ー邂逅ー
牽蓮達と砂漠を旅し始めて三日目。
風嘉の皇都まであと一日となったところで、鴻夏は牽蓮に案内されて不思議な場所にやってきていた。
そこは今までの緑豊かで自由な雰囲気のオアシスとは違い、堅牢な石造りの壁で囲われた、まるで要塞のような建物が建つ不思議な空間。
そこの唯一の出入り口となる鉄扉の前に、今ひっそりと誰にも悟られる事がないように、一人の上品そうな老人と嘉魄が待っていた。
そして老人は近付いてくる鴻夏達に気付くと、丁寧な仕草で一礼し歓迎の意を示す。
「お久しぶりにございます。嘉魄殿の知らせを受け、ご来訪をお待ちしておりました」
ゆったりと長い白ひげを揺らめかせながら、老人が牽蓮に対し声をかける。
それに対し牽蓮は素早く馬から降りると、老人に向かって穏やかにこう答えた。
「…久しぶりですね、鶬壽。会うのは三年ぶりになりますか」
「左様にございますね。月日が経つのは早いもので、私がここの墓守に就任してもうそんなになりますか。老人にとってはあっという間の年月にございますな」
ほっほっと和やかに笑い声をたてながら、鶬壽と呼ばれた老人が穏やかな目で牽蓮を見つめる。
そしてスッと身体を右にずらすと、鴻夏達に向かって一礼しつつこう告げた。
「あまり時間もない事ですし、挨拶はここまでとして、早速ですがご案内させて頂きましょう。どうぞ私に付いてきて下さいませ」
そう言って、老人は重そうな鉄扉を押し開け、中へと入っていった。
それに続き、牽蓮も慣れた様子で馬を引きながら、鉄扉の中へと入っていく。
その姿を見て、慌てて馬から降りてはみたものの、鴻夏は迷ったように石壁に囲われた鉄扉を無言で見つめた。
正直ここが何なのかはよくわからなかったが、そもそも外国人である自分が、このまま牽蓮の後について入って行っていいものだろうか?と鴻夏は悩む。
だがそんな鴻夏の心配を余所に、總糜はまるで当然のように鴻夏を手招いた。
「姫さん、早く!」
「は、はい」
戸惑いつつも呼ばれるがままに馬を引いて扉へと近づくと、嘉魄と總糜が鉄扉の両脇に立ちながら鴻夏の事を待っていた。
とりあえず促されるままに、皆に続いて鉄扉を潜るとそこは白い石造りの立派な建物を中心に、緑豊かな世界が広がっていた。
建物の周りには、一面の花畑と溢れんばかりの水をたたえた噴水と池。
池にはピンクの蓮の花と共に銀の鱗を輝かせながら魚達が泳ぎまわり、太陽の光を弾いて輝く噴水には小さな虹が掛かっている。
そして少しだけ植えられている木の枝には、色とりどりの鳥達が止まり、その可愛い囀りで鴻夏達を歓迎してくれていた。
先程 石造りの壁の外から、何となくぼんやりと想像していた感じとはあまりにも違っていて、その落差に鴻夏は驚いて固まる。
しかしそんな鴻夏の後ろで、ふいにギイィと鉄の軋む音がして、バタンと出入り口の鉄扉が閉じられた。
振り返ると嘉魄と共に扉を閉めた總糜が、鴻夏に向かって手を差し出ながらこう告げる。
「姫さん、馬は中まで入れないからここで預かるよ。手綱を貸して」
「あ…はい」
言われるがままに總糜に馬を預けると、いつの間にか牽蓮の乗っていた馬も扉の側に繋がれていた。
そして戸惑う鴻夏に、少し先の石畳の道に立つ牽蓮が声をかける。
「姫、早くこちらへ」
「は、はい」
慌てて踵を返して牽蓮の元に向おうとした鴻夏だったが、ふと動いたのが自分だけで嘉魄と總糜がその場から動かない事に気付く。
振り返ると、總糜がその考えを読んだようにこう答えた。
「この先に行くのは、主と姫さんだけだ。俺と嘉魄はここから先へは行けない。だからここで待ってるよ」
「え…、でも…」
「姫、行きますよ」
重ねて牽蓮にそう呼ばれ、オロオロと牽蓮と總糜らを交互に見つめる鴻夏に、珍しく無口な嘉魄が穏やかにこう告げる。
「…姫、主がお待ちです。大丈夫、ちゃんとここで總糜とお帰りをお待ちしてますよ」
優しく嘉魄と總糜に促され、戸惑いつつも牽蓮の元に行くと、先程出迎えてくれた老人もその場で鴻夏を待っていた。
そして老人が暖かな眼差しで鴻夏を見つめながら、優しく声をかけてくる。
「花胤の鴻夏姫でいらっしゃいますな?」
「は、はい…。あの…すみません、ここがどこかは存じませんが、外国人の私が入っても問題はないのでしょうか…?」
おそるおそるそう尋ねてみると、老人は見た目通りの優しい声でこう答える。
「ほっほっ…構いませんとも。ここは風嘉の歴代の皇帝陛下ならびにその皇后さま達がお眠りになる陵墓にございます。姫は我が風嘉の璉瀏帝の正妃となられる御方。なんの問題もございません」
「えっ…皇家の墓⁉︎で、でも私はまだ風嘉帝とは正式に婚姻を結んでおりませんが…」
オロオロとしながらそう答えるが、老人はニコニコと笑うだけで何も答えない。
そして鴻夏の声が聞こえなかったのか、それとも元々聞く気がないのかはわからないが、くるりと踵を返すと『こちらへ』と言って、勝手に陵墓の案内を再開してしまった。
それに対し、鴻夏は慌てて食い下がろうとしたが、まるでそれを遮るかのように、牽蓮が鴻夏に向かってこう告げる。
「…行きますよ、姫」
「え、でも私…」
「ああ見えて鶬壽は足が速いので、うかうかしているとすぐに見失いますよ」
「あ、でも…その…」
何と言うべきか迷っている間に、スタスタと牽蓮も鶬壽に付いて霊廟の奥へと姿を消してしまった。
それを見てどうすべきか迷ったが、ここで付いていかないのも良くない気がして、鴻夏は思い切って牽蓮の後を追う事にする。
とりあえず彼等が姿を消した霊廟の中にそっと入ると、薄暗い回廊の遥か先にほんのりと灯りが見え、それがゆらゆらと更に奥の方へと向かっていた。
慌てて小走りでその後を追うと、暫くしていきなり視界から目印の灯りがフッと消える。
見失ったかと思い、急いでその場所に駆けつけてみると、そこは突き当たりになっていて、そこから道が左右に分かれていた。
一体どっちに行ったのかと焦ったが、すぐに右手からほのかな灯りと共に、鶬壽がひょっこりと顔を出す。
「鴻夏姫、こちらですじゃ」
「は、はい」
呼ばれるがままにそちらに向かうへと、一箇所だけ扉が開け放された部屋が見え、中に牽蓮が一人で立っていた。
一体どういう仕掛けなのか、廊下はあれほど暗かったというのに、その部屋の中だけは驚くほど明るく、まるで間接照明に包まれているかのように幻想的な空間となっている。
その光景に圧倒され、何も出来ずに立ち尽くしていると、鶬壽がやんわりとこう告げた。
「…どうぞ、中へ」
そう鶬壽に促されるままに中に入ると、パタンという軽い音と共に、扉が閉められる。
そして部屋の中には、無言で上方を見ながら立ち尽くす牽蓮とそれを見つめる鴻夏の二人だけとなっていた。
何となく声をかけられず、しばらくは鴻夏も無言で牽蓮の背中を見つめていたが、ふいに牽蓮が何を見つめているのかが気になり、その視線の先を辿ってみる。
するとそこに、鴻夏は見慣れない二人の男女の絵画を発見した。
一人は豪華な衣装を身に纏い、冠と錫杖を手にした威厳に満ちた男性で、おそらく歴代皇帝の誰かだろうという事はすぐにわかった。
年の頃は四十代前半といったところだろうか?
牽蓮と同じ亜麻色の髪に意志の強そうな濃い蒼の瞳が印象的な、なかなかの美男だった。
そしてその隣には明らかに二十代前半としか思えない、若く美しい女性の絵。
おそらくこの皇帝の正妃であろうが、人というには整い過ぎるほど整った容姿で、それ故にどこか儚げな雰囲気の女性であった。
鴻夏の母も絶世の美女と評される女性だが、この女性の美しさはおそらくそれに引けを取らないだけのものがある。
ただ母の場合は、健康的で力強く生命力に溢れる印象だったが、この女性の美しさはおそらくそれとは真逆で、どちらかというと妖精や人形といった感じの生きているのが不思議なような類のものだった。
特に透き通るような金の髪に薄い翠の瞳、抜けるような白い肌などは、人間というより人形に近く、まるで体温を感じさせない。
そう思って眺めていると、ふいにポツリと牽蓮がこう呟いた。
「…美しいご夫妻の絵でしょう…?」
突然話を振られて驚いたが、鴻夏はそのまま素直に感想を述べる。
「そうね…。どなたかは存じ上げないけど、男性は威厳に満ちた賢そうな方だし、女性はまるで妖精のように美しくて、国民から見たら見た目は理想的な皇帝夫妻かしらね…?」
そう評する鴻夏の声を背中に受けながら、牽蓮は絵を見つめたままこう答える。
「…そうですね。確かに理想的な皇帝夫妻でした。途中までは…」
「途中まで…?」
ふとその答えに引っかかりを感じ、鴻夏がそう聞き返すと、牽蓮はそれまで微動だにせず見つめていた絵から目を外し、そっと鴻夏に向き直るとはっきりとこう告げた。
「この絵は纜瀏帝とその正妃である紫翠妃を描いたものです」
「纜瀏帝…ってまさか…」
「はい。先の風嘉帝であり、この風嘉に未曾有の大乱を引き起こした張本人です」
あまりの驚きに声が出なかった。
『風嘉の愚帝』『国民の敵』と罵られ、最終的に部下の全てに見捨てられ、実に呆気なくその生涯を終えた悲劇の皇帝。
そんな彼も当初は慈悲深く、誰にでも公平で誠実な統治を行っていたと聞く。
ところが何がきっかけかはわからないが、ある日を境に後宮に閉じこもり、一切の政務を放棄してしまった。
その結果があの未曾有の大乱であり、それは国を治める者として、決して許される行為ではないけれど…。
「…確かに国を乱したのは、一国を預かる君主としては許されない行為だわ…。でもこの絵で見る限りは、そんな大層な事をしでかすような方には見えないわね…」
鴻夏の口から溢れたのは、あくまでも肖像画から受けた印象への素直な思いだった。
その予測外の答えを聞いて、牽蓮の瞳がほんの少し驚きで見開かれる。
そしてすぐにフッとその表情を和らげると、牽蓮は鴻夏に対し最上級の礼を取った。
「…ありがとうございます、姫」
「え?」
「確かに纜瀏帝のなさった行為は、決して許されるべき事ではありません。けれどこの方にはこの方なりの苦しみや葛藤があったのだと思います…」
そう呟いた牽蓮の表情が、どことなく陰を帯びる。
牽蓮が纜瀏帝に対し、何らかの特別な強い想いを抱いているのは明らかだった。
その事を聞いていいのかどうかと迷っていると、その鴻夏の表情を読んだかのように、牽蓮が自ら口を開く。
「…世間的には愚帝として有名となってしまいましたが、元々はとても賢く慈悲深い方でした。私も彼の慈悲で救われた一人です」
「え…?」
「私は産まれてすぐに、森に捨てられていたそうです。そのまま放って置かれたら、私は一日足りともこの世に存在出来ませんでした。それを救って下さったのが、即位前の纜瀏帝です」
淡々と他人事のように語りながら、牽蓮が再び纜瀏帝の肖像画へと目線を上げる。
自信に満ち溢れた壮年の皇帝の姿を、今 牽蓮はどんな想いで見ているのか…。
その表情からは何も読み取れなかったが、牽蓮の告白はそのまま続く。
「…彼は私を育てると共に、様々な教育も受けさせて下さいました。私も一日でも早く彼の役に立つ人間になりたくて、必死で色々な事を覚えました。でも…結果として、それが彼を歪めてしまった…」
見た事もない辛そうな表情で、牽蓮が目線を肖像画から外す。
何と言っていいのかわからず黙り込む鴻夏に、牽蓮はさらに言葉を続けた。
「いつからか…纜瀏帝は私の存在に怯えるようになりました。いつか私が反旗を翻し、自分に襲い掛かるのではないか、自分を尊敬する振りをしながら、その実 心の中で馬鹿にしているのではないかと、ありもしない妄想に取り憑かれたのです…」
「…そんな!貴方はそんな人ではないわ!」
思わずそう叫んだ鴻夏に再び視線を戻すと、牽蓮は真っ直ぐに鴻夏を見つめながら苦しそうにこう呟いた。
「…纜瀏帝が狂ったのは、おそらく私が原因です。私は彼に他意がない事を信じて欲しくて離れましたが、彼の方はそうは取らなかった…。彼はいつか私が自分を殺しに来るのだと、そう思ってしまったんです」
そう牽蓮が言い終わった時だった。
軽い衝撃と共に、ふわりと目の前に長い黒髪が広がった。
最初何が起こったのかわからなかったが、しばらくしてそれが自分の身体に縋る鴻夏だと気づくと、牽蓮は彼らしくもなく動揺する。
そして何の言葉も出ずに固まる牽蓮に、鴻夏が勢いのままにこう語った。
「…貴方が悪いわけじゃないわ、牽蓮!確かに纜瀏帝は常に孤独で不安だったかもしれない。でもだからといって、何もかもを疑うのは本人が弱いからよ!自分が相手を信じる事が出来ないから、そんな妄想に取り憑かれたの。全て纜瀏帝の自己責任よ!」
そしてそこまで言うと、鴻夏は牽蓮の両頬を掴み、強引に自分の方へと向かせた。
そして間近で牽蓮を見つめながら、少し怒ったような顔の鴻夏が、その強い意志で美しい金の瞳をキラキラと輝かせる。
そのあまりの輝きに牽蓮が目を奪われていると、鴻夏はそのまま強い口調でこう言い放った。
「いいこと、牽蓮?確かに纜瀏帝は貴方の命の恩人かもしれない。でも恩人だからって、貴方の人生の全てを縛る権利はないの!貴方はあくまでも貴方自身の為に生きなきゃダメよ。貴方の周りには、貴方を必要としている人が他にもたくさんいるわ!私だってそうよ?だから死人なんかに、貴方を渡す気はこ れっぽっちもないわ。悔しかったら墓から奪いに来てみなさいってとこよ!」
興奮しながら一気にそう捲し立てると、鴻夏は怒りで顔を紅潮させながら黙り込んだ。
その姿を半ば呆然としながら、牽蓮が無言で見つめ返す。
そしてしばらくの間、両者の間には沈黙の時間が流れたが、すぐに衝撃から立ち直った牽蓮が堪え切れずに笑い出した。
「ちょ…っ、ちょっと?何がおかしいのよ、牽蓮?」
訳がわからないとばかりに鴻夏は怒るが、牽蓮からしてみたら、鴻夏の言っている事は勢いだけで、内容は支離滅裂なのである。
しかも最期の『悔しかったら墓から奪いに来てみなさい』なんてのは、牽蓮では思いつきもしない罵倒だった。
正直今までこの件で、色んな人に色んな事を言われてきたが、こんな無茶苦茶な励まし方で説教をされたのは初めての経験であった。
けれどそれが不思議と一番自分の心に響いた事に、牽蓮は純粋に驚くと共に、心が軽くなるのを感じていた。
『…まったく想定外もいいところだ…。確かにこれは凛鵜皇子の言う事も頷ける』
牽蓮の頭の中に蘇るのは、花胤の離宮で言われたあの台詞。
あの時 自分の姉に惚れるなと釘を刺した凛鵜は、勝ち誇ったようにこう言った。
『…貴方も実際に鴻夏と過ごしてみればわかりますよ。『花胤の陰陽』の太陽の名は伊達じゃない』
…確かにその通りだと牽蓮は思った。
こんな強烈な輝きの前では、他の者は全て燻んで見えてしまう。
無自覚に周囲を照らし、闇に堕ちそうになる者を救い、そして光の差す方向へと導く。
まさしくその輝きは太陽の如く、周囲の全ての者を惹きつけ、明るい希望をもたらす。
今まさに復興中の風嘉にとって、この姫の放つ輝きは、いつか必要不可欠なものとなるかもしれないと牽蓮はその時思った。
そして時間にして一時間ほど滞在した牽蓮達は、そのまま早々に陵墓を後にした。
結局あの後は、普段通りに戻った牽蓮と普通に纜瀏帝夫妻の墓参りを済ませ、總糜達も含めて早めの昼休憩を取ったくらいで、特にこれといった事件はなかった。
ただ鴻夏が気になったのは、どうして牽蓮がわざわざ自分を連れて、纜瀏帝夫妻の墓参りに来たのかという点である。
鶬壽はずっと廊下に待機していたものの、最後まで纜瀏帝の霊廟には入って来なかった。
つまり墓守である鶬壽ですら、立ち入りを遠慮する場所に、自分達は当然のように通されたという事になる。
そして自分が霊廟に入る事については、『皇后になる者だから構わない』と鶬壽は言っていたが、そうなると自分と同じように霊廟に通された牽蓮とは一体何者なのだろう?
今までただの高官の一人だと思っていたが、もしかしたら牽蓮は風嘉の皇族の一人なのかもしれない。
それなら忍である嘉魄や總糜が、牽蓮の事を主と呼び、彼を護っている事も納得出来る。
しかし月鷲ほどではないものの、確か風嘉も先の大乱の際に大半の皇族が惨殺されたはずであった。
鴻夏も知っている生き残りの皇族と言えば、先帝の遺児である泰瀏皇子、先帝の異母妹であり神殿の巫女を務める太華皇妹、そして先帝の異母弟であり、現皇帝である璉瀏帝ぐらいである。
自分が知らないだけで、実は他にも生き残りはたくさん居るのかもしれないが、皇位を継げるような血筋はほぼ絶えたと聞いていた。
そんな中、纜瀏帝の霊廟にまで入り込める牽蓮とは一体何者なのか?
纜瀏帝が牽蓮の育ての親だという事はわかったが、おそらくそれだけの関係ではない事は鴻夏にも容易に想像が出来た。
そしてそれが今も牽蓮を縛り、彼を苦しめているのだという事も…。
知れば知るほど謎が深まる牽蓮だが、湧き上がる疑問に答えてくれる者は居なかった。
だがその答えも、風嘉の皇城に着けば少しはわかるはずだろう。
そんな中、牽蓮が皇都の方角を見ながら、鴻夏に向かって説明をする。
「…あと半日足らずで風嘉の皇都です。思ったよりも時間がかかってしまいましたが、おそらく夜までには辿り着けるでしょう」
淡々とそう語りながら、牽蓮はゆっくりと總糜の方を振り返る。
そしてウズウズと落ち着きなくなっている總糜に向かい、おそらく今 彼が一番待ち望んでいるであろう指示を下した。
「…總糜。申し訳ありませんが、先行して私達が今日中に皇都に着く事を知らせて頂けませんか?」
「待ってましたぁ!では失礼して、先に行ってお待ちしております。じゃあまた後でな、姫さん!」
ウキウキとした口調でそう言うと、總糜はすぐさま馬を飛ばし、あっという間にその場から居なくなってしまった。
あまりの素早さに唖然としていると、苦笑しながら牽蓮が説明してくれる。
「姫、總糜は早く本来の主人に会いたいんですよ。彼は皇城に来た時から、黎鵞殿に夢中ですからね」
「…宰相様って、男性よね?なんか總糜の様子を見てると、主人というより恋人に会いに行くような感じなんだけど…」
何気なく言った言葉だったが、意外と真実を突いていたらしい。
あっさりと頷きながら、牽蓮はこう言った。
「まぁそれに近い感じです。黎鵞殿は確かに男性ですが、黙っていればちょっと怖いぐらいの美形ですよ。總糜の面食いは、黎鵞殿を見て育ったのが一番の原因ですね」
ごく自然に語られる風嘉の皇城裏事情に、鴻夏は声も出ず黙り込む。
そしてこの世の中、一体どれだけ男色が蔓延っているんだと真剣に思ったのだった。
夕陽が完全に沈む少し前、皇都の閉門ギリギリに鴻夏達は何とか滑り込みで風嘉の皇都 『白瑤』まで到着した。
とりあえず皇都まで辿り着いたとはいえ、ここから更に街の中心部にある皇城まで行かねばならず、本当の到着まではあと一息かかる見込みである。
しかし身体は慣れない旅でかなり疲れていたものの、それを忘れるほど鴻夏の目を奪うのは、活気溢れる風嘉の街並だった。
白い石畳に白壁の家。
街のあちこちには水路が張り巡らされ、その上を黒塗りの小船が行き交っている。
そして広場には美しい噴水が水の弧を描き、それを取り囲むように色鮮やかな露店の天幕が所狭しと立ち並ぶ。
すでに日暮れだというのに、市場にはまだ沢山の人々と物が溢れ、夜はまだまだこれからといった雰囲気であった。
鴻夏の生まれ育った花胤の皇都『黒穣』も、活気溢れる大きな街ではあるが、国の違いからか、こちらの方が数倍も明るさと自由に溢れているように見える。
三年前の大乱で国内のほとんどが焦土と化し、すべてが壊滅的な打撃を受けたと聞いていたのに、今はそれが嘘のように美しく活気溢れる街並が広がっていた。
あまりの勢いに圧倒され、思わず呆然と立ち尽くしていると、それを見た牽蓮がクスクスと笑いながら声をかけてくる。
「どうしました、姫?姫の故郷の『黒穣』の街もこのくらいの規模はあるでしょう?」
「え、ええ…。でも何ていうか…こちらの方が勢いがあるというか、自由に満ち溢れているというか…。とにかくすごい迫力だわ」
素直にそう感想を述べると、牽蓮は少し驚いたもののすぐに笑顔になった。
「それは…ありがとうございます。他国の方から見てそう思えるのなら、復興に力を入れてきた甲斐があったというものです」
「本当に大乱があったなんて嘘のよう…。なんて皆幸せそうなの…」
ポツリとそう呟くと、牽蓮は穏やかに街行く人々を眺めながらこう呟いた。
「…そこに住む者を見れば、その国の君主の度量がわかると申します。良い君主に恵まれれば、国は栄え民は潤います。しかし悪しき君主が立てば、街は一瞬で廃れ、国は焦土と化すのです…。風嘉は三年前、実際にそれを経験しました。もうあのような悲劇は二度と繰り返してはならないのです」
淡々とした口調ではあったが、あまりにも重い言葉でもあった。
夜風に亜麻色の髪を靡かせ、遠い目で幸せそうに笑う人々を見つめる牽蓮に、静かな固い決意が見て取れる。
おそらくあの大乱を乗り越えた者だからこそ言える言葉なのだろうと鴻夏は思った。
その時フッと牽蓮が、鴻夏に視線を戻す。
普段と違い、あまりにも真剣で真摯な瞳に思わずドキリとすると、牽蓮は確かめるように鴻夏にこう尋ねた。
「姫…。風嘉の皇后になるという事は、ここに居るすべての民の幸せを護る責任を負うという事です。逆にそれが出来ない者に、人の上に立つ資格はございません。姫にその覚悟はお有りですか?」
一瞬で心臓を鷲掴みにされるような言葉だった。
おそらく牽蓮が言いたいのは、上に立つ者とはその下に立つ者達を護るためだけに存在しているという事。
身分とはそのためだけにあり、その責務を果たす覚悟を持たない者は、そもそも人の上に立つ資格すらないのだという事を言いたいのだと思った。
そしてその言葉を受けて、鴻夏は改めてじっくりと考えてみる。
正直自分は父の命に従うためだけに、風嘉までやってきた。
そしてどうやってこの結婚を回避しようかと、そればかりを考えてきた。
でもこの旅で牽蓮達と親しく過ごすうちに、自分の中に一つの強い感情が芽生えていた。
『彼等ともっと一緒に居たい』
『彼等と共に苦楽を分かち合いたい』
『彼等の暮らすこの国を護りたい』
『許される事ならば…私はこの国で彼等と共に歩んでいきたい!』
目を閉じて、自らの考えに耽っていた鴻夏が、スッとその目を開けた。
そして強い決意を秘めた金の瞳で、真っ直ぐに牽蓮を見つめる。
まるで黄金の焔のように、その瞳を揺らめかせながら鴻夏はきっぱりとこう言い放った。
「…正直、私にどこまでの事が出来るのかはわかりません。また私には結婚前に風嘉帝にお伝えしなければならない事もございます。もしかしたらその事で、この縁談自体が取り止めになるやもしれません。でももし…もしそれでも風嘉帝が私との結婚を望んでいただけるのなら、私はこの国の為に一生を捧げようと思います」
そう鴻夏が言い切った時、ふいにその場に強い突風が通り抜け、二人の外套を大きくはためかせた。
そして予想外の衝撃に思わず目を閉じて耐えた鴻夏は、気づかなかった。
風に掻き消されてしまった牽蓮の呟きを。
彼は誰にも聞こえないほどの声で、静かにこう呟いたのだ。『合格ですね…』と。
そして風が通り抜けた後、牽蓮はいつも通り何事もなかったかのようにこう呟いた。
「…風が強くなってまいりましたね。それにそろそろ皇城の方へ向かわないと、私達の到着を待ち侘びている頃だと思います」
ニッコリといつもの掴み所のない笑顔を見せながら、牽蓮が皇城の方へと視線を向ける。
この時 彼は誰にも何も言わなかったが、密かに一つの決意を固めていた。
そしてその決意と共に、穏やかに鴻夏に向かってこう促す。
「それでは参りましょうか。…皇城へ」
赤い夕陽に照らされながら、聳え立つ風嘉の皇城『白瑤城』。
旅の終着点はもはやすぐそこまで来ていた。
太陽が完全にその姿を隠し、夜の帳がゆっくりと広がり始めた頃、ようやく鴻夏達は風嘉の皇城前まで辿り着いていた。
牽蓮に促されるままに、なんとなくここまで来てしまったが、そういえば自分は花嫁一行から勝手に抜け出してきた逃走者だったと今更ながらに思い出す。
そしてどうやって、花嫁としてまた一行の中に戻ればいいのかと鴻夏は悩んだが、その考えを読んだかのように牽蓮がこう言った。
「…大丈夫ですよ、姫。花嫁一行の方は、姫の影武者を立ててそのまま予定通り、こちらに着いております。そのため姫の不在は誰にも知られておりません」
「え、そうなの?で…でもどうやってまた入れ替わるの?それにもう着いてるって事は、風嘉帝への挨拶がもう済んじゃってるって事じゃ…?つ、つまりもう私が逃走してた事が、風嘉帝にもバレてるって事で…」
サーッと青ざめながら鴻夏が焦り始めると、それを遮るように牽蓮がこう言った。
「…その点も大丈夫ですよ。ちょうど風嘉帝の方も不在でしたので、まだ正式に風嘉帝と姫との対面は終わっておりません」
「そ…そうなんだ?」
何でそんな事まで知っているのだろう?とは思ったが、とりあえずまだバレてないと聞いて鴻夏は一安心した。
しかしこれからどうやって、また鴻夏姫に戻ればいいのか、その方法すらわからない。
そう思っていたら、牽蓮は皇城の正門へは向かわず、裏手の方へと馬を進め始めた。
「ど、どこへ行くの?」
「正面から入ると、正体に気づかれて大騒ぎになるので、裏門からこっそり入れて貰うんですよ。その為に總糜に先行して皇城に行ってもらったんです」
「あ…そうなのね…」
すでにその点まで手配済みだったのかと感心していると、ザザッという物音と共にふいに上から總糜が飛び降りてきた。
そして驚きのあまり声も出ない鴻夏を無視して、突然現れた總糜は開口一番、いきなり牽蓮に対して文句を垂れる。
「遅いっすよ、主〜!もう黎鵞と須嬰様がイライラしながら待ってるっすよ!」
「…ああ、すみませんね。思ったより街中を抜けるのに手間取りました。このまますぐに入れますかね?」
慣れているのか、牽蓮はまったく驚きもせずに總糜に対してそう尋ねる。
そして總糜の方も、まるで何事もなかったかのようにあっさりとこう答えた。
「んー、その点は問題ないんすけどぉ…。この後どうするんすか?姫さんも連れていきなりのご対面?」
「そうだね。まずは先に顔合わせぐらいはしとこうかな?」
少し悪戯っぽい口調でそう答える牽蓮に、總糜もニヤリと楽しげな笑顔を見せる。
「了解っす!じゃあ俺はその事を先に黎鵞達に伝えてきますわ。じゃあ姫さん、また後でな!」
そう答えるや否や、またもや總糜はあっという間に城壁の上に飛び乗り、そのまま中へと姿を消した。
それを見送ると、今度は嘉魄もこう告げる。
「主…。それでは私もそろそろ失礼させていただきます」
「ああ…ご苦労でしたね、嘉魄。貴方も先にゆっくり休んでいてください」
「はい。では姫、これにて失礼致します」
「あ…はい」
よくわからないままそう答えた鴻夏に少し微笑むと、嘉魄もまたあっという間に城壁の上へと飛び乗り、そのまま中へと姿を消した。
その姿を呆然と眺めていると、牽蓮が鴻夏に対しこう説明をする。
「…總糜も嘉魄も『影』なので、本来はあまり人前に姿を現さないのですよ。だから門番にお願いして、門から正式に入るのは姫と私だけです。彼等は自分達で勝手に皇城内に戻ってますよ」
なるほどと思いながら、鴻夏はとりあえず牽蓮に付いてそのまま裏門へと馬を進める。
そして裏門に辿り着いた鴻夏達は、すでに連絡がいっていたのか、数人の門番達に出迎えられ、すんなりと中へと通された。
そして裏門からとはいえ、初めて入る他国の皇城にキョロキョロと物珍しげに視線を彷徨わせていると、その様子を見た牽蓮がクスリと笑いながらこう告げる。
「…姫。城内を見学されたいのなら、明日以降、明るい昼間になさった方がいいですよ。そんなに焦らなくても、これからいつでも見る時間はありますから」
「あ、はい。そうします…」
牽蓮にやんわりと止められ、大人しくそう返事した鴻夏はまったく気付いていなかった。
もしこのまま破談となった場合、風嘉の城内を見学する機会など永遠にないというのに、牽蓮は『これからいつでも時間がある』と言ったのだ。
何故彼にそんな事がわかるのか?
その答えを鴻夏は思いもかけない形で、知る事になるのである。
重厚な扉を通り抜け、鴻夏達はすぐさま謁見の間へと通された。
そこには玉座に座った風嘉帝 璉瀏、そしてその側近である宰相 崋 黎鵞と将軍 伯 須嬰が両脇を固め、鴻夏達の到着を待ち構えていた。
玉座の前には薄絹が下されていたため、風嘉帝の顔はよくわからなかったが、稀代の戦上手と名高い武帝を前にして、鴻夏はかなり緊張していた。
『この方が璉瀏帝…』
遥か遠くに聳え立つ玉座に座る男をチラリと見据えながら、鴻夏は自身の心臓の音が全身に響き渡るのを感じていた。
そしてそんな状態でも、ひたすら平静さを装い、謁見の間へと足を踏み入れる。
まさかこんな身なりのまま、着いてすぐに風嘉帝本人とご対面になるとは思わなかった。
正直あまりにも急展開すぎて、何の覚悟も準備も出来ていない。
そして移動途中での逃走の件もあり、どう説明したものかと焦りながら跪く鴻夏を尻目に、牽蓮は臆する事なく歩を進めると、優雅な仕草で跪き朗々とした声で口上を述べた。
「…与えられた任を終え、湟 牽蓮、ただ今 帰還致しました」
そう牽蓮が宣言すると、壇上の風嘉帝が無言でスッと立ち上がる。
そして一体何を言われるのかとビクビクする鴻夏の前で、風嘉帝はふいにワナワナとその身体を震わせ始めると突然こう叫んだのだ。
「れ…璉〜っ!遅いですよぉぉぉ!」
「え?」
あまりにも予想外の風嘉帝の第一声に、思わず鴻夏自身も素の驚きの声が出る。
そしていきなり玉座から半べそをかいた一人の男が駆け出して来ると、その勢いのままに鴻夏の隣に控える男に飛びついたのだ。
「も〜っ、勘弁してくださいよぉ!明日が結婚式だってのに、貴方全然帰って来ないから、このままじゃ貴方の代理で僕は暁鴉と結婚式までやらなきゃならないとこだったんですからね〜っ⁉︎」
「…ああ、ごめん、ごめん。ちょっと色々と手違いがあってね。思ったより着くのが遅くなってしまったんですよね」
あははと呑気に笑いながら、牽蓮が抱きついてきた風嘉帝に対し、のんびりとそう答える。
それを呆然として見据えながら、鴻夏は頭の中が真っ白になっていた。
『…ちょっと待って?え、この人が風嘉帝?え、でもなんか会話がおかしい…。代理で結婚式とかなんとかって…?』
そう思ったところで、いきなりスパーンと小気味よい音がして、風嘉帝と思しき人物が勢いよく吹っ飛んだ。
そしてその後ろから、怖ろしいほど整った顔の氷細工のような美貌の主が現れる。
透き通るような白い肌、光輝くように流れる銀の髪、そして思わず目を奪われるほど澄んだ薄い紫の瞳。
実際に生きて動いているのが信じられないほどの美貌の主は、その見かけに似合わず苛烈な性格だったようで、自分の主人であるはずの風嘉帝を勢いよく扇子で殴りつけた後、すぐにフンっとそっぽを向きながら、手にしていた扇子を優雅に広げた。
それに対し殴られた風嘉帝の方はというと、痛む後頭部を自ら抑えつつ、ひどく情けない声でこう訴える。
「ちょっ…黎鵞様ぁ?なんで俺が殴られるんすかぁ⁉︎」
もはや風嘉帝というには、かなり怪しすぎる人物が、本気で泣きべそをかきながら、その美人に訴える。
すると美人は、ジロリとその男を見下ろしながら、容赦なくこう言い放った。
「…お黙りなさい、みっともない。仮にも陛下の影武者なら、もう少しそのヘタレを何とかしなさい」
「無茶な事言わないで下さいよぉ!僕だって好きで影武者なんかやってないっすよぉ!」
ベソベソと泣き言を唱える男を見て、さすがに鴻夏もこれは風嘉帝じゃないな…と思う。
会話の内容から考えても、どうやらこの男は風嘉帝の影武者のようだった。
となると、本物の風嘉帝は…?
そう思ったところで、突然スッとその氷細工のような美人が跪き、隣の牽蓮に対して最上級の礼を取る。
そして実に恭しく、丁寧にこう述べたのだ。
「お帰りをお待ちしておりました、璉。ご無事で何よりです」
「…留守居役 ご苦労様、黎鵞。私が留守の間、こっちは何事もなかったかな?」
「はい。泰瀏様も健やかにお待ちです」
静かにそういった会話が交わされ、遅れて伯将軍も牽蓮に対して跪きこう語る。
「ご無事で何よりです、璉。こちらも表面上は何事もなく、風嘉まで辿り着けました」
「ああ…花嫁一行の護衛ご苦労様でしたね、須嬰。暁鴉はちゃんと姫の影武者役を務めてくれましたか?」
そう牽蓮が尋ねると、伯が無言でスッと後方へと目をやる。
すると柱の影からユラリと薄絹で顔を隠し、鴻夏の着物を身に纏った女が現れ、スッとその場で跪いた。
それに対し、牽蓮が労いの声を掛ける。
「…今回はご苦労様でしたね、暁鴉。姫の身代わり役は大変だったでしょう」
そう言われた女は、無言で被っていた薄絹を引き毟ると、ニヤリと不敵な笑いを浮かべながらこう告げた。
「まぁ、あたしは深窓の姫君なんてガラじゃないんですけどね…。でもバレちゃあいないと思いますよ」
そう言って暁鴉と呼ばれた女は、鴻夏に向かってニッコリと微笑んだ。
そして何となくボンヤリとその様子を見ていた鴻夏は、この人が自分の身代わりを務めてくれていたのかと、改めて相手を見返す。
すると暁鴉はすぐに牽蓮の方に視線を戻すと、その横に控える偽 風嘉帝を指差しながら不満たっぷりにこう言ったのだ。
「それより主。ホントに勘弁してくださいよ?いくら姫の身代わり役でも、あたしはあんな奴と嘘でも結婚式を挙げるなんて嫌ですからね!同じ偽者でももう少しマシな奴にしてもらわないと、割に合わないですよ」
「ちょっ、ちょっと暁鴉⁉︎いくらなんでもそれは酷くないっ⁉︎」
途端に反応した偽 風嘉帝に、またまた周囲の容赦のない一言が飛ぶ。
まずは黙っていれば氷細工のように美しい黎鵞と呼ばれた人物が、その顔に似合わず痛烈な言葉を吐く。
「ああ…それはわかります。もし私が暁鴉の役だったら、同じ事を言いますね」
そしてそれを受けて、珍しく伯までもがボソリとこう呟いていた。
「まぁ…確かに。いくら偽の結婚式とはいえ、嫌いな相手とするのはなぁ…。例え仕事とわかっていても苦痛だな…」
うんうんと全員が納得したかのように、その場で頷き合う。
その姿を見ながら、可哀想なほど動揺した偽 風嘉帝の男が思わずこう叫んだ。
「ちょ…ちょっと皆さん?いくら冗談でも言って良い事と悪い事がありますよ⁉︎」
「いや?冗談じゃなく事実だし」
異口同音で三人にそう答えられて、さすがに男が絶句する。
それを見兼ねて、ついに牽蓮が口を挟んだ。
「皆、もうそのくらいにしてあげて下さい。さすがに牽蓮が可哀想です」
「え…、牽蓮?この人も牽蓮っていうの?」
思わずキョトンとしながら鴻夏がそう呟くと、ピタリと周囲の動きが止まった。
そしてずっと彼こそが『湟 牽蓮』だと鴻夏が信じてきた男が、ゆっくりと鴻夏に向き直り苦笑交じりにこう告げる。
「すみません、姫。訳あってずっと名を偽っておりました…。実は本物の『湟 牽蓮』はここに居る彼です」
そう言って彼が指差したのは、偽の風嘉帝の方であった。
「え…?この人が本物の湟 牽蓮?それじゃ…貴方は…一体…?」
驚きのあまり平凡すぎる返しをしながら、鴻夏はただただ呆然とする。
確かにずっとただの高官ではないような気はしていた。
そして、もしかしたら風嘉の皇族の一人かもしれないとも思っていた。
でもそうかもしれないとは思っていても、実際に偽者ですと本人に告げられると、思った以上の衝撃で頭がまるで付いていかない。
ところがそんな鴻夏に対し、先ほどまで湟 牽蓮と名乗っていた男は、鴻夏の目の前に跪くと、いつものようにニッコリと笑いながら呑気にこう告げたのだ。
「…改めて名乗らせて下さい、姫。私の本当の名は緫 璉瀏と申します。一応この風嘉の皇帝で、貴女の結婚相手になります」
一瞬で頭がさらに真っ白になった。
今、彼は何と言った…?
確か本当の名前は緫 璉瀏で?
一応 風嘉の皇帝で?
私の結婚…、結婚相手…っ⁉︎
「え…ええぇぇ〜っ⁉︎あ、貴方が璉瀏帝っ⁉︎」
「はい、一応」
「『戦場の鬼神』とか『風嘉の英雄』とか言われてる⁉︎」
「…ああ、何かそういうご大層な噂が流れてるみたいですけど、嫌なんですよねぇ…それ。単に噂が広まる間に誇張されただけで、私自身は特に大した事はしてないんですよ」
かなりどうでも良さそうにそう告げる彼に、部下達から否定の言葉が飛ぶ。
「璉!貴方またいい加減な事を言って…。全て本当の事でしょうがっ!」
そう言って伯が本気で怒ると、すぐさま黎鵞も淡々とこう答える。
「そうですよ。そもそも貴方でなければ、我々もお仕えしておりません。そうなると風嘉の解放、復興は間違いなくもっと遅れておりました」
風嘉の武と智の頂点に立つ二人にあっさりとそう言われ、牽蓮改め璉瀏帝は首を捻る。
「…確かに君達を含め、私はたくさんの優秀な部下に恵まれたと思っていますが、それはあくまでも君達の功績であって、私自身の実績ではありませんよ。私は君達に担ぎ上げられただけで、特に何もしていません」
そう言うと璉瀏帝は再び鴻夏の方に向き直り、悪戯っぽく微笑みながらこう告げる。
「それはともかく、姫もまずは旅の埃を落として着替えたいですよね?夕食までまだ時間があります。まずはお着替えになってきてください。話はまたその後に、夕食でも頂きながら致しましょう」
そう告げると、すくっと立ち上がった璉瀏帝はてきぱきと周囲に指示を出し、鴻夏は呆然している間に気がついたら謁見の間を退出させられていた。
そしてあれよあれよという間に、鴻夏の世話を任された暁鴉に風嘉の後宮へと連れて来られ、湯殿へと放り込まれたのである。
そして一体どういう指示だったのか…。
普通なら沢山の侍女が手伝いに現れ、焦って世話を断らなければならないところだったが、何故か侍女は一人も現れず、鴻夏は誰も居ない湯殿に一人取り残されていた。
しかもここへ案内してくれた暁鴉さえも『湯から上がった頃に迎えに来ます』と言って、そのままどこかへと姿を消す。
「…一体、どういう事…?」
呆然としながら、さすがに出来過ぎだと鴻夏は思う。
まるで鴻夏の事情を全て分かっているかのような対応に、やはり璉瀏帝に全てを悟られているような気がしてならなかった。
そして渡された着替えを見つめながら、しばし考え込んでいた鴻夏は、ふいに気持ちを切り替え悩む事を放棄する。
多分今の自分の状態では、どれだけ考えようと、あまり脳が働いているとは思えない。
それなら無駄に考えるのは止めて、今の自分が出来る事からしよう。
それにすでにバレてしまっているのなら、今更ジタバタしてもしょうがない。
「…それに考え事は、お風呂に入りながらでも出来るしね…。まずはお言葉に甘えて、湯に浸からせてもらおう」
そう誰に言うでもなく呟くと、鴻夏は旅の埃と汗を落とすため、自らの服を脱ぎ始めたのであった。
続く