そのニ
「――……どういうこと!? ……のはず!」
「……、……」
「わたくしの……、―――よ!」
昨夜のぼやに巻き込まれていないか確認のためにファン・リー・ツェイの寝所を訪れたシュリンは、言い争う声を聞いて思わず足を止めた。
ファン・リー・ツェイと、もう一人いるようだが、扉越しからでは声が聞き取りづらい。
思わず耳をそばだてていると、背後から声が掛かった。
「我が主に、どのようなご用件でしょうか?」
「ぁ、…あの、ファン・リー・ツェイ姫の安否を……」
「申し訳ございませんが、我が主からはだれも通すなときつく命じられておりますゆえ、どうかお引き取り下さいませ」
「はい……」
後ろ髪引かれる思いで引き下がったシュリンは、来た道を戻ると憂鬱そうに双眸を翳らせた。
あの火事で、命を落とした者がいるという。
武官の一人が焼死した状態で発見されたのだ。きっと、火を消そうとしたところを反対に呑まれてしまったのだろう。
これでいよいよファン・リー・ツェイたちに対する不穏な声が、あちこちから上がりはじめた。
「一の姫様」
シュリンが思い悩んでいると、文官に呼び止められた。服装からみて、内務官吏であろうか。位の高さを示す、裾の長い衣をまとっていた。
(内務官長様がなぜ……?)
訝しげな表情に気づいたのか、内務官長がにこやかな笑みを作った。
「少し、お時間をいただいてもよろしいですかな」
「はい……」
「なに、そんなに不安な顔をなさることはありません。本来なら、わたしが介入する立場ではないのですが、一の姫様が不審な行動を取っていたと耳にしましてなぁ」
「不審……?」
「昨晩、現場近くを慌てて去っていく姫様を見たという者がおります。確か、火の手があがったときも外にいらっしゃったとか」
「ぁ……けれど、それは、影を見たからと」
「そんな言い訳がまかり通ると思いますか。宮殿の管理を任されるわたしとしては、これ以上の厄介事はごめんですぞ。……いやはや、どうしたものか。わたしとしては穏便にすませたいところですが、武官が亡くなっているからには、姫様の処遇は法官の手にゆだねるしかあるまい」
はなからシュリンの言い分など聞く気はないのだろう。
決めつけてかかる内務官長は、言葉を失うシュリンを小気味よさそうに見下ろしていた。
濁った目の奥に、シュリンに対する嫌悪がかいま見えたような気がした。
(ああ、彼はわたしを忌んでいるのね)
ようやく合点がいった。
彼は、シュリンを犯人に仕立てることで、守精の血を守ろうとしているのだ。咎人となれば、守精を名乗ることは許されなくなるだろうから。
「シュリン様、どうなさいました?」
シュリンが反論もできず唇を噛みしめていると、ファン・リー・ツェイに付き添っているはずのフェイが姿を現した。
昨夜のことといい、まるでフェイはシュリンの危機に反応して参じるようだった。
邪魔者が入ったことに、小さく舌打ちしたのは内務官長であった。
「――とても穏やかとはいいがたい空気ですね」
フェイは、目をすっと細めた。
一目でおおよそのことは把握したのだろう。
シュリンを庇うように前へと回ったフェイは、悔しげに顔を歪める内務官長を見下ろした。
「たかだか内務官長の分際で、守精の一の姫であらせられるシュリン様にお声がけするなど無礼では? その場に跪き、臣下の礼をとることもしないとは……。内務官長が聞いて呆れますね。くだらない噂話に耳を傾ける時間があるのならば、自分の醜聞の火消しに回ったらどうです」
「な、にを……」
フェイは薄く笑みを引くと、微かに青ざめる彼の耳元に口を寄せた。
「ほかの女性にうつつを抜かしたせいで、奥方に離縁を突きつけられているようですね? 家庭の不和は、出世へと大きく響きますよ。なにせ、今代の水王主は、家庭をおろそかにする者にはたいそう厳しいですからね」
「くっ」
ぎりりと奥歯を噛みしめた内務官長は、失礼すると吐き捨てると、怒り心頭のまま立ち去ろうとした。
それをシュリンが呼び止めた。
「なにか?」
刺々しく振り返る内務官長は、それまでの愛想が嘘だったようにシュリンへの苛立ちを隠そうともしなかった。
「わたしは水の守精の姫。その名を穢すようなまねはいたしません。どうぞ、それだけはお忘れなく」
シュリンが毅然と言い放つと、内務官長が驚いたように目を丸くしたが、すぐに鼻で笑うとなにも言わずに去っていった。
「シュリン様、お見事です」
にっこりと微笑んだフェイは、しっかりとやり返したシュリンを称えた。
シュリンは、ぱちぱちと瞬くと、小首を傾げた。
「どうして、ここに?」
「火の領の姫から、しばらく顔を見せるなと仰せつかったので、シュリン様の様子をお伺いに行く途中でした。あまり、寝付けなかったのでは? 宮中は、しばらく騒がしかったですし」
目元に視線を落としたフェイは、心配そうにうっすらとついたクマを見つめた。シュリンの肌は、透き通るように白いから、目立ってしまっていた。
「いくら心配とはいえ、王君方も時間帯を考えて、訪問を控えればよろしいのに」
声を低くしたフェイは、不快そうに言った。シュリン付きの女官から聞いたのだろうか。
シュリンは、くすくすと笑った。
フェイが退室したあと、「シュリンは無事か!」と、宮中にいた兄たちが代わる代わる姿を見せたのだ。部屋に飛び込んできたときの血相といったら! それは見物であった。
今にも死にそうな顔で、けれどシュリンに傷一つないことを確認すると、ほっと表情を緩めてシュリンを力いっぱい抱きしめてきた。よかったよかったと、喜びのあまりに泣き出してしまいそうだった。
火傷でも負っていたら、大変な騒ぎになっていただろう。
危ないところを救ってくれたフェイには、本当に感謝してもし足りない。
「そういえば……あのね、フェイ」
「はい」
「先ほど内務官長様が、不思議なことをおっしゃっていたんだけど」
「と、申しますと?」
「まるでわたしが火を放ったような物言いだったわ。それに、わたしが立ち去る姿を見た者がいると……。不思議なことね。行ってもいない場所で、わたしの姿を見たと証言する者がいるなんて」
「それは……」
フェイが言いにくそうに言葉尻を濁した。
きっとシュリンは知らないことを知っているのだろう。
(わたしを犯人に仕立て上げることで、喜ぶ人たちがいる。それは決して目を逸らしてはいけない真実ね)
シュリンは暗くなる気持ちを隠すように睫を伏せた。
けれど、と思う。
ここで彼らの思惑に乗ってはならない。
屈するということは、シュリンが守精の姫としての地位を失うことに繋がる。
(それだけは、駄目。こんなわたしを想ってくれる――ついてきてくれる者たちを悲しませたりしない。肩身の狭い思いをこれ以上させたくない)
すっと睫を上げたシュリンは、フェイに微笑みかけた。
「フェイ。わたしはちゃんと自分の立場を理解しているのよ? ――大丈夫。まだまだ頼りないかもしれないけど、乗り越えてみせるから」
「シュリン様……」
「だからフェイ、力をちょうだい? 困難に立ち向かう力を……」
「お望みとあれば、いくらでも」
フェイは、微かに震えるシュリンの小さな手を恭しく取ったのだった。




