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第七章 怪我人

 群青の間で、主頭三補佐官と父である水王主と対したシュリンは、ごくりと唾を呑み込んだ。

 気分を落ち着けるようにゆっくりと息を吸い込み吐き出すと、厳しい面持ちの主頭三補佐官を見上げた。


「――シュリン、自分がなにを言っているかちゃんとわかっているね?」

「はい。この非常時に、明日の宴に招くのがどんなに愚かなことか重々承知しております」

「では、なぜ……」

「わたくしは、このまま終わりたくありません」


 いつになく強い眼差しのシュリンに、主頭三補佐官が驚いたように肩を揺らした。


「特にキリョム征太師をはじめ、武官の皆様方は、犯人の討伐にお忙しいことでしょう」


 とたん、キリョム征太師が殺気立つのを肌で感じたシュリンは、息を詰めた。

 部下である武官を殺されたキリョム征太師の怒りはすさまじい。

 さすがに和を重んじるサイハ導太師は、底の見えない笑みを貼り付けているが、スギョク宰太師は水王主の前だというのに火の領に対する嫌悪感をむき出しにしていた。


「ですが、これ以上いがみ合ってどうなさいます。互いに心を開かなければ、また昔のように両領で争いが起こります」


 シュリンは悲しげに目を曇らせた。

 すでに滞在するファン・リー・ツェイ付きの者たちには、嫌がらせが相次いでいるという。引きこもっているファン・リー・ツェイに手をあげる者はいないが、寝所の周辺は大変みたいだ。火の領の者が警護にあたっているというが、彼らに向かって石を投げつけたり、敷地内にゴミをまいたりと酷い有様らしい。

 すれ違い様に罵倒されたり、足を引っかけられることもままあるという。

 それは、周知の事実だというのに、サイハ導太師は、動こうとしない。


 いくらファン・リー・ツェイ側に非があるとはいえ、このことが火の領にばれたらただではすまないだろう。

 水の種族の血がそうさせるのか、一度噴出した火の種族に対する激情はかき消すことができないらしい。それを象徴するように、ファン・リー・ツェイたちを擁護する声は、ひとつもない。


「……ッ、<印無し>だから軽々しくそのような口が叩けるのだっ。水の民ならば、このような恥辱を前に、黙っているなどできるか!」

「キリョム征太師、水王主の御前ですよ」


 サイハ導太師がそうたしなめると、ハッとしたように顔を強ばらせたキリョム征太師が、頭を下げて謝った。


「確かに、わたくしにはわかりません」


 シュリンは静かに彼らを見つめた。

 なぜ、こんなにも興奮しているのか理解に苦しんだ。

 それは多分、シュリンが真に水の種族ではないからだろう。


「けれど、憎しみがなにも生まないのを知っています。水龍様がこの地に舞い降り、神が地を分けたのも、それをご存じだからです。母なる地を血で穢し、争い続ける者たちの目を覚まさせるために神が配慮して下さったのに、また同じ事を繰り返すおつもりですか?」

「……ッ!」

「今の皆様方は、嵐のごとく荒ぶり、地面に打ち付ける雨のようです。氾濫した大河のように、すべてを奪い尽くすのならば、わたくしも黙ってはいられません。今はまだ守精の一族として正式に認められない若輩者ではありますが、<印無し>のわたくしだけが正常な判断を持っているのならば、真っ向から対立させていただきます」

「主頭三補佐官に向かってなんという口の利きようか! いくら一の姫様でも、許されることではありませんぞ」


 顔を真っ赤にしたスギョク宰太師がいきり立つが、シュリンは冷静であった。


(わたしが感情的になれば、事態は好転しないわ)


 ここが正念場とばかりに、顔を引き締めた。


「――水王主のお考えをお聞かせ下さい」


 シュリンは、上座にいるホウレンを見つめた。先ほどからちっとも口を挟んでこないのは、シュリンの意見を尊重しているのか、それとも口論を楽しんでいるのだろうか。

 柔らかな眼差しからは、なにも読み取れなかった。


「そうだね……。主頭三補佐官、そなたたちの意見を聞こう」

「はっ、恐れながら、一の姫のおっしゃることは、荒唐無稽であり、茶番に過ぎませぬ。我々が受け継いできた水の種族としての気質を脅かすものであります。このまま引き下がっては、武将の名折れ。初代征太師に顔向けできません」

「ワシもキリョムの意見に賛同いたしますぞ。水王主、この件を野放しにしておけば、必ず火の種族は図に乗り、この地を攻めてきましょう。水龍がお眠りあそばしている今、水の領を守ることができるのはワシらです。今こそ、積年の恨みを晴らしてくれましょう」


 覚悟を決める二人とは対照的に、サイハ導太師は、うむ、と小さく唸った。


「では、わたしは、一の姫側につきましょうか。一の姫の考え方は一理あります。わたしたちは感情に流され、少し熱くなりすぎたのかもしれませんねぇ」

「な…っ! サイハ導太師!?」

「なにを!」


 顔色を変える二人を愉快そうに見つめたサイハ導太師は、ゆるりと小首を傾げた。


「なにか問題でも? わたしはわたしの意見を述べたまで。そうそう、キリョム征太師。水の民は、穏やかに流れる大河のような広い心根を持っていると思いましたが? 怒りに駆られ、目先のことだけに心を奪われるとは情けない……。あなた方のほうこそ、この地を穢そうとした火の民のようではありませんか。こんな簡単なことを一の姫に教わるなど、言語道断。恥を知りなさい」


 サイハ導太師がそう一喝すると、ぐっと二人が押し黙った。

 サイハ導太師は、水王主に向かって深々と頭を下げた。


「水王主には、見苦しいところをお見せいたしました。一の姫のおかげで、目が覚めました。どうやら、わたしたちはくだらない議論をしていたようですね。もう少しで、神や初代のお心を忘れ、平和に保たれてきたこの地を再び血に染めるという、大罪を犯すところでした」

「スギョク宰太師、キリョム征太師。サイハ導太師の言葉が、そなたらの総意でよろしいですね。……では、シュリン。主頭三補佐官の同意を得たのだから、おまえの好きになさい」

「は、はい! ありがとうございますっ」

「下がってよろしい」


 そうホウレンが告げると、シュリンは頭を下げて部屋を後にした。


「そなたが非を認めるなど、珍しいこともあるものですね」


 ホウレンが笑みを含ませそう言うと、サイハ導太師の口元に苦い笑みが刻まれた。


「導太師の重みを改めて実感いたしました。わたしは少々、…いえ、だいぶ一の姫のことを侮っていたようです。守られ、震えているばかりの姫かと思えば、なかなか肝が据わっていらっしゃる。なにより、わたしたちとは違った観点をお持ちだ。――<印無し>だからと煙たがっていた自分を恥じますよ。一の姫が守精として立派に公務をなされば、水の領はますます繁栄しましょう」


 そう太鼓判を押すと、ホウレンは我がことのように喜んだのだった。

 調和を重んじ、平等を説くサイハ導太師の信を得るのは、実はなによりも難しいことだった。彼がシュリンの味方につけば、ほかの二人も異を唱えることはできなくなるだろう。



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