そのニ
「水王主、お話しがあります」
そう言って執務室に現れたのは、いつになく堅い表情のロンファーであった。
筆を止めたホウレンは、微笑んだ。
「どうしました。なんとも他人行儀な……」
「なにを呑気に! 今、シュリンの置かれている立場をご存じでしょうっ」
「……また、それですか。おまえで五人目ですよ。おまえたち兄弟は、本当に末姫のこととなると行動が早いのだから」
ため息を吐いたホウレンは、頭痛を抑えるようにこめかみに手を当てた。
シュリンが火消しに廻っているという噂は、瞬く間に広まった。
表立ってファン・リー・ツェイたちを養護するシュリンの姿を快く思わない者たちは大勢いた。
もとより、<印無し>でありながら守精の姫として大切に育てられてきたシュリンに向けられる感情は、決していいものとはいえない。
今回のことでより油を注いでしまったのかもしれない。
「優秀な臣下が水王主の耳に入れるのを防いでいるようなので、現状を把握していただこうと思いましてね」
とげとげしく言葉を吐き捨てたロンファーは、つかつかと近寄ると卓の上に両手をダンッとついた。
「馬鹿な官吏どもが、シュリンを犯人に仕立て上げようとしているのをご存じですか?」
「なに?」
「ああ、兄上たちはまだご存じではなかったのか。火種をかき消すと同時に、シュリンも守精から追放できるとあって、馬鹿な官吏どもがこそこそと画策しているんですよ」
「――主頭三補佐官は、どのような対処を?」
「……まだ、知らないはず。これは僕が秘密裏に調べたことだからね。けれど、知っていたところで、あいつらがシュリンのために動くものかっ。あいつらがシュリンをどんなに煙たがっているのかを父上もご存じでしょ!?」
気色ばむ息子を冷静に見つめたホウレンは、ふむ、と顎に手をやった。
「おまえの口の悪さは、だれに似たんだろうね」
「父上……今はそんなことを言っている場合では……」
ロンファーは、怒り顔から一気に脱力したように肩を落とした。
「……全く、おまえたちは揃いも揃って、シュリンのこととなると頭にすぐ血が上ってしまうのだから」
ロンファーは、むっとしたようにホウレンを睨みつけた。
「では父上は、このままシュリンに罪がなすりつけられてもいいとお思いで?」
「私はね、ロンファー。今回の件で口を挟むことはしませんよ」
「なぜっ!」
「これは、水龍によってシュリンに与えられた試練だからです」
「……!」
「可愛くて、憐れな私の子……あの子に辛い境遇を強いたのはこの私。もし守精の一員ではなく、普通の子として育てられていたのなら、明るい未来は約束されていたでしょう」
けれどね、とホウレンは続けた。
「どうしても私の子になって欲しかったのですよ。<印無し>の子が背負う過酷な命運を知っておきながら、私のわがままでここに置いてしまった……」
本来なら守精には、民よりも強大な力を宿した者だけが選ばれる。
だからこそ<印無し>であるシュリンは、領民として育てなければならなかったのだ。
歴史を紐解いても、ほかの領でも<印無し>の子が守精となった例はないはず。
けれどホウレンはその慣習を打ち破ってでも、手元に置いておきたかった。あのままホウレンが名乗り出なければ、シュリンの命は儚く散ってしまっていたかもしれないのだ。
それはどうしても嫌だった。
朝日が昇って、水面に反射されたときのような美しい銀の髪に、水龍が眠る聖湖と同じ色の双眸が、この世からいなくなってしまうなんて……。
力などなくとも、だれよりも水の領に相応しい容姿があれば、周囲に認められると考えて引き取ったというのに、実際は賛同を得られなかった。
そのまま今日まで至ってしまったのだ。
それはホウレンの落ち度。
シュリンに言われるまで、彼女の苦しみにも気づいてやれなかった。
「シュリンを大切に想うのならば、見守っていなさい。必要だと判断したときにだけ手を貸せばいい」
「でも、」
「これはね、あの子の手で解決しないと意味がないのですよ」
「父上……」
「私はね、ロンファー。あの子がだれよりも誇らしい。少々突飛なところもあるけれど、逆境をはねのける強さを持っているあの子がね。――信じなさい、シュリンを。もう守られてばかりの幼い子供ではないんですよ。あの子は、庇護する私たちの間をするりと抜けて、しっかりと前を向いて歩いて行っているのですから」
ホウレンが笑みをたたえて、穏やかにそう言うと、悔しそうに唇を噛んだロンファーは小さく頷いたのだった。




