そのニ
宴が終わったのは、夜が明けた頃であった。
どの顔も陶酔しており、まだ夢心地の様子だった。
シュリンを称える声があちこちからわき上がる。この出し物を考えたのがシュリン一人であったことに、驚嘆としていた。
素晴らしい宴を見せつけられたことにより、どんな博識な学者もシュリンには敵わないと、初めて彼女が水の守精の姫として選ばれた理由を痛感したらしい。
銀の髪を揺らし、水色の瞳をきらめかせながら指揮を執るシュリンの姿は、淡い明かりに照らされて、全身が光り輝いているようだった。
水の種族のだれも持っていない色をまとうシュリンが、ますます神聖に見えたようで、宴が終わったあと、彼らは自然とシュリンに対して頭を垂れていた。<印無し>だからと能力をしたに見ていた自分たちを恥じているようでもあった。
たとえ水を操れなくとも、こんなにも芸術的に表現することができるのだ。
それはなによりも得がたいものであった。
<印無し>であるが上のシュリンの柔軟な考え方に、新しい未来が彼らには見えたのだろう。
こうして無事、成功を収めたシュリンの顔は晴れ晴れしかった。
シュリンを褒め称える声が、今もまだ耳に残っていた。歓声と喝采と拍手と熱気に包まれた光景が瞼の裏に浮かぶ。
相容れない水と火が調和するところは、本当に見事で、素晴らしかった。
気難しい主頭三補佐官も、さすがに唸らずにはいられなかったようだ。童子のように興奮して、危うく社から落ちそうになっていた。
シュリンは、手伝ってくれた兄たちにも感謝を述べた。こんなにも完璧なものができたのは、水の領で随一の力を誇る彼らの存在があってこそ。どんなに難しいことも、楽々とこなしてしまうのだから、さすがであろう。
シュリンは改めて兄たちのすごさを思い知った。
これが、実力で選ばれた水の領の守精なのだ。ホウレンの先見の明は確かであった。
「ファン・リー・ツェイ姫……?」
素晴らしい宴でしたと告げてくる官吏たちに挨拶を返しながら、ファン・リー・ツェイのもとへとやって来たシュリンは、彼女の目からほろほろとこぼれ落ちる雫に気づいて慌てて近寄った。
「煤が目に入りましたか? それとも……」
「違うわ」
ゆっくりと首を振ったファン・リー・ツェイは、細長い指先で涙をそっと拭った。この騒動で頬は少し痩け、顔色は悪かったが、火の領の姫らしく凛とした芯の強さがあった。聖色である『緋』をまとった彼女は、夜空の下でいっそう美しく映えていた。
「感情が、あふれてくるの。こんなことはじめてよ……」
どこか憑き物が落ちたような顔で、ふっと笑ったファン・リー・ツェイは、掌に炎を生み出すとそれをふわりと浮かせた。
「先ほどの劇より、もっと素晴らしく、完成度が高いものをいくつも観てきたわ。でも、不思議ね……。技術も演出も劣るというのに、こんなにも心が震えるなんて。火と水は、決して交わることはないと思っていたわ。考え方も価値観も、性質ですら違いすぎるもの。それをあなたは容易く成し遂げてしまった」
炎が形を変えていく。二つに割れ、翼へと変化すると、空高くへと舞い上がり、パンッと弾けた。花びらのような火花が散り、溶け消えた。
「<印無し>ってみんなあなたのようなのかしらね。わたくしたちのように魂に刻み込まれている部分がないから、自由なのかしら。わたくしはどうあがいても、あなたのようになれないわ」
「わたくし……いいえ、わたしはただ、ファン・リー・ツェイ姫の喜ぶ顔が見たかったんです」
「わたくしの……?」
「わたしは、みんなに認められたい一心でファン・リー・ツェイ姫をもてなしていました。でも、それって自己満足ですよね。水の領の素晴らしさを知ってもらおうってそればかり……。だって、水の領のことを深く知れば、虜にならないはずがないって」
シュリンは、くすりと笑った。
「だから、一番大切なことを忘れていたんです」
「一番大切なこと?」
「はい。相手を喜ばせたいって気持ちです」
自分の願いを叶えるために相手を喜ばせようとしていた。
けれど、それでは駄目なのだ。
ファン・リー・ツェイの心に届けるには、本気でぶつからないと。
シュリンはこの宴を通して、火の領の魅力をみんなに知って欲しかった。火は、憎むものではなく、共に生きるものだと……。
そしてファン・リー・ツェイにも知って欲しかった。水は、彼女に仇をなすものではなく、優しく包み込むのだと。
二つが混じり合ったとき、そこには新しい未来が広がるのだと気づいて欲しかった。
「わたくしはあなたに嫌な態度ばかりとっていたのに……。蔑んでいたのよ? どうしてそんな相手に優しくできるの?」
「泣いている人を放っておけません。それに、ファン・リー・ツェイ姫は十分反省したでしょ?」
「……っ」
「わたし、ファン・リー・ツェイ姫に憧れていたんです」
「わたくしに……?」
「ファン・リー・ツェイ姫はわたしを羨んでいたけれど、わたしはあなたが羨ましかった。火王主の一の姫として堂々としていて、綺麗で……わたしにないものばかり持っていて。もし、わたしが<印無し>じゃなかったら、あなたのようになれたのかなって」
「わたくしはただ虚勢を張っていただけよ。苛立ちを周囲の者にぶつけて……こんなわたくしが姫として相応しいものですか」
「そうでしょうか」
これまでの振る舞いを悔いるように俯くファン・リー・ツェイに、シュリンが続けて言った。
「ファン・リー・ツェイ姫が閉じこもってしまったとき、あなたを心配していた者がどれほどいたか」
「うそよ!」
「嘘ではありません。瞳が曇っていたら見えるものも見えなくなってしまいます。ファン・リー・ツェイ姫は、愛されているわ。だからもう、傷つかないで」
「……っ、そ、んな……」
それでもファン・リー・ツェイが否定しようとしたそのとき、重々しい声が割って入ってきた。
「リー・ツェイ」
「! おとう、さま……」
ファン・リー・ツェイが呆然と呟いた。
彼女の視線の先には、ここにいるはずのない火王主が佇んでいたのだ。
その後ろには、水王主がいた。火王主の来訪を事前に知っていたのだろうか。
シュリンの物言いたげな視線に気づいたのか、水王主は片目を瞑って微笑んだ。
(やっぱり、父上には敵わない)
これが、水王主なのだろう。
シュリンが一人で奮闘していると思ったら、実は掌で踊らされていたのかもしれない。
それがちっとも嫌じゃないのだから仕方ない。
火王主はつかつかと近寄ってくると、ファン・リー・ツェイの頬を思い切り叩いた。
「馬鹿者ッ」
「……っ!」
赤くなった頬を押さえたファン・リー・ツェイの目から、止まったはずの涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「水王主からすべて聞いた。火の守精一族によくも泥を塗ってくれたな!」
ごめんなさい、としゃくりをあげながら謝るファン・リー・ツェイを火王主は、簡単に許しはしなかった。
全身に炎をまとっているかのように怒りをあらわにする火王主に、縮こまって許しを請うファン・リー・ツェイが憐れに思えた。思わず駆け出そうとしたところを止められた。
「父上……」
「これは、私たちが口を出していい問題ではありませんよ」
「! はい……」
「いい子ですね」
水王主は、優しくシュリンの頭を撫でた。
嬉しそうにはにかんだシュリンがファン・リー・ツェイたちに視線を戻すと、ちょうど火王主と目が合った。
「迷惑をかけたな、すまない」
「い、いえ……」
水王主より体格がいいためか、どこか威圧的だ。
鋭い眼光とまとう雰囲気が、火の守精らしい苛烈さを含んでいた。
「……大きくなったな」
「え?」
感慨深く呟かれ、シュリンはぱちくりと瞬いた。彼の言葉が理解できなかったのだ。まるで一度、顔を合わせたことがあるような物言いだった。
シュリンが問い返そうとしたが、彼の視線はシュリンから水王主へと移っていた。
「私の自慢の子ですよ」
「そうか。……そうだろうな」
薄く笑った火王主は、腰を屈めるとシュリンと視線を合わせた。
「一の姫よ、そなたは今、幸せか?」
唐突な問いかけに、一瞬目を丸くしたシュリンは、次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「はい!」
「よき、宴であった」
「……っ、ありがとうございますっ」
まさか火王主自らお褒めの言葉をいただくとは思ってもみなかった。
シュリンは、照れたように頬を染め、頭を下げた。
「――水王主よ、我が領の者がしでかした不始末は、こちらで対処させてくれ」
「ええ、いいですよ」
「恩に着る」
火王主は、ファン・リー・ツェイたちを引き連れて去っていった。
その後ろ姿を心配そうに見つめていると、水王主がぽんぽんとシュリンの頭を叩いた。
「さあ、おまえはもう寝なさい。いろいろ遭ったようだからね」
「父上……あの、」
水王主はすべてを知っているのかもしれない。
シュリンが遅れた理由を。
「判断はおまえに任せましょう。おまえはもう、私の庇護がなくとも大丈夫そうだからね」
「父上……」
「よく、頑張りました」
「……っ」
目頭が熱くなった。
嬉しくて、泣きたくなる。
やっぱり父上はすごい。
たった一言で、こんなにも心は躍るのだから。
なんだか、この言葉だけで、すべての努力が報われた気がした。
くしゃりと顔を歪めたシュリンは、ホウレンに抱きついた。
「おやおや、小さな子供のようですね」
からかい混じりにそう言ったホウレンは、シュリンを抱き上げた。
「もう、おまえを嘲る者はいないでしょう。この瞬間から、おまえは正式に守精の姫として迎え入れられたのですよ」
「!」
「しっかりと公務に励みなさい」
「はい……はいっ」
声が震えた。
認め、られたのだ。
五人の兄たちが、祝福するように七色に輝く雨を降らせた。
「愛しい我らの末姫に、輝かしい未来を!」
一糸乱れぬ五つの声が、響き渡った。
それをシュリンは、どこか夢見心地に聞いていた。




