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第五章 企み

 漆黒のとばりが夜空を覆い隠す頃。

 部屋から満月を眺めていたシュリンは、重いため息を吐いた。


(眠れない……)


 こうして時間ばかりが無駄に過ぎていく。

 垂れ幕がまくし上げられ、露台の奥にある庭園がよく見えていた。灯籠の明かりが、幻想的に周囲を照らし、石榴などの花を浮かび上がらせていた。

 そっと露台へ近づいたシュリンは、ほんの少しだけ冷たい風に頬を撫でられ、体を震わせた。

 虫の鳴き声も聞こえない、静まり返った空間にいると、まるでこの世には自分しかいないような錯覚を覚える。

 裸足のまま、ぼんやりと露台に佇んでいたシュリンは、木の葉のこすれる音にハッとなった。風に揺れる音とは明らかに違うざわめきに、そちらへと視線を向けると、暗闇の中、跳躍する影があった。


「……?」


 軽やかな身のこなしで、あっという間に姿を消してしまう。


(あれは……?)


 宮殿の警護にあたっている武官ではないだろう。

 武官が、シュリンの寝所の周辺に忍び込むなどありえない。

 どこから入り込んだのだろう。相次ぐ不審火を受け、ここも厳重な警備体制となっているはず。昼夜を問わず目を光らせている中、こうも容易く動けるとなると、相当な手練れだろう。


 シュリンは身を翻すと、靴を履き、闇夜に紛れるような色の外衣を羽織った。そのまま、そっと部屋を出ると薄暗い廊下を走った。

 シンッと静まり返った廊下は、冷たい空気が漂い、どこか不気味であった。

 ときおり、風の音と夜警をしている武官たちの話し声がかすかに耳を打つ。

 一の姫であるシュリンの寝所近辺には、この時間帯ともなれば人影もない。手厚く警護されているのは、水王主とその息子である王君たちだけだ。

 けれどそれが今のシュリンにはありがたかった。


(確か、この辺りに……)


 シュリンは、影が消え去った場所までやってくると辺りを見回した。

 どちらに向かったのだろう。


 西?

 東?

 それとも北だろうか。


 西側には、ファン・リー・ツェイたちが滞在している宮殿があるだろうし、細長い廊下を渡り、東側へ進めば守精一族の住む王城へと続く。

 庭園を過ぎ、政務を行う建物を越えれば、北側には、武官たちの宿舎しかない。いくつもの部屋と宮殿が回廊で繋がり、迷路のように複雑に入り組んでいるから、初めて足を踏み入れた者が、あんなに動けるはずがない。

 影の正体はわからないが、まさか守精の命を狙いに来たのだろうか?

 それとも……――。


「――そこにいるのはだれだ!?」


 そう鋭く誰何する声が聞こえた瞬間、シュリンの顔から血の気が引いた。


 見つかった!


 周囲がいっきに騒がしくなる。

 手に剣を持った武官に囲まれたシュリンは、すぐに捕らわれてしまった。松明を近づけられて顔がさらされると、ざわめきが広がった。


「一の姫様……?」

「なぜ、このような場所に……」


 と、そのとき、宮殿がにわかに騒々しくなった。


「火事だ! だれか手を貸せっ」

「こっちもだっ」

「くそっ、どうなってやがる!」


 怒号が飛び交う。

 風に乗って、焦げ臭い匂いがシュリンにも届いた。


「一の姫様、ここは危のうございます。さあ、こちらへ」


 武官の一人が、シュリンを安全なほうへと先導する。

 袖で口元を覆ったシュリンは、燃え上がる火の手を視界の端に止めて、悲鳴をとっさに呑み込んだ。

 巨大な火柱が、まるで生き物のように天へと昇っていくようだった。

 ぱちっとはぜた火の粉が、まるで舞うように地上へと降り注ぐ。

 空を染めた赤い花は、屋根へと落ちると瞬く間にその身を焦がした。風が命を送り込み、一気に大輪の華を咲かせる。

 ――禍々しい、炎の花を。


「一の姫様、お急ぎ下さい!」


 武官が立ちすくむシュリンに声をかけるが、恐怖に震えるシュリンには届かなかった。


「ぁ……あぁ……っ」


 火の粉がそばの木に燃え移る。

 気づいた武官が、炎を消そうと球体の水をいくつも投げつけたが、炎は容易く水を飲み込んでしまった。放たれる水量よりも、火の勢いのほうが遙かに上だった。

 力量不足を悟った武官は、応援を求めて声を張り上げるも、突然の非常事態に混乱して、右往左往する者たちが気づくはずもない。


「一の姫様――――ッ」


 顔色を変えた武官が手を伸ばしてきたが、炎の塊が頭上から落下してきてそれを妨げた。ぎゃっと悲鳴をあげた武官は、火傷を負った手を庇いながら後ろに下がった。

 焼けこげた木が、平衡を失ってぐらりと傾いだ。


「きゃっ」


 真っ赤に燃えさかる木が、シュリンに向かって倒れてきた。

 視界が赤く染まる。

 熱さと恐ろしさで、両足が縫いつけられてしまったように動けなかった。

 思わず目を閉じたそのとき、その体が温もりに包まれた。


「――貴女は、死ぬつもりですか?」

「フェ、イ……?」


 どうして、という問いかけが口の中に消えていく。

 呆れたようにため息を吐いたフェイが、羽織っていた衣を優しくシュリンに巻きつけた。そのまま壊れ物を扱うようにそっと横抱きにすると、不自然な格好で固まっている武官を一瞥した。


「仮にも龍軍に所属する者が、この程度の炎を抑えることができなくてどうします。情けない。もし、駆けつけるのがほんの少しでも遅かったのなら、シュリン様は命を落としていたのかもしれないのですよ」


 いつになく厳しい口調で糾弾したフェイは、シュリンに煤がかからないよう布を深く被らせた。


「も、申し訳ございませんっ」


 シュリンを襲った木は、斜めに倒れたまま根本から凍りついていた。

 それをフェイが足でなぎ倒すと、地面に当たって簡単に砕け散った。

 水の種族がほかの種族より重んじられるのは、この第二の力があるせいであった。極一部の者しか有していない氷の力は、その者自身の強さを推し量るものでもある。

 シュリンの教育係であるフェイは、水の領でも守精一族に匹敵する力を持っていた。


「フェイ……、みんなは?」


 煙を吸い、けほっと咳き込みながら不安げに尋ねると、フェイが眉を潜めた。


「喉を痛めましたか。後ほど、薬師を呼びましょう」

「それより、」

「大人しく口を閉じていなさい。寝所に戻ったら説明します」


 シュリンは小さく頷いた。

 すでに炎は武官や師官の手によって消されたようで、再び静かな夜空が戻ってきた。それでも焦げ臭さと煙は消えることなく、周囲に漂っていた。

 シュリンは口元を押さえるが、喉にまとわりつくような苦しさは消えなかった。空咳を繰り返しながら、寝所へとたどり着くと、待機していたらしい女官が蜜を混ぜた茶をシュリンに差し出した。

 礼を言って受け取り、喉を潤す。ようやく気持ち悪さが消えた心地がした。


「なにが起こったの?」

「詳しくは把握してませんが、複数の場所から火の手があがったようですね」

「火が……?」


 シュリンは目を丸くした。

 守精一族の住居で、それはあり得ないことだ。十分火の扱いには気をつけているし、万が一そのような事態が起こっても、この宮殿に籍を置く者ならば対処できるはず。シュリン以外は。


「父上や兄君様方は、ご無事かしら……」

「あの方々なら、率先して火消しにまわるでしょうね。まったく、犯人も馬鹿なことを。この宮殿には、優れた水の使い手が幾人もいるというのに」

「でも、あの炎は……」


 シュリンは身震いをした。

 まるで、化け物のようであった。

 そう告げると、フェイの眼差しが鋭くなった。


「これで、はっきりしました。あの炎を水の民に生み出せるはずもない」

「! フェイ、それは……」

「このまま、野放しにしておくつもりですか?」

「……っ」


 シュリンの双眸が揺れた。

 きっと自分が突き止めなくとも、有能な武官が今回の件で犯人を特定するだろう。

 シュリンがなにも言えずにいると、フェイが呆れたようにため息を吐いた。


「――守精として胸を張りたいのなら、しっかりなさい。お忘れですか? あの誓いを。守精と認められるために、どうしたらよいのかもっと考えてから行動して下さい。貴女をあそこで見かけたとき、どんなに肝が冷えたか。供も連れず一人で行動するなんて……。しかもこんな夜分に。私はそのように育てた覚えはありませんが?」

「ごめん、なさい……」


 涙を溜め、震える声でそう謝るシュリンは、雨に打たれて縮こまる蕾のようだった。今にも消えてしまいそうなほど弱っている彼女を、だれも強く叱ったりできないだろう。

 フェイは、懐から手巾を取り出すと煤で汚れたシュリンの顔を優しく拭った。


「私も、言い過ぎました。貴女を喪うのではないかと、怖かった」


 そっとシュリンを抱きしめたフェイは、シュリンの髪に顔を埋めた。


「もし貴女に傷でもついていたのなら、命令とはいえ、火の領の姫に仕えた自分を一生恨んだでしょう。貴女は、私の命。生きる糧。貴女に拾われたときから、私は貴女のためだけに生きてきた。貴女を喪ったら、私はまた深い闇をさまようことになる」

「フェイ……」


 シュリンの目から、涙がつぅっと一筋こぼれ落ちた。

 父と物見遊山に出かけたとき、怪我を負って倒れているフェイを発見したのだ。それに恩義を感じてか、フェイはシュリンに仕えるようになった。

 過去を多くは語らないフェイであったが、なんとなく辛いことがあったんだろうなとは薄々感じていた。


「おかしなものだ。一度、光を手に入れると、もう手放せない……。私は、貴女という光を手に入れて、はじめて生きる喜びを知った。だからシュリン様。たとえ貴女自身であっても、私から光を奪うことは許さない。それだけは覚えておいて下さい。たとえ多くの犠牲を払おうと、私にとって大切なのは貴女だけなのです」


 切なげに吐き出された言葉に、シュリンの胸がきゅっとなった。

 主従関係ではあるが、フェイトとは、兄たちとはまた違った絆で結ばれていると思っている。

 フェイがいなければ、シュリンの心もとおの昔に折れてしまっていたかもしれない。


(ありがとう、フェイ……)


 シュリンもフェイの温もりを感じるように、彼の背に手を回した。


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