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第六章 想い


「ふぅ……」


 (しゃ)のとばりが静かに下ろされると、シュリンは安堵したように肩を落とした。

 突然、法官に呼び出され、夜中に出歩いていたかとかいろいろと質問されたのだ。もちろん否定したが、法官の中にもシュリンを怪しむ者はいたようで、空気はすこぶる悪かった。

 サイハ導太師が姿を見せなかったということは、まだシュリンを犯人とする決め手がなかったからだろう。


(わたしは首謀者じゃないのだから、そんな証拠なんてあるはずないのに……)


 法官は、執拗だった。

 もし守精の姫でなかったら、拷問にかけられていたかもしれない。


「シュリン姫様……」


 付き添っていた女官が不安そうにシュリンの名を呼んだ。


「おまえたちには、心配をかけますね」

「い、いいえっ、そのような……っ」


 年若い女官は、辛そうに顔を歪めた。

 主人が今、どのような立場にあるのか理解しているのだろう。


「わ、わたくしは、シュリン姫様の晴れ姿をこの目にすることを楽しみにしております」


 真剣な顔でそう言う女官に、シュリンは微かに目を見開いた。


「そ、うね……。うん、ありがとう」


 はにかんだ笑みを向けると、彼女もホッとしたように表情を和らげた。

 きっとシュリン以上に彼女たちも苦労をしているはずだ。未だに、官吏やほかの内事方から陰口や嫌がらせを受けているだろう。

 それでも異動を願わず、辞めることもなく、こうしてシュリンに付き従ってくれる。

 忠誠を誓ってくれる。

 それがどんなにすごいことか。

 昔、両親以外の愛情を知らなかった頃、<印無し>であるシュリンを拒絶することなく、慈しみ育ててくれたのはこの女官たちだけだ。


(わたしは、恵まれている)


 多くの者から疎まれているが、それでもこうして好いてくれる者はちゃんといるのだ。

 だからこそ余計に、この居場所をなくしたくないと思う。


(ファン・リー・ツェイ姫が今回の件に関与しているか、わたしはちゃんと確かめないといけない)


 もう、これ以上、犠牲者は出したくないのだ。


 でも、それでも――。


 ファン・リー・ツェイのことを信じたいと思う。

 火の種族が関わっていることが明らかでも、彼女のことを疑いたくないと思うのだ。


(そう言ったら、きっとフェイに、甘いと言われちゃうのかな)


 シュリンの口元に苦い笑みが浮かぶ。

 甘さは、時に自分の首を絞めることになる。

 それがわかっていても、シュリンは疑ってかかりたくなかった。

 年若い女官を連れ、ファン・リー・ツェイの寝所へやって来たシュリンは、昨日と雰囲気が違うのに気づいて眉を寄せた。

 どこか重々しく、緊迫感が漂っているように見える。

 シュリンの姿に気づいたファン・リー・ツェイ付きの女官が、慌てたように近寄ってきた。


「我が主人は、臥せっておいでです。どうかこれ以上はご遠慮下さいませ」

「守精の一の姫として、拝謁を賜りたく存じます」


 シュリンが凛として言い放つと、女官の顔が強ばった。

 今更ながらにシュリンの地位を思い出したような顔つきだ。

 それでも主人の命令のほうが大事と思ったのか、困惑の色を深める彼女にシュリンは続けて言った。


「このままファン・リー・ツェイ姫が雲隠れしている状態では、現状はなにも解決しません」

「……!」

「大丈夫。悪いようにはしません」


 シュリンがにっこりと微笑むと、女官の表情が少しだけ和らいだが、すぐに思い詰めたような顔になる。


「どうか……っ」


 女官はその場で膝をつくと、頭を下げた。額を床につける勢いだった。


「どうか、我が主人――ファン・リー・ツェイ姫様をお救い下さいませ……!」


 そこには、万感の思いがこめられていた。

 きっと、口にするのもかなりの勇気がいったはずだ。

 微かに震える声音が、それを物語っていた。

 シュリンの胸がじんっと熱くなった。彼女の姿が、どこか先ほどの年若い女官と重なって見えたのだ。


「ファン・リー・ツェイ姫は果報者ね。あなたたちにこんなにも慕われて。ええ、約束します。わたしの力でどこまでファン・リー・ツェイ姫の憂いを取り除けるかわからないけれど、必ず救ってみせるわ」


 シュリンが力強く宣言すると、女官は安堵したように、ほろほろと涙を流した。

 ファン・リー・ツェイのことをずっと案じていたのだろう。緊張の糸が切れたようにむせび泣く彼女に、絹の手巾を渡すと、礼を言ってから受け取った。

 シュリン付きの年若い女官にあとを任せると、シュリンは寝所へと足を踏み入れた。とたん、すすり泣く声が聞こえてきた。


「ファン・リー・ツェイ姫……?」


 脇息に腕を乗せ、顔を伏せて泣きじゃくるファン・リー・ツェイがそこにいた。

 いつもの勝ち気さが嘘のように弱々しいその姿に、シュリンが思わず駆け寄った。


「ファン・リー・ツェイ姫!」


 シュリンが呼びかけると、ようやくシュリンの存在に気づいたらしいファン・リー・ツェイが顔を上げた。涙に濡れた顔が、驚愕と怒りに染まる。


「な、なぜ……っ」


 しゃくりを上げながらシュリンを睨みつけてくるが、潤んだ双眸で睨まれても怖くない。


「ファン・リー・ツェイ姫にお話しがあって参りました」


 シュリンは袖で、そっとファン・リー・ツェイの涙を拭ってやった。


「瞼が腫れてしまうわ。冷やさないとね」

「……っ」


 シュリンはいったん下がると、外で待っていた自分の女官に指示を出した。

 それからしばらくして現れた彼女の手には、水に濡らした手巾と茶器の乗った盆があった。

 礼を言って受け取ったシュリンは、ファン・リー・ツェイの元に戻ると、少し落ち着いたらしい彼女に冷たい手巾を手渡した。


「冷やしたほうがいいですよ。みんな心配するもの」

「いらないわ……っ、こんなもの!」


 払いのけられた手巾が床へと落ちた。

 それを苦笑しながら拾ったシュリンは、盆の上へと載せ、仕方なく陶器の器にお茶を注いだ。


「さ、どうぞ。落ち着きますよ」

「マズいお茶なんか飲めないわ」


 つんっとそっぽを向くファン・リー・ツェイ。

 まるで幼子がだだをこねているような姿に、いけないと思いつつも、ついシュリンは笑ってしまった。

 刹那、カッと頬に朱を走らせたファン・リー・ツェイが声を荒らげる。


「なによッ!」

「ファン・リー・ツェイ姫は、とても感情が豊かだなと思ったのです」

「わたくしは……っ」


 きゅっと唇を噛んだファン・リー・ツェイは、俯いた。

 なにかを考えているようでもあった。


「あんたはどうして家族を愛していられるの!?」

「え?」


 思いも寄らない問いかけに、シュリンが小首を傾げた。


「嫌われていたのに、与えられる愛情を疑いもせず信じられるなんて、ずいぶん浮かれた頭をしているのね」

「――過ちは決して消えることのない傷となって、その人の心の奥底に残り続けるでしょう。けれど、その過ちを認め、償いたいと望むのならば、わたしは受け入れます」


 シュリンは、真剣な眼差しでファン・リー・ツェイを見つめた。


「わたしの過去を聞いたんですね。わたしは、兄君様方にされた仕打ちを悲しいとは思えど、憎いとは思いません」

「なぜ?」

「だって、今は幸せですから」


 シュリンの顔が綻んだ。


「たとえその愛情が罪悪感からくるものだとしても、わたしは嬉しい。わたしを心の底から愛して、慈しんで下さる兄君様方のことが、大好きなんです。大切だと思える『今』があるならば、『過去』に起こった真実など、些細なことです。『過去』があったからこそ、『今』のわたしたちがいる」

「そんな綺麗事! どうして……っ、ずるい。<印無し>のくせに、わたくしより幸せなんて許せない!」


 ファン・リー・ツェイは、床に転がっていた扇をシュリンに投げつけた。とんっと胸にあたった扇が、床の上に落ちた。


「わたくしが欲しかったものをあんたは持っている。なぜ…、なぜッ。どうしてお父様はわたくしを愛して下さらないのっ。どう、して……っ」


 だんっと床を拳で叩き、泣き崩れるファン・リー・ツェイ。


 ああ、そうか。

 感情の不安定さは家族との不和が原因だったのだ。


「ファン・リー・ツェイ姫は、御父君にその思いを伝えました?」

「……いいえ。わたくしが言ったところでなにが変わるの。火の領では、第一子ではなく、血筋が守精に濃い者が次期火王主として選ばれるのよ。同腹というだけで、弟はお父様から目をかけられ、家臣から敬われ、みんなに愛される……っ。そこは、わたくしの場所だったのに。わたくし、だけの……」

「弟君が憎いのですか?」

「憎いわ!」


 間髪入れず返したファン・リー・ツェイは、でも、愛しているの、と苦しげに呟いた。

 どんなに憎くても肉親の愛情は消えなかったのだろう。


「ちゃんと、言葉にしないと伝わりません。なんのために、人間には口があるのです? 想いをしっかりと伝えるためではありませんか。――物心ついたときから、わたしの周りは悪意であふれていました。父上と母上、それに数人の女官がわたしに話しかけてくれるだけで、その頃は五人も兄君様がいるということもよくわかっていなかった」


 シュリンは、昔を懐かしむように言葉を紡いだ。


「兄君様がいると知ったとき、わたしはとても嬉しかったのです。なにをして遊んでもらおうとかそればかり。お会いするのが楽しみでしかたなかった……」


 けれど、彼らはそうではなかったのだ。

 いつまで経っても会えない兄たち。

 父や母にいつ会えるのかと訊ねては、困らせていた。


「そんなとき、大切な母上が流行病で命を落として、わたしも同じ病で死の淵をさまよいました」


 あのときの光景は一生忘れないだろう。

 目覚めたとき、そこには泣きはらした父と兄たちの姿があった。

 貴妃を亡くし、シュリンまで逝ってしまうと思ったらしい。


「わたしは、ようやく姿を見せてくれた兄君様方に会えたのが嬉しくて、伝えたかった想いのたけを全部吐き出しました。兄君様方は、それまでの冷たい仕打ちを謝って下さいました。それからは、まるで離れていたのが嘘のように兄君様方と一緒に過ごしたんです。母上を亡くしたわたしの心に空いた穴を埋めるように、兄君様方は優しく接して下さいました」


 だから、とシュリンは続ける。


「わたしは、わたしを愛して下さるみんなのために守精の一族の姫として認められたい。わたしの居場所を失いたくないのです」


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