ー遭遇ー
花嫁一行から離れ、砂漠に入って二日目。
前日よりさらに移動距離は延びていたが、鴻夏達一行は何とか今日も日没前には次のオアシスまで辿り着く事が出来た。
昨日も思ったが、一応 公道沿い以外にも小さなオアシスはいくつか点在しているようで、旅路を急ぐ者の中には敢えて牽蓮達のように砂漠越えの行路を選ぶ者も居るらしい。
そのため今晩泊まるオアシスには、すでに何組かの他の旅の一行が滞在していているようだった。
聞けばこのオアシスは、風嘉から月鷲へと向かう最短行路沿いにあるらしく、旅路を急ぐ者達がよく利用する割と有名な場所らしい。
時には皇族も利用する事があると聞き、鴻夏は牽蓮の丁寧な説明に聞き入りながら、終始感心しっぱなしだった。
机上での知識はあるとはいえ、こうして実際に目にして体験するのはまた訳が違う。
自分達以外に一体どんな一行が来ているのかと、鴻夏は胸をワクワクさせていた。
そこへちょうど良く、オアシス内の偵察に出ていた總糜が戻ってくる。
早速話を聞こうとした鴻夏は、珍しくちょっと複雑な表情を浮かべている總糜を見て、あれ?と思った。
そしてそんな鴻夏前で、總糜が牽蓮に報告をし始める。
「ただ今 戻りました、主。今夜ここに滞在しているのは、うちを含めて七組です。大半がごく普通の商隊ですが、一組だけやっかいなのが…」
「もしかして、月鷲の御仁が来ているのですか?」
まるでそれを読んでいたかのように、そう尋ねる牽蓮に總糜がこくりと頷く。
「そうっす。どうも一番大きい湖の側に、天幕張って数日前から滞在してるらしいっす。多分あれは主待ちで、ずっと張ってるんじゃないかと…」
少し言いづらそうに報告する總糜に、牽蓮が溜め息混じりにこう答える。
「あの方も懲りないですねぇ。何を好き好んで、私なんかを追いかけ回すんだか…。まぁ遭遇してしまったものは、仕方ありません。とりあえず気付かなれけば良し、気付かれたらその時はその時です」
淡々とそう答える牽蓮に、總糜が心底嫌そうにこう告げる。
「…バレないわけないと思うっすよ。一応あちらさんにも『影』は居るし、そもそも主狙いでの滞在なんだから、今頃もうすでに迎えがこっちに向かって…」
そこまで言ったところで、ふいにバッと總糜が小刀を構えて振り返った。
そしていつの間にか嘉魄までが側に来て、牽蓮と鴻夏を護るように身構えている。
それを冷静に目の端で捉えながら、牽蓮が冷めた声で言い放った。
「…どちら様です?こちらは特に招待をした覚えはないのですが…?」
静かな牽蓮の誰何の声を受けて、闇の中からすうっと一人の男が現れた。
薄茶色の髪に浅黒い肌、金色に輝く鋭い瞳。
月鷲の手の者だということはすぐわかった。
おそらくは忍、その月鷲の御仁だかに仕えている『影』の一人だろう。
だがそんな者が何故 今この場に現れるのか、鴻夏は訳が分からないまま身構える。
そして突然現れた他国の忍の登場に、その場に居る者達にも緊張の波が走った。
だが一瞬即発の雰囲気の中、ふいに相手は丁寧な一礼をすると、牽蓮に向かって穏やかにこう語りかけてくる。
「…お久しぶりにございます。突然の訪問、ご容赦ください」
「烙耀、君か…」
「覚えていていただけていたとは、光栄にございます。お疲れのところ大変申し訳ないのですが、我が主が対面を望まれています。どうか私と共に、主の元へいらしていただけないでしょうか?」
あくまでも丁寧にそう告げる相手に、牽蓮が心底嫌そうにこう呟く。
「断っても無駄なんでしょうね…」
「はい。貴方様なら、我が主の御気性はよくご存知かと…」
言葉少なにそう告げる相手に、牽蓮は右手で軽く自らの額を押さえる。
そして深い深い溜め息をつきながら、気が進まなさそうにこう答えた。
「…わかりました。伺います」
牽蓮にしては分かりやすく、いかにも仕方なさそうといった体でそう呟くと、彼はそのまま前へと進み出た。
「ちょっ…、主!」
それを見て慌てる嘉魄と總糜に、目線だけでその場での待機を告げ、牽蓮は一人 烙耀と呼ばれた忍に付いて行こうとしたのだが、予想外に烙耀がこう言葉を続けた。
「…申し訳ございません。ここにいらっしゃる皆様全員をご招待せよとのお申し付けです。他の皆様も私に付いて来ていただけますでしょうか?」
「はっ?え、私も⁉︎」
思わず間抜けな声でそう尋ねた鴻夏に、烙耀は動揺する事もなくこう答える。
「はい、主人が皆様全員をお待ちです。是非私に付いていらしてくださいませ」
丁寧に一礼してそう答える烙耀に、全員が頭を抱え、あらぬ方へと視線を彷徨わせる。
その場に何とも言えない気まずい雰囲気が流れ、一人状況が飲み込めない鴻夏だけが、何となく落ち着きなくキョロキョロと周りを見渡していた。
結局 鴻夏達一行は、全員が烙耀に案内され、このオアシスで一番大きな湖のほとりに連れて来られていた。
そこには大きくて立派な白い天幕がいくつも張られており、たくさんの月鷲の者達が出入りしている。
その状況を目の当たりにするにつれ、さすがの鴻夏も今回の招待者が只者ではない事に気がついた。
正直旅先でここまで豪華な天幕を張る人物となると、もはや相手は皇族の誰かとしか思えないのだが、月鷲は昨年先帝の一族を皆殺しにして現皇帝が立っており、その関係で皇族の数が極端に少ないはずだった。
そうなると、果たして今ここに居るのは誰なのか?と鴻夏は首を捻ったが、その疑問はあっという間に解決される事となる。
何故なら鴻夏達が一際立派な天幕に通されると、入るや否や上座から明るい叫び声と共に誰かが牽蓮に向かって突進してきた。
そしてそれが誰か確認する前に、相手は勢いよくそのまま牽蓮に抱きついたのだ。
「璉っ!会いたかったぞ〜!」
開口一番にそう叫び、牽蓮に向かって抱きついてきた人物は、年の頃は三十代前半と思われるやたらと派手な美丈夫だった。
肌が浅黒く目が金色なのは確かに月鷲の者の特徴だが、本来黒いはずの髪が彼の場合は豪奢な金髪で、まるで獅子の鬣のようである。
そしてわざとなのか本人の趣味なのかわからないが、やたらと豪華な金と紅玉の三連にもなる首飾りをかけており、それがまた一層派手さを際立たせていた。
正直そのあまりの迫力に、呆然とする鴻夏を尻目に、抱きつかれた牽蓮はというと、やたらと冷静にこう返す。
「…まったく相変わらずですね、貴方は…。何で選りに選ってこんな時期に、勝手に風嘉国内に入って来てるんですか?」
「冷たい事を言うなよ、璉。俺の用件なんて常に一つに決まってるだろ?」
「お言葉を返すようで申し訳ありませんが、私の答えも常に一つに決まっております」
呆れたように冷たくそう答える牽蓮に、相手は気にした風もなく豪快に笑う。
そしてやたらと派手で陽気な男は、牽蓮の肩を抱くと半ば強引に天幕の奥へと誘った。
「まぁまぁ、まずは再会の一杯だよな?いい酒 揃えてあるんだぜ?あ、そこのお付きの奴らも、適当に楽しんどいてくれよな」
後ろ手に適当に手を振ると、もはや牽蓮以外には目もくれず、その男は強引に牽蓮を上座に座らせ、彼に反論の余地も与えずにその手に酒杯を握らせる。
「まぁ飲めよ、璉。おい、大事な客人だ!誰か女達も呼んで来い!」
「女って…まさか、奥方様達も一緒にお連れになっておられるのですか⁉︎」
さすがの牽蓮も驚くと、相手は何でもない事のようにこう答えた。
「まぁな。あ、でも全員じゃないぜ?まだ子供が居なくて、若くて体力がある奴だけだ。確か五、六人くらい連れてきたかな?」
「五、六人…」
呆れたように呟く牽蓮に、相手は気にした風もなくこう答える。
「ん?少なかったか?でもあんまり多いと大事になるしな」
「…いえ、もう充分 大事になってると思いますよ」
溜め息混じりにそう答えると、牽蓮はすでに疲れたように酒杯に口をつける。
その様子を見ながら、相手はバンバンと牽蓮の背中を叩きながらこう言った。
「ま、細かい事は気にすんなって。それより花胤から箱入りの姫をもらうんだって?いくら政略結婚とはいえ、なにもそんな乳臭くて面倒くさそうなの辞めときゃいいのに…」
思いがけず自分の話題が出て、鴻夏は思わず飲み物を噴き出しそうになった。
慌てて上座に目をやると、話題を振られた牽蓮といきなり目が合う。
一瞬ドキリとしたが、牽蓮は鴻夏には何も言わず、男にだけ聞こえる声でこう答えた。
「…貴方には関係のない事です。それより強引に私達をここに呼び寄せた理由は?」
「お前を口説くためとは思わないのか?」
「ご冗談を…。貴方がそれだけの理由で、こんなところまで出張って来るとは思いませんし、第一私の連れまでここに呼び寄せるわけがないでしょう。何を企んでいるのです?」
小声での会話のため、離れた位置に居る鴻夏達には何も聞こえなかったが、スゥッと静かに牽蓮の雰囲気が変わる。
一瞬にして別人へと豹変した牽蓮を眺めながら、男は恍惚とした表情を浮かべた。
「…は、堪らんな。その瞳、相変わらずゾクゾクするよ」
「…相変わらず趣味が悪い人ですね。私の相手は命懸けだと、いい加減に学習なさったらどうなんです?」
「ふん、命懸け?上等じゃないか。むしろそうじゃなきゃ楽しくない」
そう答えながら、男は牽蓮の髪を掴んで強引に自分の方へと引き寄せると、いきなりその口唇を荒々しく奪ってみせる。
そして何度か角度を変え、充分にその感触を堪能すると、男は口唇を離しがてら実に楽しげにこう呟いた。
「ほらな…。一筋縄でいきやしねぇ。でもそこがまたいいんだよな」
キラリと喉元に短剣を突きつけられながらも、男はひどく楽しげに笑う。
その様子を冷めた表情で眺めながら、牽蓮は溜め息混じりにスッと短剣を収めた。
「ん?刺さなくていいのか?」
「…貴方を刺した瞬間、私も貴方の影達に殺されますよ。それに刺すつもりなら、もっと早い段階で刺してます」
「ほぅ?じゃあ今のはわざと抵抗しなかったって事か」
まだ掴んだままの牽蓮の髪に軽く口付けながら、楽しげに男が笑う。
それに冷ややかな視線を向けながら、牽蓮は何事もなかったかのように同じ質問を繰り返した。
「…質問に答えてもらいましょうか。何をしにここまでいらしたのです?」
「まぁそう答えを焦るなって。俺から情報を取る時は、どうするんだった?」
わざと意地悪く答えを焦らしながら、するりと男の腕が牽蓮の腰に回る。
グイグイと迫ってくる男を軽く払い除けながら、牽蓮は実に冷ややかにこう答えた。
「まったく…隙あらば押し倒そうとするのは止めてくれませんか。男の私なんかに構ってないで、美しい奥方様達のお相手でもしてきたらどうです?」
「…もちろん妻達の相手もするさ。女は俺の権勢を彩る宝石みたいな物だからな。美しい宝石ならば愛でもするし、俺の機嫌を損ねる事さえしなければ大事にもする。だがお前の価値はそんな物じゃない。お前は唯一無二の存在だから、俺も少しでも手に入る可能性があるなら、いつでもそこにつけ込むさ」
そう言って男は、ひどく熱心に牽蓮を口説き続ける。
しかし残念ながらその情熱は、肝心の相手にはあまり届いていないようだった。
だがその様子を遠目に見ながら、衝撃のあまり固まっている者が居る。
言うまでもなく、それは鴻夏であった。
正直何を話しているのかはさっぱり聞こえなかったが、遠目に見ても明らかにそういう意味でベタベタと牽蓮の身体に触り、迫りまくってる男の姿に鴻夏は一人呆然とする。
そしてその様子を見ながら、總糜がポツリと困ったように呟いた。
「あー…、姫さんにはちっとばかり刺激が強すぎたかな…」
それを聞きながら、嘉魄の方もどう答えたものかと困っていると、突然 鴻夏の身体がわなわなと震え出す。
そしてすっと震える手で上座の二人を指差すと、絞り出すような声でこう呟いた。
「…ちょっと…あれは何…?」
「あー…あの人はですねぇ…。昔からうちの主の事をあわよくば手に入れようと迫ってる方でして…。まぁうちの主も結構、貞操観念が緩いもんだから、微妙に相手に期待持たせちゃうというか…」
実に言いづらそうに總糜が説明する中、ゆっくりと鴻夏が確認する。
「…それってつまり…あの二人はそういう関係って事なの…?」
「あー…いや、確かに何回かはお相手してたと思うけど、正確に言うと主の方には、これっぽっちもそういう気はないっす。ただあの人の場合、利用出来るものは何でも利用するというか…まぁ条件次第では、誰のお相手でもしちゃうというか…」
モゴモゴと彼にしてはひどく言いづらそうに、總糜が歯切れの悪い説明をする。
あまりの衝撃に、すっかり働きの鈍くなった頭を巡らせながら、鴻夏は今 目の前で起こっている現実を自分なりに分析してみた。
…つまり要約するとこうだ。
牽蓮は必要とあらば自らの身体を使う事も厭わず、そういう色事の接待もする男である。
そして今まさに目の前で彼に迫りまくっているあの男は、おそらく過去にそういう接待を受けた経験があり、その結果すっかり牽蓮にハマってしまっているという事だ。
正直見た目が人並みな牽蓮に、どうしてそこまでハマる要素があったのかは不明だが、一つだけハッキリ言えるのは、相手が牽蓮に対して相当本気であるという事である。
今も人目も憚らずに堂々と迫りまくっているし、確かここに来る前に話していた内容でも、何度も強引に牽蓮に迫っているような口振りだった。
そこまで考え、鴻夏は思う。
別に自分よりずっと年上で大人である牽蓮に、そういう色めいた話の一つや二つがあっても、おかしくはない。
おかしくはないが、面白くはない。
自分でもよくはわからないが、ムカムカしてしょうがないのだ。
そしてそう自覚したところで、再び目の前で牽蓮が月鷲の男に腕を引かれ、半ば強引に抱き寄せられる。
それを見た瞬間、ふいに何の予兆もなくブチッと鴻夏の堪忍袋の緒がキレた。
「その手を離して!」
自分でも驚くほど大きな声でそう叫ぶと、鴻夏はツカツカと勢いよく上座に歩み寄り、予想外の事態に固まる男から強引に牽蓮を引き剥がした。
そしてキッと男を睨みつけると、人差し指を相手に突き付け威勢の良い啖呵を切る。
「貴方が誰だか知らないけど、身分を笠に着て嫌がる相手に強引に迫るなんて最低よ!恥を知りなさいっ!」
シ…ンと一瞬にしてその場が静まり返った。
まるで時間が止まったかのように、鴻夏に啖呵を切られた男は目を丸くしたまま固まり、助けられた牽蓮も予想外の事に呆然とし、周囲は青くなって凍りついた。
そして暫くの間、何とも言えない気まずい空気がその場に流れ、どうなる事かとハラハラする周囲の目の前で、突然 月鷲の男が豪快に笑い出したのだ。
「ははは…お前、面白い奴だな!俺を誰だか知ってて、そう言ってるのか?」
「貴方が誰かなんて知らないわよ。知らないけど、いい歳してやっていい事と悪い事の区別ぐらいつけなさいよ」
フンッと鼻息も荒くそう答えると、相手の男は何がおかしいのか、再び大声で楽しげに笑い出す。
それを横目に見ながら、牽蓮は困った顔で軽く額を押さえつつ、ポツリとこう呟いた。
「姫…。助けていただいて大変申し訳ないのですが、さすがにそれは言い過ぎです…」
「…ちょっと?私は事実を言ってるだけだけど⁉︎」
「はい、それは重々承知しております…。しかしそれでも相手がマズ過ぎます」
そう溜め息混じりに牽蓮は言うと、スッと笑い続ける男の方へと手を差し伸べ、鴻夏にこう紹介した。
「…姫。ご紹介が遅れましたが、こちらの方は、昨年 月鷲の皇位に就かれた鴎悧帝でいらっしゃいます」
「は…っ?」
一瞬、牽蓮に何を言われたのか、まったく理解が出来なかった。
そしてもう一度 自分の中で、牽蓮に言われた台詞を反芻し、その瞬間に思わず叫ぶ。
「はあぁぁぁっ⁉︎月鷲の鴎悧帝っ⁉︎」
「…はい、正真正銘のご本人でいらっしゃいます。僭越ながら、鴎悧帝とは即位前からの付き合いでして、時折このようにお忍びで私の前に現れるのです」
少々言いづらそうに牽蓮がそう語ると、鴻夏は口をパクパクさせながら、相手の男を見返した。
何となく、やたらと身分が高そうな男だなとは思っていた。
しかしまさか公道からも外れた裏行路のオアシスで、いきなり他国の皇帝にブチ当るなんて思いもしなかった。
しかも月鷲と言えば、鴻夏の実母である翡雀皇后の生国。
自分の非礼は、即 母皇后の恥にもなる。
そして多分この人は、母皇后の血縁者で自分にとっても親戚筋に当たるはずだった。
混乱しながらもそこまで考え、さすがの鴻夏も自分の仕出かした事に青くなる。
いくら目に余る事をしていたとはいえ、仮にも他国の皇帝に一国の姫ごときが注進していいものではない。
皇帝とは唯一無二、誰の支配も受けない孤高の存在。
正直今すぐここで、不敬罪で罰せられても何の文句も言えないのだ。
青くなりつつも、とりあえず慌てて跪いた鴻夏は、男に向かって平伏する。
そして納得いかないながらも、何とか詫びの言葉を口にしようとしたが、動揺のあまりうまく言葉にはならなかった。
そしてこの後、自分は一体どうなるんだろうと思ったところで、思いがけず横から鴻夏を庇う声がする。
「私からもお詫び致しますので、今回の件は不問にしていただけませんか?」
その声に驚いて視線を向けると、鴻夏の横にいつの間にか牽蓮が跪いていた。
そして牽蓮の少し長めの亜麻色の髪が、天幕の床にサラリと滑り落ちる。
自分の為に頭まで下げてくれている牽蓮を、信じられない思いで見つめながら、鴻夏は何も言えずただひたすら彼を見つめ続けた。
そこに鴎悧帝の訝しむ声が下りてくる。
「…璉、何故お前までが頭を下げる?お前が詫びる必要はこれっぽっちもないだろう?」
「いえ、姫に何の説明もせずにここまでお連れしたのは私です。最初から貴方の事をきちんと説明していれば、姫がこんな行動に出る事はありませんでした。すべては私の不徳と致すところです」
淡々とそう語る牽蓮の前に、鴎悧帝が無言で膝をつく。
そしておもむろに牽蓮の顎を捉えると、無理やり自分の方へと上向かせた。
「ふぅん?じゃあこの姫を赦す代わりに、お前が俺の相手をしろと言ったらするのか?」
意地悪くそう尋ねる鴎悧帝に、牽蓮は迷いもせずに即答する。
「…必要とあらば」
その答えに横で控える鴻夏の方が慌てたが、しかし続けて語られた牽蓮の言葉に今度は別の意味で固まった。
「しかしその必要はないかと存じます。いくらオアシスが中立地帯とはいえ、ここは風嘉国内です。ここで刃傷沙汰の騒ぎを起こせば、あっという間に貴方の存在が各国に知れ渡り、貴方だけではなく月鷲国の方にも危険が及びます。賢い貴方様ならば、すでにその事にお気付きのはずです」
真っ直ぐに相手を見つめながら、淡々とそう語る牽蓮の瞳が妖しく揺らめいている。
吸い寄せられるようにその翠の瞳に囚われながら、鴎悧帝は実に楽しげにこう呟いた。
「まったく…可愛くない奴だな。少しは慌てふためいて見せたらどうなんだ?」
「別に…。貴方がもう少し愚かな君主ならば焦りもしますが、この程度の事で我を忘れて愚かな行為に走るような方ではないと、よく存じておりますので…」
しれっと可愛いげもなく牽蓮がそう答えると、鴎悧帝は再び声を立てて笑い飛ばした。
そしてすっくと立ち上がり、鴻夏に対して高らかに宣言する。
「…命拾いしたな。ここが風嘉国内であった事を幸運に思う事だ。いくら翡雀の娘とはいえ、普通だったらただでは済まさないところだ。俺にも立場というものがあるからな」
「は…はい。以後気をつけます」
さすがは皇帝と言うべきか、先程までのふざけた態度が嘘のような迫力だった。
『月鷲の金獅子』の異名を取る鴎悧帝は、皇位に就く前から有名な武将だった。
上に五人、下に三人の兄弟皇子が居たが、その中でも彼の実力と人気は群を抜いていた。
しかしその見た目からもわかるように、彼自身の母は他国から掠奪してきた奴隷の一人に過ぎず、いわゆる後ろ盾となるべき貴族は誰一人として存在しなかった。
結局、無難に良家の後ろ盾を持つ長男が皇帝の座に就いたものの、たったの一年で政治は破綻し、それに失望した軍と国民の強い声に推されるように鴎悧帝が起ったのだ。
そこからは世間知らずの鴻夏の耳にも入るほどの簒奪劇で、先帝軍に圧勝した鴎悧帝は、そのまま先帝の一族を女、子供に至るまで皆殺しにし、ついでに他の兄弟皇子及びその直系男子をも全て闇に葬り去った。
そして完全に他の候補者を排除した後に、彼は国民の圧倒的な支持の下、絶対的支配者としてついに皇帝の座に就いたのだ。
まさに獅子の如き気性と才覚。
月鷲は完全に鴎悧帝の下に掌握され、今 虎視眈々と諸外国にその爪を伸ばすかどうかを窺っていると噂されている。
そしてその噂の皇帝が、まさか他国である風嘉の裏街道のオアシスに現れるなんて、想像だにしなかった。
しかもその理由というのが、今 自分の隣に居る男に会う為というのも驚きである。
改めて湟 牽蓮とは何者なのかと思ったところで、いきなり目の前に鴎悧帝の顔が現れた。
何をどう思い立ったのか、彼は一旦立ち上がったもののすぐに鴻夏の前に膝をつくと、至近距離からまじまじと鴻夏の顔を眺めながら、検分するようにこう言ったのだ。
「ふぅん?顔立ちは若い頃の翡雀にそっくりだな。あの花胤のジジイに似たのは、肌の色だけか」
「あ…あの…?」
「なるほどな。『花胤の陰陽』と騒がれるだけの事はある。まぁちょっとあちこち寂しいが、容姿は概ね合格だな」
突然そう批評すると、鴎悧帝は隣の牽蓮に向かってこう声をかける。
「なぁ、お前の好みはこんなのなのか?俺だったらもう少しあちこち出ていて、色っぽい女の方が好みだが…」
「…陛下。私の好みの問題ではありませんよ。まったく突然何を言うのかと思えば…」
呆れたようにそう返す牽蓮に、再び鴎悧帝が口説き口調で強引に迫る。
「璉、『陛下』なんて他人行儀な呼び方はするなよ。俺の事は『鴎悧』と呼べと言ったはずだろう」
「…そうは仰られても、私にも立場というものがございますので、他国の皇帝陛下をおいそれと呼び捨てには出来ませんよ」
あっさりと鴎悧帝の口説きを躱しながら、牽蓮が困ったように溜め息をつく。
だんだん隣の男が百戦錬磨の悪女に見えてきたと思いながら、鴻夏はもはや何も言う事が出来ずに二人の様子を見守るしかなかった。
そんな中、どこまで本気かわからない二人の絡みはまだまだ続く。
「何だよ、冷たいな。俺とお前の仲じゃないか」
「さて、私と陛下の間にどんな仲がございましたかね…?」
「おい?それはないだろう、璉!何度も情熱的な夜を共に過ごしたじゃないか」
「別に…。あれは接待や情報料、あと人質との交換とかもありましったっけ?とにかく私としてはあくまでも仕事の一環であって、貴方自身に特にそう言った思い入れはございません。そもそも貴方がそのように望まれたから、そうなったのでしょう?」
あまりにも冷た過ぎる牽蓮の態度に、さすがに鴎悧帝が気の毒になってきたが、そこは相手も去る者で、特に怒りもせずこう告げる。
「…まぁいいさ。今はそう言っていても、必ずお前を手に入れてみせる。最後に笑うのは俺だ。覚悟しとけよ」
「楽しみにしてますよ。まぁ無理だとは思いますがね…。それよりいい加減、私の質問にお答えいただきたいのですがね?」
何でもない事のようにそれもあっさり躱すと、牽蓮は少し強引に会話を本題に戻した。
するとまだ遊び足りないのか、鴎悧帝がニヤニヤ笑いながらこう告げる。
「まぁそう焦るなよ、璉。それにまだ俺は今回の情報料を貰ってないぜ?」
それに対し、すかさず牽蓮がこう答える。
「…何言ってるんですか。さっき勝手に取ったでしょう?私がタダで貴方に手を出されるとでも思ってるんですか?」
言外に先程の口付けの事を言っているのは、鴻夏にもわかった。
それを受けて、鴎悧帝が不平を漏らす。
「おい?さすがにあれっぽっちじゃ、全然割に合わんぞ?」
「…勝手に他国に入ってきてる貴方が、そんな事を言っていいんですか?下手をすれば、風嘉への侵略行為と取られますよ」
突然強気に出た牽蓮に、鴎悧帝が不満そうな顔をする。
暫し両者の間で無言での駆け引きが続いたが、すぐに諦めたように鴎悧帝がボヤいた。
「…ああ、もう!わかったよ。ったく、相変わらずズル賢い奴だな、お前は」
ガシガシと荒っぽく髪を掻き毟りながら、鴎悧帝が盛大に溜め息をつく。
それを見て取りながら、牽蓮はフッと穏やかに微笑んだ。
「お褒めに預かりどうも…。それで?今度は何を掴んだのです?」
重ねて牽蓮がそう尋ねると、スッと鴎悧帝の表情が変わった。
そして彼が無言で右手を振ると、それを見た者達が次々と一礼し、ぞろぞろと天幕の外へと出て行く。
あっという間に天幕の中は、鴎悧帝と僅かな側近、そして鴻夏達の四人だけとなった。
それを確認し、鴎悧帝が口を開く。
「鳥漣の狂帝が動くぞ…。あと花胤にも水面下で大きな動きがある。おそらくこの二国を中心に荒れるだろう」
「…それは確かですか?鳥漣は自国の姫と花胤の凛鵜皇子との婚姻を決めたはずでは?」
「ああ、確か白縺とかいう狂帝の末の姫が嫁ぐ事になってる。だが狂帝はそれを足掛かりに花胤に侵略するつもりだ」
あまりにも衝撃的な内容に、鴻夏が青くなって凍りつく。
それを横目で見て取りながら、牽蓮が冷静にこう分析した。
「…愚かですね。でもむしろ鳥漣の方が踊らされている…という事はありませんか?」
「さすがだな、璉。…実は俺もそうじゃないかと睨んでる。多分、今回の騒動の仕掛け人は花胤の方に居るな…」
そう呟くと、鴎悧帝は真っ直ぐに牽蓮を見つめ、そして唐突に疑問を投げかけた。
「璉、この時期に本気で花胤と婚姻を結ぶつもりか?せっかく安定してきた風嘉が、また戦火に巻き込まれるぞ」
そう鴎悧帝が告げた時だった。
ふいに牽蓮の雰囲気が一変した。
静かな怒りにも似た揺らぎが彼を包み、そして牽蓮はきっぱりとこう言い切る。
「…そうはさせません。私の国はもう二度と荒らさせはしない。泰瀏にこの国を渡すまで、誰にも何にも侵させはしない。全て私が護り切ってみせます」
「それで?その護るべき対象に、そこの花胤の小娘も入っているのか?」
あまりにも冷静な鴎悧帝の確認に、鴻夏は心臓が止まるかと思うほどドキリとした。
正直、母国である花胤に不穏な空気が流れる中、今の自分を風嘉側が受け入れる事は、不利益しかないと思った。
しかも自分はまだ彼等に、実は男であるという事すら告げていない。
…結婚を止めるなら、今しかなかった。
おそらく鴎悧帝もそう思ったからこそ、この大事な時期に無理を推してまでここに来たのだろう。
ところが完全に断られる事を覚悟をしていた鴻夏に、牽蓮は予想外の返答を返したのだ。
「…もちろん、鴻夏姫の事も守りますよ。そもそもその程度の覚悟もないなら、最初から今回の縁談は了承していません。それに鳥漣と花胤の動きについても想定内の事です。その程度の事で風嘉は揺らぎませんよ」
「お前が揺らがせない…の間違いだろ、璉?まったく人がせっかく心配して来てみれば、とっくに腹を括っていやがったか…」
『可愛くない』とボソッと呟きながらも、妙に嬉しそうに鴎悧帝が笑う。
それに対し、牽蓮も実に穏やかな表情を浮かべながらこう告げた。
「…わざわざ私に忠告する為に、月鷲からいらしてくださったのですね」
「まぁ…な。だがあわよくば、お前を手に入れたかったってのも事実だ。何せ俺はお前を気に入ってるからな」
ニヤリとまた人を喰ったような表情で、鴎悧帝が語る。
それに気を良くしたのか、ふいに牽蓮が初めて自ら鴎悧帝へと近付いた。
そしてするりとその両手を鴎悧帝の頬に添えると、ゆっくりと自ら鴎悧帝に向かってその口唇を寄せる。
鴎悧帝も特にそれを避けず、二人はそのまま鴻夏の目の前で、口付けを交わした。
そして二人の口唇が合わさった瞬間、ふいに鴎悧帝が動き、そのまま強引に牽蓮を抱き寄せると、彼を自らの腕の中に抱き込んでさらに深く貪るようにその口唇を味わう。
幾度も角度を変えながらかなり長く口付けると、まだ名残惜しそうにしながら、ようやく鴎悧帝がその口唇を離した。
そして牽蓮に向かって、こう語りかける。
「どうした?お前にしては珍しいじゃないか。俺はいつでも大歓迎だが…」
「…追加料金です。わざわざ私を心配して、ここまでいらして下さった貴方に、あれだけだけではさすがに気の毒かと思いまして…」
「ふぅん?どうせならこのままさらに追加で、朝までお相手願えるといいんだが…?」
「…それは止めておきます。ここで貴方のお相手をすると、明日からの旅に響くので…」
まるで旅先でさえなければ、それすらも了承していたかのような牽蓮の口振りに、鴎悧帝が気を良くする。
そしてもう一押しとばかりに、牽蓮の髪に口付けながらこう語った。
「なんだ、お前も結構その気になってるんじゃないか。だったら別にいいだろう?ちゃんと加減はするし…」
「…嫌ですよ。そんな事言って、貴方毎回手加減なしに好き勝手されるじゃないですか。貴方の方はそれで良くても、私の方はその後が大変なんです」
「じゃあ仕方ない…。残りは今度会った時にでも回収させてもらうか」
目の前で繰り広げられる大人過ぎる会話を聞きながら、鴻夏は衝撃のあまり何も反応出来ずに固まっていた。
それを遠目に見ながら、總糜と嘉魄は困ったように顔を見合わせる。
そして二人の今の気持ちを代弁するかのように、總糜がこう口にした。
「あっちゃー、また主の悪い癖が…。本人無自覚だけど、あれじゃ相手が誤解しても仕方ないっすよ?もうヤバいっすよ、嘉魄!見てよ、めちゃくちゃ鴎悧帝、喜んじゃってるじゃん。ホント主の天然のタラシの能力、恐るべしっすよ」
「…まぁあの方の場合は、育った環境が環境だから…。多分、主の方に深い意味はないとは思うんだが…」
ボソッと嘉魄が珍しく牽蓮を弁護する。
それを受けて、總糜が堰を切ったように語り始めた。
「そんな事知ってるっすよ!問題は俺等がいくらそうだと知ってても、肝心の主のお相手らはそう受け取ってないって事っす!もー、しかもお子様な姫さんの前であんな事して…。どうするんすかっ?」
別に自分が仕出かした事でもないのに、何故か總糜に我が事のように責め立てられ、嘉魄も心底困り果てる。
それでも言葉少なに何とか牽蓮の弁護を試みたが、正直あまり成功したとは言えなかった。
「あー…まぁ、いずれはバレる事だったわけだから、早い段階でバレたのは逆に良かったんじゃ…?」
「いや、ダメっしょ⁉︎女なんて、普通は男色行為自体を毛嫌いするもんでしょ?しかも一人どころかやたらと経験豊富だなんて…絶対、マズいっしょ?」
「そ、そうか…」
「あー、もう主ぃ!あとちょっとで皇都なんすから、バラすんならそこまで我慢してくださいよぉ!」
頭を抱えて天を仰ぐ總糜を横目に、嘉魄はチラリと鴻夏に視線を向ける。
そして何を感じ取ったのか、やたらと自信有り気にこう言った。
「…大丈夫だ、總糜。あの姫はそんな事ぐらいでは揺らがん」
「へ?」
「…まぁ、どちらにせよ過去は変えようがない。あとはこれからどうしていくかだろう。そしてそれを決めるのは主と姫であって、俺等ではない」
先程までの動揺が嘘のように、いつもの嘉魄に戻ると、彼はまたそれだけ告げて黙り込んでしまった。
それを呆然と見つめながら、總糜が混乱したようにこう呟く。
「そ、それはそうなんだけど…。え?何、どういう事??嘉魄は何を感じたわけ?」
「…」
「ちょっと、ねえっ?嘉魄⁉︎」
『自分で考えろ』とでも言いたげに、それっきり黙り込んだ嘉魄の胸ぐらを掴み、總糜が叫ぶが嘉魄はダンマリを決め込む。
視線の先には、我に返った途端に牽蓮を取り返そうとする鴻夏の姿があった。
そしてその細い身体を二人の間にねじ込み、牽蓮を背中に庇いながら、鴻夏が叫ぶ。
「だ、駄目ですっ!いくら月鷲の皇帝とはいえ、牽蓮殿に手を出すのは駄目っ!」
「…牽蓮…?」
ポカンとした顔で、鴎悧帝が呟く。
それに対し、鴻夏の後ろで牽蓮が微笑みつつ、無言で人差し指を口元に当ててみせた。
その途端、合点がいったとばかりに鴎悧帝がニヤリと笑う。
「ふぅん?なるほどな…。これは貸しさらに一つだな、璉?」
「…まぁ仕方ないですね」
渋々といった体で、牽蓮が溜め息混じりにそう返す。
「え…?何が??」
一人訳が分からずキョロキョロする鴻夏に、鴎悧帝が意地悪く答える。
「お子様なお前にはわからん話さ。で?お前のいう牽蓮殿とやらに手を出すのが駄目ってんなら、誰が俺の相手してくれるって言うんだ?お前がするのか?」
「は…っ?え、私ぃっ⁉︎」
思わず自らを指差しながら、鴻夏が叫ぶ。
それに対しニヤリと意地悪く笑いながら、鴎悧帝は無言で鴻夏の返事を待った。
まさかそう来るとは思っていなかった鴻夏は、なんと返答すべきか迷って黙り込む。
そしてダラダラと冷や汗をかきながら、焦りまくる鴻夏をみて、ふいに鴎悧帝が豪快に笑い出した。
「ははっ、お前なんかに俺の相手が務まるわけないだろうが!俺の好みは色っぽい大人な奴なんだ。こーんな乳臭くて、出るとこも出てないお子様なんざ、話にもならんぞ」
「お、お…お子様ぁ?」
カチンときてそう言い返すと、それを見ながら実に愉快そう鴎悧帝が笑う。
そしておもむろにすっくと立ち上がると、彼は牽蓮を見下ろしながらこう言った。
「やれやれ…お前も物好きだな、璉?お子様のお守りばっかりしてないで、たまには大人な付き合いもしろよ」
「そうですね…。でも今のところは、私も結構楽しんでるんですよね」
そう言いながら、牽蓮はまたいつものように掴み所のない雰囲気のままニッコリと笑う。
それを受けて、鴎悧帝も楽しげに笑った。
「ははっ、まぁいいさ。今回はそこのお子様に譲ってやる。だが次は付き合えよ、璉」
「…そうですね。気が向けば考えましょう」
あくまでも曖昧な返事でそう受け流すと、牽蓮は丁寧に一礼した。
それを合図としたかのように、鴎悧帝が鮮やかに踵を返す。
そして数歩進んだところで、ふいに半身だけで振り返ると、よく通る声でこう告げた。
「ああ、そうだ。呼びつけて悪かったな、璉。詫びに好きなだけ寛いで行ってくれ。俺は妻達と先に休ませてもらうとしよう」
「…ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、今夜はこのままこちらでお世話にならせていただきます」
「ああ、そうしてくれ。あと気が変わったら、いつでも俺の寝所に来い。お前ならいつでも大歓迎だ」
最後の最後まで大胆に口説き続ける鴎悧帝に、牽蓮は表情を変えず無言で一礼をする。
それを視界の端で見て取りながら、鴎悧帝はそのまま天幕の外へと出て行った。
そして彼が外に出た途端、キャアという甲高い声と共に、何人かの女性の声が響く。
おそらく噂の奥方達だろうとは思ったが、すぐにその声はどこかに遠ざかって行った。
そして天幕に残されたのは、僅かばかりの鴎悧帝の側近と鴻夏達。
招待者が去った今、どうしたものかと鴻夏は思ったが、思いもかけず側近達からは丁寧な申し出を受けた。
「陛下より最高級のおもてなしをするよう仰せつかっております。旅先とは言え、出来るだけ皆様のお望みに沿うようにさせていただきますので、どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」
「…それではまずは今夜の夕食をご用意いただけますか?あとはその後に風呂と寝床を提供いただければ、我々はそれで満足です」
ニッコリと微笑みながら、図々しくもそう申し出た牽蓮に驚くと、嘉魄も總糜も慣れた様子で普通に頷く。
どうも相手が接待してくれると言うのだから、貰えるものは貰っとけ的な感覚らしい。
そこは遠慮するところではないのか⁉︎と思ったが、まったく悪びれもしない牽蓮達を見ると、気にしている自分の方がおかしいような気がしてくる。
『もう…いいわ。任せよう』
そう諦めた鴻夏の前に、次々と牽蓮の要求通りに豪華なご馳走が並ぶ。
そしていつの間にか天幕内では、優雅に琵琶や笛の音色が響き渡り、舞姫こそ居ないもののまるで月鷲の皇城にでも招待されたかのような状態になっていた。
正直こんな旅の途中で、ここまで豪勢な食事にありつけるとは思いもしなかったのだが、そこはツイていたと喜ぶべきところなのだろうかと少し悩む。
しかし牽蓮達は特に何も感じていないのか、ごく普通に語り合いながら食事を楽しんでいるようだった。
そして鴻夏も出された食事に手をつけながら、ようやく人心地がつく。
このオアシスに着いてから、バタバタと色々な事があったが、結論としては牽蓮に対する謎がさらに深まっただけだった。
いつもはのほほんとした雰囲気のごく普通の文官にしか見えないのに、何故か凛鵜や鴎悧帝と知己であったり、色事の接待もするような大胆なところがあったり、かと思えば妙に危険で頼もしい雰囲気を醸し出していたりと、あまりにも色々な顔がありすぎる。
また今はそういった面をまるで感じさせず、嘉魄や總糜と楽しげに食事をしているが、そもそもどれが本当の牽蓮なのか、それともどれも本当に彼の一面であるのかがまったくわからない。
あまりにも掴み所が無さすぎて、常に戸惑ってしまうが、それでも不思議と嫌いになれない謎の多い人。
どうして彼が無条件に自分を受け入れ、守ろうとしてくれてるのか、その理由まではわからなかったが、先程の彼の言葉に嘘は感じられなかった。
『…私の事も身内と思って貰えているのかな…?』
もしそうなら嬉しいと素直に鴻夏は思った。
何故ならまだ出会って間もないが、自分の中では牽蓮達の存在は結構重要なところに位置していると思う。
だから同じように彼等にも、花胤の姫としての立場は関係なく、鴻夏自身に対してそう思って貰えたのならいいなとそう思った。
翌朝すっかり鴎悧帝の一行に世話になった鴻夏達は、風嘉の皇都へ向かうべくさらに西へと旅立とうとしていた。
同じように鴎悧帝の一行も、月鷲の皇都へと戻るべく南へと旅立とうとしている。
やはり鴎悧帝は牽蓮に会う為だけにここに滞在していたらしく、その目的を果たした今は一刻も早く自らの皇都へ戻るようだった。
「それじゃまたな、璉」
相変わらず威風堂々とした派手な男は、豪奢な金髪を靡せながらも爽やかに笑う。
それを受けて、牽蓮の方も相手に対して最上級の礼を取りながら、素直にこう答えた。
「はい、貴方様も道中お気をつけて…」
人目があるからか、敢えて『陛下』とは呼ばずそう答えた牽蓮に、不敵な笑顔を見せると鴎悧帝は軽々と自らの馬に跨こう言った。
「今度は月鷲の皇都まで来い、璉。その時は国を挙げて歓待してやる」
「…そうですね。そのうち是非」
本気なのかそれとも社交辞令なのかはわからなかったが、牽蓮はそう答えると再び優雅な仕草で一礼をした。
それを確認すると鴎悧帝は馬首を巡らせ、周囲にこう宣言する。
「皇都にもどるぞ!出立!」
「出立!」
次々とさざ波のように指示が伝わり、ゆっくりと鴎悧帝の一行が動き出す。
それを不思議な面持ちで眺めながら、鴻夏は一行のなかでも一際異彩を放つ、馬上の鴎悧帝へと視線を向けた。
こうして見ると昨夜は気づかなかったが、確かに鴎悧帝はその実力だけで皇位に就いただけの事はある人物だった。
何しろこれほどたくさんの人々に囲まれているにも関わらず、鴎悧帝がどこに居てもすぐにわかるのである。
しかもただそこに居るだけで他者を圧し、華やかに力強く、それでいて見る者に純粋にこの人に仕えたいと思わせる何かを放つ。
そしてそれは彼の事を何とも思っていない鴻夏ですらも同じで、その姿を見ているだけで、自分まで誇らしげに気分が高揚していくのを感じていた。
他人に無条件でそう思わせる人物は、万に一人も居ない。
まさしくなるべくして皇帝になったと言わざるを得ない、絶対的王者の姿だった。
そしてそんな鴻夏の考えを読んだかのように、ふいに牽蓮がこう呟く。
「…さすがと言わざるを得ませんね…。昔から一際目立つ華やかな方ではありましたが、ようやく御本人の資質に地位が追いついたという感じです」
「まぁそうっすね。俺はあいつの事は好きじゃないけど、それでもあいつが誰かの下に立つのは違和感しか感じなかったもんな」
ボソッと總糜もそう賛同する。
それを受けて、鴻夏がふと素朴な疑問を口にした。
「昔から…って、そもそも一体どうやって知り合ったの?しかも文官と皇帝が、何をどうやったらああも親しげになれるのかしら?」
突然の思いもよらない方面からの攻撃に、牽蓮は少し困ったように黙り込み、總糜は耐え切れずに盛大に吹き出す。
「え、何?私、なんかおかしな事を言ったかしら??」
「あー…いえ、そういう訳ではないんですけど、ご質問の件は少々言いづらいと申しますか…。その…話せば長くなると申しますか…」
牽蓮にしてはやけに歯切れの悪い物言いに、キョトンとして相手を見返すと、ゲラゲラと笑いながら總糜がこう告げる。
「まぁまぁ姫さん。それはまたの機会にでもしてやってよ?主にも色々と事情があるんだからさぁ」
「…事情…?あ、もしかしてお仕事上の守秘義務ってやつかしら⁉︎それだったら無理に聞いちゃいけないわよね」
自分的には良いところを突いた意見かと思ったのだが、またしても何か間違っていたらしく、總糜は腹を抱えて笑い出し、牽蓮は困ったように視線を泳がせる。
どうしたものかと思っていたら、總糜がゲラゲラと笑いながらもこう答えてくれた。
「あー、そうそう。まぁ大雑把に言うとそんな感じ。なぁ主?」
「あー…まぁそんなとこですかね…」
何となく微妙に違う事はわかったが、それでも困り果てている牽蓮を見ていると、これ以上聞くのは止した方がいいんだろうなという事は鴻夏にもわかった。
そしてこれ以上は突っ込まれたくなかったのか、牽蓮が早々に馬に跨る。
「さぁ我々も早く参りましょう。今日はまずここから半日ほどのところに一旦寄ってから、皇都まで向かいます。…嘉魄!申し訳ありませんが、先行してあちらに我々の来訪を知らせておいていただけますか?」
そう牽蓮が指示を出すと、嘉魄がスッと一礼しこう答える。
「…御意。では失礼して、先に行ってお待ちしております」
「頼みましたよ、嘉魄」
そう牽蓮が言い終わるが早いか、嘉魄は馬上で一礼すると勢いよく馬を走らせ始める。
それを憮然とした表情で見届けながら、總糜はポツリとこう呟いた。
「…本当にいいんすか、主?無理してんじゃないんすか?」
「大丈夫だよ、總糜。…それにこれは私なりのケジメなんだ。まずはあそこに行かないと、私は何も始められない…」
牽蓮にしては妙に陰のある表情でそう答えると、それっきりまるで自分の気持ちを切り替えるかのように彼は静かに目を閉じた。
そして彼なりに手早く気持ちの整理をつけたのか、再び意を決したかのように目を見開くと、何も言えずに黙り込んでいた鴻夏の方を振り返り、高らかにこう宣言する。
「では姫。出発致しましょうか」
キラキラと輝く朝陽の中、いつものように穏やかに牽蓮が微笑む。
彼が今何を思い、何を考えているのかは相変わらずわからなかったが、それでも鴻夏は迷う事なくこう答えた。
「…ええ、行きましょう。風嘉の皇都へ」
風嘉帝との結婚式まであと二日。
そして風嘉の皇都は、あと一日の距離に迫っていた。
続く