序章
「イヤアァァァァァ! この子は、渡さないっ。わたしの子よっ!」
女の絶叫がほとばしる。
まるで獣のような声に、若い女のひとりが後じさった。
髪を振り乱し、錯乱する女。
豊かな黒髪が、真っ白な敷布の上に散らばった。
わたしの子ぉぉぉぉっと叫び、暴れ続ける女を、白い布をまとった若い女たちが押さえつけた。数人がかりで腕や頭を寝台に縫いつけるようにしても、女の力は強く、気を緩めたら吹き飛ばされそうだった。
「さあ、いきんで! このままだと、赤子が死んでしまうよ」
「……ンッ……ぅ」
叱咤するような産婆の言葉に、目に狂気の色を走らせていた女の眼差しが、ほんの少し正気を戻す。
産婆の助言に従い、最後の力を振り絞る。
――そして、
ようやくこの世に産まれた赤子を産婆が取り上げた。
「ああ、こりゃ可愛い女の子だ!」
元気よく泣く我が子に、女は一瞬、安堵の笑みを見せたが、すぐにその顔は醜く歪む。
「返して! 返して、返してっ。わたしの子、わたしの赤ちゃんっ! だれにも渡さない、渡すものかっ」
呪詛のごとく叫ぶ女に、しかし産婆は耳を貸さなかった。
「それをお決めになるのは、神さまだけさ。そこのおまえ、この子を洗って、すぐに神官さまの元へ連れてお行き」
「は、はいっ」
この中で一番若い女は、いきなりの大役にどもりながらも、命じられた通り、赤子の湯船で洗うと、真新しい衣に包んだ。
「さ、神官様の元へ行きましょうね」
大事そうに赤子を抱えた若い女は、まだ何が起こるのかわからず、楽しそうに笑う赤子を見下ろした。
「なんて可愛い子……」
丸い薄水色の双眸は、きらきらと澄んだ光を放っていた。
そっと額に口づけた若い女は、すぐに身を翻すと表に用意してある舟に乗り込んだ。
「急いでちょうだい」
「へいっ」
若い女が促すと、舟主がゆっくりと櫂を動かした。
赤子の瞳と同じ色をした玉海にたゆたう舟が、向こう岸へ向かって動き出した。
人見知りをしないのか、きゃらきゃら声を立てて笑う赤子をあやしていると、天の領が見えてきた。
神の国へ昇ることができるという蓬連山の頂は、今日も深い霧がかかっていた。
岸辺に到着すると、そこには、すでに知らせを受けていた神官や巫女が、今か今かと待ち構えていた。
「神官さま、こちらが先ほど産まれたばかりの赤子です」
「おお、では、すぐさま種族決めの儀を行わなければ」
恭しく赤子を受け取った神官は、巫女たちを従えて神殿へ赴くと、わき上がる泉の水を数滴赤子の額へと滴らせた。
「神の祝福をこの者に――」
みなが見守る中、神官は印が現れるのを息を潜めて待っていた。
しかし、いつまで経っても額に印が浮かび上がる気配はない。
馬鹿な……と呻いた神官は、顔色を変えながらもう一度、聖水を赤子の額に振りかけた。
だが、やはり兆候は表れない。
ざわめく周囲に、若い女も不安そうに表情を曇らせた。
「この子の産みの親は、とても執着心がおありでしたから、なにか邪念が働いて神のご意志を封じているのでは……」
「理由はどうあれ、このままでは種族を決められん」
難しい顔で、神官は首を振った。
「まさか、生きている間に<印無し>をこの目にするとはな。ワシ一人の手に余る。処遇をどうすべきか、守精の方々に決めていただこう」
蓬連山の裾野に広がる、天の守精――天帝主の居城は、いつになく緊張感が漂っていた。
神官によって、<印無し>の子が連れてこられると城には静寂が訪れた。口を閉じ、顔を伏せ、<印無し>の子を出迎えた内事方は、彼女に触れるのもためらいながら貴賓室へと案内をした。
だれもがそわそわと落ち着かなそうな、不安げな表情を浮かべ、<印無し>の子が目の前を通り過ぎていくのを見送っていた。
まるで、禍々しいものが神聖な場所へ入り込んでしまったかのような、そんな感じであった。
<印無し>の子が過ぎ去ったあとには、恐怖と嫌悪しか残されていなかった。
「ほぅ、これが<印無し>か」
貴賓室には、すでに緊急に招集された八人の守精がいた。
天帝主をはじめ、ほかの守精たちは、神官が抱えている赤子を遠巻きに眺めるだけで、顔を近づけようともしなかった。
<印無し>の子が負の象徴でもあるかのように、目に入れるのを恐れるように顔を背けたり、不気味そうに見つめるだけだ。話し合いも混沌を極め、だれも引き取ろうとはしなかった。
どの種族に属するか決まらなければ、その地に住まうこともできない。
このままでは、赤子の未来が途絶えてしまうとさすがの神官も憂慮しはじめたそのとき、水の領を治める水王主が、赤子に近づいた。
自分がどうなるかなどどこ吹く風で、神官の腕の中で気持ちよさそうに眠っていた赤子が、ふいに目を開いた。ぱっちりとした丸い目が、水王主を映し出して、きらきらと輝く。小さな手を懸命に伸ばして、触れようとする可愛らしい姿に、水王主が思わずといったふうに笑みを零した。
「とても、愛らしい子ですね」
水王主が指先を近づけると、嬉しそうにきゃらきゃらと笑った赤子が、離すものかとばかりにぎゅっと力強く握った。
穢れるぞ、と恐れるように言う守精の一人に目をやった水王主は、ゆるりと小首を傾げた。
「なにを馬鹿なことを。こんなにも澄み切った美しい目をしている子が、災いをもたらすはずありませんよ」
水王主は、神官から赤子を受け取ると、一人一人の守精に目を合わせながら、言った。
「この子は、私が引き取りましょう。守精一族の一の姫として育てます」
「まさか、<印無し>の子を誇り高き守精一族に迎え入れるというのか! はっ、水王主も落ちぶれたものだな」
嘲るように言ったのは、火の領の守精――火王主であった。
水の領と火の領は昔から敵対関係にあるせいか、守精同士の仲も悪い。特に今代の火王主は、水王主と年が近いこともあり、ことあるごとに突っかかってくるのだ。
「やめないか。ホウレン、その言葉が誠であるならば、ぜひ、そうしなさい。けれど、<印無し>の子が、種族の違う領に住まうのは、並大抵のことではないぞ。人には、それぞれ与えられた使命がある。それをまっとうするには、まず自分に合った領を選ぶことが大切。間違った領を選べば、その赤子の未来さえつぶしかねないぞ」
「重々承知しております、天帝主。水の種族は、特に天上のお方より与えられた力が備わっている。水を自由に扱えないこの子は、とても苦労することは目に見えているけれど、このまま議論ばかりしていてもこの子のもらい手はほかに現れないでしょう」
ちらりとほかの守精に目を向ければ、厄介事は引き受けたくないとばかりにみな目を逸らした。
天帝主も火王主も、ああは言ったものの、本心では水王主が進んで名乗り出たことにホッとしているのだろう。
<印無し>の扱い方を知っている者など、だれもいないのだ。自分の領に招き入れたらどんな災異が起こるのかと恐々としていた。
けれど水王主の心は不思議と凪いでいた。力を入れたら壊れてしまいそうな小さな赤子の温もりが、心地よかった。じっと赤子を見下ろした水王主は、優しく目を細めた。
「ご覧なさい、この美しい瞳の色を。私の民ですら、こんなに素晴らしい色の目を持っていませんよ。たとえ力はなくとも、この特異な色こそが、水の種族の一員として相応しい証。私は、この子を水の守精一族の子として迎え入れますよ」
そう、力強く宣言したのだった。




