そのニ
宴の準備のため、忙しく駆け回っていたシュリンは、ふと中殿に来ると足を止めた。
『ふぇ……っ、うぁ……っぅ』
声を殺し、泣きじゃくる小さな子供の姿が、物陰に浮かぶようだった。
『泣かないで、ボクらがいるから』
『母上の代わりになるには、オレたちでは役不足かも知れない』
『でも、これからは五人の兄がおまえを護ってあげる』
『大切な妹姫が、もう傷つかないように……。寂しい思いをしないように』
『だから、泣かないで』
優しく抱きしめてくれた母を求めて泣くシュリンに、五人の兄たちがそう言って慰めてくれた。
(懐かしい……)
シュリンは、破顔した。
今はもう、兄弟が揃うことは難しくなってしまったが、昔はこうして駆けつけては慰めてくれたものだ。
悲しいとき。
寂しいとき。
忙しい父に代わり、兄たちはシュリンの様子を毎日のように見に来てくれた。自分たちだって、勉強などで忙しいはずなのに。
(ファン・リー・ツェイ姫は、弟君とあたたかい思い出はあるのかしら……)
眉宇が曇る。
ファン・リー・ツェイの境遇を考えると、自分のことのように胸が痛んだ。
「――ぼんやりと物思いにふけっていると風邪を引く。日が傾き、空気も冷えてきたからね」
ふんわりと肩に掛けられた衣。
慌てて顔を上げたシュリンは、柔らかく微笑む二の君と目があった。
「今日の公務は終えられたのですか?」
「ああ、小姫がなにやら楽しいことをすると聞いてね、早めに終わらせてしまったよ」
くすくすと楽しげに話す二の君に、シュリンは心の中で迷惑をかけられた人たちに謝った。
彼の気まぐれさは、今回が初めてではない。
生真面目な長兄とは違い、二の君は何事も自分を優先させる。もちろん守精がそんな不真面目な態度を取ることは本来なら許されるものではないが、要領の良い彼は角を立てることなく意志を貫き通してしまうのだ。
こういうところは、ホウレンと似ているかもしれない。
「それで、小姫の美しい瞳を曇らせている原因はなに? わたしには言えないことかな」
「……ファン・リー・ツェイ姫のことを考えておりました」
「可愛い小姫を悩ますなんて、罪作りな方だね」
すっと細められた双眸に、一瞬剣呑な光が宿る。
「兄君様は、わたしを憎んでいましたか?」
「小姫? また、唐突だね」
「一心に注がれる愛情を疑ったことはありません。けれど、兄君様方もわたしが守精になったことにより、悩んでいたのかと思ったのです」
思わず顔を伏せてしまったシュリンの頬に手をやった二の君は、そっと顔を上げさせた。そのままこつんと、額をつき合わせた。
「わたしは愚かで、残酷な子供だったのだよ。小姫が傷ついているのに気づかないふりをしていた。憎んでなどいない。ただ、どう接してよいのかわからなかったのだよ」
「兄君様……」
「今でも悔いることがある。近くで見守っていれば、小姫の成長をこの目で見ることができたというのにね……。そうしたら、もう少し子供らしく生きていけたのに。小姫の無邪気さを奪ってしまったのはきっとわたしたちだろうね。いつまで経っても甘え方が不器用で、人に頼ろうとはしない。しっかりとその足で歩いていける小姫はとても眩しいけれど、少し寂しいね」
「寂しいのですか?」
「おかしいね。小姫は一人前となったのに、こんなことを言うなんて。ふふ、わたしのほうが妹離れできていないのかもしれないね」
「わたしはまだまだ子供です。兄君様方に守られて、愛されて……もし、兄君様方に、わたし以上に愛する方ができても、わたしはこの場所を渡したくありません。ね? わたし、兄君様よりずっと欲張りで、わがままなの」
「そんなに可愛いわがままなら、いくらでも。きっと、可愛い小姫以上に愛する人なんて見つからないのだからね」
顔を離した二の君は、シュリンの額に唇を落とした。
「それで、小姫。わたしはなにを手伝えばいい?」
「ええっと――……」
シュリンが指示を出そうとしたそのとき、微かに葉がこすれ合う音が聞こえた。風の悪戯とは違う物音に、シュリンが訝しげな顔をするよりも先に、二の君の表情が緊張をはらんだ。
「小姫はここにいなさい」
「はい」
いつもの優しげな兄とは違う硬質な雰囲気に、シュリンは不安を落ち着かせるようにぎゅっと胸元に手をやった。
幼少のみぎりより、一通りの武芸を習っている二の君は、龍軍でも尖鋭だけが入隊することが許された近衛師隊にも負けると劣らない実力の持ち主である。見た目の穏やかさから騙される者は多いが、兄弟の中で武神の申し子ともてはやされた長兄の次に強いのが彼だ。
「……ッ、小姫!」
二の君の焦った声が空気を切り裂く。
茂った草木の中から、影が飛び出してきた。影はやすやすと二の君を飛び越えると、シュリンに向かってきた。
二の君が氷の矢を投げつけようとするが、一瞬、躊躇したように止まった。目標を誤れば、シュリンに大怪我をさせてしまうと思ったのだろう。
けれどその迷いが、影につけいる隙を与えた。
後ろから抱き込まれたシュリンは、抜け出すこともできなかった。
「大人しくしていれば、危害は加えません」
くぐもって聞こえる声。
ふと見上げれば、全身が黒い布で覆われていた。唯一見えるのは、涼やかな目元だけ。
彼が、火を放った従僕なのだろうか?
人を殺したわりに、あまり恐ろしいと感じないのはなぜだろう。
「……怪我を、しているの?」
微かに漂う血の匂い。
よくよく見れば、赤茶の目は苦しげな色が宿っていた。もしかしたら立っているのも辛いのかもしれない。
「武官を殺めたのは、俺ではありません」
「……ぇ」
「どうか、」
わが主をお助けください、と告げた男の体がゆっくりと傾いだ。
「兄君様!」
シュリン一人では支えきれず、兄を呼ぶと弾かれたように駆け寄ってきた。
けれど二の君はすげなく男を足蹴にすると、シュリンから遠ざけてしまう。
武官を呼ぼうとした二の君を慌てて止める。
男が告げた言葉をそのまま伝えると、顔が険しくなった。
「小姫、それが事実であるならば、困ったことになるね」
狂言かもしれないが、シュリンには男が真実を語っているように思えた。
だが、鵜呑みにするには物的証拠がない。
このまま武官に突き出せば、ろくな取り調べもないまま死罪を宣告されるのがオチだろう。
「兄君様、この者の身柄はわたしが預かります」
「なにを馬鹿なことを……」
「危険は承知の上です。わたしはきっと、火の種族の者がやったと思いたくないだけなんです。だから兄君様、わたしに力をお貸し下さい」
「困った子だ……。自ら危ない橋を渡ろうとする」
「兄君様……」
「けれど、小姫の頼みをわたしが断れるはずもないだろう?」
パッと顔を輝かすシュリンを愛おしげに見つめた二の君は、気を失っている男を軽々と肩に担いだ。




