ー始まりの時ー
翌朝、翡雀皇后の暮らす離宮では、いつも通り双子の弟皇子に昨夜のあらましを話して聞かせる鴻夏の姿があった。
朝陽の中、頰を少しを紅潮させながらも、興奮気味に昨夜の事を語る鴻夏の姿は、それが女装だとわかっている人々の目から見てもキラキラと輝いていて美しい。
母譲りの美しい黒髪の上部を高く結い上げ、そこに花飾りや金や銀の簪を飾り、華やかな花胤の女性用の衣装を身に纏う鴻夏は、昨夜の少年と同一人物だということが信じられないほど、完璧な皇女だった。
しかも動く度にシャラシャラと簪が美しい音を奏で、まるで鴻夏を天女のように神秘的に見せている。それに対峙する弟 凛鵜皇子も、これまた鴻夏そっくりの美しい容貌の持ち主で、着ている服が男性物でなければ誰もが絶世の美女と勘違いしてもおかしくないほどであった。
むしろ生来の病弱さ故に、弟 凛鵜皇子の方がより真珠色の肌が抜けるように白く、その身体の線も姉皇女より少し細い印象を受ける。
ともあれ誰の目から見ても、生まれながらの完璧な一対、『花胤の陰陽』。
遠目に仲良く語らう双子達を見つめながら、離宮の者達は皆一様に憧れの溜め息をつくのであった。
そんな周囲の事は露知らず、双子達の会話は昨夜の鴻夏のお忍びの件で持ちきりであった。
鴻夏はいつも弟に、良い事も悪い事も包み隠さず話す事にしているため、今回もいつも通り正直に例の謎の旅人についても語っていた。
「…という事があってね。まぁもう会う事もないと思うんだけど、とにかく変わった人だったのよ」
そう語り終えた鴻夏に対し、凛鵜は無邪気で優しい視線を姉に向ける。
「ふぅん、そんな事があったの。それは随分と変わった人だね。亜麻色の髪って事は、風嘉からの旅人なのかな?」
「そうね…。多分 商人とか学者、せいぜい下っ端役人ってとこだと思うんだけど、何だか掴み所のない雰囲気の人だったわ」
少し思い出すように首を捻りながら、鴻夏が答える。ふと気づくと、珍しく弟が少し沈んだ顔で考え込んでいた。
それに対して鴻夏が尋ねる。
「…凛鵜?何か私の話で気になる事でもあった?」
その声にハッと我に返った凛鵜は、すぐさま姉に優しい笑顔を見せる。
「…いや、ちょっとその人が僕の知ってる人に似てるなぁと思っただけ」
「凛鵜の知ってる人?」
キョトンとする鴻夏に向かい、凛鵜がさらに説明をする。
「そう、数年前まで花胤の皇立学院に居た教授にね、そんな感じの人が居たんだよ」
「今は居ないの?」
「うん、風嘉に大規模な内乱が起こった際に故国に戻ったんだ。ほら、鴻夏も覚えているだろう?三年前に当時の風嘉帝が官僚達に殺害されて、国中が反乱軍に滅茶滅茶にされたあの事件だよ」
「…ああ、あの時の…」
それは離宮に引きこもっている鴻夏でも、よく知っている有名な事件だった。
当時の風嘉は賢帝と名高かった纜瀏帝の下、栄華の頂点にあったと聞いている。しかし賢い皇帝の下、永遠に続くかと思われたその平和は、ある日突然崩れ落ちた。それは治世十二年目にして、突然皇帝が狂った事による。
それまで慈悲深く、誰にでも公平で誠実な統治を行ってきた皇帝は、何がきっかけかはわからないが、ある日を境に後宮に閉じこもり、一切の政務を放棄したのだ。
忠臣が何度説得しても耳を貸さず、ただひたすら酒と女に溺れ続けた皇帝により、宮殿は欲に走った悪徳官僚達によって腐敗し、街にはたくさんの貧困街が溢れ、盗賊達が我が物顔で横行するようになっていった。それまで平和で豊かであった土地はあっという間に荒れ、国民達は餓死寸前の貧困と命の恐怖に喘ぎ続けた。
そしてそんな状態が三年続いたところで、一気に国民達の不満は爆発したのだ。
内乱のきっかけは、小さな火種だった。
貧困に喘いだ子供の一人が、明日の糧を得るために悪い事と知りながらも、ある神殿の供物を盗み出したのだ。それを運悪く見回りの神官に見つけられた子供は、子供の命乞いをする母親と共に惨殺された。それを見た住人達の怒りも考えずに…。
「なんて事だ!こんな幼い母子を惨殺するなんて!」
「神官の奴らは、俺らからお布施だの税金だのと言って、たくさんの金と食糧を巻き上げて贅沢してやがる。あいつらみたいなのがのさばってるから、俺達がこんな貧困に喘がなきゃならないんだ!」
「神官を倒せ!役人を吊るしあげろ!」
ワッと誰からともなく決起の声が上がると、それまで耐え忍んできた国民達は、次々と武器になる物を手に持ち、近くの神殿や役所を襲い始めた。そしてその動きは瞬く間に国中に広がり、風嘉の地は血と悲鳴に塗れた焦土と化したのだ。
その段階になっても、纜瀏帝は後宮から出て来ようとはしなかった。三年の間にすっかり腐敗しきった宮殿は、あっという間に我先にと逃げ出す高官達や女官達で溢れ、彼らは逃げ出しがてら、宮殿に納められていた数えきれないほどの財宝を全て盗み出していった。そして宮殿の中から人が居なくなる頃には、何もかもが奪い尽くされ、宮殿は形ばかりの皇城となったのだ。
荒れに荒れ、秩序も何もなくなった故国に絶望した人々の中から、ついに心ある一部の者達が立ち上がった。そんな彼らの多くは、実は賢帝と呼ばれた頃の纜瀏帝の腹心達だったのだ。
彼らは宮殿の腐敗と共に、欲に目が眩んだ高官達によって良いように地方へと追いやられていたが、いつの日にか風嘉に平和を取り戻すべく結託する事を決めていた。
そしてその旗頭として、彼らは纜瀏帝の末の異母弟である璉瀏皇弟を盟主と仰ぐ事に決めたのだ。
璉瀏皇弟。先代の風嘉皇帝の末の皇子であり、母親の身分の低さから、最も皇位から遠い皇子と称された男である。
生まれてすぐにその母も亡くし、当時の皇后の陰謀によって山中に打ち捨てられたところを、その息子であり異母兄でもある纜瀏帝によって助け出され育てられた。
早くから戦略・戦術の鬼才として名を馳せ、異母兄である纜瀏帝の懐刀として、十四歳にして単身国境警備の任にあたり、その目覚ましい働きぶりから『戦場の鬼神』とまで呼ばれ怖れられた男である。
彼は長く好戦的な月鷲との国境を中心に、風嘉の国境線を守っていたが、ちょうど纜瀏帝が後宮に引きこもり出した頃を境にふと姿を消してしまい、その行方は杳として知れなくなっていた。
その彼が三年もの間、一体どこに雲隠れしていたのかはわからないが、この未曾有の危機に際し、彼は再び忽然と花胤との国境付近にその姿を現し、あっという間に国内を平定・鎮圧していったのだ。
行く先々で盗賊や悪徳官僚を皆殺しにし、参戦してくる兵士達を吸収しながら、璉瀏皇弟の軍は凄い勢いで膨らんでいった。
そしてかつて皇城と呼ばれた場所に到達する頃には、国内のほぼ五分の四が彼の支配下となっていたのだ。
その破竹の勢いにすっかり怯え上がった数少ない皇城内の者達は、結託してついに最後の手段を決行した。それは自分達の命を助けてもらう代わりに、それまで主人と仰いでいた皇帝夫妻の首を捧げる事。
そして大軍を率いて皇城にたどり着いた璉瀏皇弟が見たのは、無惨に変わり果てたかつての皇帝夫妻の姿だった。
こうして栄華を極めたかつての風嘉の賢帝は、部下の全てに見捨てられ、実に呆気なくその生涯を終えた。そしてその後に、軍・官僚・国民すべての圧倒的な支持を受け、現皇帝の璉瀏帝がその地位に就いたのだ。
「…確か今の璉瀏帝って、未曾有の大乱を鎮圧した風嘉の英雄でしょ?若い時から『戦場の鬼神』と呼ばれてるくらいだから、きっとものすごく厳つい熊みたいな感じの人なんじゃないかしら?」
不思議とその容姿に関する噂が乏しい現 風嘉帝に対し、鴻夏は実にもっともらしい予想を述べた。
それを聞いて凛鵜が笑う。
「熊って…さすがにそれは失礼じゃない、鴻夏?」
「だって噂に出来ないほどの容姿なんでしょ?だったらよほどの不細工か強面かのどちらかじゃない?」
悪気なくそう言ってみるが、正直そんなすごい容姿の人なんて想像もつかない。
先の纜瀏帝は男らしい美男だったと聞いた事があるが、だからと言ってその異母弟も同じように美男とは限らないのだ。
そう思った鴻夏に対し、不意に凛鵜が苦笑交じりにこう答える。
「…まぁ、鴻夏の好みかどうかはわからないけど、少なくとも二目と見られない不細工という事はないと思うよ」
まるで本人に会った事があるかのようなその口振りに、鴻夏が不審の目を向ける。
「どうしてそう思うの?」
「先の纜瀏帝はなかなかの男前だったと聞いてるし、それにそんな印象的な顔だったら、逆にもっと派手に噂になってるよ」
そう言われ、なるほどと鴻夏も納得する。
確かに美男でも不細工でも、どちらかに極端な顔は噂になるのが普通だ。
「つまり凛鵜の予想としては、逆に美男でも不細工でもない普通の顔って事なの?」
「…そうなるかな?ま、謎が多い人だよね。即位後も内乱の後始末に追われてて、他国とあまり交流がないみたいだし。噂では常に地方を回ってて、皇城にもあまり居ないって話だよ」
ふぅんと相変わらず情報通の弟に感心しながらも、鴻夏はそれでこの話を切り上げてしまった。所詮他国の皇帝、離宮に引きこもっている自分には一生縁のない人だと思ったのだ。
まさかその二日後、それが大きな間違いであったと思う事になるなんて、この時の鴻夏にはまったく想像もついていなかった。
その二日後、珍しく鴻夏と凛鵜は父である花胤帝に呼び出されていた。
普段は凛鵜の身体を気遣い、父皇帝は滅多に二人を皇城の方に呼び出す事はない。
それを推してまで呼び出すほどの用件とは何なのか…何となく嫌な予感を感じながら、鴻夏と凛鵜は父皇帝と久しぶりの対面を果たしていた。
「…お久しぶりにございます、父上」
二人揃って優雅に袖を合わせて、父である皇帝に対し最上級の礼を取る。
花胤帝は御年四十七歳。今まさに男盛りを迎えている皇帝であった。
特にこれといった功績もないが、この強大な国 花胤を長年に渡り平和に統治してきたところをみると、その政治手腕は皇帝としてそう捨てたものではないと思われる。
花胤帝は白髪交じりとなった自らの長い髭を撫でながら、ゆったりと重々しくその口を開いた。
「凛鵜、そして鴻夏よ。其方達はいくつになった?」
「…今年で十七になりましてございます、父上」
深々と頭を下げながら、正直に答える。
心臓がバクバクと早鐘を打っていた。
先程から嫌な予感がして止まらない。
「そうか。其方達もはや十七か」
そう繰り返すと、花胤帝は後ろに控えていた大臣と何事かを小声で話し始めた。
皇帝の言葉に大臣がゆっくりと頷く。
一通り何事かを話し合った後、父皇帝は再び二人に向き直った。
「…凛鵜、鴻夏よ、二人共よく聞くのだ。お前達も知っての通り、我が花胤は他の三国との協定により、各国の皇族と定期的に婚姻を結んでおる。儂の皇后、其方達の母もその協定により月鷲から我が国へと嫁いできた。よって凛鵜、鴻夏、其方達にも命ずる。凛鵜は鳥漣より花嫁を迎える準備をせよ。鴻夏はこれより二週間の後に、風嘉帝の元へと嫁げ」
あまりに突然の縁談に、鴻夏も凛鵜もお互いの顔を見合わせ蒼白になった。
皇城を辞し、離宮に戻ってきた二人は早速母皇后に今日父皇帝から告げられた内容を伝えていた。
その衝撃的な内容に、母皇后は頭を抱えて深い溜め息をつく。
「…いつかこんな日が来るとは思っていましたが、まさかこんなに急とは…」
ショックを隠しきれない皇后に、凛鵜は追い討ちをかけるかのようにこう囁く。
「母上…私はともかく、鴻夏はどうするおつもりです?鴻夏は花胤の皇女として、風嘉帝の皇后になるべく嫁ぐ事になります。すでに嫁ぐ事が決まっている以上、鴻夏は風嘉に行かざるを得ません。しかし鴻夏は…」
凛鵜は言葉を濁したが、その先に続く言葉は皇后も言わなくてもわかっていた。
『男である鴻夏に後継ぎは産めない』
それは変えようのない事実。
いくら美しくとも、男の花嫁を寄越したとなると、風嘉側が怒り狂って攻め込んでくるかもしれない。まただからといって嫁ぐ前に姿を消そうものなら、それはそれで婚姻に泥を塗ったと言われかねない。
最善の策は予定通り花嫁として花胤を旅立ち、風嘉国内に入った後に、風嘉帝に会う前までに鴻夏が自ら姿を晦ます事。
たくさんの監視の目を掻い潜り、逃げおおせる事など本当に出来るのか不安だったが、もはやそれしか方法はなかった。
「…心配しないで、母上。何とかうまくやってみせるわ」
「鴻夏…でもそれでは貴方が…」
「いいのよ、いつかどうにかしなきゃならない事だったんだから」
母皇后を安心させるかのように、鴻夏は涙ぐむ母皇后を優しく抱きしめ、努めて明るく微笑んでみせる。
それを少し離れた場所から無言で見つめながら、凛鵜は一人暗い視線を二人に投げかけていた。
『賽は振られた…。あとはあの男がどう動くか…』
脳裏に浮かぶのは、掴み所のない雰囲気を持つあの男。悔しいけれど、自分の一歩も二歩も先を行くあの男が果たしてどう動くのか…さすがの凛鵜も読みきれなかった。
続く