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花胤の陰陽 〜花鳥風月奇譚・1〜  作者: 緋影 あきら
4/12

ー再会ー

色とりどりの綾織物(あやおりもの)(きら)びやかな宝石類、貴重な茶葉や陶器類。天に向かってそそり立つ立派な象牙や珍しい香木(こうぼく)など、次々と用意されていく鴻夏(コウカ)の嫁入りの持参品が、皇城の一室に所狭しと並べられていた。

父皇帝に告げられた輿入(こしい)れの日まで、あと十日。だが三日後には風嘉(フウカ)との国境付近の出城に向けて、鴻夏(コウカ)は旅立つ事になっていた。

そこにはすでに風嘉(フウカ)からの出迎えの一行が到着しており、鴻夏(コウカ)はそこで正式に花嫁として風嘉(フウカ)側に引き渡される事になっている。

すでに父皇帝の名で、国中に御触書(おふれがき)が出回っており、今 花胤(カイン)の都は国を()げての祝賀ムードに最高潮に盛り上がっていた。

なにしろ今回の婚姻は、花胤(カイン)皇家が誇る美貌の双子『花胤(カイン)陰陽(いんよう)』の片割れである鴻夏(コウカ)皇女の輿入れである。絶世の美女と名高い翡雀(ヒジャク)皇后そっくりの皇女が嫁ぐとあって、沿道沿いの宿屋には早くから輿入れする美しい皇女の姿を一目見ようとたくさんの人々が詰めかけていた。


しかし周囲の熱狂とは裏腹に、当の鴻夏(コウカ)自身の心はどんどん沈んでいっている。

元より逃げる事は許されないが、じわじわと周囲に追い詰められていく感が、より一層不安を()き立てていた。

何と言っても一番の気掛かりは、輿入れの際の取り決めで、従者を誰も伴えない事である。

そのため今まで鴻夏(コウカ)を男と知りつつ、秘密を守り使えてくれていた侍女らは全てこの離宮に置いて行くしかない。

果たして自分一人だけの力だけでこの衆人環視(しゅうじんかんし)の中、花胤(カイン)の体面を損なう事なく見事に目的を果たせるのか…日を追う事に鴻夏(コウカ)の不安は(ふく)らんでいった。

そしてそんな中、いよいよ風嘉(フウカ)側の先触(さきぶ)れの使者が明朝にも皇城入りするとあって、今 皇城内はその準備に大わらわとなっている。

だが当の本人はというと特にする事もなく、ただボンヤリと離宮の自室の露台(バルコニー)から月を眺めていた。


いつかこんな日が来るかもしれないと、常に覚悟してきたつもりだった。

だがいざこうなってみると、自分が何もわかっていなかった事をまざまざと思い知らされる。

嫁に出るという事は、花胤(カイン)皇女としての鴻夏(コウカ)()てなければいけないという事。花胤(カイン)風嘉(フウカ)、この二つの大国の体面を保ちつつ、鴻夏(コウカ)は相手側に完全に嫁ぎきる前に、自らを死んだものとし、周囲から姿を(くら)まさなければならない。

そしてそれは例え成功したとしても、母皇后や弟の凛鵜(リンウ)皇子と二度と会えなくなる事を意味していた。

『…ずっと本来の性に戻って、自由になる事を望んでいた。皇女の地位には何の未練(みれん)もない。だから皇女としての自分を()てる覚悟はとうに出来ていたつもりだったのに…。私は…母と凛鵜(リンウ)と離れる覚悟が、まったく出来ていなかった…』

自嘲気味(じちょうぎみ)にそう思いながら、月を見上げる。

この城を出たら最後、おそらく母と凛鵜(リンウ)にはもう二度と会えなくなるだろう。

花胤(カイン)の頂点に立つ皇族の二人に、平民となった自分は近づく事さえ出来なくなる。

優しい母、愛しい弟…それが今まで生きてきた自分の全てであり支えだった。

少し退屈(たいくつ)だけれど、穏やかで満たされた平和な日々。常日頃(つねひごろ)から当たり前のように側にあった愛しい存在が、こんなにも呆気なく遠くなってしまうものなのかと、鴻夏(コウカ)(くや)しさと(むな)しさで口唇を噛み締めた。


そんな時だった。ふいに聞き覚えのある呑気(のんき)な声がすぐ側から響いてきたのは…。

「…今宵(こよい)はこんな綺麗(きれい)な月夜だというのに、貴女の心はどこか遠くにあるご様子ですね」

「誰っ⁉︎」

ハッとして慌てて声のした方に視線を移すと、まるでそれに合わせたかのように風で帷帳が大きく揺れ動く。

そして雲の切れ間からスーッと月光が差し込み、舞い上がった帷帳の陰から、ゆらりと居るはずのない人物が現れた。

夜目(よめ)にもわかる男の薄い(みどり)の瞳が、月光を弾いて(あざ)やかに輝く。そこにはいつの間にか、亜麻色(あまいろ)の髪の上品そうな男が立っていた。

黒髪、黒い瞳が当たり前の花胤(カイン)において、それ以外の色は他国の人間である事を意味する。

そして生まれてからずっと離宮で育ってきた鴻夏(コウカ)皇女に、外国人の知り合いなど居なかった。しかし『振り師の(コウ)』としての鴻夏(コウカ)には、一人だけ知っている外国人が居る。

だがその唯一の人物と今 目の前に現れた人物が同一人物である可能性は、本来ならば限りなく低いはずだった。けれど…。

「貴方は…」

それっきり何と言葉を続けてよいものかわからず、鴻夏(コウカ)は言葉を詰まらせる。

白いゆったりとした風嘉(フウカ)の衣装を身に(まと)い、まるで最初からそこに居たかのように(ひょう)々とその場に立っていたのは、なんと下街の賭場(とば)で出会ったあの男だった。



「…お初にお目にかかります、鴻夏(コウカ)皇女。私はこの度、貴女様をお迎えするため(つか)わされた風嘉(フウカ)使節団の一員で、(コウ) 牽蓮(ヒレン)と申します」

実に優雅な仕草(しぐさ)(そで)を重ねて完璧な礼を見せると、男は何も言えずに固まる鴻夏(コウカ)に対し、ニッコリと微笑んだ。

風が再びサァッと二人の間を駆け抜け、お互いの衣装の(すそ)優雅(ゆうが)にはためかす。

それっきり何も言わず、男は無言で鴻夏(コウカ)を見つめ続けた。男の薄い翠の瞳が真っ直ぐに鴻夏(コウカ)の姿を(とら)えている。それを感じながらも、鴻夏(コウカ)はまるで人形のようにその場に立ち尽くしたまま動けなかった。


頭の中で警鐘(けいしょう)が鳴り響いている。この男は危険だと、何故か本能がそう告げていた。

だがどうしても相手から瞳を(まぎ)らす事が出来ない。まるで蛇に(にら)まれた(かえる)の如く、二人は(しば)し無言でその場に立ち尽くした。

その間に鴻夏(コウカ)の頭の中を、色々な可能性が浮かんでは消えていく。暗殺者、泥棒、狂信者…目まぐるしく色々な説を考えてはみるが、どれも目の前の男には当てはまらない気がした。

そしてその段階になってようやく、鴻夏(コウカ)の方も急激に落ち着きを取り戻してくる。

改めて相手をじっくり観察し直した鴻夏(コウカ)は、ふと男の身につけている衣装が、風嘉(フウカ)の高官の物だと気がついた。

その途端、先程男が名乗った名前を思い出し、思わずあっと叫びそうになる。


賭場で出会った時から只者ではないとは思っていたが、まさかこの男が風嘉(フウカ)の高官だとは思わなかった。しかも『(コウ) 牽蓮(ヒレン)』と言えば、世情に(うと)鴻夏(コウカ)でも知っている、風嘉(フウカ)でもやり手と評判の高官の名である。

そもそも風嘉(フウカ)の官僚の中心に居る人物が何故あんな場所に居たのか、また何故今この場に現れたのか…その理由がまったくわからない。

ただ現時点で言えるのは、相手に自分を害するつもりがないという事。

そうでなければ声をかけられるその瞬間まで、気配すら(つか)めていなかった自分は、とうにこの世に別れを告げていたはずであった。

混乱する頭を抱えながらも、鴻夏(コウカ)は努めて冷静に相手を見据える。そして本能的に自分が試されていると感じた鴻夏(コウカ)は、思い切って相手に声をかけてみる事にした。



「…これは()な事を(おっしゃ)いますのね?風嘉(フウカ)先触(さきぶ)れの方々がお着きになるのは、早くても明朝とお伺いしてましたけど…」

「そうですね。正式には明朝、皇城にお伺いする事になっております」

しれっとそう答える男に、鴻夏(コウカ)は更に警戒(けいかい)の念を強める。何を考えているのかわからないが、今回のこの男の訪問は非公式。

つまり本来ならば、ここに居てはならない存在だと男自らが認めたという事になる。

「…つまり今ここにいらっしゃるのは、非公式でのご訪問…という事かしら?」

()えて確認するために、男にさり気なくそう尋ねてみる。すると男は実に何でもない事のようにこう答えた。

「その通りです、皇女。そういうわけなので、今夜私がここにお伺いした事は秘密にしておいていただけると助かるのですが…」

いけしゃあしゃあと笑顔でそう答える男に、鴻夏(コウカ)は思わず呆気に取られる。

まさか勝手に押しかけてきた相手に、秘密にしておいてくれと頼まれるとは思わなかった。

自分が何故この男のために、そこまでしてやらなければならないのか?と思ったところで、いつの間にか息がかかるほど近くまで忍び寄っていた男に、そっとこう(ささや)かれる。

「…貴女が今夜の私の訪問を秘密にしてくださると言うのなら、私も先日の下街での一件は忘れる事に致しましょう」

さり気なく言葉の中に爆弾を交えてきた男に、鴻夏(コウカ)は自分の顔から一気に血の気が引くのを感じた。




「…どうぞ…」

仕方なく男を部屋の中へと招き入れた鴻夏(コウカ)は、すでに卓についていた相手に対し、手ずから()れたお茶を差し出す。

それに対し、男は素直にそれを受け取りながら丁寧に謝辞(しゃじ)を述べた。

「これはこれは、皇女手ずからとは…恐れ入ります」

ニッコリと微笑みながら、出された茶器に手を添え、男はその暖かい湯気の感触をゆっくりと楽しむ。

こうして改めて近くで見てみると、大国の高官という割には、随分と若く頼りなさげな男だった。年の頃は三十歳前後といったところだろうか…?時折ゾッとするような気配を感じる事もあるが、どちらかというとのんびりとした、おおよそ政務の中枢からは程遠い雰囲気の男である。

顔立ちもどちらかと言えば美男の部類に入るのだろうが、力強く男らしい華やかな雰囲気はまるでない。むしろ野に咲く名もない花のように、ひっそりとした印象の薄い容姿の男だった。鴻夏(コウカ)も単に人混みですれ違っただけだったなら、おそらく記憶にすら残らなかっただろうと思う。


だがこの招かれざる客が、見た目通りの優男(やさおとこ)でない事は重々承知していた。

そもそも離宮とはいえ、花胤(カイン)皇城の厳しい警備の目を掻い潜り、皇女である自分の私室にまで到達しているのだ。もし彼が自分を殺しにきた暗殺者であったなら、今頃自分はとうに冷たくなって床に転がっているはずである。

それを思うと、鴻夏(コウカ)としてはどれだけ警戒してもし足りない。

そして鴻夏(コウカ)が男を警戒する理由がもう一つ。

この男が一体どこまで自分の秘密を(つか)んでいるのか…。この機会に何としても、それを聞き出さなければならなかった。

だがこのいかにも()えなさそうな雰囲気の男が、素直に教えてくれるとは思えない。

どうやって相手から聞き出すかを思案していたところで、鴻夏(コウカ)はふと相手が静かに笑う気配を感じた。


「…随分と緊張していらっしゃいますね。先日お会いした時は、伸び伸びと自由に振る舞っていらっしゃったのに…」

ゆっくりと出されたお茶に口を付けながら、男はチラリと鴻夏(コウカ)に視線を投げかける。ふいに発せられた男の穏やかな指摘の言葉に、鴻夏(コウカ)はハッとして相手を見つめ直した。

いつの間にか鴻夏(コウカ)は、険しい表情を浮かべながら無言で男を睨みつけていたようだ。

その事に気付き、慌てて相手から視線を紛らすと、その素直すぎる態度に男は茶器を置きながら微かに笑う。

「…貴女が気になさっている点については、大体予想がついています。その事について、現段階で私の口からは何も申せませんが…、悪いようにはしないという事だけはお伝えしておきましょう」

男の薄い翠の瞳が、まるで鏡のように冷静に鴻夏(コウカ)の姿を映し出す。

そこには驚き動揺し、不安げな表情を浮かべる美しい皇女の姿が映っていた。



自分の心臓が、信じられないほどの速さで脈打っている。一体目の前の男がどこまで自分の秘密を知っているのか、その事で花胤(カイン)風嘉(フウカ)の関係がどうなっていくのか…。

あまりの不安に押し潰されそうになりながらも、鴻夏(コウカ)はふと男に視線を戻した。

その途端、ふわりと男が優しげに微笑む。

そして彼は、鴻夏(コウカ)を安心させるかのようにこう告げた。

「少し落ち着いてください。いきなり見ず知らずの私を信用しろというのは無理な話でしょうが、貴女の弟君の凛鵜(リンウ)皇子の事なら信じられるでしょう?」

「…どうして貴方が凛鵜(リンウ)の事を…」

急に愛しい弟の名前が男の口から発せられ、鴻夏(コウカ)は冷や水を浴びせられたかのように蒼ざめる。しかし男の方はそれに対し、あくまでも淡々と事実を述べた。

「…私が花胤(カイン)皇城の厳しい警備の目を掻い潜り、ここまで無事に到達できたのは凛鵜(リンウ)皇子のお陰です。皇子には縁あって、その昔 戦略・戦術論をお教えしておりました。三年前に故国が乱れ、急遽帰国せざるを得ませんでしたが、それまではわりと親しく付き合わせていただいておりました」

「…!まさか…貴方が花胤(カイン)皇立学院に居たという風嘉(フウカ)出身の教授?」

つい先日 凛鵜(リンウ)の口から聞いた、教授の話が(よみが)る。確かに掴み所のない雰囲気が、目の前の男によく似ているとは言っていた。

だがまさか同一人物だとは思わなかった。

しかもその人物が、現 風嘉(フウカ)の高官にまで登りつめているとはまったく聞いていない。


しかし男の方はというと、あくまでも淡々とした態度でこう答える。

「…そのような時もありましたね。でも今はしがない風嘉(フウカ)の官僚の一人です」

何でもない事のように男はそう言うが、そもそも学問都市 花胤(カイン)の皇立学院で、教鞭(きょうべん)を取らせてもらえる人物などそうは居ないのだ。

しかも花胤(カイン)の皇子である凛鵜(リンウ)の教育係も勤めていたとなると、それこそ学院の中でも最高位の教授という事になる。

『そもそもこの若さで本当に皇立学院の教授?あとこの人は凛鵜(リンウ)と親しいと言うけれど、それは本当の事なの?』

そう思ったところで、男がその考えを読んだかのようにこう答えた。

「貴女が私の事を疑われるのは、もっともな事です。ただ何故私が貴女の正体に気づけたのかもよくお考えください。『花胤(カイン)陰陽(いんよう)』の名は確かに各国に知れ渡っておりますが、その容姿まで正確に知る者はほとんど居りません」


それは紛れもない真実であった。

そもそも自分と凛鵜(リンウ)は、公式の場に姿を現わす事はほとんどない。そのため身分の低い官僚や国民の中には、自国の皇族であるにも関わらず、自分達の容姿を知らない者が多数存在する。

それなのにこの男は、外国人でありながらも正確に自分達の容姿を知っていた。

おそらく男装をしていた自分の正体に気づけたのも、双子である凛鵜(リンウ)の容姿をよく知っていたからではないだろうか?

そう推測したところで、男が再びその口を開く。そしてその告げられた内容に、鴻夏(コウカ)はまた別の意味で凍り付いた。

「…貴女の事は、凛鵜(リンウ)皇子からよくお話をお聞きしておりました」

凛鵜(リンウ)が…?」

「はい、自分にとっては命よりも大切な姉上だと。だが自分はその大切な姉上の人生を狂わせてしまったから、いつか貴女が貴女らしく、自由に過ごせるような国にする事…それが今の自分に課せられた使命であり、目標だと仰っておられました」

さり気なく男から語られた内容に、鴻夏(コウカ)は目頭が熱くなるのを感じた。

まさかあの優しい弟がそんな事を考えているとは知らなかった。

ずっと病弱な弟を守るのが自分の役割だと思っていたのに、実は弟の方も同じように自分を守りたいと思ってくれていたとは…。

「…凛鵜(リンウ)がそんな事を…?」

「はい、自分はその為に皇帝を目指しているとはっきりと仰ってました」

淡々と語られる男の言葉が、逆に鴻夏(コウカ)の心に染み渡るようだった。

いつも優しずきて何事にも控えめな弟が、まさか自分の為にそこまで決意しているとは思わなかった。そして周囲に対し、慎重で滅多に本音を語らないあの弟が、その密かな決意を()らすほどに、この目の前の男を信頼していたという事も驚きだった。

だが男の話が真っ赤な嘘であるとは、どうしても思えない。何故なら自分を信頼させる為だけの作り話にしては、あまりにも筋が通りすぎているのである。

だから直感的に男の話は真実であると感じた鴻夏(コウカ)は、決意も新たに男に向き直った。

「…貴方を信じましょう。それで今回のご訪問の理由は?」

そうはっきりと告げた鴻夏(コウカ)の金の瞳が、月明かりを受けて強く輝いた。





ここで話は一旦、鴻夏(コウカ)が男と再会を果たす少し前まで時間を(さかのぼ)る。

場所はこの部屋のすぐ側にある、もう一人の双子の部屋。世間的には神童の呼び声も高い、凛鵜(リンウ)皇子の私室である。

彼は薄暗い部屋の中で一人、机に向かって何か書き物をしていた。今宵はいつもより月が見事で、その分 部屋の中も普段より幾分明るく青白く輝いている。

しかしそれよりも輝いて見えるのは、その場に居る皇子自身の容姿だった。

かつて絶世の美女と呼ばれた母皇后そっくりの容姿は、皇子が男である事が惜しまれるほど神秘的な美しさである。流れるような(つや)やかな黒髪に透き通るような白い肌、まるで夜空の月を思わせるような美しい金の瞳。女性であったなら、まさしく『傾国(けいこく)の美女』と称されていた事だろう。それほどの美貌の主だった。


彼は一人で熱心に書き物に集中していたが、その時ふいにゆらりと部屋の中の空気が揺らいで、帷帳がサァッと風で舞い上がった。

その風に思わず左手を(かざ)し、少し目を細めながらも耐えていると、その陰から実にのんびりとした様子で、見覚えのある亜麻色の髪の男が登場する。

「…お久しぶりでございます、凛鵜(リンウ)皇子」

パタンと軽く窓の閉まる音が響くと、凛鵜(リンウ)の前にはいつの間にか招かれざる客が立っていた。しかしそれを予想していたのか、凛鵜(リンウ)の方はさして驚きも見せずにこう返す。

「…そろそろ現れる頃だと思っていたよ。三年ぶりだね」

実に冷静に凛鵜(リンウ)がそう呟く。今 凛鵜(リンウ)の目の前に現れたのは、この後 鴻夏(コウカ)の前にも現れ、自らを『(コウ) 牽蓮(ヒレン)』と名乗る事になる男であった。

男の薄い翠の瞳が妖しく輝く。

一見すると単なる優男にしか見えないが、実は見た目を裏切る厄介な相手だという事を凛鵜(リンウ)は嫌というほどよく知っていた。

それを証拠に、今もなんでもない事のように物騒な内容を語ってのける。

「そうですね。その節は大変お世話になりました。お陰様で今回も、誰にも(とが)められる事なく無事ここまで辿り着く事が出来ました」

ニッコリと笑みすら浮かべながら、男がのんびりとそう語る。普段と違い、権力者特有の冷たい雰囲気を(かも)し出す凛鵜(リンウ)に対し、現れた男はさして気にした風もなくそこに立っていた。

それに対し、凛鵜(リンウ)の方も特に気にもせず言葉を続ける。

「…僕が以前教えた抜け道を使って来たわけか。でもこの部屋に入るには、秀鵬(シュウホウ)の邪魔があったはずだけど…?」

「あの密偵(みってい)の彼なら、今は私の影に相手をしてもらっております。大丈夫、怪我などはさせませんよ」

ニッコリと悪びれた様子もなくそう答える男に対し、凛鵜(リンウ)は軽く溜め息をつく。

そして手にしていた筆を卓に戻すと、相変わらず喰えない様子の男に向かってこう尋ねた。


「貴方が今こうして僕の前に現れたという事は、ちゃんと僕からの伝言に気づいてくれた…という事だよね?」

確かめるようにそう問いかけると、男は無言で(ふところ)から一通の書簡を取り出し、それをパラリと拡げて見せた。

「…なかなか大胆(だいたん)な手法でしたね。普通は他国向けの国書に私的な伝言は入れないものですよ。もし私が気づかなかったら、どうするおつもりだったのですか?」

まるで論文を批評する教授のように(たしな)める男に対し、凛鵜(リンウ)はにべもなくこう答える。

「別に…貴方なら絶対に気づくと思っていたからね。それにこうでもしないと、いつどこで誰に読まれるかわからない…」

男が手にしていた書簡は、花胤(カイン)帝から風嘉(フウカ)帝に当てた正式な国書だった。表面上は第五皇女 鴻夏(コウカ)風嘉(フウカ)帝の皇后に…と言った内容だったが、その親書の中には密かに凛鵜(リンウ)からの伝言が隠されていたのだ。

「『三年前の貸しを返されたし。花胤(カイン)離宮にて待つ』…ね。君は私がこれを無視する可能性は考えなかったのですか?」

意地悪くそう言ってみせる男に、凛鵜(リンウ)は静かにフフッと笑う。


律義(りちぎ)な貴方が、僕の伝言に気づきながらも無視出来る訳がない。実際に今、こうしてここに来てくれているじゃないか」

そう言われて、今度は男の方が密かに溜め息をつく。

「…三年振りですが、相変わらず君は大胆で油断のならない子のようですね。見た目に(だま)されて、()めてかかったら痛い目をみる良い例です」

「これでも貴方の一番弟子のつもりだからね。『常に他人の一歩先を読んで行動しろ』と僕に教えたのは貴方だ」

勝ち誇ったようにそう語る凛鵜(リンウ)に対し、男は困ったように頭を掻く。

「…優秀すぎる弟子というのも困ったものですね。それで?わざわざ呼び出して、君は私に一体何をさせたいのですか?」

そう尋ねてくる男に対し、凛鵜(リンウ)は待ってましたとばかりにゆっくり呼吸を整える。

そしてあらかじめ用意していたあの言葉を男に投げかけた。

「貴方に…僕の姉、鴻夏(コウカ)の保護をお願いしたい」

おそらくその申し出を予想していただろうに、男は興味もなさそうにこう尋ねる。

「…どうして私に?姉君は君自身で守るんじゃなかったのかな?」

「貴方ならもうわかってるはずだ。近々この国は大きく乱れる。おそらくたくさんの血も流れる事になるだろう。そうなったら最後、今の僕には鴻夏(コウカ)を守り切れる力がない…」


自嘲気味に凛鵜(リンウ)がそう語る。これが最善の策とわかっていても、自分の力で大事な姉を守りきれない事がこんなにも悔しい。

「あとは貴方もご存知の通り、鴻夏(コウカ)には大きな秘密がある。僕と鴻夏(コウカ)はもう十七歳。隠し通すのも限界が来ている。遅かれ早かれ、鴻夏(コウカ)は嫁に出なければならなくなるだろう。もはやそれが避けられない事態ならば、僕としては貴方の元に()るのが一番安心かつ都合が良い」

きっぱりとそう言い切る凛鵜(リンウ)に、男が腕組みしたまま首を(ひね)る。

「…なるほど?確かに君にとっては大変都合が良い話のようだ。しかし君の姉君を私が保護するとして、果たして私には一体どんな利益があるのかな?」


そう問われた凛鵜(リンウ)は、それも予想していたかのように冷たく笑ってこう答える。

「…何言ってるのやら。おそらく貴方にとっても、鴻夏(コウカ)は大変理想的な花嫁でしょう?この大国 花胤(カイン)の皇女であり、容姿も家柄も文句なし。例え結婚後に風嘉(フウカ)帝が皇后以外に見向きもしなくなったとしても、あの容姿ならば誰もが納得し不審にも思わない。そして…貴方が一番気にしている、跡継ぎ問題が発生して()める心配もない」

シン…と辺りに沈黙が流れた。

ゆらりと男の瞳に危険な光が宿る。

ともすれば一刀両断されそうな気配を感じながらも、凛鵜(リンウ)(つと)めて平静を装い、男を見つめ続けた。ここで引いてしまったら、もう鴻夏(コウカ)を助ける手立てはない。

何としてもこの男の了承を、今ここで取り付けなければならない。


そして(しばら)くの間、二人はいつ終わるともしれない無言での睨み合いを続けたが、それは始まった時同様、唐突に男の気配が緩んだ事で終わりを告げた。

「…相変わらずズケズケと人の痛いところを突いてくるね、君は。その性格を何とかしないと、大切な君の姉君に正体がバレるのも時間の問題じゃないかな」

溜め息混じりに嫌味を言う男に、凛鵜(リンウ)も負けじと言い返す。

「貴方じゃあるまいし、僕はそんなヘマはしないよ」

「どうだかね?…まぁそれはともかく、君には三年前、故国に戻る際に手を貸してもらった恩もある」

「!じゃあ…」

「…気は進まないが、今回は君の姉君を保護する役を引き受けよう。温室育ちの姉君に、これから起こる修羅場(しゅらば)を見せるのも(こく)な話だからね…」

そう語る男に凛鵜(リンウ)はパァッと一瞬顔を輝かせたが、すぐにその表情を改めるといきなり人差し指を相手に突きつけ、これ以上ないほど真剣な表情で念を押した。


「…先に言っておくけど、預けるだけだからね?間違っても、うっかり手なんか出さないで下さいよ?国内を平定して、僕が花胤(カイン)の皇帝の座に()いたら、鴻夏(コウカ)はすぐにでも返していただく予定だから」

確かお願いする立場であるはずなのに、なぜかやたらと強気な凛鵜(リンウ)の態度に、男が呆れたようにこう返す。

「…やれやれ、この私を本気で番犬代わりにするつもりかい?そんなに大事な姉君なら、私なんかに預けなきゃいいのに…」

「僕だって不本意だよ!でも僕の知る限り、貴方の側が一番安全なのも事実だからね。…それにどうせ貴方の事だから、きっと今でも忘れられないのでしょう…?」

ふっと言葉の最後に、凛鵜(リンウ)の表情が陰を帯びる。それを受けて、男の方の表情も同じように陰を帯びた。


「…昔の話だ。どんなに後悔しても、もう彼女もあの人もこの世には居ない…」

「だからといって彼等の息子にまで、義理立てしなくてもいいんじゃないかと思うけどね?まぁ…貴方の事だから、そういったしがらみでもなければ、今 生きてここには居なかったかもしれないけど…」

理解出来ないとばかりにそう呟く凛鵜(リンウ)に、男が困ったような顔で窘める。

「…まったく君は本気で私と交渉するつもりがあるのかい?もう少し言葉にする時は考えないと。特に相手を怒らす危険性のある事は言わない方がいい」

「今更でしょう?それに貴方相手に言葉を取り(つくろ)ったところで、何の意味もない。どうせこっちのお家事情から、僕の考えに至るまでみんな読まれているんだから」

フンっと開き直ってそう語る凛鵜(リンウ)に、男が困ったように苦笑する。

「…まったく黙っていれば(はかな)げな美人のくせに、ホントにいい性格をしているよ。君のその容姿に(だま)されて、哀れな(こま)の一つに成り下がった男が一体どれだけいるのやら…」

そうボヤく男の首に、スルリと凛鵜(リンウ)が腕を絡める。(あで)やかに間近で微笑む凛鵜(リンウ)は、一瞬男である事を忘れるほど美しい。

「他の駒の事情なんて知らないよ。…でも僕が一番欲しかった駒は、貴方なんだけどね、(レン)?」

そう言って、凛鵜(リンウ)の方から男に口付ける。

それを慣れた様子で受けながら、男は腹ただしいくらいに冷静だった。

長い長い口付けの後、ゆっくりと凛鵜(リンウ)が口唇を離すと、まるで何事もなかったかのように冷めきった表情で男が答える。


「…それで?今更昔の男とヨリを戻したいわけでもないだろう?」

「ホント、相変わらず腹立つくらいに動揺しないね。僕じゃ貴方のお眼鏡(めがね)には敵わないって言わんばかりだ」

気に入らないとばかりに凛鵜(リンウ)()ねると、男は特に慌てた風もなくこう答える。

「…いや、そうでもないさ?君がそこらの女よりずっと(かくこ)くて美人なのは確かだし、行き場を無くして彷徨(さまよ)っていた私に、居場所を用意し(かくま)ってくれた…。君がどう思っていたかは知らないが、私は私なりに君を気に入っているよ。そうでなければ三年もの間、この部屋に足繁(あししげ)く通っていない…」

「…それでも最終的に僕を捨てたくせに」

ポツリとそう誰にも聞こえない声でそう呟くと、スルリと凛鵜(リンウ)は男から離れる。

そして改めて挑戦的に男を眺めると、ふてぶてしくも毒のある言葉を彼に向かって投げつけた。

「…死にたがりの(レン)、僕の邪魔をするくらないなら、とっととあの世に旅立ってくれないかな?そうしたら僕は、鴻夏(コウカ)と共に労せずして風嘉(フウカ)一国もこの手に入れる事ができる…」

「…相変わらず欲張りだね、君は。別に私自身の命に大した価値はないが、今はそういうわけにもいかなくてね。国内を安定させ、成長した彼が何の(うれ)いもなく風嘉(フウカ)帝の座に()くまでは、少なくとも死ぬわけにはいかなくなったんだ…」


どこか遠い目をしてそう語る男に、特に嘘は感じられない。おそらくこの世の誰よりも人の上に立てる能力がありながら、相変わらずこの男は自分自身に何の価値も見出していない。

出会った時と変わらず、常に自分を(さげす)み死の誘惑に(とら)われ続けているこの男は、今は大切な故人との約束を果たす為だけに生きている。

その彼がその膝を折り、忠誠を捧げるのは今も昔も唯一人。

「…単に貴方にとって大切な人達の息子というだけで、何の力も能力もない子供が貴方を手に入れるのか…」

悔しそうにそう呟く凛鵜(リンウ)に対し、男は即座にそれを否定する。

「…泰瀏(タイリュウ)はまだ幼いというだけで、皇帝になる資質は充分にある。今の私の役目は彼が成長するまでの間、国と玉座を守り続ける事。…それだけだ」

淡々とそう語る彼に苛立ちが(つの)る。

資質があろうとなかろうと、今現在は何の力も持たないただの子供だ。先帝の遺児(いじ)というだけで、この男を当然のように手に入れた子供が気に入らなかった。そしてその子供を命より大切にしている男も気に入らなかった。

…それでも今 自分の姉を託せるのは、世界中どこを探しても彼しか居ない。


これ以上の論争は時間の無駄と判断した凛鵜(リンウ)は、深い深い溜め息をつくと、実に不機嫌そうな雰囲気のまま、軽く手を振って男に終わりを告げた。

「…話は終わった。僕の物になる気がないのなら、とっとと出てってくれないかな?あ、あとくれぐれも鴻夏(コウカ)には()れないようにね。僕の姉は世界で一番、素直で可愛いんだから…」

真顔で男を(おとし)めつつも、いけしゃあしゃあと身内を()めちぎる凛鵜(リンウ)に、男が呆れ気味にこう返す。

「残念ながらお子様には興味はないよ。しかし自分と同じ顔の相手に、よくもまぁそこまで…」

「…貴方も実際に鴻夏(コウカ)と過ごしてみればわかりますよ。『花胤(カイン)陰陽(いんよう)』の太陽の名は伊達じゃない」

ニヤリと勝ち誇る凛鵜(リンウ)に、男は告げる。

「なるほど…?じゃあお手並み拝見と行こうか」

「うっかり惚れてしまって、後悔しないでくださいよ?…あれは生まれた時から僕のだから」

「…君も存外(ぞんがい)私の事は言えないな。かなり不毛な関係だと思うが…」

呆れたようにそう返すと、凛鵜(リンウ)は『放っておいてください』とだけ答え、再度男に出て行くよう手を振った。

そして凛鵜(リンウ)の部屋を辞した後、その足で男は鴻夏(コウカ)の前に現れたのである。

続く

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