そのニ
黄金の扉の前で、シュリンははやる鼓動を押さえるように、胸にそっと手を当てた。
「ガラにもなく、緊張しているのですか?」
フェイが、意地悪そうにからかった。
「だって、これからわたしが守精の一員として相応しいのか、みんな見定めるんでしょ? もし、受け入れられなかったらと考えると、とても怖い」
双眸を翳らせると、フェイが額の飾りにそっと触れた。
「なにも、恥じることはない。貴女は、水王主の一の姫。たとえ、奇異の目で見られようと、高貴な身の上であることには変わりない。貴女を溺愛しているあの家族が今の台詞を聞いたなら、卒倒しますよ」
「――わたし、愛されているのね」
くすり、と笑みを零し、ようやく表情を和らげたシュリンは、飾りに触れるフェイの手を両の手で包んだ。
「力を、ちょうだい。わたしが、しっかり役目を果たせるように」
「貴女が望むのならば、いくらでも」
「不思議ね……。フェイの手は魔法の手だわ。あんなに早かった鼓動が、だんだん落ち着いていくんだもの。わたし、頑張ってくるわ。みんなのためにも」
「ええ」
ゆっくりとフェイの手を離したシュリンは、にっこりと微笑んだ。
そのまま、意を決したように大きく深呼吸をすると、頃合いを見計らったように扉が開かれた。
「シュリン姫のおな~り~」
しゃらしゃらという鈴の音とともに、あどけない幼女の声が蒼の間に響き渡った。
重々しい銅鑼の音が余韻を残しながら消えていく中、こくり、と唾を呑み込んだシュリンは、最初の一歩を踏み出した。
磨かれた水晶の床には、その下に敷きつめられた藍色が反射して、まるで玉海を思わせる美しい『蒼』が広がっていた。
扉から伸びる金色の絨毯の上をゆっくりと進み始めたシュリンの顔は硬い。
両側で座礼しているのは、水の領中から参じた有力者や高官であった。それぞれの階級の色をまとった彼らは、身じろぎもせず、床に両の拳をつけながらシュリンが通り過ぎるのを見送っていた。
目に見えない重圧に耐えながら玉座まで進み出たシュリンは、腰を落とし、手を重ねて頭を下げた。しゃらんっと頭に付けられた飾りが音を立てて揺れた。
「本日は、わたくしのために、このような晴れがましい席をもうけていただき、誠にありがとうございます」
緊張で喉がカラカラになりながら、父である水王主の顔も見ずにそう口上を述べると、階上から優しげな声が落ちてきた。
「シュリン、おめでとう。おまえもようやく十五。私たちと同じ大人の仲間入りですね」
「父上……」
思わず顔を上げてしまったシュリンは、簾の奥にいる影を見つめた。
兄たちは、その隣の簾の中にいるのだろう。
「さ、こちらへ。我が末の姫をみなに紹介しましょう」
水王主に促され、シュリンは階段を慎重な足取りで上っていった。
ここでこけたら、すべてがおしまいだ。
慣れない窮屈な衣装にまごつきながら、なんとか水王主の元へとたどり着くと、簾がゆっくりと持ち上げられた。
そこには、とても六人の子持ちとは思えないほど若々しい容貌の父の姿があった。ゆったりとした正装に身を包んだ彼は、頭上に掲げた宝冠もさることながら、華やかな出で立ちであった。
優しい眼差しの父を見て、シュリンの顔つきも穏やかになる。
「シュリン、見違えましたよ。その衣装が、とてもよく似合っていますね」
「父上、ありがとうございます」
恥ずかしそうにはにかんだシュリンの背に手を回した水王主ホウレンは、すっと立ち上がると眼下を見渡した。
彼が小さく手を振ると、それが合図だったように銅鑼が一度鳴った。
とたん、いっせいに拝していた者たちが体の向きを玉座のほうへと変えた。
続いて、銅鑼が二度鳴ると、彼らは一糸乱れず顔を上げた。
「本日より、我が娘シュリンを誇り高き守精の一族として、正式に迎える。異論がある者はこの場で申し出なさい」
ホウレンがそう言い放つと、静まり返っていた蒼の間に動揺が走った。
まさか、彼がそんなことを言うとは思わなかったのだろう。
シュリンは、彼らの目がすべて自分に向かっているような錯覚を覚え、小さく肩を震わした。
(怖い……)
値踏みするような視線が、なんの印も無い額に注がれているようで、居心地が悪かった。
けれど、そんな不安に戦くシュリンの気持ちを察したように、ホウレンが自分の方へとシュリンの体を引き寄せた。
(父上……)
たくましいホウレンの胸に体を預けたシュリンは、彼を見上げた。
シュリンに向ける優しげな笑みはその顔になく、どこか厳しさをにじませた顔で臣下を睥睨していた。
ホウレンの威圧に怯まず、手前に座っていた老年の男が挙手をした。
「発言を許可する」
「お、恐れながら申し上げます」
ばっと顔を伏せた男は、意を決したように口を開いた。
「守精家の一員として公に扱うということは、これから公務も果たしてもらうこととなります。姫君様におかれましては、まだ水の種族に相応しい証をその身に宿しておりませぬ。そこのところを水王主はいかがお考えですか」
シュリンは、耳を塞ぎたくなったのを必死に堪えた。
快く思われていないのは承知していたが、いざ突きつけられると胸が痛かった。
「ほぅ。おまえたちは、まだ理解していないようですね。たとえ水を操れなくとも、この希有な双眸の色こそが、最大の証ではありませんか。これほど水龍の加護を受けた者を私は知らない」
「で、ですが……っ」
「くどい。このような低俗な議論は、すでに終わったこと。――ほかに不服がある者は?」
すっと細められた双眸には、逆らうことを許さない光が宿っていた。
それを察してか、高官たちはおとなしく口をつぐんだ。
「では、これをもってシュリンを我が……」
「父上!」
ホウレンの言葉をシュリンが遮った。
礼儀を欠いた行為ではあったが、シュリンは言わずにはいられなかった。
「わたしは、このままでは、万人に認められずに守精の姫として一生を過ごすこととなります。それは、とても愚かなことではないでしょうか」
「シュリン……?」
「わたしが水の領の民として相応しくないのはだれよりも存じております。だからこそ、この場にいるすべての者に認められたいのです。守精の一員として公務にしっかり励むには、この場にいる者たちの助力が必要です。認められずして、それがうまくいきましょうか? 互いの摩擦をなくしてこそ、いい仕事ができるものとわたしは考えます。ですから、わたしにどうか試練をお与えくださいませ」
「試練、ですか?」
「はい。わたしが守精の姫として相応しい力を持っているか、お試しください」
「……困った子だ。おまえは一度言い出したらきかないのだから」
ホウレンがやれやれとばかりに肩を竦ませたが、我が子に注ぐ眼差しは柔らかかった。
「! ではっ」
「おまえの好きになさい。それで、心が晴れるのならば」
「……っ。ありがとうございますっ!」
シュリンは、ホウレンに抱きつきたいのをぐっと堪えて、深く頭を下げた。
「では、祝賀の続きを」
ホウレンが手を振ると銅鑼の重い音とともに、艶やかな布に身を包んだ女たちが登場した。
まとった薄い布を鮮やかに宙に放りながら、優雅に舞っていく。
その上に水の橋が架かる。七色に変化する不思議な水にシュリンが思わず目を奪われていると、くすりと笑ったホウレンが、自分の隣へと座らせた。
「きれい……父上、あれは一体……?」
けれど彼は、笑みを深めるだけでシュリンの問いには答えなかった。
と、そのとき。
正面の扉が勢いよく開かれた。
赤く染まった大きな鳥が、悠然と翼を広げながら旋回する。獲物を狙うようにぐるぐると回っていたが、ようやく定めたのか降下し始めた。
突然の催しに感嘆とし、身じろぎもしなかった官吏たちが、慌てふためいて逃げようとする。
「父上っ」
「大丈夫ですよ、シュリン。これはおまえのための余興なのだから」
「余興……」
彼らが危ないと身を乗り出していたシュリンは、ほっとしたように腰を落とした。
きっと、官吏たちには伝えられていなかったのだろう。
逃げまどう官吏たちを見ているホウレンは、楽しげであった。まるで悪戯を成功させた子供のような無邪気な顔に、シュリンはなにも言えなくなってしまった。
(お人が悪いです、父上は)
でもシュリンは、こんな子供っぽい一面を持つ父のことが大好きであった。
「く、くるなぁぁぁぁぁ……っ」
眼下では、今にも嘴を大きく開けた鳥に官吏のひとりが呑み込まれるところであった。
武官が動かないところを見ると、知らされなかったのは、シュリンと官吏たちだけらしい。
どうなるのかとはらはらしながらホウレンに寄り添ったそのとき、舞っていた女たちが歌いはじめた。伸びやかで、切々とした声音が部屋いっぱいに広がる。
その歌声に呼応するかのように、正面の扉からなにかが飛び出してきた。
――水龍だ!
水の領の守り神である、聖なる霊獣が優雅に泳ぐ。
(すごい……っ)
本物の従騎かと胸を高鳴らせた。
しかし、すぐに鳥と同じく水で作られていることがわかって、喜びが半減する。こんなところに従騎が姿を現すわけがないというのに……。
従騎と見間違えるほどの精緻に形作られた水龍は、官吏を襲っていた鳥を長い尾で絡め取ると、締め上げた。
「……ぁ!」
シュリンの口から思わず声が漏れる。
眼前で繰り広げられる戦いは、目を逸らせないくらいの大迫力だった。
鳥が耐えきれずに、その身を散らすと、水滴が水晶の涙のように輝きながら頭上に降り注いだ。
「綺麗……」
感嘆とため息を漏らす。
勝利した水龍は、悠々と宙を滑っていく。長い尾が美しい孤を描き、霊獣らしい威厳と雄々しさをまとっていた。
水龍を讃えるように、女たちが再び舞い始める。軽やかな音に合わせ、流れるような見事な踊りを披露し終えると、どこからともなく拍手が起こり、空気を震わすほどの大音声となった。
ようやくこれが襲撃ではなく、宴の一環だと気づいたのだろう。
「蒼と紅のはじまりの物語ですね」
興奮冷めやらぬ顔で、そうシュリンがホウレンに言った。
ホウレンは、肯定するように微笑んだ。
昔、この八つの領に分かれた地がまだ陸続きだった頃、領地を巡って水の民と火の民の間で争いが起こったという。
そこに、神の使いである従獣が、それぞれの王の味方についた。
すなわち、水の民には水龍が、火の民には鳳凰が。
鳳凰は、火の民のために水の民を襲い、村々を焼き払った。
それを憂えた村人の一人が、救いを求めて謳った歌で水龍を呼び寄せた。
見事、水龍は鳳凰を蹴散らし、水の民を救ったというが、火の民と水の民の間にある禍根は深い。
神の使いを傷つけられた火の民の怒りは、収まるどころか膨らむばかり。地が分かたれた現在でも変わらず、両領には深い溝がある。
(なぜ、この演目を選ばれたのかしら)
もっとこの場に相応しいものはあったはずだ。
そんな心中を察したように、ホウレンが口を開いた。
「おまえは、火の領をどう思いますか?」
「え?」
ホウレンの問いかけの真意がわからず、シュリンは大きな目をぱちくりとさせた。
「長い間、私たちは敵対関係にありました。玉海を隔てているとはいえ、距離でいうならば同じ隣の領である地の領よりも近いでしょう。けれど、両領の間に、これまで交流はほとんどなく、お互いいがみ合うばかりでした。もっとも、彼らのほうが一方的に我々を忌んでいるようにも思いますが」
「火の民の怒りももっともだと思います。わたしも水龍様が怪我を負ったら悲しいし、怒りがわいてきます」
でも、とシュリンは続けた。
「そのせいで、憎しみあい、交流がなくなってしまうのはとても寂しい……。父上、シュリンはまだ本の中でしか火の領のことは知りませんが、かの地の者たちはとても勇猛だと聞きます。その身に闘志を宿し、だれもがきら星のごとく輝いていると。いつか、お会いしてみたいと思っております」
「そうですか。おまえは本当に、私の意表を突く物の考え方をしますね」
シュリンの答えに満足そうに目を細めたホウレンは、口元を弓なりに持ち上げたのだった。




