癌癌少年の気持ち。
癌癌少年の気持ち。
八つ裂き丸というへんてこな名前の王は用が済むと簡単にその場から消えてくれた。文字通り消えたという表現で間違えはないだろう。去り際に『やっぱこの首輪気に入らねぇ。』と言い残していたが、あの喋り口調から考えて、彼の普段の喋り方も性格もなんとなく理解はしたつもりだ。口は悪いがお人好しというのが俺の感想だな。
アヤたちの母親も八つ裂き丸が消えるのを見送って、すぐに次の仕事があると言って出掛けてしまう、珍しく玄関から出て行った。俺は未だにこの女の性格が掴めない。
残された俺たちはアヤが一度止めてしまったガスコンロに再度火を点け、すっかり水になってしまった元お湯を沸かす作業に戻る。そばを作っている途中だったんだよな。茹でていなくて正解だった。
シイを部屋に運んで戻った圭介が葱を刻み、たれを作る。実はこの中で料理らしい事が出来るのは圭介だけだ。アヤは女の子とは思えない程料理に関しては不器用だという事がこの数日で判明している。小学生のシイの方がまだマシな物を作れるのには流石に驚いた。かなり完璧な人間に見えるアヤの意外な弱点。まあ、そんな事を知ったからと言って別にどうなるものでもないけどな。
俺も奴も料理なんて自分でした事も無かったから、人の事も言えない。
そう言えば圭介は一人暮らしなんだ。両親は早くに他界しているらしいし、あんまり深くは訊き辛くて訊いていないけど、マンションに一人で住んでいるのだそうだ。
だから料理も出来るらしい。
それでも簡単な調理で済む物しか作らない理由は暫く不明だったんだけど、昼食後にたまたま俺と二人になった時に話してくれた。見た目は不良だけど、中身はなかなか良い奴なんだ。
「お前はアヤの事をどう思う?」
そう切り出した圭介の真意がまったく判らず、俺は暫く彼を凝視してしまった。
どう思う?
思わず繰り返してしまう。
「ああ、俺はずっと一人で生きて来たから、もう一生一人なんだと思い込んでいたんだけどよ。彼女を癌から解放した日、つまりは血を吐きかけた日に、なんか心に響いた物があったんだ。」
これは中学三年生の会話らしい会話だったんだが、俺はその手の話にかなり鈍い人間だった。
「守られているのは俺たちなんだけどよ。なんかこう……いつかは守ってやれる男になりたい。みたいな感覚にならねぇか? あいつは母親の方と違って、ちょっと抜けている所があるっつうか、人間らしいというか……」
しどろもどろになる圭介を横目に俺はアヤの顔を思い浮かべてみる。母親と同じ顔、シイと同じ顔。発達は遅れ気味と思われる体型は病気のせいだろう。まあ、まだ中学一年だしな。料理は出来ないが、編み物が得意、喋り方は母親にそっくりだが、確かに母親より抜けている感じはある。だが、防御に関してはシイより上だと聞いたぞ。そのアヤを守れる人間になりたいという圭介の真意が俺にはまるっきり解らなかった。
「だからよ。俺はアヤの事を好きなんだよ。」
俺のあまりの鈍さに圭介が思わず口に出していた。圭介の顔が赤くなったり青くなったりして面白い。
成程、それか。
「お前はそう思っていなかったのか?」
そうだなぁ。
俺は少し考え込んだ。
病室の隣のベッドに居る時の事を俺は知っているから、あんまり異性としての興味は無かったかな。今は大分回復しているけど、ガリガリに痩せていたし、本ばかり読んでいたし、他の年少組がなついていて、母性は持っている子だとは思っていたけどなぁ。恋愛感情は浮かばなかったかな。それにほら、俺は病状もかなり進行していて、もう死ぬ寸前だったから、そこに考えは行かなかったよ。
そう答えた。圭介は神妙な面持ちになる。不良くんである圭介の顔には大分慣れたが、そういう顔はまだちょっと怖いぞ。
「じゃあ、ライバルではない訳だな?」
ああ、ならないな。どちらかと言うと俺はその母親に興味がある。
「はっ?」
その表情も結構怖いな。俺は頭で思っていた素直な気持ちを言葉にしてみる。こんな話は奴ともした事が無かったな。
俺は随分体が弱っていたから、ああいう元気の塊みたいな人間に憧れる節がある。それにあの母親に関して言えば、もう死を超越した世界の住人じゃないか。まあ、これも恋愛感情とは言えないか、でも、少なくとも圭介の思いと俺の思いが被る事は無いと思うよ。それに俺は全然そんな器じゃないしな。
そう俺は答えてから思い当った。圭介が得意の料理を披露しない理由、それは意中の女の子より上手に出来る事が自慢げで嫌なんだ。勿論それを気にするアヤではないだろうが、十五歳になるかならないかの青少年には重要な問題なんだ。
「そうか。人それぞれ思いは違う物なんだな。」
ああ、俺は圭介のライバルには成り得ないけど、あいつはどう思っているかな?
「お前のパートナーか?」
うん。あいつはこの見えない筈の家を思い出した男だからね。俺はアヤが隣のベッドに居ても何も思い出せなかったのに、あいつは俺の病気を治す為にこの家の事を思い出せた。小学生の頃のインパクトが奴の脳には残っていたんだろうと俺は思ったけど、それが母親のインパクトだったのか、それとも俺たちに年齢が近かったアヤなのかは判らないな。
「確かめる必要があるな。」
圭介はそう言って部屋から出て行く。なんか青春野郎だね。俺はそんな事を思いながら、なんとなく気になったのでその後ろを追った。まあ、確かめる必要は特に感じないんだけどな。こんな状況下で恋愛話もどうだろうというのが俺の意見でもある。札幌市内はまだどこかの国の依頼を果たそうとしている傭兵やテロリストがうろうろして時折暴れている現状があるからだ。
奴は居間でサッカーのテレビ中継を見ていた。こいつもこの状況下でサッカー見ている場合でもあるまいと思わせる。まあ、俺たちに出来る事なんてないんだがな。その横でシイが寝ている。アヤは晩飯の買い物に行っていて幸い留守だった。
圭介は料理の出来ないアヤを気遣って、手の込んだ料理を作らなかった。これは彼の優しさだろうか。そんなに好きならアヤに料理を教えて近付くチャンスを沢山作った方がサイの目は近くなるような気もするんだけどな。
三人掛けのソファの端に圭介が座り、今俺としたような話を奴に切り出していた。俺は正面の一人掛けに座りながら、苦笑いの顔を作って奴に視線を送る。
「まあ、シイは寝ているけど、男四人で集まってする話としてはアリだね。」
圭介の説明に耳を傾けながら、奴は時折俺の方を見ていたが、圭介の告白が終わるとそう言って立ち上がり、居間のテレビを消した。
「僕も異性に興味がないという訳ではないからね。アヤの事は病室に行く度に気にしてはいたよ。」
ほぉ、サッカー以外に興味がないかと思っていたけど、お前もそこは普通の中学生なんだなぁ。
「そりゃあね。僕があまりに君の病室に通うものだから、僕が男に興味があると勘違いしているチームメイトやクラスメイトも存在したからね。」
俺とお前がか? 確かにサッカーでのパートナーだと俺は思っているけど、そこに男同士の恋愛感情が存在すると考えるのはなかなか不自然だな。そういう意味ではその考えこそがアブノーマルな気もする。
「まあ、君は入院中で学校には通っていないから知らなかったかも知れないけど、世間にはそういう類の事を平気で妄想出来る人種も居るんだよ。クラスメイトの女子の間でも一時流行していた事があったかな。なんか冬休みの間に東京で行われるイベントに行って帰って来た女子を中心にそういう妄想ごっこが流行していたよ。」
うーん。中学校って怖いなぁ。
「冗談はさておき。僕の考えからすると、僕は圭介くんのライバルになる。」
宣言しちゃったよ。
「おお、望む所だぜ。」
何故か圭介も乗って来た。彼はなんでも勝負となると乗ってくるタイプらしい。
「でもさ……。」
その盛り上がりを消すかのように奴は顔を下に向ける。
「なんだ?」
「圭介くんは気付かなかったかい? 昼前に現れた異世界の王に対するアヤの態度。」
その言葉で圭介の勢いも停まった。俺は少しの間二人の顔を交互に見てしまう。
八つ裂き丸がどうしたと言うんだ?
「あんな典型的な態度の変化は見逃さないだろう? 普段からアヤの顔は笑っているけどさ。あれは僕が鈍くても判るよ。」
いや、でも、あれは異世界人だぜ?
「そう、異世界人の王で、僕たちが束になっても敵わない武力を持つ人種。更には人間に天使の概念を植え付け、信じられないような広い領地を持っている。そこに対抗する術はないよ。」
まあ、確かに八つ裂き丸に対するアヤの態度は明らかにおかしかった。しかし、それで恋愛感情だと言うのは早計じゃないか?
「じゃあ、君がアヤの母親に抱く感覚は? ずっと入院していて体が弱っていた君は、恐ろしく丈夫なアヤの母親に魅かれたんだろう?」
まあ、そうだ。
俺は赤面したかも知れない。恋の話とはこんなにも恥ずかしい物なのか。
「アヤもおそらく君と症状の進行は似たような物だった筈。思いが似ていてもおかしくはないよ。」
そんなものだろうか。同じくらいの年齢の患者は俺とアヤしか居なかったから、他では参考にならない。
でも、何百年生きていてもアヤの母親は一応人間だぞ? 八つ裂き丸は本当に異世界の人種で、頭に輪があって背中に羽があったじゃないか?
なんとか反論しようと試みるが、俺は言葉に詰まる。
「それで? お前はそのアヤの様を見ただけで諦めたのか?」
何か考え込んでいた圭介が口を開いた。俺と奴とのやり取りは殆ど聞いていないみたいだ。
今度は奴が赤面する番だ。
「そりゃあ、勝ち目のない闘いではあるけど、僕も男だから、思いを伝えたいとは思っているよ。来年の六月が終わったらね。」
来年の六月?
一年後に何があるのか判らず、俺と圭介が同時に疑問符を抱く。奴がこんなに顔を赤くしているのは初めて見た。
「僕は来年のワールドカップで世界一のサッカー選手になるっ。とりあえず狭い世界かも知れないけど、地球で一番だよ。そうしたら堂々と胸を張ってアヤに告白するさっ。なんなら得点王とMVPを付けても良いっ。」
スゲェ目標を聞いてしまった。スポーツ新聞の談話で監督の目標はベスト4だと書いてあるのを見た覚えがあるぞ。それを世界一かよ。
「僕はそれくらい本気だって事だよ。振られるのは覚悟の上だけど、告白せずにはいられない。」
そう言って圭介を見る。圭介は感心した様子で腕を組んだ。
「成程、とりあえずアヤに告白するには世界一の称号が必要か。」
いや、そんなデカイ目標要らないだろ?
俺のツッコミは空振りに終わる。圭介も奴も本気の目だ。
「じゃあ、俺は……」
そう言いかけ圭介は口をつぐんだ。世界一の暴走集団を作るとか言わないよな。そう言えば記していなかったかも知れないけど、圭介は札幌にある大きな不良少年グループのリーダーなんだよ。確か名前は『刺青ベイビー』だったか。
俺の入院していた病院に運ばれた理由は深夜の交通事故だったんだよな。無免許で暴走していたバイクがパトカーに追いたてられて、後ろばかり気にしていた圭介は前方に信号で停まっている大型トラックに気付かずに追突したんだった。それで手当を受けている途中にオッサンが圭介を奪取し、傷だらけの包帯少年が俺たちの病室で血を吐きかける顛末になる訳だ。いくら癌癌細胞血液を持つ少年でも、自分の意思で血を吐く事は出来ない。
ちなみにその傷はアヤを含めたこの一家が総出で治療し、今の圭介は五体満足、頭の包帯も無い。病気は治せないが、怪我は治せるのがこの一族の能力のひとつなんだってよ。
「ああ、今のところ浮かばねぇ。」
それが普通だろ? この場合は圭介がおかしいとは俺には思えないぞ。
「僕の決意はおかしいかな?」
ああ、確かに優勝して表彰された時にOKD監督さんに来年間に合わせろみたいな事は言われたけど、あれは本気なのか?
「僕は本気だと受け取ったよ。だからこの目標で行く。」
こいつは一度思い込むとテコでも動かない。それは長い付き合いの俺が最も良く知っている事だった。
尚も圭介は何か考えていたが、結論は出ず。アヤが買い物から帰って来た事も重なり、この恥ずかしい恋愛会議は一旦幕を閉じた。
更に一週間程経過し、札幌の街も大分静かになる。これはアヤの母親がかなり積極的に動いた結果だ。札幌に潜伏していた傭兵やテロリストはだんだん追い詰められ、遂に札幌から殆どが姿を消していた。偽造パスポートを使ってなんとか国際線に乗ろうとして捕まる連中は新千歳空港に集まっていたらしいし、飛行機は駄目だと判断した者は小樽や函館、釧路、根室まで逃亡して、なんとか船をチャーターないし奪取して逃走を計っているらしい。
大抵はその逃げる寸前にアヤの母親かオッサンに捕まって命を落とすか、日本の警察に捕まって取り調べを受けるか、自衛隊との激しい戦闘後に投降するかだったようだ。
札幌市内の最大被害は、事の始めに倒壊して中に居た警察官が全滅した中央警察署、市内にあるテロリストの潜伏先となっていた空きビル数棟、石狩湾に通じる道路、これはオッサンがお米の国の傭兵団と戦ってそれを殲滅した際に完全に道路としての機能を失ったから挙げられる。テロリストが石狩からの脱出を諦めたのはこの道路の寸断が大きな理由になったのだとシイが解説してくれた。苫小牧、室蘭が使われなかった理由は千歳にまで手が回っていたから、その近くである港は使えなかったという事だ。
お陰で俺たちは学校に行く事が出来るようになったんだが、それと同時期に俺と奴充てに手紙が届いた。持って来たのは郵便配達員ではなく、軍服と思われる格好のオッサンが信頼する傭兵だった。
差し出し人はサッカー全日本代表監督、OKDタケシとある。
俺たちはまだアヤの家に世話になっていたので、受け取った手紙を居間でアヤとシイ、そして圭介が見守る中で開ける事になった。
その手紙の内容だけでは俺たちには理解出来ない。
『六月六日。国立競技場にて待つ。』
何故か毛筆で書かれた、その手紙とも電報ともとれない短い一文を俺たちは暫く眺めた。
「土曜日だね。」
シイがカレンダーで確認し、俺たちも釣られてカレンダーを見てしまう。
OKD監督は一体何の為にこの手紙を俺たちに寄越したんだと思う? まさかアジア最終予選で俺たちを使うとか言わないよな?
俺の問いに奴は暫く眉間に皺を寄せていた。
「それはないと思うよ。四大会連続出場は殆ど決まっているけど……六月六日? それって予選のある日じゃない?」
それを聞いたシイが携帯電話を姉から奪い取り検索し始める。何故か携帯電話を持っていないシイの方が作業が早い。
「あった。ウズベクスターン戦だよ。会場は向こうだね。」
アウェーでの試合がある日に俺たちを国立競技場に呼ぶ理由はなんだ?
「十二人目の選手って言葉通り、国立の大型スクリーンで応援しろって事かな……それなら別に国立競技場まで行かなくともテレビ中継で見るけどね。」
封筒には手紙の他に新千歳からの航空券、何故か三枚ずつ、そして一万円札が二枚入っていた。これはタクシー代という意味だろうか。
「勝てば世界で最初の出場国になる筈だよな。それはスポーツ新聞で記事を読んだ覚えがあるぜ。」
「そうだね。」
見つめていても手紙からはそれ以上言葉は出て来ない。
「一応札幌も落ち着いて来たし、外出しても大丈夫だと思うよ。気になるなら確かめに行こうよ。前回はバタバタしていて、東京ネズミランドにも行けなかったから、僕はそこに寄りたいな。」
「あんたは乗り物酔いするんだから、行っても面白くないと思うわ。」
そんな会話がされ、俺と奴は余った四枚の航空券を圭介に渡した。家族分だったのかも知れないけど、俺の家族も奴の家族もそんなに暇じゃない。
俺とこいつの二人で行く。そのチケットは換金するなり使うなりしてくれよ。
「おう、サンキュー。俺は四枚共換金して食費にでもするわ。呼ばれたのは俺じゃねぇしな。アヤたちはどうする?」
「あたしたちは飛行機に乗らなくても行けるから、あなたが使って。万が一のガードをシイにやらせるのか母さんが行くのか決めてもらわなくちゃ。」
そう言ってアヤはようやくシイから携帯電話を取り返す。
相談の結果、俺と奴と圭介は三人一緒に行動して欲しいというアヤの母親の要望になり、ガードは彼女がする事になった。アヤとシイは留守番だ。余りのチケット三枚は圭介が好きにして良いという条件付きで圭介が了承する。
「東京ネズミランドー!」
シイはゴネたが、母親の決定は絶対であるらしく、暫く経つと諦めた。
そして俺たちは六月六日に国立競技場の正門前に立っている。圭介はホテルで待機、アヤたちの母親も俺たちには付いて来なかった。俺と奴は大型スクリーンで応援する為に集まった日本サポーターの渦を避けるように受付テントの横に身を隠す。
「札幌市内でこんなに人が集まる場所は無いよね。」
札幌ドームで野球がある時くらいじゃないか。行った事ないけど。
「考えてみるとあの手紙に時間指定って無かったね。この時間で良かったのかな?」
そんなの俺が知るかよ。
などと小声で話していると、俺たちが背にしている植え込みの辺りがガサガサと揺れて俺たちを驚かす。
「おう。お前らがOKD監督の言う二人組だな?」
テレビで見た事のある顔が植え込みの中から顔だけ出して俺たちに話し掛けていた。日本代表に在籍歴のある元プロサッカー選手、今は旅人が職業だっけ。
「どうしてあなたが此処に!?」
サッカー選手に目が無い奴は少々声を高くした。
「いや、あの監督は手紙を書くのが下手な上に、待ち合わせ場所の指定がマズイ。こんな日に国立競技場に呼び出すアホはあの監督だけだ。すまないが俺が出て行くとパニックになるんで、付いて来てくれ。」
そう言って顔を引っ込める。俺と奴は顔を見合わせたが、特に怪しむ事もなくその後に続いた。暫く中腰で歩き、競技場の近くにある駐車場まで案内される。流石にサポーターのざわめきは此処までは届かないようだ。
そろそろ試合の開始時間らしく、駐車場に人の姿は殆ど無かった。その中でもかなり異彩を放つキャンピングカーの中に俺たちは押し込まれた。
形はキャンピングカーだが、中は椅子を取り除いたバスくらいの広さがある。その中で待っていた人物たちに俺たちは驚きを隠せなかった。勿論迎えに来たのが旅人さんだったのにも充分驚いてはいたさ。
その空間に居た人物たちは皆両側の壁に沿って並び、最も奥にこの車の持ち主らしき人が一人だけ座っている。その人は勘違いのしようもなく、40歳代の中では日本最年長のプロ選手であり、悲劇の元全日本代表選手、設楽カズヨシその人だった。通称キング。
「おう。お前らが監督の言う中学生か。まあこっちに来い。」
横柄とも思えたが、年齢は俺の父親より上だ。俺たちは壁際に居る他の人達の顔も確かめながら奥に進む。キングの両脇は左がゾノと呼ばれた元代表、右はサッカーとはまったく関係のなさそうな巨漢のまげ姿の浴衣の男が居る。俺の記憶上その人は国技の最高位に居る人で、名前は確かモーニングブルードラゴンだった筈。
「俺は監督の代理人だと思ってくれ。監督は知っての通り現在ウズベクスターン戦の真っ最中だからよ。お前たちの能力の見極めを頼まれたんだ。俺もリーグ戦の最中にチームから抜けたんであまり時間もねぇ。」
そうキングが言うと車が動き始めた。両側に立っている人たちは車が急に動いても微動だにしない、流石は一流のプロたちだ。バランス感覚が良い。
車が何処に向かうのか見当もつかないが、俺たちを試すという事だろうから、ボールを蹴る事になるんだな。俺はそう思って足首をグルグル回して少しでも準備をしようと努力した。
「俺もビデオで見せて貰ったんでな。お前のセンタリング。あれはわざとあの回転をかけてから蹴っているんだよな?」
キングから質問されるなんて光栄だ。俺は無言で頷いた。
「そうだよな。あんな不規則な曲がり方を頭で合わせるには、最初からそのコースが判っていなくちゃ出来ねぇもんな。お前のヘッドもなかなかの物だったぜ。」
なんか、褒められているけど、周囲に居るのは皆プロか元プロだから、俺たちは妙に恥ずかしい気分にさえなった。
「お前、フリーキックは蹴れないのか?」
俺に対する問いだ。俺は壁になるディフェンスの距離とキーパーの位置取りが良ければ、百パーセント決められる旨を説明する。
「ほう。大した自信だな。」
そう言って頭を撫でられる。そういえば俺の髪の毛はやっと元通りに生えて来たんだ。凛の生えかけの頭を俺が撫でた時と同じ感覚をキングは味わっているだろう。俺たちは椅子が無いので車内の地べたに胡坐をかいて座っているので、頭は撫で易い位置にある。
「お前たちの出場した中学選抜の試合を見た監督が、来年の全日本の構想を急に転換し始めたんだ。今戦っている全日本の選手で来年のワールドカップに行ける選手は実は殆ど居ない。スタメンから全て変えると言い出してな。俺を含めた全てのサッカー選手を洗い直せと指示を出した。そうは言ってもお前たちはまだ候補なだけで、代表って訳ではないからな、勘違いはするなよ。」
俺たちそんな夢見がちな中学生じゃありませんよ。
「謙虚な姿勢は評価するぜ。口ばっかりの選手より期待出来るからな。」
また頭を撫でられた。
「知っているかも知れないが、日本のサッカーはジュニアまでが凄く良い。ジュニアユースなら世界一にもなった事がある。しかし、高校生くらいから上に進むと急激に弱くなる。それはどうしてだと思う?」
「受験勉強だと思います。」
簡潔に奴が答えていた。キングの笑顔が顔中に広がる。どうやらカズさんの考えと同じらしい。
「高校進学、大学進学にその殆どの力を使うから、スポーツ自体をしなくなる。だが、野球で世界一になれるのは何故だ?」
「それはサッカーと違って野球は恵まれたスポーツだからです。高校の推薦枠も多いですし、高校野球もプロ野球も出来上がった機構です。競技人口は似た数かも知れませんけど、日本はサッカー選手をしていくには厳しい環境だと言えるからだと思います。これは野球だけが特化してしまったこの国のおかしな所だと僕は考えています。」
「成程、お前はサッカー馬鹿って訳でもなさそうだな。」
「僕の親戚にマイナーな冬のスポーツ選手をしている方が居て、その人が練習を休んで自分の足でスポンサーを探すのに歩き回っているのを知っているから思った事です。」
「……ちなみにそのスポーツはなんだ?」
「スキーのジャンプです。」
「割とメジャーなスポーツだと思うが?」
「……女子なんです。」
キングの顔が驚いていた。その親戚は俺も知っている人だが、確かに奴の言う通り、大学を卒業してからずっと就職もせずにアルバイトを続けながらスポンサーを探していて、それは今でも継続中だ。オリンピックの種目にも無いし、誰も相手にしてくれないと嘆いていたのは俺が小学生の頃からだった。
車が右に曲がって停まる。割と離れていない場所に連れて来られたようだ。
「キング。到着です。」
運転もこなしていた旅人さんが振り返って言う。俺たちは後ろ向きだったし、そもそもこのキャンピングカーには窓がなかったので、何処だかはわからない。まあ、東京の地理を俺が知っている訳でもないんだけどな。
「俺も似た考えは持っている。日本は決まったスポーツにしか金を使わない国だ。だからマイナーなスポーツは弱い。金をかければ強くなるのかという人に会った事もあるが、その答えも簡単で、使い方を間違えていなければ強いチームを作れる。今回のワールドカップに関して言えば、珍しく大きな金額を間違えのない場所に注ぎ込んでいるんだ。だからお前たちを見つけられた。」
そう言ってキングが俺たちにユニホームを投げて寄越した。背番号は俺が11、奴が9。
本物の日本代表のユニホームだぜ。しかもトップイレブンの中に俺たちを入れてくれている。
そしてキングも手にユニホームを持っていた。背番号は28。
「これが今の監督の方針だ。実力のある者にはその扱いをせよ。出来なければ世界一は狙えない。お前たちをたまたま監督が見つけなければ、来年には間に合わなかったセリフだぜ。」
キングを先頭に皆車から降りて行く。俺たちも急いで着替えた。
その場に降り立ったのは俺たちも含めて選手が二十二人。審判は旅人さんだ。線審二人はビデオカメラを持っている。合計二十五人。その中には場所が近いと思われるモーニングブルードラゴンさんも含まれていた。サッカー好きなんだろう。でもこのメンバー構成の中で異彩を放つとまでは言い切れない。少なくともキック力や瞬発力、接触プレイで負ける事はないだろう。そんなのに接触された場合俺の方がヤバい。
「紅白戦だ。時間は無制限。先に10点入れた方の勝ちで良いな?」
キングの声に皆頷き、競技場に散る。今回ウズベクスターンに遠征していないプロ選手たち、俺と奴は勿論どのメンバーよりも年下だ。
そのメンバーの中で俺たちが能力の全てを発揮する事は難しそうだ。だが、俺たちは真剣になれた。こんなメンバーと紅白戦でも試合が出来る事に喜びさえ感じている。
奴がアヤの母親に依頼していなければ、そして圭介に命を救われていなかったら、俺はこの場に居ない人間だ。生きている事の素晴らしさに俺は感謝する。
特にポジションを決めた訳ではないけど、俺と奴はセンターサークルの真ん中に立たされている。俺たちの実力を見る為だとキングは言った。だから初めにボールに触れる位置に俺たちを残して散ったんだ。キングは俺たちの味方側だけど、本当はフォワードだからこの位置に居なきゃならないのに、ディフェンスの位置に居る。
「僕たちのプレイを見る為に下がった。味方だけど多分見ているだけだね。」
奴も俺と同じ考えのようだ。
二人であの一流選手たちを抜いて得点しろっていうのか? 面白い趣向じゃねぇの。
俺の顔は不敵に笑っただろう。敵陣に散った連中がどう判断したかは知らないけど、一気に敵陣から俺に対する敵意のオーラみたいなものが増えた気がする。
「最初の得点は『あれ』をやろうか?」
奴のその言葉は俺を更にやる気にさせる。
いいぜ。
そう答えてから風向きを計算する。風を味方にしてボールに回転を掛けて蹴り、センタリングとするのが俺の唯一の武器だ。正直フェイントしてドリブル突破はこのメンバーに通用しそうにないからな。奴の言う『あれ』にはお誂え向きの風がちょうど吹いている。
「体力は大丈夫かい? 10点先に入れるか入れられるまで時間無制限だよ?」
ああ、この前の試合の後も『山公園』で練習していて良かった。それに、歩く為に毎日やらされた病院でのリハビリに比べれば屁でもねぇ。
旅人さんが試合開始のホイッスルを吹く。奴がちょこっと蹴り出したボールを俺は貰い、全速のドリブルで『味方陣内』に走り始めた。
「あっ!? おいっ、そっちじゃねぇぞ!!」
一応敵陣内に走り始めていた味方から声が掛るが、俺は敢えて無視し、味方ゴール前に居るキングに向けて突進していた。
「俺と一対一でもやるつもりか?」
旅人さんを含めた全員の頭にはてなマークが点滅しているかな。勿論奴は俺を信じて敵陣内にボールを持たずに走り込んでいる。俺の合図はこのドリブルを止めて振り向いた時。小学校の頃にもよくやった手だ。俺はわざとキングの目前でドリブルを止める。風向きから考えると右ディフェンダーの辺りから蹴るのがベストだけど、俺たちのプレイを見たいんだろ。線審が構えるビデオカメラにベストショットを撮らせてやるさ。
ボールを止めた瞬間に上からボールを踏んで回転を掛ける。振り返る時に風向きを再度確認し、俺は『センタリング』を上げる。高々と蹴り上げたボールが風に乗る。オフサイドトラップギリギリの所で相手ディフェンスと位置取り合戦をしていた奴が、急に動きを止め、瞬時に左に走り出した。ディフェンダーは付いて行けない。奴の動きは初めて対戦する人間には決して読めない。風に乗ったボールが回転によって大きく曲がり始める。俺はやろうと思えば味方ゴールキックをセンタリングに変える事だって出来るんだ。滅多にやらないけどな。
今回は特別ですよキング。
俺はボールの行方を見ながらキングの横に並んでいた。キングは俺の言葉を聞きながら、奴が蹴る瞬間を見逃さないように目を細めた。
結構前進守備だったから、角度はありますね。
奴の動きを見ながら落ちて来るボールに対応しようとしていたディフェンダーを奴が一度追い越す。それに付いて行こうとしたディフェンダーは戻って来るあいつを見ただろう。瞬時に止まって戻る。俺たちが小学生の時に最も時間を割いて練習した事だ。動きのヒントはバスケットボール。あの動きが試合時間中全てに出来ていれば、接触すらしないというのが俺と奴の考えだった。奴はボールの落下地点を一度通り過ぎたんだ。そして戻った。ディフェンダーはそんな動きには付いて行けない。サッカーの動きじゃないからだ。後ろから落ちて来るボールを止めずにシュートするのは非常に難しい。でも、ディフェンダーにシュートコースを塞がせない為には、トラップせずにシュートするのが効率的なんだ。奴は迷い無く足を振り抜いた。ボールが地面に着く寸前に奴の足がボールにミートする。距離はあったけど、奴のシュート力は勿論並みじゃない。蹴った瞬間にゴールに吸い込まれた。
全員が呆然とする。
こんなサッカー見た事ないでしょ?
「ああ、お前らすげぇな。」
キングの言葉を待たずに俺は駆け出す、シュートを決めた奴と喜びを分かち合う為にだ。
全日本代表がウズベクスターンに辛勝している頃、俺たちの能力を見るこの試験試合も終了した。10対6で勝ったよ。ディフェンスは俺たちに向いていないから、こうなるんだよな。キングたちがボールを俺たちに集めてくれたお陰で、奴が10得点、俺が10アシスト出来た。
「お前のセンタリングの種類は全て出したのか?」
そう聞かれた。俺は少し考える。
ボールを蹴り込む角度ならあと10種類用意しています。回転の加え方は全部試しましたね。情報漏洩を避けたいんで、出来れば線審の方が撮影していたビデオは監督に見てもらったら消してもらいたいですね。
こう言ってからアヤの母親が名乗りたがらない理由がなんとなく理解出来た気がした。
初対戦の人間になら俺たちのコンビを止めるのは不可能だと思っていたからだ。アヤの母親の戦闘能力も同じ原理だろう。
試合が終わる頃、キャンピングカーの横に静かに普通乗用車が停まるのが見えていた。そこから知っている人間が降りて来る。キングたちと試合の余韻に浸っていた俺たちの迎えらしい。
知人と言っても名前は知らない。それは大柄な男で、俺たちに監督の手紙を届けに来た傭兵だった。体格という意味ではモーニングブルードラゴンさんより一回り大きい。レスラーみたいな男だった。
「俺の役目はお前たちを安全にホテルに送るまでなんでな、ヤマト大佐の依頼でなければ受けない所だが、今回は特別だ。」
初めてオッサンの名前を知る。ヤマトって言うらしい。勿論偽名である可能性は否定出来ない。
「ちょっとあの一族には借りがあるんでな……」
そう言いながら俺たちを後部座席に押し込む。俺たちは窓から手を振ってキングたちに別れを告げた。一応来年のワールドカップに向けての第一段階くらいはクリア出来ただろう。
「ああ、これを飲め。」
そう言って傭兵が水筒を差し出す。中身はちょっと変な臭いのするアジア系のお茶だった。
「スポーツ選手が体を冷やしちゃいけないだろう。ちょっとクセはあるが、体の温まるお茶だ。檸檬の蜂蜜漬けとかも考えたんだがな。考えてみたらそんな物俺は作った事がねぇ。」
言葉は少ないし、デカイし、顔も怖い兄さんだ、オッサンより残忍そうな顔じゃないって程度だけど、根は悪い人ではなさそうだ。
お兄さんは名乗れる人なの?
「ああ、偽名で良いなら名乗れるぜ。本名はこの商売を始めた時に捨てちまったんでな。」
オッサンやアヤの母親の知り合いにはこんな人しか居ないのかね。
「シルヴィスだ。」
本当に偽名だった。何故ならこの兄さんはどう見ても日本人にしか見えないからだ。アジア風の名前ですらない。
「一応二代目だな。俺が傭兵になってから暫くは名前が無かったんだが、ある作戦に参加した時に戦死した傭兵に貰った名前だ。死ぬ間際の老兵の遺言ってやつだ。勝手に名乗っている訳じゃねぇよ。」
試験試合会場からホテルは割と近かった。途中ワールドカップ出場を決めた全日本代表を祝って酒宴を路上で開いているサポーターが居て渋滞したけど、日付が変わる前にホテルに着いた。
ホテルに入ると受付にまたもや知り合いが立っている。ヤマト大佐と呼ばれたオッサンだ。一応知り合いに入るだろう。シルヴィスが車の鍵を渡し、代わりに部屋の鍵を受け取る。その鍵は俺たちの宿泊する部屋の鍵だった。オッサンは何か言いたそうだったが、シルヴィスに任せるとだけ言ってホテルの受付に戻る。本物の受付は今日は休みになっているんだろうな。
このホテルは危険ではあるけれど、かなり安全なんだろう。少なくとも、オッサン、シルヴィス、アヤの母親の三人はガードが居るからだ。札幌程の危なさは無いんだろうけど、圭介という今回の事件のキーマンを守るのには必要な人員なんだろうな。紹介はされないけどオッサンの信頼する傭兵はホテル内に結構配置されているようだ。シルヴィスに連れられて廊下を歩いている時にすれ違った一見サラリーマン風の男がシルヴィスに何か目配せしたのを俺は見逃さなかった。
部屋は最上階だった。テレビでしか見た事がないような豪華な部屋だ。
「何かあれば屋上に退避しろ、俺が居るし、本当にヤバければヘリで脱出する。生憎と俺はあいつら化け物一族と違い、至って真っ当な脱出方法しか使えないからな。」
ヘリでの脱出が真っ当とも思えなかったが、まあ、オッサンやアヤの母親の能力に比べればそうかも知れない。そう言い残してシルヴィスと名乗る傭兵は俺たちの前から姿を消した。部屋の中にはアヤの母親と圭介が居る。アヤの母親が居るなら大丈夫な気もするんだけどな。
「おう、おかえり。」
圭介が出迎えてくれた。
俺たちはまだ先程の試合の余韻が醒めていないせいもあって、二人に事の次第を報告した。圭介は夜型の人間だし、アヤの母親は眠っている所を見た事がなかった。二人とも寝むそうですらない。
「そうか、先ずは優勝と得点王とMVPに向けての第一歩って訳だな。」
俺たちの報告を聞き終えた圭介が奴の背中を叩く。こいつらは本当にいい恋のライバルだと俺には思えた。
「そっちは何をしていたんだい?」
「ああ、テレビ中継を見終わった後、この人に今後の俺について相談していた。」
アヤの母親は俺たちの会話に耳を傾けているが、俺たちの集まっているベッドから少し離れた場所にある椅子に座って水を飲んでいる。
「お前の宣言を聞いてから、俺には何が出来るかずっと考えていたんだ。」
そう言えばアヤが買い物から帰って来たのもあって、圭介の考えを聞いていなかったんだった。
「俺はこの変な血液以外に何か出来ないかと考えた。この血は人間にしか使えないし、そもそも増えない。これから何かをするのに役に立つ能力とは言えねぇ。そこでこの血液以外の俺の能力を相談していたんだ。」
アヤの母親はコップに水を注いで俺たちの分をベッド脇に置く、顔はいつもの表情だから考えは読めない。
「俺は中学生になる前から悪い奴だった。俗に言う不良くんだな。スポーツより喧嘩の方が向いているタイプだ。実際中一の時に立ち上げた刺青ベイビーは札幌でもかなり有名な暴走集団になっている。つまり俺に出来る事の一つは喧嘩、そしてもう一つは集団統制だとアヤの母親に教えて貰った。それを生かせる場所については俺が考えたんだが……」
言葉を区切った圭介はアヤの母親の方に視線を向ける。椅子に戻った彼女は圭介の視線を感じられるらしく、こちらを向かないで左腕を突き出して親指を立てた。圭介は俺たちにその事を話して良いかと視線を送ったのだと思う。そして彼女は親指を立てる事でOKのサインを出した。
「圭介くんの能力を生かせる場所は何処なんだい?」
「ああ、この前八つ裂き丸という異世界の王があの家に来た時に感じたんだが、俺はこっちの世界より向こうの世界の方が向いているんじゃないかって事だ。その世界に癌は存在しない。だから俺が行っても役には立たない。弱肉強食の世界らしいから、俺が弱くて狙われるという事はあっても、血液採取目的で狙われる事はない。そして、15歳からでも修行の仕方によってはあの王に近付く能力者に成れる可能性を俺自身が秘めているそうだ。」
その世界に癌は存在しないだって? 初めて聞いたぞ。
「其処ら辺は俺たちの住む世界より進んでいるんだ。癌どころか風邪も無いんだってよ。寿命は種族によって違うらしいけど、喧嘩や戦争で戦死する以外には老衰しか死の選択肢のない世界なんだ。」
そこで修業して名を上げる。それが圭介の生きる場所であり、目標になる。
「俺が八つ裂き丸王を超えられる人間に成長出来たら、向こうの世界にアヤを連れて行く、勿論本人の意思は尊重するという条件付きだけどな。俺が王を超える前にお前がワールドカップで優勝して得点王になってMVPを取っていたら、優先権はお前にやるよ。それでお前が振られて、俺が王を超えられた場合、俺が告白しに来るからな。それでフェアだろ? その前にアヤ本人が王の元に走るなら、俺たちは二人とも負けたって事になる。」
そんな勝手に決めていいのか?
「だから、その相談を母親である彼女にしていたんだ。了承は得ているぜ。」
「そんなにうちの娘がモテモテだとは私は思っていなかったけどね。アヤも13歳だし、そろそろ将来の事を考えても良い年齢になったんじゃないかと私も思ったの。だから許可するわ。」
やっと口を開いた彼女の笑顔が少し寂しそうに見えた。俺は小声で圭介に訊ねる。
まさか俺の事も言ったんじゃないだろうな? 俺は圭介のライバルにはならないと言っただけで、彼女に好意はあるけどそんな器じゃないとも言った筈だが?
「安心しな、それは言ってねぇ。そっちの話はお前が自分で片付けろよ。片思いで終わるも告白するのもお前の自由だ。もし成功した場合、俺かこいつか王の誰かがお前の事を『お父さん』と呼ぶ事も考えてからにしろよ。」
小声でそう返事をくれた。
いくら好きでもいきなり結婚まで考えてはいないぞ。
癌細胞が体から抜けて健常者になったばかりの俺が、女性と付き合うとか結婚とか考えられる訳がない。同じ15歳でも俺はそんなに夢見がちな少年じゃない。それに、どこを俺の自信の根拠にするかまったく見当も付かない。だって相手は5百年以上も生きている歩く日本史みたいな人間で、闘う姿は見た事はないけど、シイよりも強いと言う。
「どれも聞いた話じゃねぇか。お前が見た事を信じろよ。俺に出来るアドバイスはそこまでだぜ。『お父さん』。」
圭介は悪気なく言っているんだろう、アドバイスも的確だと判断出来る。
「それに関しては僕も応援に回るね。僕はワールドカップ。圭介くんは異世界での修行。これが僕たちの答えだけど、君は何を基準に考える?」
この一族、と言っても主にアヤとシイを観察した結果だが、答えが金銭でない事は確実だ。この一族は金に無頓着だからそう思った。だから俺がプロのサッカー選手になって彼等を養えるようになるというのは答えにならない。こいつの目標であるワールドカップ優勝でも俺に告白の自信を与えるとは思えない。圭介のような格闘技術習得も少し違うだろう。そもそも俺は人を殴った事もない。出来れば接触プレイを無くしたくてバスケットの動きを練習したくらいだからな。サッカー馬鹿である俺にこの答えを出す作業はまだ早いのか。
「答えを急ぐ必要はないと思うけど?」
俺たちの小声の会話も彼女には聞こえているらしい。これって告白したのと同じじゃないか。なんとも恥ずかしい気分になって、俺は顔色を赤くしたり青くしたりしただろう。
「あなたはなかなか魅力的だけど、今はまだ病人から健常者になっただけの15歳の子供でしょ? だから今告白されても私の答えはノーで終わりよ。それに、私を欲しがっている異世界人や人間が多く居るのも事実だし、それに我慢出来なくなった夫と呼んだ人が居なくなったのも事実。私の時間は沢山あるからあなたはもっとよく考えてから答えを出した方がよいと思う。君も圭介くんも少し考え方が極端なんだから、あなたは少し子供で居なさい。」
優しく諭すような言葉だった。でも、俺はその言葉を聞いて実感したんだ。俺は本気でこの女の事を気にしているって事にだ。これが所謂俺の初恋だったと気付いたのは、もう暫く後になってからだった。
わかった。出来れば今の会話は聞かなかった事にしてくれ。俺にも考える時間は出来たんだから、何も急ぐ事はないんだよな。
二ヶ月前までならあんたに告白してから死んだ方が俺はすっきり死んだかも知れないけど、そんな迷惑を掛けたくて俺は助かった訳じゃないんだ。
「そうね、話は聞かなかったことにする。先ずは体を作り、大人に負けない男になりなさい。それはあなたを助ける為に依頼した彼の為でもあるし、その為に人間には貴重な血液を使ってくれた圭介くんの為でもあるわ。あなたに今出来る事はその二人への恩返し。それが先よ。それを終えて大人になってからもう一度私と出会って、話はそれからにすると良いと思うわ。OKするかはまた別の話だけどね。」
悪戯っぽく笑う彼女の顔は女子高生の輝きを持っている。こう感じるのは俺だけなんだろう。奴も圭介も呆れ顔だ。
「俺はやっぱりアヤの方が良いけどな。」
「僕もだ。」
二人のライバルが火花を散らす姿を見て、俺は思った。
こいつらが俺のライバルでなくて良かった。
奴と圭介が寝た後、俺は暫く彼女と話をしていた。この世界で今起きている不思議の話についてだ。流石に恋愛話の後だったので、少し緊張してしまったが、それは今は封印しておこうと思った。
そもそも、どうして奴の依頼を受けてくれたんだ? 金が目的では無いのは奴から聞いたから知っているし、シイからある程度あんたたちの能力については聞いたけど、どうしてもそこが俺には判らないんだ。
「そうね。あなたは口も堅いようだから話しても良いかしら。」
そう言って彼女は椅子から立ち上がった。奴と圭介が眠ったフリで聞き耳を立てているのに気付いたからなんだろう。場所を変えるという意味だ。俺たちは寝室を出て隣の部屋に移る。
彼女に椅子を勧められ、俺はそこに腰掛けて彼女の次の言葉を待った。
「彼からの依頼を受けた理由は簡単。私の能力維持の為よ。」
俺は言っている意味が判らない。勿論俺は表情に出した。
「ちょっと説明し難いのだけど、私の能力の源は、人の言葉と気持ちと約束なの。八つ裂き丸陛下が食事をせずに息をしていれば能力を維持出来るという話をしたと思うけど、私もそれに近い原理で動いていられるの。つまり、事実上の不老という能力ね。私を不死だと思っている人も多いけど、決して死なないという訳ではないのよ。その他の能力は修行して身に付けた物が殆どだけど、これだけは生まれつきなのね。彼が私に依頼を持って来た時の気持ちと言葉が私のエネルギーになった。そして彼は私との約束通り、あなたを加えた事で全国大会決勝に勝利した。これも私の能力には必要な栄養源なの。シイの充電方法が眠る事であるのと同じ原理だけど、私のは少しややこしいのよ。」
アヤの為とかではないんだ?
「そうね。母親としては失格かも知れないけど、アヤの生命力は尽きていたの。だから諦めていたというのが事実ね。癌癌細胞の発見は世界を混乱させる事でもあると思っていたし、事実札幌では圭介くんを巡って、起きなくても良い争いが起き、死ななくても良かった人間が沢山死んだ。家族に対する愛情が私は欠落しているのかも知れないわ。私以外の一族は皆私より先に死んでしまったから……」
初めて彼女が悲しそうな表情をした。5百年以上もの間、家族と呼んだ人々の死を見送って来た彼女の心は、かなり荒んでしまっていたんだろう。
ヤマト伯父さんという人は一体あんたの何なんだ?
「彼は私の一族の最後の分家の当主よ。私の妹の嫁ぎ先の一族の末裔。そして末裔にして最高の能力者。だから私の弟として扱っているの。本当は数えきれないくらい離れた親戚ね。」
その気分を生憎俺は判れないけど、スゲェ一族なんだな。
俺は椅子から立ち上がって冷蔵庫に向かい、中から飲み物を取り出した。彼女用と思われる水も一緒に持って来てテーブルに置く。
「ありがとう。」
彼女は受け取ってコップに水を注いだ。俺は缶ジュースなのでコップは使わない。
言葉や約束や気持が力になるのか。それは凄い事だ。入院していた頃に俺の母親が連れて来た宗教家やコスプレショーみたいな連中も、俺にその能力があれば効いていたのかも知れないと思ってしまった。見た目は女子高生だが、彼女が背負って来た地球の命運の重さを考えると頭が痛くなりそうだ。異世界との交渉や戦闘、人間の諍い、それらを彼女は殆どの時間一人で背負っていたんだからな。
そう言えば、八つ裂き丸王がもう一人地球で活動している王が居ると言っていたけど、それはさっき俺たちを此処まで連れて来てくれたシルヴィスっていう傭兵と同じ人かい?
俺がそう思ったのは彼が恐ろしく人間味のない男に思えたのと、少し暗い話題を打開する為からだが、その勘は外れていた。彼女の悲しそうな顔が俺を動揺させたのかも知れない。
「いいえ、彼は普通の人間ね。この場合の普通は異世界の人種ではないという意味だけど。彼はヤマトより強い人間ね。私から見ると可愛い青年でしかないわ。」
あの巨人みたいな大男の兄さんが可愛いか?
「ええ、彼はああ見えて愛情に溢れる人なの。主に自分の家族に対してね。それ以外の敵とみなした人間にはまったく容赦はないわ。そこがあなたの思った人間味のない所なんじゃないかしら?」
そっか、外れた。
「もう一人の王もシルヴィスに似てはいるけどね。八つ裂き丸陛下より人間に近い種族。主に人間との交渉や契約に彼が来るのはその姿からね。私も全ての王にお会いした訳ではないけど、他の王はちょっと人間には想像の付かない姿なのよね。」
成程、俺は八つ裂き丸王に羽と天使の輪があるだけで警戒したもんな。それ以外の姿だった場合はパニックだろうな。
「あなたは肝の据わった人間だと私は思う。だからこういう会話も成立するんだと思うけど?」
そうかな。俺は結構ビビりな方だよ。だから俺なりに情報は知っておきたいんだ。怖いから知っておきたい。知っていれば怖くなくなるって訳じゃないけど、逃げる事くらいは出来ると思うんだ。知らずに突っ込んで死ぬのはちょっと俺の性格上無理だよ。それに、折角拾った命は大事に使いたいからな。
そう言った俺を見て彼女は少し表情を和らげた。
「あなたなら私を包み込める人間に成長出来るかも知れないわね。」
意外な言葉に俺は耳を疑う。こんな弱い俺が彼女を包み込める人間になれるってどういう事だろう。
「言ったでしょ? 気持ちも私の力になるの。さっきの話を蒸し返す気はないけど、久し振りに嬉しかったのよ?」
俺は首の辺りから上がどんどん熱くなるのを感じた。
頼むから忘れてくれ。俺も暫く気持ちを封印するって決めたばかりなんだからさ。
顔を真っ赤にして言う俺の頭を彼女が撫でてくれた。
「あなたには普通の人間として幸せになって欲しいと願うわ。だからあまり異世界や魔族に関して興味を持たないで、人間らしく生きて。不思議な話ばかりだから聞きたいという気持ちはわかるけど、この話をあまり詳しく知ると戻れなくなるからね。さ、これを飲み終わったら少し休みなさい。あなたはまだ退院してからそんなに間のない元病人なんだからね。」
確かにオーバーワーク気味なのは認めるよ。
そう言って俺は残ったジュースを飲み干した。
翌朝、試験試合を終えた俺たちは東京ネズミランドに寄る事もなく、羽田空港に向かっていた。泊まったホテルでは何事も起きなかったから、帰途に着く為だ。彼女とはホテルの前で別れた。オッサンが運転手になり、空港まで送ってくれる。
オッサンも別の仕事があるからと言って空港で別れた。俺たちは初めてガードマンの居ない状態にされたんだが、飛行機に乗った頃にその疑問は晴れていた。俺の見た所、この飛行機の搭乗員は全員オッサンの仲間だったからだ。彼女にはあまり首を突っ込むなと言われたが、俺の観察眼はこの数週間で磨きが掛ってしまっていた。視界にさえ入ればその人物が傭兵であるかどうかが判ってしまうんだ。ある意味俺も能力者の仲間入りだな。
千歳からの電車で相席になった男と仲良くなり、訊いてみるとやはりその男も傭兵だった。
「ここだけの話だけど、あの二人が同時に同じ人物の警護をするのは極めて異例だぜ。大佐はああいう人だけど『大佐』だからな。本来部下に任せて指揮をするのが普通の軍人だろう。シルヴィスの旦那が日本国内で依頼を受けて活動しているのも珍しいぜ。警護の時間が合えばサインくらい欲しかったよ。」
あんたはミーハー傭兵だな。口には出さなかったが、俺は頭の中でそう思った物だ。殺人のプロの中でもかなり二人はランクが上らしい。彼女の話が出ない所をみると、この傭兵の記憶の中から消去されているんだろう。
そんな事を思っていると、電車が急ブレーキを掛ける。咄嗟に傭兵が俺たち三人を庇い、金属部分への激突を回避させてくれた。この傭兵もシルヴィスに負けず大きな人だから出来る事だったんだろうな。電車が停まった理由は踏切での事故のようだ。電車に被害は無いが踏切に進入したトラック二台が正面衝突しているとのアナウンスが入る。
そのアナウンスを聞いた傭兵が立ち上がった。表情がミーハーから戦闘にモードチェンジしている。
「ふざけやがって。俺の警護なら簡単に破れると思いやがったのか。どこの傭兵だ!!」
俺たちにこの場を動かないように言って彼は先頭車両の方に乗客をかき分けて進んで行った。考えてみるとシイに出会った宿舎以来の襲撃だ。この数週間は殆ど町内に居たし、彼女とシイが撃退していたので俺たちに直接仕掛けて来る傭兵は居なかったんだ。襲撃と決めつけるのもどうかと思ったが、冬でもないのに踏切内でトラックが正面衝突するなんて事は基本的に有り得ない。天気は快晴、風もない。よそ見運転でハンドル操作を間違うトラック運転手がたまたまここに居るってのもおかしな話だろう。流石の北海道でも六月に入ってから踏切内が凍っていてスリップするなんて話も聞いた事がない。誰かが通報して救急車やパトカーが来ている風でもない。一般乗客も居る中でこんな事をするなんて、なんて非常識な連中なんだとも思ったが、彼等も圭介を手に入れる為に手段は選べないという事なのかと思い直した。
それ程世界は癌患者を救いたい訳じゃないだろう。癌癌細胞血液を持つ少年を手に入れて研究したいだけなんだろうな。救うのは二の次という感覚が今回の事件で圭介を狙う組織に目立ったのは後で考えた事だ。
「どうする? あの傭兵は此処に居ろと言ったが……」
「暫く様子をみよう。」
圭介は自分の荷物を網棚から降ろして中からボールペンを数本出していた。それを靴下のゴム部分に挟んでいる。
何をしているんだ?
訝しんで訊くと圭介は苦笑いだ。
「こんな物が役に立つとは思えないけどよ。ボールペンは案外『刺さる』んだぜ?」
暴走集団同士の喧嘩では負け知らずの圭介はそれなりに防護策を考えていたようだ。
「確かに拳銃やナイフに勝てるとは思えないけどよ。奴らの目的は生け捕りだろ? 俺はそこに必ず隙が生まれると思うんだ。」
成程、一理あるかも知れない。
「俺がもしも捕まったら、一応この作戦を決行して、駄目だった場合は舌噛んで死ぬくらいの事は考えているぜ。なんだか判らない連中に捕まって、体をバラバラぶされるくらいなら死んだ方がいくらかマシだ。」
物騒な考えだが、それも一理あるな。
俺はそう言って誰かが飲まずに落として行った缶ジュースを通路から拾った。それを足元に置く。
圭介。その作戦の前に俺がこの缶ジュースを蹴って先頭の奴の顔面に当てるから、それが成功したなら全速で後ろの車両に逃げてくれ。お前の考えが正しければ、敵は簡単に発砲出来ない筈だからな。
「成程、僕もその案に賛成するよ。」
奴がそう言って自分がまだ飲んでいなかった缶ジュースを床に置く。
「時間差攻撃にしよう。僕が先に蹴って、それを相手が腕で弾いた場合、次を君が蹴るという作戦でどうだい? 成功率が少し上がるよ。」
成程、俺たちってひょっとして暴力的な思想の持ち主なのかね。くだらない作戦がポンポン出て来るじゃないか。
「まあ、様子を見に行ったあの傭兵が片付けてくれれば問題は無いんだけどな。」
圭介はそう言いながら立ち上がって車両内に俺たちしか居ない事を確認する。一般乗客は後部車両に避難するようにアナウンスがあったから、誰もこの車両には残っていなかった。
「ついでだから目くらましも付けるか。手伝ってくれ。」
そう言って窓のブラインドを全て降ろし始めた。
俺は奴に言って電球を外させる、俺の身長では天井にある電球は外す事も割る事も出来ないからだ。人数はそんなに多くはないだろうと考えられた。最初の一人を転ばせて圭介が後方の車両に移るまでの時間さえ稼げれば俺たちの勝ち。上手くいかなければ捕まる可能性が高い。俺は元癌患者だから確保対象だろうが、奴はただの依頼者だ。この中で命の危険があるのは奴かも知れない。その場合は俺が噛みついてでも奴を逃がす。
「この場合敵は前側の車両から攻めて来るのかな?」
「成程、踏切の事故は囮で車両の後ろから本隊が攻めて来る可能性か……否、それは無い筈だ。俺がそれをやるなら全方向から同時に攻める。つまり窓側も注意が必要だと思うんだ。だけど今の所電車の左右両側に怪しい車両や兵士の姿は見えない。ついでに言えば俺たちは素人だから、向こうは舐めて掛って来ている。警護の傭兵さえ倒せば良いと考えている筈だぜ。」
そうこうしている間に誰か一般客が勝手に電車のドアを開けて外に出始めていた、一般道路が近いからだ。その一般乗客が狙われたりはしていない。
「つまり敵は正面のみだ。」
圭介は不敵な笑みを浮かべていた。流石に異世界に修行に行くと決めた人間、俺たちより好戦的だ。
「僕たちの事を舐めているのはわかるけど、もしも催涙ガスとか催眠ガスとか使われたらどうする?」
「そうだな。それがどんな形をしているかが俺たちには判らんから、ドアが開いて何かを投げ込まれた場合は急いで息を止めて後部に走る。それしか無いだろう。後部の窓が確か開く筈だな。前側はそろそろ近付くとヤバい気がするんだよな。俺が後部の窓を開けておこう。ガスの逃げ道を作れば後部車両に走る時間くらいは稼げる筈だ。」
前側のドアが開いて先程様子を見に行った傭兵が吹っ飛ばされて来たのはその時だった。
俺たちは彼には構わず椅子の背に隠れる。体重のありそうな数人の男がドアに向かって走って来るのが見えた。その手には自動小銃が握られているのが確認出来る。顔は出しているから、ガスを使う要素は無くなった。俺より前のボックス席に隠れた奴がその席にあったミカンを転がした。先頭を走って来た兵士がそのミカンを踏む。勿論ミカンは潰れた。そしてお笑いコント並みの勢いでその兵士が倒れる。二番目の奴には缶ジュースを飛ばして顔面を狙う。腕で弾いたその真後ろにもう一本俺が蹴った缶ジュースが迫っているのには流石に驚いたようだ。
圭介が吹っ飛ばされた傭兵をボックス席に引きずり込んでいるのが視界に入った。圭介は傭兵を助ける為に逃げていない。それは今考えた作戦にはない行動だから、俺たちの負けか。
「大丈夫か?」
「ああ、これはいけねぇ。相手の中に特殊能力者が混ざっている……」
そう言って気を失ったようだ。圭介はその傭兵の様子を見て、相手の能力を見極める。
「能力者はどういう原理かは知らねぇが、手を使わずに人間を吹っ飛ばせるようだ。こいつには殴られたような跡はねぇ。」
その言葉を聞きながら俺と奴はミカンと缶ジュースを交互に繰り出して四人の兵士を転ばせる事には成功していた。勿論転んだだけでそいつらは死んだ訳じゃない。頭を打って気を失うような軟な奴は流石に居ないよな。そして五人目にはその二つの戦法が通じなかった。足元に転がったみかんを踏んでも倒れず、缶ジュースは空中で勢いが殺されてそいつの足元に落ちる。傭兵を吹っ飛ばした本人が後ろに二人の部下を連れてドアをくぐって来た。
「万事休すかな?」
奴が俺に向かって苦笑い。転んだ兵士も立ち上がる所だ。俺も苦笑いするしかないのか。
そう思っていると通路に飛び出した圭介がその能力者に向かって突進していた。殴る姿勢で固まる。
「ウワっ!!」
そう叫ぶと俺たちの方に吹き飛んで来る。殴り掛かった倍くらいの勢いだ。
「危ないっ!」
叫んで俺と奴が通路に出て圭介を受け止める。
「クソ。殴れもしねぇぜ。」
俺たちが受け止めたので圭介は怪我もしていない。傭兵は誰も受け止めなかったから床に頭を強打した為に気を失ったんだろう。自動小銃の銃口が6個、俺たちに狙いを定めているのが視界に入る。
「くだらねぇ事をしやがって!」
多分そんな感じの言葉を兵士の一人が発した。俺は外国語を全く聞き取れないけど、なんとなくそんな気がした。敵は見るからに全員が外国人だ。髪の黒い奴は一人も居ない。
「降参したら許してくれるのかな?」
苦笑いの奴が俺と圭介に訊く。
多分ねぇな。
俺は圭介のソックスに挟まっているボールペンを一本抜く。上着のポケットに隠した。
いざとなったら俺が圭介の喉にこいつを当てて人質にする。こいつらの目的は圭介の言うとおり生け捕りだ。まだ俺たちに逃げる事は出来る筈だ。
「おお、それナイスアイディアだぜ。他はぶん殴って倒す事が可能でも、あの能力者には触れる事も出来ないからな。」
それを確かめる為にわざわざ殴り掛かったのか?
「ああ、敵の能力を知るには多少の危険は覚悟しないとな。それに俺の顔を知っているなら他の兵士は撃てない筈だから、それも確認しに行った。奴らは俺を撃たない。」
それを確認出来ても俺たちに逃走手段が増えた訳ではないんだが、圭介の勇気は大したものだ。
「軽い衝撃波の使い手ね。逆の能力なら捕まっていたわよ。」
聞き覚えのある声が俺たちの目の前からしていた。最初は空間がぼやけて見え、だんだん人の姿に変わる。完全に人間の姿と確認出来た時、俺は彼女の背中にある刺繍を見つめている状態だった。
俺たちの前に背を向けて立ち塞がったのは、勿論彼女だ。俺たちが銃弾の雨に晒される前にその盾となりに来てくれたんだ。それ程大柄な女ではない筈なんだが、その背中が大きく見える。
「あなたたちに良い言葉を教えましょう。」
それは俺たちにではなくその眼前で小銃を構える外国人兵士に向かって言った言葉だ。
「真剣を笑う者は真剣に必ず敗れ去る。これは私の師匠の言葉、この少年たちの真剣さを笑ったあなたたちに未来は無い。」
彼らは圭介が吹き飛んだ時点で勝利を確信してニヤニヤ笑っていたんだ。そりゃ自動小銃×6と能力者が一人居れば普通は勝ちだろう。ニヤけるのも頷ける。相手はサッカー少年二人と不良少年一人だからな。
そんな言葉を言いながら、彼女は半身の構えに移る。これはシイがあの宿舎で消し去った兵士にした行動と同じ動きだ。シイと違うのはその腕が上に上がらず、下にだらりと下げたままだという事だろう。彼女が現れた事によって俺たちの生存率は格段に上がったんだが、俺は一人その動きの後ろで圭介と奴を俺の後ろに下がらせた。
「どうした? アヤの母さんが来たんだぞ?」
圭介が訝しげに言う。そりゃ俺も判っている。これがアヤやシイだったとしても俺たちは自分の安全を確信していただろう。
いや、俺は安全には安全の礼を尽くしたいんだ。万が一この人が銃弾に倒れた場合、今度は俺がお前たちの盾になる。その間に振り向かずにダッシュで逃げてくれ。いつも俺ばかりが救われて、なんの礼も尽くさないのは気が引けるんだ。
そう俺が言うと圭介たちは驚いたが、半身の構えの彼女は少しその口の端を上げて笑顔を作ってくれた。元々笑ったような顔だが、今はいつも以上の笑顔だ。
「その言葉。良いわね。あなたのその気持も嬉しい事。私が来たからといって油断しない心構え、それも良い。そんなボーナス貰うと私も来た甲斐があるわ。」
彼女は人の言葉や気持、約束を果たすというような事でその恐るべき能力に助力を加えられる事は、奴が俺を助けてくれと最初に依頼した時の報酬の不可解さから俺が推測した事だが、昨晩彼女に聞いた所それは正解だった。彼女は異世界の住人である八つ裂き丸とは勿論別の人種だが、人間とは思えないような能力を有している。それがこの『人間の言葉や行動から力を貰う』だろう。
人間が言葉を発し、何かの約束を彼女として守り続ける限り、その能力は無限に補充され続ける。つまり彼女は無敵なんだ。
能力者の男が兵士を下がらせる。現われ方が尋常じゃないから、そりゃあそういう判断になるよな。彼女は現れて構えただけなので、その能力を彼らは知らない。まあ、俺たちも実際に見た事はないんだけどな。
「ヤマトも変な所で気を抜くんだから。電車での移動時も飛行機と同じく気をつけろとあれ程注意したのにっ!」
彼女は少し怒っているようだ。表情からは相変わらず判らない。その笑顔は外国人には皆同じに見えているのか、能力者の男は訝しむような表情になる。
「まあ、私が間に合うと踏んでいたんでしょうけどね。危ないじゃないっ!」
観察は時間の無駄だと知ったのか、そう判断したと思われる能力者は彼女に突進して来た。両手をクロスさせて何か呪文を唱えているように見える。彼女は右手を挙げてその掌を広げただけだ。それで先程の衝撃波とやらを防げるのかが疑問だったが、彼女の能力は世界一らしいからな。
能力者の掌から何か目に見える風のような物がグルグル回って飛び出す。マンガで見た事あるような能力だ。彼女はその渦巻きを掌で受け止めた。一瞬均衡するが簡単にその渦巻きを窓側に弾く。威力は考えたくなかったが、その渦巻きが通った窓側の壁が渦巻きの形通りに削れて消えた。あんなの喰らっていたなら、俺は木端微塵になっていただろう。
能力者はその間に彼女の左側に走って回り込む。掌さえ無ければその渦巻きで彼女を殺せると思ったんだろうな。彼女が降ろしていた左手を上げ、拳を握る方が早かった。その拳には能力者と同じような渦巻きが纏わり付いている。だが、色が違った。彼女の渦巻きは金色に輝いて見える。無造作に振り上げた拳の能力は勿論意味不明だが、結果を見れば一目瞭然。電車が真っ二つに切れた。俺たちは車両の真ん中辺りに居たんだ。だから電車は真っ二つで表現に間違えはない筈だ。手刀という言葉があるけど、彼女の能力は正にその文字通りに何でも斬れるみたいだ。
能力者の男はその一撃をかわしていた。まあ、当たっていたらこいつはもう終わりだろうな。呆然とその様子を見ていた自動小銃を持つ六人の兵士が一斉に射撃してくる。俺は思わず奴と圭介を庇って床に伏せた。
銃弾は飛んで来ない。彼女の右手にある渦巻きが車内に広がって盾になっていた。その盾は銃弾を弾いている。なんて出鱈目な能力なんだろう。彼女は現れた場所を一歩も動いていなかった。能力者を追っていた左手の動きが俺たちの目前で止まる。右手の盾があるので兵士たちの方は見てもいなかった。床に伏せた俺たちの真後ろに能力者は回り込んでいたんだ。これは俺たちが人質って事だ。能力者の渦巻きは俺たちに狙いを定めている。
しかし彼女の表情に変化は無かった。それ以前に彼女の視線は能力者の後ろに向かっていた。
「てめぇ。随分とふざけた真似しているんじゃねぇか?」
能力者の男の真後ろに巨人にも見える男が立っていて、能力者が俺たちに狙いを定めようとしていた腕を掴んでいた。
シルヴィス!?
俺が叫ぶとシルヴィスは笑顔で応えた。
「おう。お前らの作戦はなかなかのもんだぜ。今度札幌に寄ったらその缶ジュースの蹴り方を教えてくれ。」
床に転がる缶ジュースを指差しながら笑う。
いや、それ以前にいつから其処に居たんだ?
「おう。今着いた所だ。なかなかの登場タイミングだったから、見ている者が居たならば拍手が起きるだろうな。」
その能力者の腕に触って大丈夫なのか?
「おう。衝撃波程度で俺の腕は飛ばせねぇよ。ちょいと皮が剥ける程度だぜ。」
「だって、電車の壁が無くなる程の技だよ?」
シルヴィスの手は本人が言う通り皮が剥けていた。だが血の一滴も彼からは流れていない。能力者の右腕を捻じり、俺たちを渦巻きから遠ざけてくれた。
「俺にとっては気の利かない垢すり程度のもんなのさ。兄さん。相手が悪かったな。」
後半は能力者に向かって言った英語だった。シルヴィスはなんとか振りほどこうともがく能力者の頭を左手で掴んでだ。能力者の体が宙に浮く、凄い怪力だ。左手から能力者の渦巻きが出てシルヴィスに当たる。それでも彼は頭から手を放さない。顔は笑ったままだが、着ている軍服の胸の部分が破れた。
「俺を怒らせるなよ。」
そう言ったがシルヴィスの表情は更に笑顔が増したようにしか見えない。
「すまねぇな。あんたの手まで煩わせるつもりじゃなかったんだ。ヤマト大佐から貰った情報に誤りがあってよ、人員配置を俺が間違えたんだ。」
能力者を押えたままでシルヴィスは器用に彼女に詫びた。それはボックス席で伸びているミーハー傭兵の事だな。
人員配置に間違えが無ければこんな危ない目には遭わなかったって事か?
「おう。俺も傭兵の中では結構知られた人間だからな。この程度の能力者を相手に出来る知り合いは結構居るんだぜ? こいつも能力者相手でなければそこそこ強いんだがなぁ。」
後で確認した所、この電車の前側で彼は戦闘し、普通の兵士を五人倒していた。自動小銃を持つ相手に素手で五人だ。それだけでも尊敬に値すると俺は思う。
能力者の渦巻きが弱って来ている。シルヴィスは頭を掴んで彼を宙に浮かせているだけだ。
「ちなみに俺はこいつらみたいな能力者ではないからな。俺は恐ろしく我慢強い精神と、恐ろしく堅い皮膚を持っただけの普通の傭兵だ。」
それって我慢出来る事なの?
「おう。傭兵は皆我慢強いぞ。こいつは能力に過信して拳銃すら所持していないが、こんな渦巻きじゃなく拳銃で俺の頭を撃ち抜けば、流石の俺も死ぬと思うがな。今の所頭を撃ち抜かれた事はねぇからなんとも言えん。」
そして豪快に笑う。俺たちの顔は呆れ顔になっているだろう。
遂に能力者の渦巻きが消える。両腕がシルヴィスの左腕を掴んで最後の抵抗を見せるが、それでもシルヴィスは頭から手を放さない。ちょっと嫌な音が聞こえて、その腕も両側に落ちた。
「おう。死んだか。」
いとも簡単に能力者の頭を締めて殺してしまえるのは充分過ぎる能力ではないかと思うが、確かにシルヴィスの言う通り、彼はただ我慢して敵の頭を締め続けただけだ。鍛えられた握力が能力者の頭蓋骨を割るまでの間、彼はひたすら耐え続けていたらしい。
一方彼女は兵士たちに銃弾を全て撃ち尽くさせるまでその光の渦を解かなかった。最終的に手投げ弾まで飛んで来たが、その爆発も防いでしまう。
「私でもシルヴィスの胸板は貫けないわ。彼は能力者ではないけれど、その体が能力者以上なのよね。それでも銃弾は効く筈よ。」
「おう。銃弾で太腿撃ち抜かれて出血死しそうになった事も一応あるぞ。俺みたいなデカイ体は良い的だからな。外す方が難しいんじゃねぇか?」
全然笑えないよ。
この数ヶ月で変な知り合いが恐ろしく増えた気が俺はしていた。
彼女は全ての弾薬を使い果たした連中に日本語で投降を呼び掛ける。通じているとは思えなかったが、彼らは両腕を高々と上げた。腰にはごっついナイフも持っているが、銃弾の効かない相手にナイフで挑む馬鹿も流石に居ないだろう。
最後までオッサンは現れなかった。彼女に怒られるのが嫌なんだろうな。
切れた電車から煙が上がって来たので、俺たちは外に出る。彼女は簡単に兵士の首筋を叩いて気絶させ、無造作に車外に放り出していた。シルヴィスも手伝っている。
「くっそー。痛てて……」
俺たちの横で倒れていたミーハー傭兵が目覚めた。シルヴィスを確認すると飛んで行って手伝う。この場合は能力者の飛ぶとは違うけどな。
「スミマセン! シルヴィスの旦那!」
「おう。無事なら良い。それよりそろそろ警察か自衛隊が動き出す、お前はあいつらを連れて札幌に向かえ。俺は本来この場に居てはいけない人間だからな。トンズラさせてもらうぜ。近くの道路に俺の乗って来た車が停めてあるからそれを使え。ただし、盗難車だから使い終わったらきちんと処理しろよ。」
言っている事は滅茶苦茶だが、シルヴィスは俺の頭に強烈なインパクトを残してその場から去って行く。そう言えばミーハー傭兵は彼女に気付いていないようだ。本人は目の前に居るのに挨拶するでもない。その疑問は彼女がウインクして応えてくれた。つまり、俺の思った通り、彼に彼女は見えていないんだな。流石は世界一の能力者だよ。
俺たちは荷物を持って暫く歩き、近くの道路に来た。停車しているシルヴィスが盗んだ車はバカでかいジープみたいな車だ。まあ、あの体格で普通乗用に乗って俺たちを迎えに来た時疑問にすら思ったからな。今回の車は意外という程でもない。後で聞いた話だが、シルヴィスはオッサンの情報の間違えに気付き、横須賀の米軍基地で戦闘機を奪って千歳の自衛隊基地に強行着陸し、それでも追い付けなかったので、そこで自衛隊の車を奪って追い付いたのだそうだ。車の処理に困ったミーハー傭兵がそう愚痴っていた。普通の人間じゃないのは確かだと俺は思った物だ。
その後俺はシルヴィスに殆ど会わなかった。彼はあまり日本には居ない傭兵らしいんだ。そのシルヴィスと再会したのはなんとも意外な場所だったんだが、それはずっと先の話だ。
それにしても、この真っ二つに切った車両をどう記憶操作するんだろう?
俺は呆れ顔で奴と圭介に訊く。
「さぁな。あの女のやる事はいちいちスケールがでかくて目眩がするな。しかし、俺が行こうとしている世界に行くよりあの傭兵に弟子入りした方が早いのではないかという気分にはなったぜ。能力者のややこしさがひとつも無いもんなぁ。」
「圭介くんの行こうとしている異世界は今の戦闘より凄い世界なんでしょ? 大丈夫かい?」
「まあ、それはなんとかしてみるわ。俺たちもそろそろ行こうぜ。」
シルヴィスの用意した車に乗り込んで札幌に向かう。
一度別れて各自荷物を置きに自宅に戻った。テレビを点けたが先程俺たちが体験した事のニュースは速報されていない。関係ありそうなのは交通情報で、札幌新千歳間の電車が事故により止まっているとの簡素なテロップのみだった。事故ってのは踏切に仕掛けられたトラック同士の正面衝突、つまり偽装だろう。とにかく特殊能力者についての報道は何一つされない。俺は呆れてテレビを消し、すぐにあの家に向かった。
既に奴と圭介は来ている。奴はアヤに試験試合の事を報告したかったんだろう。圭介よりリードしたい気持ちは判る気もする。数年後に圭介があのシルヴィスやアヤの母親レベルになって帰って来た場合、奴の勝ち目は薄くなるからだ。
しかし、アヤも母親も家には居なかった。俺たちを出迎えたのは眠そうなシイだ。
「どっちもお仕事だよぉ……。」
それだけ言って寝てしまう。オッサンの情報が間違えているとこの家は総出でその事後処理に当たるのだから当たり前と言えばそうなんだが、圭介も奴も少し寂しそうだった。
夕方、その事後処理を終えたらしいアヤが買い物袋を持って帰宅。
「おかえり。」
皆が口を揃えるのを見てアヤが吹き出す。何気なくハモったのがアヤの笑いのツボに入ったようだ。
圭介がアヤの買い出して来た物で料理を作ってくれた。少しでもアヤにアピールしようと思ったのか、この日から圭介はまったく料理に手を抜かなくなった、判り易い青春だ。
それでもアヤは俺と同レベルの鈍さを恋愛に関しては持っている。奴と圭介のアピール合戦はいつも簡単にアヤに流されていた。否、彼女の娘だからな、わざとやっているのかも知れない。
「今日はシルヴィスさんが来てくれたんですってね。」
他の男の名前が出る度にドキッとしたような表情になる奴と圭介を見ているのは面白かった。
ああ、あんな強い人が居るなんて、世の中知らない事だらけだな。
ドギマギする二人は応えられないので、俺がアヤと喋る事になる。
「ええ、彼は能力者以外の人間の中では最も強いと言われる人間の一人ね。あそこまで強いともうその強さが特殊能力みたいな物。普通の人間で異世界の生物と戦って勝った唯一の人間かしら。」
八つ裂き丸王レベルとか?
俺がその名を出すと奴と圭介が、その名を出すなみたいな顔をする。
「いえ、人間形状の魔物ではなく、もっと表現し難い生物と戦った事があるのよ。わたしたちも一般人が襲われているからという事で救出に行ったんだけど、彼はわたしたちの助力なしでその生物を殺していたのね。何の予備情報もなく異世界の生物と対戦して勝てる人間は彼が初めて。」
「トンネルを抜けて来るんだ?」
「ええ、たまに結界を破るか引っ掛からずに地球に来て暴れる異世界の生物が居るの。大概は後者だからそれ程の強さではないわ。わたしたち能力者なら簡単に相手が出来る。けれど傭兵ですらなかった一般人の頃のシルヴィスは勝ったのよ。」
へぇ、スゲェんだな。
「元々何かの格闘技選手だったらしいけどね。それを生かして異世界生物対処のエキスパートになるかと退治屋業界でも話題になったんだけど、彼は人間相手の方が気楽で良いと言って傭兵の道を選んだの。まあ、日本人で傭兵という職業をしているのも珍しいんだけどね。」
まあ、あんまり聞かないよな。
一般的な職業では無い事は確かだろう。
「彼も札幌出身よ。」
はっ?
俺たちはその言葉に呆然とする。
まさかこの町内とか言わないよな?
「流石にそこまで狭くはないけど、同じ西区よ。年齢も離れているからわたしたちと一緒に登校していたとかはないわ。でも小学校に関しては先輩よ。」
「それって、殆ど町内じゃないか?」
なんて狭い世界なんだ。退治屋業界。
「たまたまよ。別にこの町内にそういう人が生まれる特別な要素がある訳ではないわ。ウチの一族の血も入ってはいない筈。ご両親の血縁も母さんが辿ってみたけど、別にこれと言った能力者の生まれる家系でもなかったわ。あの『兄妹』は突然変異みたいな物ね。」
兄妹!?
俺たちは完全に固まってしまった。ご近所に居る特別はこの家だけだと思っていたからだ。シルヴィスに妹が居るのも今初めて聞いた。
「あら? まあ、仕方ないか。あなたは中学に登校していないものね。それに妹さんの方は普通に日本名だし、あんなに体が大きい訳でもないから、気付く方がおかしいわね。」
それを聞いた奴が圭介の作った料理を口に運ぶ途中で止まった形のままで質問する。
「まさか、僕らと同じ中学なのかい?」
「ええ、そうね。結構目立つ人だけど、本当に心当たりがないの?」
俺は無いに決まっている、圭介は違う中学だしな。奴は暫く思考を巡らせた。
「……生徒会長の……鷹刃氏さん?」
「正解。でもこれは秘密よ。彼の職業上、家族の存在は隠しておくのが常識なの。彼も戦場で沢山の人を処分して恨まれている事も多いからね。学校で会長のお兄さんは傭兵なんですか? とか訊いちゃ駄目よ。」
その鷹刃氏なる同窓生がこの家と似た退治屋稼業を始めるのはもっと後の話だ。
でも、シルヴィスの苗字が判ってしまったが、それは隠さなくて良いのか?
「それも偽名。鷹刃氏先輩の苗字が偽名よ。その辺はあまり詮索しない方が良いわよ。シルヴィスさんの強さは見たでしょ? それと同等の力を秘めていると言われるのが鷹刃氏先輩だからね。怒らせて勝てる相手ではないわよ。」
まあ、俺たちは偶然巻き込まれたような物だからなぁ。それについて知りたいという知識欲みたいな物は持っているけど、実際に会いたいとは思わんし、出来れば関わり合いにはなりたくねぇなぁ。
殆どの会話を俺とアヤがしている。お前ら、俺に喋らせないでもっとアピール合戦しろよな。
俺がそう視線に込めて奴と圭介に送る。
二人はドギマギしながら意識し過ぎのぎこちない会話をアヤと楽しんだ。まあ、見ていて楽しいのは俺だけだったのかも知れないが、アヤに関して俺は二人を応援する係の筈だからな。
翌週、世界のサッカー情勢を視察していたOKD監督が帰国し、キングから一本のビデオテープを受け取った。これはその後で俺たちの所に使いに来た旅人さんから聞いた話だ。
「これは裏の話だけど、正式なオファーだぜ。OKD監督はお前たち二人を正式に全日本の隠し玉として使いたいそうだ。」
俺はその旅人さんの言葉を自宅の玄関で聞いた。
隠し玉という事は俺たちの存在は大会当日まで秘密って事?
「そうだ。監督はお前たちの映っているビデオやDVDを全て焼却するようにキングに命じた。合宿も今の代表とは非公開の時だけお前たちに参加して貰う方向で協会とも話を着けている。V.I.P待遇だぜ?」
俺はその足で旅人さんと共に奴の自宅に向かい。旅人さんが帰った後にアヤの家に報告に出向いた。
札幌に潜伏していたテロリストは一掃され、彼女とオッサン、それにシイは別の場所に出掛けていて留守だった。報告を聞いたアヤと圭介は素直に喜んでくれる。
こうして俺たちは中学に殆ど通う事も出来ずにその後の半年をサッカー漬けで過ごした。OKD監督の秘密主義は完璧と言えた。彼はアヤの母親に依頼する術を持っていたんだ。正確にはオッサンと繋がりがあったみたいだ。報道をシャットアウトした筈の練習でビデオを回していた記者の記憶を消すなんて事はアヤの母親にとっては朝飯前の作業だからな。
翌年の本大会直前、登録期間ギリギリで俺たちの名前はやっと世に出るが、その情報は全く世間には伝わらなかった。どちらかと言うと俺たちの話題よりキングの代表復活とスペインで活躍する大空先輩という稀代のサッカー選手の話題で代表の話は持ち切りだったんだ。これもOKD監督が練り上げた作戦の一つだったんだが、お陰で功を奏して世界はまだ俺たちを知らない。