その三
苛々と親指の爪を噛んでいたファン・リー・ツェイは、来客を告げる女官に苛立ちをぶつけた。
「通すなと命じたでしょ!」
「で、ですが……」
困惑した女官を遮るように典雅な声音が空気を震わせた。
「ああ、すまないね。わたしがどうしてもとお願いをしてしまったのですよ」
優雅に扇をあおいで中へと入ってきたのは、二の君であった。
ファン・リー・ツェイは慌てたように佇まいを正すと、礼式に則った挨拶をした。
「体調が思わしくないとお聞きしましたが?」
憂えた顔でそう尋ねる二の君は、それこそ絵に描いたような美しさであった。
彼に見惚れたように口を開けたファン・リー・ツェイは、女官に声をかけられハッと我に返ると、二の君に座るよう勧めた。
「本当に水の守精方は、仲がよくていらっしゃる」
ほほっと扇で口元を隠したファン・リー・ツェイは、笑顔を取りつくろった。
「わたくしの機嫌を損ねれば、シュリン姫は守精の一族として迎え入れられないとお聞きしましたわ。だからあなた方は、わたくしに優しく接して下さる。違います?」
けれど二の君は柔らかな笑みを浮かべたままで、その問いかけには答えなかった。
「気分が悪いわ。<印無し>など、なんの価値もないではありませんか」
顔を歪めたファン・リー・ツェイは、腹の底が黒く染まっていくのを感じていた。
シュリンのことを考えるだけで、はらわたが煮えくり返り、被った猫が剥がれ落ちていくのを感じていた。
「――シュリンが、お嫌いですか?」
「愛されるのを当然のように受け止めているあの子を好きになれというほうが無理ですわ」
苦々しく吐き捨てると、二の君は双眸を翳らせた。
「ああ、貴女は<印無し>の子がどんなに辛い目に遭っているのかご存じないのですね」
「<印無し>が忌まれるのは当然のことですわ。神から見捨てられた子供が、<印無し>となって産まれるんですもの。水王主がなぜ引き取ったのか理解に苦しみますわ。わたくしだったら、穢らわしいその存在を領地にいれようとは思いませんもの」
「わたしもね、はじめはそう思っていました」
「え?」
一瞬、聞き間違えたのかと、ファン・リー・ツェイは小首を傾げた。
そんな彼女をじっと見つめた二の君は、恥じ入るようにそっと長い睫毛を伏せた。たったそれだけの動作でも、えもいわれぬ色香が漂う。
気分を落ち着かせるように息を吐いた二の君は、幼き日々を回顧するように遠い眼差しとなった。その口から語られたのは、当時を懐かしむものではなく、後悔だけであった。
「あの子を心の底から愛していたのは、水王主と今は亡き貴妃だけですよ。わたしたち兄弟は遠巻きに眺めるだけで、あの子に触れようともしなかった」
「……」
「あの子が物心ついて、ようやく自分がほかの者とは違うことに気づいたとき、あの子がどんなに苦しんだかわかりますか? 守精の姫であるというのに、周囲の人間は、まるで虫けら同然に扱い……。水王主の目が届かないところでは、あの子は独りで過ごすしかなかったのです」
ファン・リー・ツェイが信じられないと言いたげに目を見開いた。
曇りのない澄んだ眼を持つシュリンに、そんな暗い過去があったとはだれも気づかないだろう。
現にファン・リー・ツェイも、シュリンのことを<印無し>のくせに、なに不自由なく育った小娘だと思い込んでいた。
「わたしたちは<印無し>の子の扱い方をだれも知らなかったのです。<印無し>であろうが、ただ力を持っていないというだけで普通の子と変わらないというのにね……。そんな簡単なことが、あの頃のわたしたちにはわからなかった」
「……今のあなた方を見ていると、とてもそんな過去があったとは思えませんわ」
「ええ、失いそうになってはじめて、わたしたちも小姫――シュリンがどんなにかけがえのない存在であったのか気づきましたから。きっと過去の過ちは一生消えずにわたしたちの心を蝕み続けるでしょうね。あの子を最初から受け入れていれば、あの子は辛い思いをせずにすんだかもしれないと」
「なぜ、そんなお話しをわたくしに?」
「さあ、なぜでしょうね」
ふふっと意味深な笑みを浮かべた二の君を探るように見つめていたファン・リー・ツェイがゆっくりと口を開いた。
「二の君は、亡き貴妃の同腹の子であるとお聞きしましたが、次期水王主に興味はありませんの?」
「ふふ、おかしなことをおっしゃいますね。水の領では、守精の第一子が次期水王主と定められておりますから」
「けれどっ、」
ファン・リー・ツェイは、ぎりっと歯ぎしりをした。
「いくら第一子とはいえ、守精から血筋のかけ離れた尊血の者がその地位に就くなんて……っ。悔しくありませんの?」
八の領で、血の繋がりなどなんの意味もなさない。
産まれた子は、額の印によって住む領が決まる。そして、子供を欲しがっている家庭へと連れていかれるのだ。それが、尊血の子である。
だが、ときおり。
血を分けた母親と同じ領になる場合がある。
母親が子供と暮らすことを望めば、その子は同腹の子と呼ばれ、火の領では尊血の子よりも敬われる。
母親と同じ領になる確率が低いせいか、奇跡の子とされている。
それゆえ、火の領では代々、同腹の子が火王主の座に就いてきたのだ。
「あいにくとわたしは玉座に興味はありませんので」
「そん、な……」
ファン・リー・ツェイは、呆然と呟いた。
「うそですわ……。そんなのうそです。同腹の血を引きながら、野心を持たないなんて……」
「ふふ、確かに水の領はほかと比べて特殊なのでしょうね。けれど水の種族は、血の濃さよりも実力を選びます」
「武ならば、一の君。文ならば、二の君に敵う者なしとお聞きしましたわ。能力だけならば拮抗しているというのに、第一子というだけで、一の君が次期水王主に選ばれるなんて」
「ああ、貴女は誤解していらっしゃる」
「誤解?」
意味がわからないと、ファン・リー・ツェイは眉を潜めた。
「わたしたちは、キンケイ一人に押しつけるつもりはありません。シュリンを守ろうと決めたときからね、わたしたちは同志になったのです」
くすくすと笑う二の君の表情は、どこまでも穏やかだった。静かにたゆたう湖畔のように、すべてを優しく包み込んでしまう様は、同腹の子だけあって水の種族らしい気質が色濃く現れているのだろう。
「――ですから、ファン・リー・ツェイ姫。貴女がシュリンの妨げになるのならば、わたしたちも容赦はしませんよ」
笑みを消し、そう宣言した二の君に、ファン・リー・ツェイはひっと息を呑んだ。
本音はそこにあったのだろう。
顔が整っているだけに、笑顔がないだけで、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さがあった。
二の君の美しさだけに騙されては痛い目を見るだろう。
ファン・リー・ツェイははじめて、水の種族の裏の顔を見たような気がした。ときに、渦を巻き、大波となって人々に牙を剥く水の本質が、大人しいはずがなかった。
火の種族と違い、あまり表に出さないだけなのだ。
己の所行を振り返り、ファン・リー・ツェイの顔から血の気が引いていった。




