第四章 事件
辺りが深い闇に包まれた頃、町の一角が赤く色づいた。風にあおられたそれは瞬く間に勢いを増し、周囲に広がった。
「火事よ!」
女性の悲鳴のような叫び声が静まり返った通りに広がる。
その声に反応して、近くから幾人も通りに集まってくるが、炎の巨大さに気づくと気圧されたように下がった。
「守警護隊はまだか!?」
「ッ、おいっ、離れろ! 危ないぞ」
怒号が駆けめぐる。
集まった男たちは、果敢にも掌から水を放ったが、いかんせん弱すぎた。ここに守精がいたのならば、一発で火柱も鎮火してくれただろうけれど、そんなに強大な力を持った者は民の中にいない。
だれもが歯ぎしりをして待つ中、ようやく守警備隊が姿を現した。守警護第五隊隊長は状況を一目で見て取ると、集まった見物人を下がらせて隊員を配置につかせた。
「放水、開始ッ!」
その言葉を合図に、先ほどの男が放った水よりもはるかに大量の水が火柱に向かった。
しばらくして下火になったが、通常の倍ほど時間を要した。
「今月に入って五件目か……」
眉を寄せた隊長は、小難しそうに眉を寄せた。
死人がでなかっただけましだろう。
大事に至らなかったこともあり、表情を緩めホッと安堵の息を漏らす見物人たち。
その隅で、漆黒に身を包んだ影があった。守警備隊を讃える人たちと一線を画すような冷ややかな雰囲気をまとっていた。その影は、だれにも見つからぬうちに、そっと身を翻すと夜に紛れて消えたのだった。
「……そんな奇怪な出来事が? なんと恐ろしい……」
「警備が厳重なこの城で不審火などないでしょうけれど、用心に越したことはないわ」
なにやら小難しそうな顔で話し合っている女官たちに気づいたシュリンは、ふと足を止めた。
「これもすべて火の種族の……」
「火の種族? 火の種族がどうしたの?」
「シュ、シュリン姫様!」
シュリンが小首を傾げながら尋ねると、二人の女官は慌てたようにその場に伏した。
「ただの噂でございます」
「シュリン姫様のお心にとめるものではございません」
どこかよそよそしい女官たちの態度を不審に思ったシュリンは、片眉を上げた。
「なぜ、隠すの? わたしは、頼りない……?」
「いえっ、そのような……」
女官二人は困ったように目配せをしあうと、意を決したように口を開いた。
「実は……、」
巷を騒がせる不審火の話を聞いたシュリンは、愕然とした。
すべて、ファン・リー・ツェイたちが来てから相次ぐようになったという。犯行はすべて空き家や蔵を狙ったものだったため、今のところ死者はでていないが、いつ民家も狙われるかわからないと民は戦々恐々としているらしい。
また、彼らの間には不安とファン・リー・ツェイたちに対する不信感が芽生えているという。
その件がファン・リー・ツェイたちの犯行と決めつけるのは安直だったが、その炎が普通とは異なっていた点と、ファン・リー・ツェイたちが来てから起こるようになったため、疑惑を消し去ることができないのだろう。
一部には、反火の領を掲げる者たちも出てきているという。
このままではもめ事に発展するかもしれない。
確証もなしに批難すれば、二つの領の間の関係にもヒビが入るだろう。
ファン・リー・ツェイの機嫌をどうやって直そうかと頭を抱えていたところに、とんでもない問題が舞い込んできた。
思わず手で顔を覆ったシュリンは、ため息を呑み込んだ。
女官たちにも伝わっているということは、ホウレンもすでに対策を立てているはず。
顔を上げたシュリンは、叱責を覚悟して縮こまる女官たちを優しく諭した。
「軽々しく噂話を流布してはいけません。もし、ファン・リー・ツェイ姫のおつきの方々が耳にされたらどうなりますか?」
「……っ」
ハッと顔色を変える二人。
そこまでは思い当たらなかったのだろう。
「ほかにも噂話に耳を傾けている者たちがいたのなら、諫めなければなりませんね。軽はずみな言動は、水の領の品位を貶めることになるのですから」
「仰せのままに」
深く頭を下げた二人に背を向けたシュリンは、足早にその場を去った。
向かう先はいわずともファン・リー・ツェイ姫のところだ。
「貴女の頭上に水の恵みが降り注ぎますように」
シュリンが、優雅に寝そべるファン・リー・ツェイ姫に朝の挨拶を述べると、彼女の目がギラッと光った。
「ふんっ。そんなものわたくしの炎で一瞬にしてかき消してやるけれどね!」
なんとも好戦的な台詞だったが、これも彼女流の挨拶なのだろう。
「それより、いつもより遅いのではない? なにをもたついていたの。わたくしの身の回りの世話をするのがあんたの仕事でしょ。まったく、<印無し>というのは、ここまで無能なのかしら」
刺々しい言葉の数々。
いつもよりずっと剣呑なのは気のせいではないだろう。
思わず、ファン・リー・ツェイの傍で控えているフェイに視線をやると、彼はほんの少し眉を寄せた。どうやら、好ましい状況ではないようだ。
昨日の一件以外で、ファン・リー・ツェイの機嫌を損ねるようなこと……と考えたシュリンは、先ほどの会話を思い出した。
まさか、と背筋に冷たい汗が流れる。
「そういえば、無能なのはあんただけではないようね。――広まっている噂をわたくしが知らないと思って? 客人であるわたくしたちを貶めるばかりか、犯人扱いなんて……! 水の領の住人は一体どのような教育を受けているのかしら。両領の禍根は深いとはいえ、こんな辱めを受けたのははじめてよっ」
声を荒らげたファン・リー・ツェイ姫は、ふっと冷笑を浮かべた。
「お父様がこの事態を知ったらどうなさるかしらね」
「――!」
シュリンの顔色が変わった。
慌てて跪き、非礼を述べるもファン・リー・ツェイの眼差しが和らぐことはない。
「この領では火よりも水が勝ると驕っているようだけれど、ひとたび炎が怒りに身を震わせれば、水など簡単に呑み込み、消し去ってしまえるのよ。火の領を侮辱するのも大概になさい」
「……っ」
なにも言い返せず、床に這いつくばったまま身を震わせるシュリンを憐れに思ってか、フェイが口を開いた。
「少し、口が過ぎるのではありませんか?」
「使用人の分際でわたくしに意見しないでっ」
カッと頬に朱を走らせたファン・リー・ツェイが、彼に向かって手の中にあった扇を投げつけた。
避けられるはずの攻撃を無表情で受け止めたフェイは、床に転がった扇を拾った。
「忘れないで。あなたの主人のその小娘ではなく、わたくしなのよ! 次にその娘を庇ったのなら、どうなるかわかっているでしょ?」
「……申し訳ございません。出過ぎたまねを」
一礼したフェイを小気味よさそうに見やったファン・リー・ツェイは、まだ顔を上げないシュリンを嘲笑した。
「ほほっ、なんという格好かしら。水の領の姫ともあろう者が、簡単に膝を折るなんてね。謝るということは、非を認めること。せいぜい、両領の関係が悪化しないよう奔走することね。滞在中にわたくしの容疑が晴れることがなかったら、再び両領の間で争いが起こることになるわよ」