そのニ
「……っ」
ファン・リー・ツェイの体が小さく震えた。
シュリンは、膝をつくと頭を下げた。
「わたしに与えられた任は、ファン・リー・ツェイ姫をおもてなしすること。けれど、今のファン・リー・ツェイ姫の顔は楽しそうではありません。わたしはその憂いを取り除きたいのです。もし、武官の死となにか関わりがあるのならば、お話し下さいませ」
「だって!」
髪を振り乱したファン・リー・ツェイは、シュリンを睨めつけた。
「あんたが悪いのよ!」
父親や兄たちに愛されていたから、と。
そうシュリンを詰ったファン・リー・ツェイは、しばらくすると肩から力を抜いて脇息にもたれかかった。
「違う……。お父様が、……お父様が、水の種族を憎んでいらしたから、わたくしは、」
鼻を啜ったファン・リー・ツェイは、シュリンは、とつとつと語り出した。
今回の訪領を決めたのも父親に関心を持ってもらいたかったかららしい。
水の種族を困らせれば、父親が喜ぶと思って。
「あんたが羨ましかったの。お父様やお兄様から愛されているあんたが……。わたくしが望んでも決して手に入らないものを持っているあんたが羨ましくて、憎かった……っ」
でも、と続けた。
「人を殺すなんて……。そんなこと命じていなかったわ! 空き家に火を放ち、ただ混乱させるだけだったのに、しだいに事が大きくなって……恐ろしくて……。どうしていいのかわからなくて」
武官の死を知ってはじめて、重罪を犯していたのだと気づいたのだという。
黙って話を聞いていたシュリンは、すっくと立ち上がった。自分はどうなるのだろうと恐怖に打ち震えるファン・リー・ツェイをそっと抱きしめた。
「一人でため込んでいるのはつらかったでしょうね」
「お、怒らないの? わたくしのせいで……」
「反省しているのならば、わたしはなにも言いません。ファン・リー・ツェイ姫も苦しんだもの。もちろん、しでかした事柄は、決して許されるものではないでしょうけれど、今はまず、犯人を捕らえるのが先です」
とたん、わあぁぁぁぁっと泣き出したファン・リー・ツェイをシュリンは落ち着くまでずっと抱きしめていた。
にわかに宮殿内が慌ただしくなった。
シュリンが水王主に事の経緯を説明すると、すぐさま捕獲の命が下ったのだ。人の命を奪ったことについてファン・リー・ツェイと口論になり、姿を消したという従僕は、今もどこかで身を潜めていることだろう。
しかし、水の領で火の種族の印を持つ者を見つけ出すことは、そう難しくないはず。
キリョム征太師が総指揮を執り、守警護隊をはじめ龍軍も捜索に加わるという。捕まるのは時間の問題だ。
「……困ったことになったわ」
「自業自得です」
ファン・リー・ツェイの護衛から解放されたフェイが、鼻を鳴らした。
「どうしてそんな意地の悪いことを言うの?」
フェイを咎めるように睨むと、彼は呆れたように肩をすくめた。
「まったく、私の主人は心が広すぎる。火の領の姫から受けた心ない仕打ちをお忘れですか。たとえ貴女が許しても、私は絶対に許しません。――貴女はときおり残酷だ」
「フェイ……?」
「火の領の姫から暴言を浴びせられたのをただ黙って見つめることしかできなかった辛さを、貴女はしっかり理解していますか?」
「ぇ?」
「私が、ここ数日どんな思いで過ごしてきたのか、貴女にはきっとわからないのでしょうね。貴女が傷ついているとわかっているのに、駆け寄ることも、慰めることもできなかった……。私は、それが酷く腹立たしいんです。なのに、貴女ときたら……。まあ、それが美点なのでしょうけれどね」
苦笑を浮かべたフェイは、目を丸くしているシュリンの顔を覗き込んだ。
「……ふふっ、フェイったら、まるで、三の兄君様のようね。そんなに想われると、なんだか、気恥ずかしくなるわ」
「あんな女たらしと一緒にしないで下さい。女とみれば、年齢関係なく口説かれる三の君とは違い、私は、貴女にしかこの身も、心も捧げませんよ」
しれっとそう言い放つフェイに、シュリンは頬を染めると、小さく唸った。
「やっぱり、三の兄君様のようだわ」
まだ顔の赤いまま、咳払いをしたシュリンは、話を変えるように言った。
「そ、それより、現状をどうにかしないといけないわ」
「なにをなさるおつもりです」
「だって、フェイ。このままでは両領の間に深い禍根を残すことになるわ。父上は、火の領との貿易を再開させることをお望みだというのに……。火の領のすべてを排除しようという動きが一部にあるんでしょう?」
「まったく、貴女はどこから情報を仕入れてくるのやら」
「わたしね、ファン・リー・ツェイ姫に笑顔になっていただきたいの。今回の騒動で、ファン・リー・ツェイ姫はすっかり気を落としてしまわれたでしょ。わたしね、思うのよ。自分のことしか考えていなかったのかもって」
シュリンは、そっと睫を伏せた。
ファン・リー・ツェイに楽しんでもらいたいと思っていたのは、自分自身のためであった。居場所を確保するために、その一心でいろいろ考えていた。
けれど今は違う。
笑顔を失ってしまったファン・リー・ツェイに、心から笑って欲しいと思うのだ。
両領の思惑や複雑な過去など、どうでもいい。
まして、水の領の素晴らしさをファン・リー・ツェイに知ってもらいたいとも思わなかった。
「水には水の素晴らしさ、火には火の素晴らしさがある。それって、比較してはいけないのよね。こういう考え方はきっとわたしが<印無し>だからかしら」
「――私が少しばかり離れている間に、成長なさいましたね」
フェイは、目を見張ると、次の瞬間、それは美しく微笑んだ。
「わたしはきっと、…ううん、絶対、自分だけ<印無し>であることを辛いと思うことがいっぱいあると思う。守精の姫であるのに、火すら消してあげられない不甲斐なさに泣くこともあると思うわ。でも、それを含めてわたしだから。こんなわたしでも愛してくれる人たちがいるから、わたしは強くなれる。悩んで、迷って、傷ついて……それでも、わたしはわたしを愛するわ。<印無し>だからという理由で弱音を吐きたくない。だってわたしは、父上に選ばれた誇り高い守精の一の姫だから」
きらきらと水色の双眸を輝かせるシュリンを眩しげに見やったフェイは、静かにその場に跪き、忠誠を誓うかのように長い裾に口づけを落とした。
「では、私は持てうるすべての力を注ぎ、貴女を導き、支えましょう」




