第二章 歓待
火の領の姫君が、水の領を正式に訪領されることが決定されたのは、それからしばらく経ってのことであった。
「これ、シュリン。なにをそんなに急ぐ」
「ぁ! 二の兄君様……」
髪を女性のように結わえ、扇を優雅に仰ぐ様がなんとも絵になるシュリンの兄だ。中性的な容姿で、どことなく儚げな印象が漂う二の君は、見目のよい兄たちの中でも最も整った顔立ちをしていた。
珍しく公務はないのか、明かりとりの窓枠に腰掛けゆったりと庭園を眺めていたようだ。
シュリンは、罰が悪そうに舌をぺろりと出した。
「またこの間のように裾を踏みつけ、転んでしまったら、小姫のいとけない膝に青あざをこしらえてしまうよ。ああ、あれはいけないね。とても痛々しく、正視に耐えうるものではない」
柳眉を寄せた二の君は、口元を扇で隠し、軽く首を振った。
ちょうど半月前に、今と同じように回廊を駆けていたら、二の君の前ですっころんでしまったのだ。
あのときの彼の表情といったら、怪我をしたシュリンよりも痛ましげで、裾の長い衣装を用意した召使いを城から追い出してしまう勢いであった。
シュリンは、そのときのことを思い出して、くすくすと笑った。
「なにを笑う?」
「二の兄君様は、心配しすぎです」
「そうだろうか。小姫は、我が守精の紅一点だからね。公務の最中でも小姫のことが気がかりでしょうがないよ。小姫が風邪で苦しそうに寝込んでいるというのに、地方へ視察に赴かなければならなくなったときには、どんなにこの身を呪わしく思ったことか。守精の一員でなければ、小姫の傍にずっとついていられたというのに……」
扇で口元を隠した二の君は、ふぅと悩ましげにため息を吐いた。そんな姿も絵になる美しさだった。
一つ一つの仕草に艶があり、洗練されているせいか、表情ひとつとっても雰囲気があり、優雅さが備わっていた。目を奪われるとは、彼のような者のことを指すのだろう。老若男女問わず人気の高い二の君らしい。
「公務のほうが数十倍……いいえ、数千倍大事ですもの。シュリンのために、お仕事を投げ出しては駄目です。だって、二の兄君様の到着を心待ちにしている者たちに申し訳がたちません」
「可愛い私の小姫。そう言ってくれるな。私はね、民よりもずっとおまえが大事なんだよ。それはきっと、ほかの兄弟も同じだろうね。小姫になにかあれば、きっと地の果てからでも水雲に乗って駆けつけてみせるよ」
「わたしもです」
シュリンは、嬉しそうにはにかんだ。
「わたしも、大好きな兄君様方の身に危険が迫ったのなら、なんとしてでもはせ参じます」
「それは、困ったね。小姫を危険にさらしてしまう」
「では、そうならないようお気をつけくださいませ」
にっこりとシュリンが愛らしく微笑むと、二の君は虚を突かれたように目を見開いた。
「これは…一本取られた。それは道理」
敵わないなと肩をすくめたそのとき、シュリンの名を呼ぶ声が近づいてきた。
「ぁ、フェイだわ」
大変、とシュリンは慌てた。
すっかり二の君と話し込んでしまったが、自分がなにをしようとしていたところだったのかようやく思い出したのだ。
「ごめんなさい、二の兄君様。わたし、そろそろ行かないと……」
「ああ、用事があったのだね。引き留めてしまって謝るのは私のほうだ」
「いいえ、とても楽しいひとときでした。今度はゆっくりとお茶でも飲みながらお話ししてくださいませ」
「もちろんだよ」
扇をぱちりとたたんだ二の君は、シュリンの飾りのついた額に唇をあてた。
「小姫が、無事に大役を終えることを期待しているよ」
「! 知っておいででしたか」
「小姫の初の晴れ舞台を私が見逃すとでも? なにか力を貸して欲しいことがあったら遠慮なく言いに来るんだよ。可愛い私の小姫が、守精の一員として正式に認められるのを心待ちにしているのは、おまえだけではないのだからね」
「……っはい!」
破顔したシュリンは、お辞儀をすると今度は走らずに早足で声のするほうへと向かった。
「フェイ!」
「あぁ……ようやく姿を見せましたか。どこかに囚われているのかと肝を冷やしましたよ」
「ごめんなさい。二の兄君様とお話しをしていたら、時が経つのをすっかり忘れてしまったの」
「二の君ですか。……五の君といい、貴女の兄君方は過保護でいけない。甘やかすだけでは成長しないというのに、水王主をはじめ、我が主を目に入れても痛くないほど可愛がるのだから困ったものです」
肩をすくめたフェイは、やれやれとばかりに首を振った。
彼自身もシュリンの家族に負けず劣らず甘やかしているという自覚はないようだ。
「でも、わたしは嬉しいわ。とっても、とっても嬉しい。わたしが<印無し>だから奇異な目で見られることも多いけれど、父上や兄君様方、それにフェイたちが傍にいてくれるだけでね、そんな憂鬱な気持ちも吹き飛んでしまうの。わたし、みんなの家族になれてよかったって心の底から思えるのよ」
「シュリン様……」
「だから、この居場所を守るために、父上方に恥ずかしい思いをさせないために、わたしは頑張るの。父上から与えられた任を成功させて、みなにわたしが守精の一員であると認めさせる」
水王主から与えられた任務は、火の領の姫君を歓待することであった。
水王主は、姫を足がかりに火の領との国交を再開させたいと考えているようで、彼女の訪領はまたとない機会であった。それだけに、シュリンは大事な役目を担うことになる。姫君の機嫌を損ねれば、火の領との不和を断ち切ることはできないだろう。
ここは、なんとしてでも姫君に楽しい思い出をいっぱい作ってもらい、火王主に水の領がいかに素晴らしかったのか語ってもらわねばならない。
無事に国交が成されたあかつきには、シュリンはその手腕を認められ、官吏たちも正式にシュリンの存在を認めざるを得ないだろう。
「さ、フェイ。急いでファン・リー・ツェイ姫を迎える準備をしないと。調度品は新しい物を用意したけれど、ファン・リー・ツェイ姫はお気に召すかしら。わたしは、普通のお姫様の感覚とは違うみたいだから、装飾のひとつをとっても、どういうものがいいのか迷ってしまうわ」
そう。
部屋をどこにするのかも、シュリンひとりで考えなければならなかったのだ。
頼めばなんでも用意してくれるが、文官たちも遠巻きに眺めているだけで積極的に手は貸してくれなかった。
シュリンが好む部屋の雰囲気は、落ち着いた色合いで、壁には本がびっしりと並んでいるようなものだ。それをフェイや女官たちに提案したら即却下されたものだから、なにも思い浮かばなかった。
そんなとき、本好きのシュリンにフェイが寓話を参考にすればいいんじゃないかと言ってくれたのだ。確かに、その中には、きらきらしたお姫様の生活が描かれていたからファン・リー・ツェイに合いそうな部屋もすぐに見つかった。
白と朱を基調とした内装に、黄金で作られた調度品や絹で織った色鮮やかな布を並べれば、それはもう寓話の中で描かれたものと同じお姫様らしい部屋の完成だ。
もちろん、それだけでなく、ファン・リー・ツェイに付き添う女官や護衛の寝起きする場所も確保しなければならない。加えて、食事の手配から日程まで、考えることは山ほどあった。
一ヶ月後には、ファン・リー・ツェイ一行は宮殿に到着するのだ。
気ばかりがせいでしょうがなかった。
落ち着かない様子のシュリンの頭をフェイがぽんぽんと叩いた。
「貴女らしく、進めばいい。火の領ではどのようなものが好まれているのか、知る者はいないのですから」
「フェイ……あはっ、ありがとう。くよくよと悩んでいても、時は解決してくれないのよね。うん、ファン・リー・ツェイ姫に喜んでいただけるよう、わたし、頑張る。水の領が『蒼』を聖色としているように、火の領は『緋』を聖色とされているようだから、きっと馴染みの色があったら異領の地でも心が落ち着くと思うの。ここではあまり好まれていない色だけれど、もっと、赤系を使ったらどうかしら? この間のように、装飾担当の者に嫌な顔をされるかもしれないけれど」
シュリンは、そのときのことを思い出し少しだけ表情を曇らせた。
生地を鮮やかな『蒼』に染め上げる方法を知っていても、『緋』をどうやって作るのか知る者はいなかったのだ。なんとか試行錯誤して赤系統の色は出来上がったものの、彼らの反応はいまいちであった。血のような毒々しい赤色は、目に入れるのも嫌なようで、出来上がったファン・リー・ツェイ専用の部屋を見たときは、腰を抜かしそうなほどであった。
それでもシュリンは、どれだけ批難されようと変えようとは思わなかった。
自分がほかの領へ赴いたとき、やはり『蒼』があったら嬉しいと思うからだ。
「――姫様ぁぁぁ~っ。こちらにいらっしゃいましたか! お捜しいたしましたわ」
シュリンに仕える女官が酷く焦った形相で駆け寄ってきた。
荒い息を整え、シュリンの耳へと口を寄せる。
「……え? 主頭三補佐官様が?」
主頭三補佐官といえば、水王主の右腕的存在である。
水の領の中枢を担う彼らに呼ばれたとなれば、シュリンも心穏やかではいられなかった。
彼らが自分の存在をあまり快く思っていないのを知っているシュリンは、なにを言われるのだろうかと不安そうに眉を下げた。