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 第三章 ファン・リー・ツェイ姫

「ちょっとぉ~! なに、このお茶! マズすぎっ。とっとと淹れ直して」


 脇息にもたれていたファン・リー・ツェイは、煎じたお茶の入った陶器を床に投げ捨てた。

 後ろで大きな団扇で扇いでる火の領の女官たちは、そんな彼女に慣れているのか顔色一つ変えなかった。


「は、はいっ」


 シュリンは、割れてしまった茶器を見て、少しだけ唇を噛んだ。ファン・リー・ツェイのために無理を言って作ってもらったものだ。繊細な模様が入って、それは見事だったというのに、今は見る影もない。

 大事そうに欠片を拾うシュリンに、ファン・リー・ツェイから容赦ない言葉が浴びせられる。


「早くしてって言ってるでしょ! ……ほんと使えない。<印無し>って役立たずよね。水の領の証である水も操れなくて、よくも堂々と水の領の……しかも守精を名乗っていられるものだわ。わたくしだったらいたたまれなくなって、去るけれどね」


 嘲るような声が、黙り込むシュリンに重く響いた。

 ささっと欠片を集め、床に広がったお茶を拭いたシュリンは、お辞儀をすると部屋から離れた。


 ――悔しかった。


 なにも言い返せない自分に対しても。

 役立たずなのはわかっている。

 わかって、いるのだ。

 鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなった。


(こんな些細な言葉に動揺するなんてみっともない)


 それでも、こみ上げてくるなにかを消し去ることはできなかった。


「シュ…リン!?」

「ぁ……五の兄君様……」


 曲がり角から現れたロンファーは、シュリンに気づくと微笑んだが、すぐに血相を変えて駆けつけてきた。

 酷く動転している様子のロンファーに思わず小首を傾げていると、彼は、シュリンの目元を優しく親指で拭った。


「どうしたの? だれかに苛められた? 可哀想に……」

「五の兄君様……」


 いつの間にか、透明な雫が頬を伝っていたらしい。

 いったんあふれ出した涙は、止めどなく流れ落ちていく。


「泣くな……。おまえに泣かれると僕はどうしたらいいのかわからなくなる。こういうとき、上の兄たちならば、簡単にあやしてしまうんだろうな。悔しい……っ。そう年齢は変わらないのに、兄上たちの大人びた対応がほんと羨ましい。僕にも兄上たちのような包容力があったのなら、おまえの涙をたちまち止めて、いつもの愛らしい笑顔をその顔に浮かべさせることができるのに」


 むぅっと子供っぽく唇を尖らせるロンファー。

 彼もまた、兄たちとの間にある壁を感じ、じれんまに陥っているのだろう。

 シュリンにとったらロンファーもほかの兄たちと同じくらい格好良く、仕事ができているように見えるが。彼はまだまだ追いつけていないと考えているようだ。兄というよりは、好敵手なのかもしれない。

ロンファーのぼやきを聞いていたシュリンは、くすりと笑ってしまった。ロンファーのおかげで涙はすっかり引っ込んだ。


「笑ったね、おまえにはやっぱり涙よりも笑顔が似合う」

「五の兄君様、ありがとうございます」


 目尻に溜まっていた雫をそっとぬぐい取った。

 ロンファーの優しさが嬉しかった。

 微笑んだロンファーは、シュリンが手に持っている破片に気づくと片眉を上げた。


「それは?」

「これは……わたしの不注意で割ってしまいました」

「そう……おまえに怪我がなくてよかった。そんなものは、下仕えに任せてしまえばいいのに、おまえは本当に優しいね。さ、それは寄越しなさい。おまえの繊細な指に傷でもついてしまったら大変だ。僕が片付けるよ」

「いいえ」


 シュリンは首を振った。


「これはシュリンの役目です。五の兄君様、シュリンを甘やかさないでください」

「それはできないな」


 ロンファーは、シュリンの顔を覗き込んだ。


「大切な妹がこんなにも瞳を曇らせて、泣いていたというのに放っておく兄がいるとでも? おまえは甘やかされていいんだよ。僕でも上の兄たちでもいい。おまえは水の守精の末の姫なのだから、もっとわがままに育っていいんだよ。たまには僕たちを困らせてごらん」

「兄君様……」


 シュリンは大きく目を見開いた。

 ロンファーの瞳は、深い愛情にあふれていた。


「あの姫君が来てからというもの、おまえはすっかり萎縮してしまっているようだね。それは卑しい従者が傍にいないせい? 僕の可愛いお転婆姫は、どこへ行ってしまったのだろう。おまえは分別をわきまえているけれど、黙って受け入れるだけではなにも解決しないよ。元気なシュリンはどこへ行ってしまったのかな」

「兄君様、」

「ん?」

「父上はなぜ……」


 シュリンは、思わずでかかった言葉を呑み込んだ。

 なぜ自分を家族にしてくれたのだろう?

 考えても考えてもシュリンにはわからなかった。

 水の種族に相応しくないのは、だれよりも感じているというのに……。


「シュリン、おまえがなにを悩んでいるのかおおよそ検討はつくけど、なにを惑う必要がある? おまえを認めたのは、水の種族の長である水王主。それ以上になにか証が必要かな」

「でも…、でもっ、」


 シュリンは目の前にあるロンファーの額を見つめた。水の種族の人間であることを証明するアザがそこにはあった。

 それは<印無し>の子であるシュリンがどんなに望んでも手に入らないものだった。


「みなは証を求めますっ。わたしがどんなに頑張って溶け込もうとしても、<印無し>というだけで敬遠されてしまう。わたしが一の姫であればあるほど、ますます彼らとの溝は深まるのです」

「ふっ、馬鹿だね。好き勝手言わせておけばいい。おまえがどんなに希有な存在か気づかない凡人を相手にするんじゃないよ。おまえは紛れもない守精の一員なのだから、堂々とおし。僕はね、あの姫君のために奔走していたシュリンが大好きだし、その頑張りを見守っていたから成功して欲しいと思うけど、おまえが傷つくのならば友好などいらない」

「兄君様……!」


 シュリンは驚いた。

 まさかそんなことを言うとは思わなかったのだ。


「忘れないで、シュリン。僕たちは家族なんだよ? その縁だけは一生切れることはない。たとえおまえが罪を犯そうと、可愛い妹であることは変わらないんだ」


 そう言ってロンファーは、シュリンの飾りのついた額に唇を寄せた。軽く口づけたロンファーは、唇を離すと自分の額をシュリンの額にコツンとあてた。


「可愛い僕のお転婆姫。さあ、いつもの元気な声を聞かせておくれ。あの姫君につきっきりのせいで、おまえの起床を知らせる声が聞けなくなって寂しいのだから」

「……っ、兄君様は甘すぎます!」


 照れたようにかぁっと頬を赤らめたシュリンは、それでもどこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。


「守精の家族になれて本当によかった。シュリンは、兄君様方に父上……それにフェイや女官のみんなが大好きです。だからシュリンは、この場所を守りたい」


 そのためには、ファン・リー・ツェイに楽しいと思ってもらわなければならない。

 シュリンが辛いままで世話をしていても、彼女だってちっとも楽しくないだろう。

 <印無し>であることに引け目を感じ、まるで下女のようにこき使われる立場に甘んじていたが、もうそれもおしまい。

 シュリンの行動がどのような結果を招こうと、家族の絆が切れることはないだろう。




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