胤の都は国を挙げての祝賀ムードに最高潮に盛り上がっていた。
なにしろ今回の婚姻は、花胤皇家が誇る美貌の双子『花胤の陰陽』の片割れである鴻夏皇女の輿入れである。絶世の美女と名高い翡雀皇后そっくりの皇女が嫁ぐとあって、沿道沿いの宿屋には早くから輿入れする美しい皇女の姿を一目見ようとたくさんの人々が詰めかけていた。
しかし周囲の熱狂とは裏腹に、当の鴻夏自身の心はどんどん沈んでいっている。
元より逃げる事は許されないが、じわじわと周囲に追い詰められていく感が、より一層不安を掻き立てていた。
何と言っても一番の気掛かりは、輿入れの際の取り決めで、従者を誰も伴えない事である。
そのため今まで鴻夏を男と知りつつ、秘密を守り使えてくれていた侍女らは全てこの離宮に置いて行くしかない。
果たして自分一人だけの力だけでこの衆人環視の中、花胤の体面を損なう事なく見事に目的を果たせるのか…日を追う事に鴻夏の不安は膨らんでいった。
そしてそんな中、いよいよ風嘉側の先触れの使者が明朝にも皇城入りするとあって、今 皇城内はその準備に大わらわとなっている。
だが当の本人はというと特にする事もなく、ただボンヤリと離宮の自室の露台から月を眺めていた。
いつかこんな日が来るかもしれないと、常に覚悟してきたつもりだった。
だがいざこうなってみると、自分が何もわかっていなかった事をまざまざと思い知らされる。
嫁に出るという事は、花胤皇女としての鴻夏を棄てなければいけないという事。花胤と風嘉、この二つの大国の体面を保ちつつ、鴻夏は相手側に完全に嫁ぎきる前に、自らを死んだものとし、周囲から姿を眩まさなければならない。
そしてそれは例え成功したとしても、母皇后や弟の凛鵜皇子と二度と会えなくなる事を意味していた。
『…ずっと本来の性に戻って、自由になる事を望んでいた。皇女の地位には何の未練もない。だから皇女としての自分を棄てる覚悟はとうに出来ていたつもりだったのに…。私は…母と凛鵜と離れる覚悟が、まったく出来ていなかった…』
自嘲気味にそう思いながら、月を見上げる。
この城を出たら最後、おそらく母と凛鵜にはもう二度と会えなくなるだろう。
花胤の頂点に立つ皇族の二人に、平民となった自分は近づく事さえ出来なくなる。
優しい母、愛しい弟…それが今まで生きてきた自分の全てであり支えだった。
少し退屈だけれど、穏やかで満たされた平和な日々。常日頃から当たり前のように側にあった愛しい存在が、こんなにも呆気なく遠くなってしまうものなのかと、鴻夏は悔しさと虚しさで口唇を噛み締めた。
そんな時だった。ふいに聞き覚えのある呑気な声がすぐ側から響いてきたのは…。
「…今宵はこんな綺麗な月夜だというのに、貴女の心はどこか遠くにあるご様子ですね」
「誰っ⁉︎」
ハッとして慌てて声のした方に視線を移すと、まるでそれに合わせたかのように風で帷帳が大きく揺れ動く。
そして雲の切れ間からスーッと月光が差し込み、舞い上がった帷帳の陰から、ゆらりと居るはずのない人物が現れた。
夜目にもわかる男の薄い翠の瞳が、月光を弾いて鮮やかに輝く。そこにはいつの間にか、亜麻色の髪の上品そうな男が立っていた。
黒髪、黒い瞳が当たり前の花胤において、それ以外の色は他国の人間である事を意味する。
そして生まれてからずっと離宮で育ってきた鴻夏皇女に、外国人の知り合いなど居なかった。しかし『振り師の璜』としての鴻夏には、一人だけ知っている外国人が居る。
だがその唯一の人物と今 目の前に現れた人物が同一人物である可能性は、本来ならば限りなく低いはずだった。けれど…。
「貴方は…」
それっきり何と言葉を続けてよいものかわからず、鴻夏は言葉を詰まらせる。
白いゆったりとした風嘉の衣装を身に纏い、まるで最初からそこに居たかのように飄々とその場に立っていたのは、なんと下街の賭場で出会ったあの男だった。
「…お初にお目にかかります、鴻夏皇女。私はこの度、貴女様をお迎えするため遣わされた風嘉使節団の一員で、湟 牽蓮と申します」
実に優雅な仕草で袖を重ねて完璧な礼を見せると、男は何も言えずに固まる鴻夏に対し、ニッコリと微笑んだ。
風が再びサァッと二人の間を駆け抜け、お互いの衣装の裾を優雅にはためかす。
それっきり何も言わず、男は無言で鴻夏を見つめ続けた。男の薄い翠の瞳が真っ直ぐに鴻夏の姿を捉えている。それを感じながらも、鴻夏はまるで人形のようにその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
頭の中で警鐘が鳴り響いている。この男は危険だと、何故か本能がそう告げていた。
だがどうしても相手から瞳を紛らす事が出来ない。まるで蛇に睨まれた蛙の如く、二人は暫し無言でその場に立ち尽くした。
その間に鴻夏の頭の中を、色々な可能性が浮かんでは消えていく。暗殺者、泥棒、狂信者…目まぐるしく色々な説を考えてはみるが、どれも目の前の男には当てはまらない気がした。
そしてその段階になってようやく、鴻夏の方も急激に落ち着きを取り戻してくる。
改めて相手をじっくり観察し直した鴻夏は、ふと男の身につけている衣装が、風嘉の高官の物だと気がついた。
その途端、先程男が名乗った名前を思い出し、思わずあっと叫びそうになる。
賭場で出会った時から只者ではないとは思っていたが、まさかこの男が風嘉の高官だとは思わなかった。しかも『湟 牽蓮』と言えば、世情に疎い鴻夏でも知っている、風嘉でもやり手と評判の高官の名である。
そもそも風嘉の官僚の中心に居る人物が何故あんな場所に居たのか、また何故今この場に現れたのか…その理由がまったくわからない。
ただ現時点で言えるのは、相手に自分を害するつもりがないという事。
そうでなければ声をかけられるその瞬間まで、気配すら掴めていなかった自分は、とうにこの世に別れを告げていたはずであった。
混乱する頭を抱えながらも、鴻夏は努めて冷静に相手を見据える。そして本能的に自分が試されていると感じた鴻夏は、思い切って相手に声をかけてみる事にした。
「…これは異な事を仰いますのね?風嘉の先触れの方々がお着きになるのは、早くても明朝とお伺いしてましたけど…」
「そうですね。正式には明朝、皇城にお伺いする事になっております」
しれっとそう答える男に、鴻夏は更に警戒の念を強める。何を考えているのかわからないが、今回のこの男の訪問は非公式。
つまり本来ならば、ここに居てはならない存在だと男自らが認めたという事になる。
「…つまり今ここにいらっしゃるのは、非公式でのご訪問…という事かしら?」
敢えて確認するために、男にさり気なくそう尋ねてみる。すると男は実に何でもない事のようにこう答えた。
「その通りです、皇女。そういうわけなので、今夜私がここにお伺いした事は秘密にしておいていただけると助かるのですが…」
いけしゃあしゃあと笑顔でそう答える男に、鴻夏は思わず呆気に取られる。
まさか勝手に押しかけてきた相手に、秘密にしておいてくれと頼まれるとは思わなかった。
自分が何故この男のために、そこまでしてやらなければならないのか?と思ったところで、いつの間にか息がかかるほど近くまで忍び寄っていた男に、そっとこう囁かれる。
「…貴女が今夜の私の訪問を秘密にしてくださると言うのなら、私も先日の下街での一件は忘れる事に致しましょう」
さり気なく言葉の中に爆弾を交えてきた男に、鴻夏は自分の顔から一気に血の気が引くのを感じた。
「…どうぞ…」
仕方なく男を部屋の中へと招き入れた鴻夏は、すでに卓についていた相手に対し、手ずから淹れたお茶を差し出す。
それに対し、男は素直にそれを受け取りながら丁寧に謝辞を述べた。
「これはこれは、皇女手ずからとは…恐れ入ります」
ニッコリと微笑みながら、出された茶器に手を添え、男はその暖かい湯気の感触をゆっくりと楽しむ。
こうして改めて近くで見てみると、大国の高官という割には、随分と若く頼りなさげな男だった。年の頃は三十歳前後といったところだろうか…?時折ゾッとするような気配を感じる事もあるが、どちらかというとのんびりとした、おおよそ政務の中枢からは程遠い雰囲気の男である。
顔立ちもどちらかと言えば美男の部類に入るのだろうが、力強く男らしい華やかな雰囲気はまるでない。むしろ野に咲く名もない花のように、ひっそりとした印象の薄い容姿の男だった。鴻夏も単に人混みですれ違っただけだったなら、おそらく記憶にすら残らなかっただろうと思う。
だがこの招かれざる客が、見た目通りの優男でない事は重々承知していた。
そもそも離宮とはいえ、花胤皇城の厳しい警備の目を掻い潜り、皇女である自分の私室にまで到達しているのだ。もし彼が自分を殺しにきた暗殺者であったなら、今頃自分はとうに冷たくなって床に転がっているはずである。
それを思うと、鴻夏としてはどれだけ警戒してもし足りない。
そして鴻夏が男を警戒する理由がもう一つ。
この男が一体どこまで自分の秘密を掴んでいるのか…。この機会に何としても、それを聞き出さなければならなかった。
だがこのいかにも喰えなさそうな雰囲気の男が、素直に教えてくれるとは思えない。
どうやって相手から聞き出すかを思案していたところで、鴻夏はふと相手が静かに笑う気配を感じた。
「…随分と緊張していらっしゃいますね。先日お会いした時は、伸び伸びと自由に振る舞っていらっしゃったのに…」
ゆっくりと出されたお茶に口を付けながら、男はチラリと鴻夏に視線を投げかける。ふいに発せられた男の穏やかな指摘の言葉に、鴻夏はハッとして相手を見つめ直した。
いつの間にか鴻夏は、険しい表情を浮かべながら無言で男を睨みつけていたようだ。
その事に気付き、慌てて相手から視線を紛らすと、その素直すぎる態度に男は茶器を置きながら微かに笑う。
「…貴女が気になさっている点については、大体予想がついています。その事について、現段階で私の口からは何も申せませんが…、悪いようにはしないという事だけはお伝えしておきましょう」
男の薄い翠の瞳が、まるで鏡のように冷静に鴻夏の姿を映し出す。
そこには驚き動揺し、不安げな表情を浮かべる美しい皇女の姿が映っていた。
自分の心臓が、信じられないほどの速さで脈打っている。一体目の前の男がどこまで自分の秘密を知っているのか、その事で花胤と風嘉の関係がどうなっていくのか…。
あまりの不安に押し潰されそうになりながらも、鴻夏はふと男に視線を戻した。
その途端、ふわりと男が優しげに微笑む。
そして彼は、鴻夏を安心させるかのようにこう告げた。
「少し落ち着いてください。いきなり見ず知らずの私を信用しろというのは無理な話でしょうが、貴女の弟君の凛鵜皇子の事なら信じられるでしょう?」
「…どうして貴方が凛鵜の事を…」
急に愛しい弟の名前が男の口から発せられ、鴻夏は冷や水を浴びせられたかのように蒼ざめる。しかし男の方はそれに対し、あくまでも淡々と事実を述べた。
「…私が花胤皇城の厳しい警備の目を掻い潜り、ここまで無事に到達できたのは凛鵜皇子のお陰です。皇子には縁あって、その昔 戦略・戦術論をお教えしておりました。三年前に故国が乱れ、急遽帰国せざるを得ませんでしたが、それまではわりと親しく付き合わせていただいておりました」
「…!まさか…貴方が花胤皇立学院に居たという風嘉出身の教授?」
つい先日 凛鵜の口から聞いた、教授の話が蘇る。確かに掴み所のない雰囲気が、目の前の男によく似ているとは言っていた。
だがまさか同一人物だとは思わなかった。
しかもその人物が、現 風嘉の高官にまで登りつめているとはまったく聞いていない。
しかし男の方はというと、あくまでも淡々とした態度でこう答える。
「…そのような時もありましたね。でも今はしがない風嘉の官僚の一人です」
何でもない事のように男はそう言うが、そもそも学問都市 花胤の皇立学院で、教鞭を取らせてもらえる人物などそうは居ないのだ。
しかも花胤の皇子である凛鵜の教育係も勤めていたとなると、それこそ学院の中でも最高位の教授という事になる。
『そもそもこの若さで本当に皇立学院の教授?あとこの人は凛鵜と親しいと言うけれど、それは本当の事なの?』
そう思ったところで、男がその考えを読んだかのようにこう答えた。
「貴女が私の事を疑われるのは、もっともな事です。ただ何故私が貴女の正体に気づけたのかもよくお考えください。『花胤の陰陽』の名は確かに各国に知れ渡っておりますが、その容姿まで正確に知る者はほとんど居りません」
それは紛れもない真実であった。
そもそも自分と凛鵜は、公式の場に姿を現わす事はほとんどない。そのため身分の低い官僚や国民の中には、自国の皇族であるにも関わらず、自分達の容姿を知らない者が多数存在する。
それなのにこの男は、外国人でありながらも正確に自分達の容姿を知っていた。
おそらく男装をしていた自分の正体に気づけたのも、双子である凛鵜の容姿をよく知っていたからではないだろうか?
そう推測したところで、男が再びその口を開く。そしてその告げられた内容に、鴻夏はまた別の意味で凍り付いた。
「…貴女の事は、凛鵜皇子からよくお話をお聞きしておりました」
「凛鵜が…?」
「はい、自分にとっては命よりも大切な姉上だと。だが自分はその大切な姉上の人生を狂わせてしまったから、いつか貴女が貴女らしく、自由に過ごせるような国にする事…それが今の自分に課せられた使命であり、目標だと仰っておられました」
さり気なく男から語られた内容に、鴻夏は目頭が熱くなるのを感じた。
まさかあの優しい弟がそんな事を考えているとは知らなかった。
ずっと病弱な弟を守るのが自分の役割だと思っていたのに、実は弟の方も同じように自分を守りたいと思ってくれていたとは…。
「…凛鵜がそんな事を…?」
「はい、自分はその為に皇帝を目指しているとはっきりと仰ってました」
淡々と語られる男の言葉が、逆に鴻夏の心に染み渡るようだった。
いつも優しずきて何事にも控えめな弟が、まさか自分の為にそこまで決意しているとは思わなかった。そして周囲に対し、慎重で滅多に本音を語らないあの弟が、その密かな決意を漏らすほどに、この目の前の男を信頼していたという事も驚きだった。
だが男の話が真っ赤な嘘であるとは、どうしても思えない。何故なら自分を信頼させる為だけの作り話にしては、あまりにも筋が通りすぎているのである。
だから直感的に男の話は真実であると感じた鴻夏は、決意も新たに男に向き直った。
「…貴方を信じましょう。それで今回のご訪問の理由は?」
そうはっきりと告げた鴻夏の金の瞳が、月明かりを受けて強く輝いた。
ここで話は一旦、鴻夏が男と再会を果たす少し前まで時間を遡る。
場所はこの部屋のすぐ側にある、もう一人の双子の部屋。世間的には神童の呼び声も高い、凛鵜皇子の私室である。
彼は薄暗い部屋の中で一人、机に向かって何か書き物をしていた。今宵はいつもより月が見事で、その分 部屋の中も普段より幾分明るく青白く輝いている。
しかしそれよりも輝いて見えるのは、その場に居る皇子自身の容姿だった。
かつて絶世の美女と呼ばれた母皇后そっくりの容姿は、皇子が男である事が惜しまれるほど神秘的な美しさである。流れるような艶やかな黒髪に透き通るような白い肌、まるで夜空の月を思わせるような美しい金の瞳。女性であったなら、まさしく『傾国の美女』と称されていた事だろう。それほどの美貌の主だった。
彼は一人で熱心に書き物に集中していたが、その時ふいにゆらりと部屋の中の空気が揺らいで、帷帳がサァッと風で舞い上がった。
その風に思わず左手を翳し、少し目を細めながらも耐えていると、その陰から実にのんびりとした様子で、見覚えのある亜麻色の髪の男が登場する。
「…お久しぶりでございます、凛鵜皇子」
パタンと軽く窓の閉まる音が響くと、凛鵜の前にはいつの間にか招かれざる客が立っていた。しかしそれを予想していたのか、凛鵜の方はさして驚きも見せずにこう返す。
「…そろそろ現れる頃だと思っていたよ。三年ぶりだね」
実に冷静に凛鵜がそう呟く。今 凛鵜の目の前に現れたのは、この後 鴻夏の前にも現れ、自らを『湟 牽蓮』と名乗る事になる男であった。
男の薄い翠の瞳が妖しく輝く。
一見すると単なる優男にしか見えないが、実は見た目を裏切る厄介な相手だという事を凛鵜は嫌というほどよく知っていた。
それを証拠に、今もなんでもない事のように物騒な内容を語ってのける。
「そうですね。その節は大変お世話になりました。お陰様で今回も、誰にも咎められる事なく無事ここまで辿り着く事が出来ました」
ニッコリと笑みすら浮かべながら、男がのんびりとそう語る。普段と違い、権力者特有の冷たい雰囲気を醸し出す凛鵜に対し、現れた男はさして気にした風もなくそこに立っていた。
それに対し、凛鵜の方も特に気にもせず言葉を続ける。
「…僕が以前教えた抜け道を使って来たわけか。でもこの部屋に入るには、秀鵬の邪魔があったはずだけど…?」
「あの密偵の彼なら、今は私の影に相手をしてもらっております。大丈夫、怪我などはさせませんよ」
ニッコリと悪びれた様子もなくそう答える男に対し、凛鵜は軽く溜め息をつく。
そして手にしていた筆を卓に戻すと、相変わらず喰えない様子の男に向かってこう尋ねた。
「貴方が今こうして僕の前に現れたという事は、ちゃんと僕からの伝言に気づいてくれた…という事だよね?」
確かめるようにそう問いかけると、男は無言で懐から一通の書簡を取り出し、それをパラリと拡げて見せた。
「…なかなか大胆な手法でしたね。普通は他国向けの国書に私的な伝言は入れないものですよ。もし私が気づかなかったら、どうするおつもりだったのですか?」
まるで論文を批評する教授のように窘める男に対し、凛鵜はにべもなくこう答える。
「別に…貴方なら絶対に気づくと思っていたからね。それにこうでもしないと、いつどこで誰に読まれるかわからない…」
男が手にしていた書簡は、花胤帝から風嘉帝に当てた正式な国書だった。表面上は第五皇女 鴻夏を風嘉帝の皇后に…と言った内容だったが、その親書の中には密かに凛鵜からの伝言が隠されていたのだ。
「『三年前の貸しを返されたし。花胤離宮にて待つ』…ね。君は私がこれを無視する可能性は考えなかったのですか?」
意地悪くそう言ってみせる男に、凛鵜は静かにフフッと笑う。
「律義な貴方が、僕の伝言に気づきながらも無視出来る訳がない。実際に今、こうしてここに来てくれているじゃないか」
そう言われて、今度は男の方が密かに溜め息をつく。
「…三年振りですが、相変わらず君は大胆で油断のならない子のようですね。見た目に騙されて、舐めてかかったら痛い目をみる良い例です」
「これでも貴方の一番弟子のつもりだからね。『常に他人の一歩先を読んで行動しろ』と僕に教えたのは貴方だ」
勝ち誇ったようにそう語る凛鵜に対し、男は困ったように頭を掻く。
「…優秀すぎる弟子というのも困ったものですね。それで?わざわざ呼び出して、君は私に一体何をさせたいのですか?」
そう尋ねてくる男に対し、凛鵜は待ってましたとばかりにゆっくり呼吸を整える。
そしてあらかじめ用意していたあの言葉を男に投げかけた。
「貴方に…僕の姉、鴻夏の保護をお願いしたい」
おそらくその申し出を予想していただろうに、男は興味もなさそうにこう尋ねる。
「…どうして私に?姉君は君自身で守るんじゃなかったのかな?」
「貴方ならもうわかってるはずだ。近々この国は大きく乱れる。おそらくたくさんの血も流れる事になるだろう。そうなったら最後、今の僕には鴻夏を守り切れる力がない…」
自嘲気味に凛鵜がそう語る。これが最善の策とわかっていても、自分の力で大事な姉を守りきれない事がこんなにも悔しい。
「あとは貴方もご存知の通り、鴻夏には大きな秘密がある。僕と鴻夏はもう十七歳。隠し通すのも限界が来ている。遅かれ早かれ、鴻夏は嫁に出なければならなくなるだろう。もはやそれが避けられない事態ならば、僕としては貴方の元に遣るのが一番安心かつ都合が良い」
きっぱりとそう言い切る凛鵜に、男が腕組みしたまま首を捻る。
「…なるほど?確かに君にとっては大変都合が良い話のようだ。しかし君の姉君を私が保護するとして、果たして私には一体どんな利益があるのかな?」
そう問われた凛鵜は、それも予想していたかのように冷たく笑ってこう答える。
「…何言ってるのやら。おそらく貴方にとっても、鴻夏は大変理想的な花嫁でしょう?この大国 花胤の皇女であり、容姿も家柄も文句なし。例え結婚後に風嘉帝が皇后以外に見向きもしなくなったとしても、あの容姿ならば誰もが納得し不審にも思わない。そして…貴方が一番気にしている、跡継ぎ問題が発生して揉める心配もない」
シン…と辺りに沈黙が流れた。
ゆらりと男の瞳に危険な光が宿る。
ともすれば一刀両断されそうな気配を感じながらも、凛鵜は努めて平静を装い、男を見つめ続けた。ここで引いてしまったら、もう鴻夏を助ける手立てはない。
何としてもこの男の了承を、今ここで取り付けなければならない。
そして暫くの間、二人はいつ終わるともしれない無言での睨み合いを続けたが、それは始まった時同様、唐突に男の気配が緩んだ事で終わりを告げた。
「…相変わらずズケズケと人の痛いところを突いてくるね、君は。その性格を何とかしないと、大切な君の姉君に正体がバレるのも時間の問題じゃないかな」
溜め息混じりに嫌味を言う男に、凛鵜も負けじと言い返す。
「貴方じゃあるまいし、僕はそんなヘマはしないよ」
「どうだかね?…まぁそれはともかく、君には三年前、故国に戻る際に手を貸してもらった恩もある」
「!じゃあ…」
「…気は進まないが、今回は君の姉君を保護する役を引き受けよう。温室育ちの姉君に、これから起こる修羅場を見せるのも酷な話だからね…」
そう語る男に凛鵜はパァッと一瞬顔を輝かせたが、すぐにその表情を改めるといきなり人差し指を相手に突きつけ、これ以上ないほど真剣な表情で念を押した。
「…先に言っておくけど、預けるだけだからね?間違っても、うっかり手なんか出さないで下さいよ?国内を平定して、僕が花胤の皇帝の座に就いたら、鴻夏はすぐにでも返していただく予定だから」
確かお願いする立場であるはずなのに、なぜかやたらと強気な凛鵜の態度に、男が呆れたようにこう返す。
「…やれやれ、この私を本気で番犬代わりにするつもりかい?そんなに大事な姉君なら、私なんかに預けなきゃいいのに…」
「僕だって不本意だよ!でも僕の知る限り、貴方の側が一番安全なのも事実だからね。…それにどうせ貴方の事だから、きっと今でも忘れられないのでしょう…?」
ふっと言葉の最後に、凛鵜の表情が陰を帯びる。それを受けて、男の方の表情も同じように陰を帯びた。
「…昔の話だ。どんなに後悔しても、もう彼女もあの人もこの世には居ない…」
「だからといって彼等の息子にまで、義理立てしなくてもいいんじゃないかと思うけどね?まぁ…貴方の事だから、そういったしがらみでもなければ、今 生きてここには居なかったかもしれないけど…」
理解出来ないとばかりにそう呟く凛鵜に、男が困ったような顔で窘める。
「…まったく君は本気で私と交渉するつもりがあるのかい?もう少し言葉にする時は考えないと。特に相手を怒らす危険性のある事は言わない方がいい」
「今更でしょう?それに貴方相手に言葉を取り繕ったところで、何の意味もない。どうせこっちのお家事情から、僕の考えに至るまでみんな読まれているんだから」
フンっと開き直ってそう語る凛鵜に、男が困ったように苦笑する。
「…まったく黙っていれば儚げな美人のくせに、ホントにいい性格をしているよ。君のその容姿に騙されて、哀れな駒の一つに成り下がった男が一体どれだけいるのやら…」
そうボヤく男の首に、スルリと凛鵜が腕を絡める。艶やかに間近で微笑む凛鵜は、一瞬男である事を忘れるほど美しい。
「他の駒の事情なんて知らないよ。…でも僕が一番欲しかった駒は、貴方なんだけどね、璉?」
そう言って、凛鵜の方から男に口付ける。
それを慣れた様子で受けながら、男は腹ただしいくらいに冷静だった。
長い長い口付けの後、ゆっくりと凛鵜が口唇を離すと、まるで何事もなかったかのように冷めきった表情で男が答える。
「…それで?今更昔の男とヨリを戻したいわけでもないだろう?」
「ホント、相変わらず腹立つくらいに動揺しないね。僕じゃ貴方のお眼鏡には敵わないって言わんばかりだ」
気に入らないとばかりに凛鵜が拗ねると、男は特に慌てた風もなくこう答える。
「…いや、そうでもないさ?君がそこらの女よりずっと賢くて美人なのは確かだし、行き場を無くして彷徨っていた私に、居場所を用意し匿ってくれた…。君がどう思っていたかは知らないが、私は私なりに君を気に入っているよ。そうでなければ三年もの間、この部屋に足繁く通っていない…」
「…それでも最終的に僕を捨てたくせに」
ポツリとそう誰にも聞こえない声でそう呟くと、スルリと凛鵜は男から離れる。
そして改めて挑戦的に男を眺めると、ふてぶてしくも毒のある言葉を彼に向かって投げつけた。
「…死にたがりの璉、僕の邪魔をするくらないなら、とっととあの世に旅立ってくれないかな?そうしたら僕は、鴻夏と共に労せずして風嘉一国もこの手に入れる事ができる…」
「…相変わらず欲張りだね、君は。別に私自身の命に大した価値はないが、今はそういうわけにもいかなくてね。国内を安定させ、成長した彼が何の憂いもなく風嘉帝の座に就くまでは、少なくとも死ぬわけにはいかなくなったんだ…」
どこか遠い目をしてそう語る男に、特に嘘は感じられない。おそらくこの世の誰よりも人の上に立てる能力がありながら、相変わらずこの男は自分自身に何の価値も見出していない。
出会った時と変わらず、常に自分を蔑み死の誘惑に囚われ続けているこの男は、今は大切な故人との約束を果たす為だけに生きている。
その彼がその膝を折り、忠誠を捧げるのは今も昔も唯一人。
「…単に貴方にとって大切な人達の息子というだけで、何の力も能力もない子供が貴方を手に入れるのか…」
悔しそうにそう呟く凛鵜に対し、男は即座にそれを否定する。
「…泰瀏はまだ幼いというだけで、皇帝になる資質は充分にある。今の私の役目は彼が成長するまでの間、国と玉座を守り続ける事。…それだけだ」
淡々とそう語る彼に苛立ちが募る。
資質があろうとなかろうと、今現在は何の力も持たないただの子供だ。先帝の遺児というだけで、この男を当然のように手に入れた子供が気に入らなかった。そしてその子供を命より大切にしている男も気に入らなかった。
…それでも今 自分の姉を託せるのは、世界中どこを探しても彼しか居ない。
これ以上の論争は時間の無駄と判断した凛鵜は、深い深い溜め息をつくと、実に不機嫌そうな雰囲気のまま、軽く手を振って男に終わりを告げた。
「…話は終わった。僕の物になる気がないのなら、とっとと出てってくれないかな?あ、あとくれぐれも鴻夏には惚れないようにね。僕の姉は世界で一番、素直で可愛いんだから…」
真顔で男を貶めつつも、いけしゃあしゃあと身内を褒めちぎる凛鵜に、男が呆れ気味にこう返す。
「残念ながらお子様には興味はないよ。しかし自分と同じ顔の相手に、よくもまぁそこまで…」
「…貴方も実際に鴻夏と過ごしてみればわかりますよ。『花胤の陰陽』の太陽の名は伊達じゃない」
ニヤリと勝ち誇る凛鵜に、男は告げる。
「なるほど…?じゃあお手並み拝見と行こうか」
「うっかり惚れてしまって、後悔しないでくださいよ?…あれは生まれた時から僕のだから」
「…君も存外私の事は言えないな。かなり不毛な関係だと思うが…」
呆れたようにそう返すと、凛鵜は『放っておいてください』とだけ答え、再度男に出て行くよう手を振った。
そして凛鵜の部屋を辞した後、その足で男は鴻夏の前に現れたのである。
続く