ー結末と幕開けー
湯に浸かり、旅の汗と埃を綺麗に流して、白い風嘉の女性ものの衣装に着替えた鴻夏は、その後 言葉通りに現れた暁鴉に連れられ、別室へと移動した。
そこには先程まで姿も見なかった侍女達が幾人か待機しており、鴻夏が入るや否やてきぱきと髪型を整え、薄く化粧を施し、見事な装飾品で飾り立てると、再び一礼して部屋の外へと出て行ってしまった。
その間 暁鴉は終始無言で壁際に寄りかかり、支度をする鴻夏の様子を眺めていたが、準備の終わったのを見るなり、軽く口笛を吹きながら素直に感嘆の声を上げた。
「へぇ〜、さっすが有名な『花胤の陰陽』。ちゃんとすると黎鵞様といい勝負だね」
「…止してよ。あんな綺麗な人に敵うわけないじゃない」
心底嫌そうな顔で鴻夏がそう答えると、暁鴉は大真面目な顔で否定する。
「いやいや…美しさの種類が違うだけで、あたしはなかなかいい勝負だと思うよ?むしろあたしは姫さんの方が人間的で好みかな。黎鵞様の美しさはもう現実離れしてて、人間っていうより芸術品系だもん」
そう言われ、確かに…と鴻夏も思う。
実際に会ったからこそより思うのだが、この世にあれほど美しい男性が存在していていいものだろうかと鴻夏は思う。
あの美しさはまさに凶器。
何せ未だに自分と同じ生きた人間である事が、信じられないほどの美形なのである。
…ただその冷たく美しい見た目と裏腹に、性格の方はかなりキツそうで、鴻夏は逆にそれがあったからこそ、ちゃんと生きた人間なのだなと思えたぐらいだった。
そしてそう思った事が表情に出ていたのか、ふいに暁鴉が楽しげにこう尋ねてくる。
「今 黎鵞様の事、見た目と中身が全然違うって思ってたでしょ?」
「…か、顔に出てた…?」
「やっぱりね〜。初対面の人は大抵そう思うんだよね。何せあの見た目だから、勝手に大人しい印象を持っちゃう人が多いんだけど、でも本人はあの通り、全っ然大人しくも何ともない性格じゃない?だから勝手に懸想した奴等が、迫るなりいきなりバッサリやられて、再起不能になる事が多いんだよね〜」
ケタケタと笑いながらそう告げる暁鴉に、鴻夏がおそるおそる尋ねてみる。
「あ、あの…宰相様って、その…女性より男性の方がお好きなのかしら…?」
「ん?いや、どっちかっていうと人間嫌いだから、正直 男も女も興味ないタイプだよ」
「え、總糜と恋人同士なんじゃないの⁉︎」
真面目にそう聞いた鴻夏に、暁鴉はあっさりと笑いながらこう答える。
「あー、そっか、そっか…總糜ね!總糜の方は確かに黎鵞様にベタ惚れだけど、黎鵞様の方はどうなんだろうね?養い子だから可愛がってはいるみたいだけど、なんせ十五歳くらい年下のはずだから、下手したら相手にもされていないかもね」
「じゅ…十五歳差っ⁉︎さ…宰相様って一体幾つなの⁉︎」
どう見ても二十代前半だと思っていた黎鵞が、実は結構年上だと聞いて、さすがに鴻夏も素で喰いつく。
すると暁鴉は、少し考えながらこう答えた。
「さぁ…いくつだったかなぁ?四十はいってなかったと思うけど、三十代半ばぐらいにはなってたと思うよ。ま、あたしの覚えてる限り、ずっと見た目は変わんないけどね」
ますます人間離れしている美貌の宰相に、鴻夏が唖然としていると、暁鴉は特に気にした風もなくこう答える。
「さ、それより姫さんはそろそろ広間に行かないと。主達も揃ってる頃じゃないかな?」
そう言われ、ふいに鴻夏は先程から世話になりっ放しのこの女忍に、何のお礼も言っていなかった事に気付く。
とりあえずこの後すぐ、花胤へと追い返されてしまう可能性もあるので、鴻夏は今この場でちゃんとお礼を言っておかなければと思い、たどたどしい口調で暁鴉にこう告げた。
「え…っと、その…暁鴉さん…でしたっけ?あの…さっきからお礼を言いそびれてたけど、私の身代わりをしてくれてありがとう。あとここまでの案内も、とても助かりました」
ご丁寧にペコリと頭まで下げる鴻夏に、暁鴉が目を丸くする。
けれどすぐに軽く破顔すると、暁鴉は鴻夏の足元に跪きこう言った。
「ふぅん?あんたホントに深窓の姫君なんだね…。普通身分の高い人は、あたしらにお礼なんざ言わないよ?」
「え、そうなの?でもたくさんお世話になったら、お礼は言うものではなくて?」
キョトンとした顔で、小首を傾げながらそう尋ねる鴻夏に、暁鴉が豪快に笑う。
「はは…あんたホントに面白いねぇ。いいね、あたしはあんたが気に入ったよ!…あたしの事は『暁鴉』でいいよ、姫さん。忍に敬称なんざつけるもんじゃないさ」
そう言うと暁鴉はすっくと立ち上がり、鴻夏に対して手を伸ばす。
そして彼女は笑顔で力強く、鴻夏に対しこう宣言した。
「さぁ姫さん、案内するよ。今の風嘉を治めているうちの主達の元に!」
その言葉を聞きながら、鴻夏は一人 密かに覚悟を決める。
鴻夏のこれからの運命を決める宴が、今まさに始まろうとしていた。
美しく色とりどりのタイルで彩られた回廊を通り抜け、鴻夏は風嘉の後宮内にある広間へと案内された。
そこは大理石の床に絨毯を敷き、その上にたくさんのクッションを敷き詰めただけの場で、璉瀏帝を中心に彼の側近達が円座で座り、和やかに語り合っている。
そして先程 鴻夏と別れた後、璉瀏帝の方も同じように着替えてきたらしく、白を基調としたそれなりに身分を感じさせる服装に改め、場の中心に座っていた。
こうして見ると、相変わらず飄々とした雰囲気は変わらなかったが、そこはやはり皇帝というだけあって、彼のみが他の人と違う独特の雰囲気を醸し出している。
それを遠目で見つめながら、どうして今までそれに気づかなかったのかと鴻夏は思った。
確かに現皇帝が、身分を偽ってまで直接会いに来るとは思わなかったが、今にして思えば時々感じていた妙な違和感の正体は、これだったのだなと思う。
璉瀏帝は、先日会った月鷲の鴎悧帝のような華やかで相手を鼓舞するような雰囲気はなかったが、逆に相手そのものを包み込むような静かで理性的な存在感を放っていた。
例えるならばどこまでも続く海のように、その大きな器で部下達を包み、その才能を余す事なく自由に発揮させる、まさにそんな感じの皇帝だと鴻夏は思った。
そう思って見ていると、ふいにその視線に気づいた璉瀏帝がこちらへと視線を向ける。
彼の薄い翠の瞳が真っ直ぐに鴻夏の姿を射抜き、鴻夏がドキリとして固まった瞬間、彼はふわりと優しげに微笑んだ。
「…お待ちしておりましたよ、姫」
スッとその場から璉瀏帝が立ち上がると、他の側近達もスッと無言で鴻夏に対し跪く。
そのあまりに分不相応な扱いに、何と答えたものかと戸惑っていると、璉瀏帝は自ら鴻夏へと近付きその手を取った。
「さぁこちらへ。今夜は内々での食事会なので、極少数の者しかおりません。姫も気を遣わず、寛いでくださいね」
「あ、あの…」
何か答えようとはしたのだが、それを言葉にする前に鴻夏はぐいぐいと璉瀏帝に手を引かれ、円座中心へと連れて来られてしまう。
そして自然と集まった注目の中、鴻夏はひどく居心地の悪い思いをしながらこう思った。
『いくら極少数っていったって、この面子でどう寛げというの…』
その場に居たのは、先程 謁見の間で遭遇した宰相 崋 黎鵞、将軍 伯 須嬰、そして本物の湟 牽蓮とあと初めて会う小太りの文官が一名、そして何故か十歳くらいの小さな男の子とそのお付きの女官が一名だった。
一瞥しただけでも、今の風嘉の政治の中枢にいる大物ばかりなのは明白で、鴻夏は知らず緊張でその身を固くする。
するとその時、思いもかけず足元から実に可愛いらしい声が鴻夏に向かってかけられた。
「貴女が璉のお嫁さん?」
「え…?」
驚いて素の呟きを漏らしながら、鴻夏は声のした方へと視線を落とす。
するとそこには亜麻色の髪の女の子と見紛うばかりの美少年が居て、そのキラキラとした翠の瞳で鴻夏の事を見上げていた。
そしていかにも子供らしく、無邪気にニコニコと笑いながら、実に素直な感想を述べる。
「綺麗だね。僕、母上や黎鵞以外で、こんなに綺麗な人は初めて見たよ」
「あ…ありがとう…?」
とりあえず膝を付き、少年と目線を合わせながら、鴻夏はそう答える。
この子は一体誰なんだとは思ったが、少年はしばらく真っ直ぐ鴻夏を見つめ続けると、パッとその視線を璉瀏帝に向けこう言った。
「うん。僕このお姉さん、好き。このお姉さんなら璉のお嫁さんになってもいいよ!」
「…そうですか。随分と気に入ったようですね、泰?」
優しく少年を見下ろし、璉瀏帝が彼の頭を撫でながらそう尋ねる。
すると少年は満面の笑顔でこう答えた。
「うん、だって綺麗だし、すごく優しそう。あと…何だろ?よくわかんないけど、すごく璉とお似合いな気がする」
少年にそう言われ、鴻夏は思わず真っ赤になり、璉瀏帝は穏やかに微笑んだ。
「…そうですか。泰は彼女が合格だそうです。君達は…?」
そう璉瀏帝に尋ねられ、まずは側近のうち崋 黎鵞が口を開く。
「…私は貴方のお決めになった事なら、基本従いますよ。もちろん多少思う所がないわけでもございませんが、總糜からの報告でも、特に大きな問題があるようには思えませんでした。またあの他人に辛口な總糜が、何故か姫をかなり推しております。この短期間であれを手懐けるとは、姫の人心掌握力はなかなかのものかと存じます」
そう淡々と語った黎鵞の意見を受け、今度は伯 須嬰が口を開く。
「私もこの旅の間、姫を間近で拝見させて頂き、そのお人柄に好感を抱きました。もちろん私も黎鵞と同じく、多少は思う所がないわけでもございませんが、最終的に貴方がそう決められたのなら、特に反対は致しません」
そう須嬰が言い終わると、次は鴻夏が名も知らない小太りの文官がのんびりと口を開く。
「私はそうですねぇ…。今日初めてお会いしたので、正直姫のお人柄についてはわかりかねますが…、それでも経済的効果の面から考えると、ご結婚いただいた方が儲かりますので、賛成一択ですかな」
思わずその場に居た全員が『ん?』と疑問に感じたところで、皆の考えを代弁したかのように湟 牽蓮が口を挟む。
「えっ⁉︎そういう問題なんですか、樓爛様?」
すかさずそう問われ、樓爛と呼ばれた人物は、あっさりと頷きこう答える。
「うん、そういう問題だよ。稼げる時に稼いでおかないとね」
「ぶ…ブレないですねー…。さすが元海上商人…。自国の皇帝の結婚すら、単なる商売のネタですか…」
半ば呆れたようにそう呟く牽蓮に、今度は璉瀏帝が意見を求める。
「…君は、牽蓮?君自身はこの件について、どう思ってるのかな?」
「僕…ですか⁉︎…そうですね。僕も黎鵞様や須嬰様と同じで、璉さえ幸せになれるんなら、相手が誰だろうと特に反対はしませんよ」
悩みつつもそう答えた牽蓮に満足気に頷くと、璉瀏帝はふいに天井へと視線を上げ、次々に影達の名を呼んだ。
「…嘉魄、總糜、暁鴉」
「は…、お呼びですか、主」
スッとその場に、何処からともなく三人の忍が現れ、璉瀏帝に向かって跪く。
その姿を確認しながら、璉瀏帝は穏やかに彼等に対しても同様に意見を求めた。
「…君達はどう思います?」
「我々がですか…?」
「そうです」
重ねてそう問われ、まずは嘉魄が口を開く。
「…以前にも申し上げましたが、私は姫のお人柄を好ましく思っております。ですから主がお望みになられるのなら、特に反対する謂れはございません」
それを受けて、次は總糜が口を開く。
「俺は面白ければそれでいいんで、基本賛成っすね。あと姫さんが居ると、毎日がより楽しくなりそうなんで、ワクワクするっすよ」
そう答えた總糜を呆れたように見つめながら、最後に暁鴉がこう答える。
「あたしも姫さんの件は賛成ですね。いずれ誰かを迎え入れなきゃならないんなら、ちゃんと信用出来る相手がいい。少なくともこの姫さんに他意はないのは明らかだし、何より素直で変わってて面白いよ。あたしはこの姫さんが気に入ったね」
次々と目の前で自分を批評され、鴻夏が面喰らって黙り込んでいると、全員の意見を聞き終えた璉瀏帝が改めて鴻夏へと向き直った。
「…決まりですね。姫、私の部下達は満場一致で、貴女を正妃として迎え入れる事に賛同してくれました。あとは姫の心次第です」
「わ、私の…?」
何の事かわからず、オロオロとそう尋ねると、璉瀏帝は鴻夏の前に跪きこう告げた。
「姫、私と契約結婚をしませんか?」
ニッコリと満面の笑顔でそう告げる璉瀏帝に、鴻夏は意味がわからずポカンとする。
すると続けて璉瀏帝は、悪戯っぽく人差し指を口元に当てながらこう付け足した。
「実は私の方にも少々事情がございまして、普通の方を妃に迎えるわけにはいかないのですよ。そういう意味でも、姫はこちらの条件に沿った方ですので、私としては姫との婚姻を望んでいます」
予想もしなかった璉瀏帝の申し出に、鴻夏は更に混乱したのであった。
暖かな湯気を立てるお茶を手に、鴻夏はまだ少し呆然としながらその場に座っていた。
そして璉瀏帝とその側近達に囲まれ、混乱しながらもこう確認する。
「えー…っと、つまり貴方にとっても私は結婚相手として都合が良い…って事でいいのかしら…?」
「そうですね。要約するとそうなります」
ニッコリと相変わらず掴み所のない笑顔を見せながら、璉瀏帝がそう答える。
それに対し、鴻夏はおそるおそる相手を見つめながら思いきってこう尋ねた。
「あ、あの…でも私は、その…花嫁としてはかなり致命的な問題があって…。貴方に限らず、男性と結婚するのは無理…というか…」
どう伝えたものかとモゴモゴと要領を得ない事を呟いていると、璉瀏帝が事も無げにこう答える。
「…知ってますよ。貴女の本当の性別の事でしょう?ここに居る皆も知ってます。それを知った上で、私は貴女に契約結婚を持ちかけているのですが…」
「は…?」
唖然とする鴻夏に、璉瀏帝はあっさりとそう告げると続けてさらにこう述べた。
「むしろそれがあるからこそ、私は貴女と結婚したいんですよ。普通の女性だと何かと面倒な問題が起こりますので、それくらいならいっそ男性の貴女と結婚する方が都合が良いんです」
淡々とそう答える璉瀏帝に、鴻夏はまったく頭が付いていかず混乱する。
そもそもいつから彼は自分の本当の性別を知っていたのか、そしてそれを知りつつも、何故敢えて自分との結婚を望むのか…?
悩んだ末に出てきた鴻夏の答えは、かなりトンチンカンなものだった。
「え…っと、それってつまり貴方が女性より、男性の方がお好きだから…って事なのかしら…?」
そう言った途端、あちこちで一斉に吹き出す声がする。
總糜や暁鴉、樓爛などは完全にその場で腹を抱えて笑い出し、須嬰や黎鵞、牽蓮は吹き出しこそしなかったものの、あらぬ方へと視線を外し肩を震わせ笑いを堪えている。
あと泰と呼ばれた少年のみは意味が分からずキョトンとし、嘉魄と名も知らない女官は特に何も変わらず終始無言だった。
そして鴻夏にそう尋ねられた璉瀏帝はというと、困ったように額に手をやりながら冷静にこう答える。
「…姫。何か激しく勘違いをされているようですが、別に私は男性の方が好きというわけではありませんよ…」
「えっ、そうなの⁉︎じゃあ…なんで敢えて私⁉︎意味がわからないわ…」
そう尋ねると、璉瀏帝は溜め息をつきつつ、こう答える。
「…ですから、女性を妃に迎えると後継問題が発生するからですよ。どんなに気をつけていたとしても、絶対に妊娠しないという保証はありません。私はここに居る泰瀏に皇位を譲ると決めていますので、余計な争乱の種は作りたくないんです」
そう説明され、ようやく鴻夏も納得する。
確かに女性であれば妊娠する可能性もあるだろうし、そもそも婚家との利害的な繋がりもあるので、もし子供が出来てしまえば必ず後継者争いが勃発する。
また国民にしてみても、争乱を引き起こした先帝の息子より、風嘉の解放者である璉瀏帝の子供に皇位を望むのは当然の事だ。
おそらく璉瀏帝はそれらも心配し、最初から自分の子供は作らないつもりなのだと、ようやく鴻夏も理解した。
「あ…そういう事…。ごめんなさい、完全に私の勘違いだったわ」
素直にそう謝ると、璉瀏帝は困った顔をしつつも『わかればいいんです』と言って溜め息をつく。
とんだ勘違いはあったものの、とりあえずお互いの利害が一致している事を再確認した鴻夏は、その時点になってようやくこの事態を冷静に考え直した。
どうせこの縁談がなくなっても、皇女である自分はどこかに嫁がざるを得ない。
それならばいっそ、全てを承知の上で自分を貰ってくれるという璉瀏帝とこのまま結婚した方がいいのではないだろうか?
幸い璉瀏帝の側近達も、全てを知った上で自分を妃として受け入れてくれる気でいる。
そして何より鴻夏自身に、この国に残りたいという意志が芽生えていた。
正直自分に何が出来るかはわからないが、璉瀏帝が護るこの国を自分も一緒に護りたい。
そして彼をその苦しみから解放したあげたいと心から思った。
そして鴻夏は決意も新たに、こう切り返す。
「…あの…本当に私でいいのかしら…?私は世間知らずだし、正直この国の役に立てるかどうかもわからない。それに女装にしても、いつまで通じるのか怪しいんだけど…」
そう思いきって尋ねると、璉瀏帝は淡々とこう答える。
「…あと五年。長くても七年ですかね…?」
「え?」
「言い忘れていましたが、こちら側の事情の一つです。私は皇位に就く際に、ここに居る彼等にいくつかの条件を出しました。一つ目は私は自分の血筋を残す気がないという事。二つ目は次の皇位は、ここに居る泰瀏に譲ると決めている事。そして三つ目は、私が皇位に就くのは泰瀏が成人するまでの間。長くても十年で、その後はこの国の皇位を退くというものです」
衝撃的な告白だった。
周りに望まれ、その地位に相応しいだけの実績も能力もあるというのに、璉瀏帝はたった十年で皇位を退く事を決めているという。
そして元々それが彼が皇位に就く時の条件であるなんて、俄かには信じられなかった。
だからつい鴻夏は彼に聞いてしまう。
『何故貴方はそんな条件をつけたのか』と。
その答えは限りなく単純明快なものだった。
「…私は自分が皇位を継ぐに相応しい人物だとは、思っておりません。ただ次代を継ぐべき泰瀏はまだこのように幼く、とても皇位に就ける状態ではありません。だから私の役目は彼が成人するまでの間、この国を復興させつつ諸外国から護る事、そして彼を皇位を継ぐに相応しい人物に育てあげる事です」
淡々とそう語りながら、璉瀏帝は穏やかな表情で泰瀏皇子の頭を撫でる。
どこまでその意味がわかっているのかわからないが、幼い皇子は嬉しそうに璉瀏帝の手を取ると、自らの頰にその手を当てながらニッコリと微笑んだ。
今の二人の姿を見る限りは、とても仲の良い義理の親子としか見えなかったが、自らを仮初めの皇帝と称する璉瀏帝は、おそらく泰瀏皇子の為にその生涯の全てを捧げている。
いや…正しくは彼の元の君主である纜瀏帝の為に、そうしているのだと鴻夏は思った。
そしてそれに気づくと共に、鴻夏は悔しさでその口唇を噛み締める。
すでに纜瀏帝が亡くなって三年は経とうとしているのに、未だにその呪縛は璉瀏帝を縛り続け、その人生の大半を支配している。
彼と纜瀏帝の間に何があったのかはわからないが、彼が本当の意味で自由になる日は来るのだろうか?
出来る事ならば自分が、彼を真の意味で解放してあげたいと鴻夏は思った。
そして鴻夏はその思いのままに、その場でスッと袖を合わせると、璉瀏帝に対して最上級の礼を取る。
そして彼を真っ直ぐに見上げると、はっきりとした声でこう告げた。
「…璉瀏帝。私でよろしければ、貴方に嫁がせていただきます。微力ながら私も、この国の為に尽くさせて頂きたいと存じます」
その鴻夏の返答に、オオッと一瞬でその場が盛り上がる。
それを穏やかな表情で聞きながら、璉瀏帝は静かにこう返した。
「こちらこそよろしくお願い致します、姫。あと私の事は『璉』とお呼びください。対外的な場所以外では、他の皆にもそう呼ぶよう、お願いしております」
「わかりました。それでは璉、貴方も私の事は『鴻夏』とお呼びください。貴方に嫁ぐのであれば『姫』はおかしいので…」
ニッコリ笑ってそう返すと、璉瀏帝こと璉がなるほどと言った顔をする。
そして彼は改めて鴻夏の手を取ると、晴れやかな笑顔でこう告げた。
「わかりました、鴻夏。それでは契約成立という事で、まずは改めて私の仲間達をご紹介致しましょう」
そう告げる璉瀏帝と共に、その場に居る者達がザッと鴻夏に対し頭を下げる。
今ここに、正式に鴻夏は璉瀏帝の正妃として認められたのであった。
その日その場に居たのは、璉こと璉瀏帝の側近中の側近達であった。
まずは璉と鴻夏を中心に円座で座っていた彼等は、璉の左側に座る鴻夏に対し、そのすぐ左隣から順番に挨拶をし始める。
そして鴻夏の左隣に座るのは、風嘉の氷の宰相の異名を取る、崋 黎鵞。
まずは彼から改めて鴻夏に挨拶を始めた。
「改めて初めまして、鴻夏様。風嘉の宰相を務めております崋 黎鵞と申します。この見た目ですでにお気付きでしょうが、私の家は元々 鳥漣の出身で、父の代に風嘉に亡命して参りました。つまり私も元を辿れば、鴻夏様と同じ異国人でございます。どうぞお見知り置きを…」
そう言って黎鵞が優雅に頭を下げる。
間近で見ても完璧過ぎる美貌の主に、鴻夏は圧倒されつつも何とか無難に挨拶を返す。
すると続けて挨拶をしたのは、先程 謁見の間で半べそをかいていた、湟 牽蓮であった。
「…先程はお見苦しい姿をお見せ致しました。改めてご挨拶申し上げます。私は風嘉の内政官を務めております、湟 牽蓮と申します。この通り見た目や体型が、多少 璉に似ているせいで、時々あのように影武者役もやらされております…」
そう牽蓮が言ったところで、ボソッと隣の黎鵞が『ホント見た目だけで、ヘタレの役立たずが…』とそう呟く。
それを受けて、思わず牽蓮が黎鵞に向かってこう叫んだ。
「だーかーらー、僕の本来の役割は、璉の影武者役じゃないんですってばっ!確かに僕は忍の修行もしましたけど、どっちかっていうと今の本業は内政官の方ですっ!」
「…知ってますよ。私は貴方の忍の腕前はこれっぽっちも信用しておりませんが、内政官としての能力は高く評価しております」
きっぱりすっぱり黎鵞に切り捨てられ、またもや牽蓮が半べそをかく。
そしてそれを打ち切るように、隣の小太りの文官が勝手に挨拶をし始めた。
「えー…それでは初めまして、鴻夏様。私は邰 樓爛と申します。元々は西方で海上商人をしておりましたが、璉に請われて、今は風嘉の財務長官をやらせていただいております。また今回は璉の結婚式という事でこうして皇都に一時帰還しておりますが、普段は海上貿易の監視も兼ねて、西方領の方に詰めております。どうぞ鴻夏様も新婚旅行がてら、西方領へもお越しください。その方が宣伝に…あ、いや西方領の国民も喜ぶかと存じます」
「は…はぁ…。どうぞよろしく…」
揉み手をしつつ、いかにも商人らしい抜け目のない勧誘をする樓爛に、かなり鴻夏が引いていると、今度は見慣れた武人がそれを打ち切るように挨拶を始めた。
「すでに花胤で一度ご挨拶させて頂いておりますが、風嘉で将軍職を務めさせていただいております、伯 須嬰と申します。私も今はこうして皇都に一時帰還しておりますが、普段は東方領に詰めております。どうぞお見知り置きを…」
「…伯将軍、その節はお世話になりました。これからもよろしくお願い致します」
そう鴻夏が伯に挨拶し終わったところで、次に先程の少年がにこやかに挨拶を始めた。
「鴻夏様、初めまして。僕は緫 泰瀏です。璉の甥になります。後ろに控えているのは、僕の世話をしてくれている侍女の燠妃です。どうぞ仲良くしてくださいね」
ニッコリと無邪気な笑顔を向けられて、鴻夏も思わず釣られて微笑む。
そしてこんな小さな少年に『様』付けで呼ばれるのもなぁと思い、鴻夏はにこやかに少年にこう返した。
「こちらこそよろしくお願いしますね、泰瀏皇子。あと私の事はどうぞ『鴻夏』と呼んでくださいね?皇帝である璉が様付けでないのに、私だけ様付けされるのは嫌だわ」
そう鴻夏に返されたのが嬉しかったのか、泰瀏が輝くような笑顔でこう答える。
「じゃあ、僕の事も『泰』と呼んでください。璉のお嫁さんになるんだから、これからはずっと一緒に居られるんだよね?」
「…そうね。多分そうなると思うわ」
そう答えるとパァッと顔を輝かせて、泰が璉に向かって話しかける。
「嬉しいな、璉。僕、やっぱりこのお姉さんがいいよ!あ、でもお姉さん…は違うのかな…?」
急に悩み出した少年に対し、璉はその頭をぽんぽんと軽く叩きながら笑顔でこう告げる。
「泰、鴻夏は鴻夏ですよ…?性別がどちらかなど、どうでもいい事です。泰は鴻夏が好きですか?」
「うん、大好き!綺麗で優しくて、まるで母上みたいなんだもの」
間髪入れずにそう答える少年に、璉は諭すようにこう告げる。
「…じゃあ大好きな鴻夏の秘密は守れますよね?もしこの後宮の者以外に、鴻夏の秘密がバレてしまったら、鴻夏はもう泰と一緒に居られなくなってしまうかもしれませんよ?」
そう言われた途端、泰が泣きそうな顔で首を横に振る。
そして璉に抱きつきながら、こう宣言した。
「そんなの、嫌だっ!僕…僕、絶対に喋らないよ!」
「…良い子ですね、泰。私が側に居ない時は、泰が鴻夏を護ってくださいね?」
そう言うと、璉は近くに控える影達に目をやり、一人の忍の名を呼んだ。
「暁鴉…。君にお願いがあります」
「はい何でしょう、主?」
不思議そうに尋ねる暁鴉に、璉が告げる。
「今日から鴻夏の『影』になっていただけませんか?君も知っての通り、鴻夏は対外的には私の妃です。そのため女性である君でなければ、守れない所も多々出てくるでしょう。ですから君さえ良ければ、ぜひ鴻夏の力になってあげて欲しいのてす…」
そう璉に言われ、暁鴉は驚いたもののすぐに自信有り気にニヤリと笑って即答した。
「…あたしで良ければ、喜んで引き受けさせていただきますよ、主」
「ありがとう、暁鴉。鴻夏を頼みましたよ」
「はっ、この命に代えても」
そう力強く答えると、暁鴉は鴻夏に視線を移し、ニッコリと笑う。
「そういうわけなんで、改めて今日からよろしく、鴻夏様」
「…こ…ちらこそ…よろしくお願いします、暁鴉…」
驚きつつもそう答えた鴻夏に、暁鴉がとても満足気に笑う。
そしてこの瞬間、鴻夏は新たに得難い味方を手に入れたのだった。
そして翌日、風嘉の皇都『白瑤』では、朝から祝福の鐘が響き渡っていた。
広場には色とりどりの花弁が鮮やかに舞い、皇城へと通ずる全ての道には、人々の笑顔と祝福の声が溢れている。
また街のあちこちに張り巡らされた水路には、たくさんの小舟がひしめき合い、全ての者達がその時を今か今かと待ちわびていた。
そんな中、皇城の最奥ではその歓声を遥か遠くに聞きながら、鴻夏が一人椅子に座り、目を閉じたまま静かにその時を待っている。
身に纏うのは、白い風嘉風の花嫁衣装。
ゆったりとした白絹に華やかなレースと細かい金糸の刺繍を施し、要所要所に艶やかな真珠をあしらった気品ある意匠のドレスは、まさにこの日の為に作られた最高級の逸品で、鴻夏の美しさを最大限に引き立てていた。
また花嫁のベールによって、今はその表情があまり読み取れないが、鴻夏自身にこの婚姻に対する迷いがないため、生来の輝くばかりの気品と自信に満ち溢れている。
自分でも驚くほど穏やかな気持ちでその時を待ちながら、鴻夏は一人ゆったりと今までの事を思い出していた。
頭の中を過ぎるのは、生まれた時からずっと過ごしてきた花胤の離宮での日々。
今はもう二度と戻れないあの場所で、母と双子の弟の凛鵜と三人、誰よりも穏やかに幸せに過ごした。
男として生まれながらも、それを隠し女として育てられた自分は、世間的に見ればとても可哀想な子供なのかもしれない。
けれど自分はおそらく、それを遥かに上回る愛情に包まれ幸せに育った。
だから性別を偽り、女として育てられた事にも鴻夏は何の不満も感じていない。
そして最初は不安でしかなかった今回の婚姻も、蓋を開いてみれば偶然とは思えないほどの幸運続きで、結果として自分は一生かかっても得難いような人々に、仲間として暖かく迎え入れてもらった。
そして今日、自分は自らの意志で彼に嫁ぐ。
この風嘉の英雄にして、稀代の戦上手と名高い風嘉帝 璉瀏に…!
コンコンという扉を叩く音がして、フッと鴻夏が瞼を開ける。
するとそれを見計らったかのように、侍女が現れ丁寧に一礼をしながらこう告げた。
「鴻夏様、そろそろお時間です」
そう言われ、鴻夏はスッと立ち上がる。
するとどこからともなく暁鴉が現れ、鴻夏のすぐ側に降り立った。
「お、さっすが鴻夏様!似合ってるじゃん」
「暁鴉!」
昨夜から自分の影になったばかりの暁鴉は、わりと總糜と似たタイプのようで、かなり気さくに接してくれる。
お陰でまだ出会ったばかりだというのに、鴻夏と暁鴉はかなり親しくなっていた。
そのため鴻夏は、先程から少し気になっていた事を暁鴉に聞いてみる。
「ねぇ、おかしくないかしら?私、風嘉の衣装って初めてで、なんかこう落ち着かないんだけど…」
「全〜然、変じゃないよ?むしろ似合い過ぎなくらい。鴻夏様は少し身体の線が出てる方が、あたしは色っぽくていいと思うよ」
何となく気心の知れた女同士っぽい会話をしながら、鴻夏はそれでも不満げにこう語る。
「身体の線を出して色っぽいのは、暁鴉みたいなタイプでしょ?私なんてどこも出てないから、貧弱でみっともないだけだと思うんだけど…」
「そうでもないさ。鴻夏様は華奢だから、そうやって肩を出したりウエストの細さを強調して見せたりするのは結構いいと思うよ?それにそのドレスは花嫁衣装で、そこまで露出度は高くないから、ちょうどいいくらいさ」
そう言って鴻夏を持ち上げつつ、暁鴉がこっそり鴻夏の耳元で囁く。
「…さっき先に見てきたけど、今日は主もかなり男前だったよ。まぁ元々造りは悪くないし、結構色んな意味でイイ男だからね」
思いがけず璉の話を振られて、鴻夏はドキンと心臓が跳ね上がる。
そして思わず花嫁らしく、顔を真っ赤にしてその場で黙り込んだ。
璉瀏帝こと璉に嫁ぐ覚悟はとっくに出来ていたが、ふいにそんな風に言われると、やたらと彼を意識してしまう。
出会った時は掴み所のない、何だか不思議な人という印象だった。
だが次に再会した時は、見かけはのんびりとしたごく普通の優男なのに、時に危険な雰囲気を醸し出す、どこか油断のならない男だとも思った。
しかし風嘉に来るまでの旅の間に、彼の不器用な優しさに触れたり、その辛すぎる過去を垣間見たりして、いつの間にか自分の中で何か特別な存在になっていた。
この気持ちが何なのかはよくわからなかったけれど、それをじっくり考える前に鴻夏は璉に契約結婚を持ちかけられ、悩んだ挙句それを了承してしまった。
だから何でこんな事ぐらいで、いちいち自分が動揺してしまうのか…、鴻夏は未だにその理由がよくわからずにいたのだが、それも周りからすれば一目瞭然の話で、気付いていないのは当人達のみであった。
そしてその姿を影から見ながら、總糜が実にのんびりとこう呟く。
「…さぁて、姫さんはいつになったら気付くんかねぇ?うちの主はああ見えて、かなりモテるから苦労すると思うけど…」
「それはうちの主も同じだろう。複雑な情勢を読むのは得意なのに、人と自分の感情には疎すぎるぐらい疎い人だからな…」
珍しく無口な嘉魄がそう応じると、『違いない』と總糜が楽しげに笑う。
そして慌てて広間へと向かう鴻夏を見ながら、總糜がこの状況をこう表現した。
「…感情以外の事は何でも知ってる主と感情以外は何にも知らない姫さんね…。うん、結構いい感じにバランス取れてるじゃん」
影でそんな事を言われているとも知らず、鴻夏は暁鴉に案内されるまま、急ぎその場を後にしたのだった。
美しい色とりどりのタイルで彩られた回廊を通り抜け、鴻夏が広間に辿り着くと、すぐに視界に見慣れた後ろ姿が入ってくる。
長い亜麻色の髪をゆったりと一つにまとめ、白と青を基調とした上品で豪奢な衣装を身に纏った璉は、遠目から見ても他者を寄せ付けない静かな威厳に満ち溢れていた。
彼の周りには昨夜紹介されたばかりの側近らが控え、何事かを璉と語り合っていたが、鴻夏が広間に入って来た事に気付くと、全員が一斉にその場で跪き忠誠の意を示す。
そしてその気配を察した璉が、ゆっくりと鴻夏の方を振り返ると、彼は目が合った途端にふわりと鮮やかに微笑んだ。
「おはようございます、鴻夏。昨夜はよく休めましたか?」
「お…はようございます、璉。おかげ様でゆっくりと休めました…」
何とかそう返しながら、鴻夏は有り得ないほど暴れ回る自らの心臓にかなり動揺する。
先程までの落ち着きはどこへやら…なぜ璉に会った途端にこうなったのかと思いながら、鴻夏は璉から目が離せなかった。
確かに暁鴉が言った通り、今日の璉はいつにも増して輝いていた。
元々が上品な顔立ちのため、今のように身分相応の衣装を身に纏われると、自然と気品と威厳が増すようで、今の彼は間違いなくこの四大皇国の一つである風嘉の皇帝にしか見えなかった。
どうしてこの彼を、ずっとただの文官の一人だと勘違いしていたのか…今にして思えば恥ずかしくなる。
しかし璉の方はというと相変わらずで、今日の主役の一人であると言うのに、まったく緊張感もなくのんびりとこう告げる。
「…その衣装、とてもよくお似合いですよ。今日の貴女を見た国民の熱狂振りが、今から容易に想像できますね」
「ありがとう…ございます…。でも貴方も今日はすごく素敵で…、その…やっぱり風嘉帝でいらっしゃったんだなと改めて思いました…」
思わずポロリと本音を漏らした鴻夏に、璉がキョトンとした顔をする。
しかしすぐに優しく微笑むと、彼らしく穏やかにこう返した。
「…ありがとうございます。まぁ孫にも衣装ってやつですかね?正直自分的には衣装に着られてる感が半端ないんですけど、一応皇帝なんで、対外的な場ではそれなりの格好をしないと示しがつかないそうなんですよね…」
「そんな事…!すごく似合ってると思うわ」
思いっきり力説をすると、周りからクスクスといった含み笑いが聞こえてくる。
そして呆れたように黎鵞がこう呟いた。
「仲が良いのは大変結構ですが、そろそろ神殿に向かう時間ですよ、璉?」
「…お願いですから、結婚式に遅刻とかはよしてくださいよ?護衛する側としては、一分のズレも結構な負担の増加なんですからね」
とすかさず須嬰もそう付け足す。
そして最後に樓爛が、いかにも彼らしくこう締め括った。
「そうです、そうです。多少の待ちは焦らし効果で売上増大が見込めますが、大幅な遅刻は逆に売上減です!さっさっと神殿に行って式を済ませて来ちゃってください」
これにはさすがの璉と鴻夏も、ただただ苦笑するしかなかった。
皇城のすぐ側に隣接する形で、その神殿は厳かに建っていた。
風嘉皇家の全面支援の下、管理・運営されているこの大神殿は、先帝の異母妹にあたる太華皇妹を巫女とし、国民から絶対的な信仰を集めている。
そのため先の大乱の際も、なぜかここだけは襲われる事なく、大乱前と変わらずその荘厳な姿を地上に留めていた。
そこで今、風嘉帝 璉瀏と花胤皇女 鴻夏の結婚式が行われている。
居並ぶのは、今の風嘉を支える重鎮達。
その最前列には、璉瀏帝の甥にあたる泰瀏皇太子と共に、璉瀏帝の側近中の側近にあたる宰相 崋 黎鵞、将軍 伯 須嬰、財務長官 邰 樓爛の姿もあった。
そしてシン…と静まりかえった神殿の中、何事もなく夫婦の誓いを済ませた鴻夏は、そのまま璉に手を取られ、誘われるがままに皇城の露台へとその姿を現す。
その途端、ドオッと地が唸るような大きな歓声が響き渡り、鴻夏はそのまま凍りついた。
鴻夏の視界一面に広がるのは、口々に祝いの言葉を述べながら、皇城へと詰め寄せるたくさんの風嘉の国民達。
昨日街で見かけたように、全員が満面の笑顔を浮かべながら自分を歓迎してくれている。
もはや圧巻としか言えない光景に、圧倒されて立ち尽くしていると、ふいに璉が鴻夏に向かって声をかけてきた。
「御覧なさい、鴻夏。皆が貴女を熱狂的に歓迎してくれていますよ」
「え、ええ…。でも本当に私で良かったのかしら…」
ある程度覚悟はしていたものの、予想を遥かに凌ぐ人気振りに、鴻夏は呆然とそう呟く。
すると璉は優しく鴻夏を見つめながら、はっきりとこう返した。
「…大丈夫です。貴女の事は私が全力で支えます。それに私達には、たくさんの優秀な味方が居ます。大丈夫、皆で助け合えば何とでもなりますよ」
そう言うと璉はさり気なく鴻夏の肩を抱き寄せ、露台の一番手前へと歩み寄る。
そしてスッと璉が右手を挙げた瞬間、ピタリと先程までの大歓声が止み、その場は嘘のように静まりかえった。
一体 璉瀏帝が何を語るのかと、人々が熱い注目を注ぐ中、皇帝として圧倒的な存在感を放つ璉の声が朗々とその場に響き渡る。
「…本日、私 風嘉帝 璉瀏は、花胤よりここに居る鴻夏姫を正妃として迎え入れた。今この時より、鴻夏姫は我が国の皇后である。遠き国より我が風嘉に嫁いで来てくれた姫に、感謝と祝福を!そして新しい皇后に忠誠を!」
そう璉が宣言をすると、一気にその場は大歓声に包まれた。
あまりの人々の熱狂に、神殿も皇城もそして大地さえもが歓声で震えている。
改めて『風嘉の英雄』璉瀏帝のその人気振りに圧倒されていると、隣に立つ璉が穏やかにこう告げた。
「さぁ…貴女も皆の熱狂に応えてあげてください。皆が貴女に手を振って頂けるのを、心待ちにしていますよ」
そう促され、鴻夏がおずおずと軽く手を振ると、途端に広場から大歓声が沸き起こる。
「あぁ、なんてお美しいお妃様だろう」
「まるで天使のように美しくて、そして女神様のようにお優しそう…」
「陛下がなかなかご結婚されずに心配していたが、やれこれでもう一安心だ」
「璉瀏帝 万歳!鴻夏様 万歳!」
そういう祝いの声が、次々と鴻夏の耳にも届いてくる。
まだ少し迷いはあったものの、それでも鴻夏はこの時、この国とこの人々の為に生涯を捧げようと固く心に誓った。
そして未熟な自分を受け入れ、支えてくれると宣言した、先程夫となったばかりの男にこう告げる。
「璉…私、努力するわ。この人達の幸せを護るために、精一杯努力します」
「…ありがとう、鴻夏。これからよろしくお願いしますね」
晴れ渡る空の下、穏やかに璉の声が響く。
その姿を眺めながら、璉の部下達も実に晴れ晴れとした表情で二人を見守っていた。
こうして『花胤の陰陽』の陽の姫と呼ばれた鴻夏姫は、風嘉帝 璉瀏の正妃となった。
そしてこれを機に、運命の歯車はゆっくりと回り出す。
花胤に残された『花胤の陰陽』の片割れ、陰の皇子こと凛鵜皇子、『月鷲の金獅子』と呼ばれる鴎悧帝、そして『鳥漣の狂帝』の異名を取る華月帝…。
四大皇国を中心に、世界は急激に波乱と陰謀の波に晒され始めていた。
そして否応なしに仕掛けられる争いの波に、ここ風嘉も巻き込まれていく事になる。
しかし現時点でその事に気付いている者は、ほんの一握りであった。
風嘉の白龍 〜花鳥風月奇譚・2〜 へ続きます