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こうして俺は世界に飛び出すキッカケを貰った。

こうして俺は世界に飛び出すキッカケを貰った。


間に合った。

俺の両親の元にはあいつのチーム、つまりは北海道選抜の監督から話が通っていた。俺は退院したばかりなのにいきなりタクシーに乗せられ、自宅に向かうでもなく、新千歳空港から飛行機に乗せられた。考えてみると俺は人生初体験の飛行機だ。到着した空港にはコーチ風の男が待っていて、またタクシーに乗せられる。これは殆ど誘拐だぞ。

試合は午後からだと告げられ、タクシーの中でユニホームが手渡された。

あいつのチームは本当に全国大会の決勝まで勝ち進んでいたんだ。

質問したい事は山ほどあったが、俺は試合に集中する為に、その質問の山を頭の奥に封印する。三年も試合には出ていないのだから、体が持つかの方が心配だった。

それでも、俺が言うのもどうかと思うが、あの痛々しい程のリハビリに比べれば、サッカーの試合くらいどうにかなるだろうとも思える。体重は平均より劣るかも知れないけど、筋力はかなり戻したつもりだ。

ただ、復帰戦がいきなり全国大会の決勝というのは考え物だ。三年間頭の中でしかボールを蹴っていない俺より、三年間中学レベルのサッカーをしていた人間の方が上に決まっている。それはかなりの心配だったが、俺には良きパートナーであるあいつが居る。それだけを信じて俺はタクシーの中でユニホームに着替えた。

会場に到着すると、奴と今回選抜されたメンバーが迎えてくれた。監督とミーティングもしていて、俺へのサポート体制は万全だ。

ウォーミングアップの為に廊下でストレッチ、会場には観客が入っている。大きな試合場だ。

「今日は全日本の監督であるOKD氏も来場している。テレビ中継は入っていないが、夕方のニュースの取材くらいは入っているから、気合い入れて行けよ!」

監督にそう言われてピッチに俺たちのチームが出て行くと、北海道からわざわざ応援に来たと思われる暇な人たちから歓声が上がった。まあ、札幌市内で行われている奇妙な市街戦はかなり限定された区域で、殺人プロ同士が行っている事だから、一般人は殆ど通常に仕事したりしているんだよな。

成程、来賓席に見た事のある全日本の監督さんが居る。結構前に道産子オーレ(北海道にあるプロチームの名前)の監督もしていた事があったっけ。来年のワールドカップの最終予選とかで忙しいんじゃないのかね。こんな中学生の大会見に来ていて大丈夫なのか。

そう思っていたが、その全日本監督の視察目的があいつだという事は試合が始まってすぐに判った。最近のスポーツ新聞とかにもよく書かれている『得点力不足』という文字が俺の頭に浮かぶ。しかし、全日本に中学生なんて入れないよな。本戦は来年だから高校生にはなっているけど、六月だろ。体もまだ成長過程なんだし、そんなに今の全日本が悪いとも思えないけどな。

前半、一進一退の攻防、両チーム得点無し。俺は何度か突破を試みるが、なかなかどうして、試合感覚が戻っていないのと、流石に全国の頂点を決める試合に出て来る相手は、俺のドリブルを何度も止めた。レベルが高い。

俺のセンタリングを待つあいつに悪いな。という気分でベンチに戻ると、奴が俺の肩を抱いて耳元で囁いた。

「前半は良いリハビリになったでしょ? 後半5分に仕掛けたいからよろしくね。」

そして俺はあいつの囁きの意味を理解していた。

あいつの言う通り俺は後半が始まって5分にかなり敵陣の奥で味方からのパスを受けた。これが仕掛けるという意味だろう。俺に敵陣を突破してセンタリングを上げろと奴は言ったんだ。

相手ディフェンダーの左を抜ける。フリをしながら、右に抜けようと努力する。流石に全国大会決勝の相手ディフェンダーは簡単には抜かせてくれない。右にも反応して来たので、俺は更に体をひねって殆ど後ろ向きになる。通常ならここでバックパスだろう、俺の味方もそのフォローの為に俺の視界に入る場所に居る。相手ディフェンダーはそこに視線を送っただろうか。送ったと判断しながら体をもう半回転、元の向きに戻る。バックパスを阻止する為に相手は足を出してバランスを崩している。後ろからのタックルは反則だろうが、その辺は中学生のする事だし、ついでに言えばスライディングタックルにならない限りはなかなか審判も反則を取らないのが現状だ。バランスを崩したディフェンダーの『しまった』という表情まで確認し、俺はボールを前に蹴る。自分で相手陣内に持ち込む為だ。わざと相手の足に引っ掛かって転んでファールを誘うという手も無いではないが、俺はそれで逆に反則を取られて退場した苦い経験があり、それはせずにディフェンダーの横を走り抜ける。

一回転した事で俺は味方と敵の位置をかなり正確に把握した。この敵ディフェンダーの後ろにフォローは居ない。俺は一気にディフェンダーの横を駆け抜ける事に成功。

センターを守っていた相手ディフェンダーがこっちをフォローするかどうかで迷っている。俺は今どフリーだ。センターバックの選手が一瞬迷った事で、マークすべき敵であるあいつがフリーになったのを俺は見逃さない。

相手は俺を知らない。当たり前だ。俺は中学に入学という手続きはしていても、登校は一度もしていないし、サッカー部に籍がある事を俺自身が知らなかったくらいだからな。

だから、俺がどんなプレイスタイルで、どれくらいドリブルが上手く、センタリングが正確かをこいつらは殆ど知らないだろう。今までビデオで見たどんな中学生より俺のドリブルは早いか? 俺のフェイントはどうだ? 札幌ごとき田舎にこんなにサッカーが上手い中学生が居る事を誰も知らないだろ? 俺のパスを待つあいつ以外はチームメイトでさえ知らないだろうな。あいつがゴリ押しでスタメンに俺を入れてくれたんだから、他の選抜メンバーも俺を知らなかった。観客にすら俺のプレイは強引に見えただろう。ゴールラインを割る寸前でボールと体の勢いを止め、センタリングを上げるのを得意とするプレイヤーが此処に居る事を、この会場に居る誰もが知らない。

それが俺の今現在の強み。そしてそれが俺の唯一の武器だ。

俺が癌で倒れる前の試合で、俺はあいつに一試合で8点取らせたんだぜ? 自分でも2点決めたし……まあ、小学校の時の話だけどな。

そう思いながら、ゴールラインぎりぎりでボールを踏んで勢いを止め、同時に踏んだボールに回転を与え、そのボールを蹴ってセンタリングを上げる。俺の蹴ったボールは、不自然な回転を与えているから、グラウンダーのセンタリングがホップして浮き上がる。浮き上がったボールがまるでそこに最初から来ると判っていたかのように、あいつは待っていた。これはヘディングでシュートに持って行くボールだ。相手の誰もが知らなくても、流石にあいつだけは判っている。こんな馬鹿なセンタリングが来るとは誰も思っていないだろう。パッと見た目には蹴り損ないにしか見えない。こんなにボールの軌道を曲げられるならシュートすれば良いんだからな。でも、それはゴールキーパーの位置取り上無理なんだ。それでは得点にならない。

あいつは足で蹴るシュートもかなり強烈だが、ヘディングはもっと凄い、これは小学生の頃から変わらなかった。恐ろしくスピードのあるヘディングシュートは、相手キーパーの右耳を掠めてゴールネットを揺らす。キーパーが動く事も出来ないくらい強烈なヘディングだ。

一応前半はリハビリも兼ねて右足だけでドリブルしていたから、見ていた奴が居たなら俺は右足が利き足だと思い込んだだろうな。まあ、どっちでも蹴れるんだけどさ。だから俺が左足でセンタリングを上げるとあいつ以外は思っていなかった訳で、見事にディフェンスのタイミングを外す事に成功したのだと、俺は自画自賛しながら分析するね。

だが、これ以上の奇跡は続かないと俺には思える。何と言っても相手は五年連続優勝の県選抜。俺の優位であった情報不足も、この一発だけに終わるだろう。晴れていなかったのが幸いし、俺たちは泥だらけになりながら、後半の殆ど全てをディフェンスに費やす事になる。

札幌の街は冬には室内で練習すると思われがちだが、結構雪の積もった運動場で練習をする事が多い。勿論シューズは高価な物だし、雪の中で使う訳には行かないから、長靴かスノトレと呼ばれる靴でボールを蹴り、走る。これは相当走り難く、蹴り難い。俺たちはそんな練習方法で足元の悪い場所での戦い方を自然に身に付けているから、天気が悪いのはかなり有利だ。そういう細かい所で優位を持たないとこの試合に勝つのは無理だ。天気が快晴でコンディションの良い芝であれば、北海道選抜はまったく駄目だろう。決勝に残るなんて夢のまた夢ってやつだ。ドリブルもパスもトラップも、そもそも走る速度も相手が上だ。

前半までは五分の展開でスコアレス、後半5分に俺のセンタリングからあいつのヘディングで1点。後は全て守っていたと言っても過言じゃない、雨もかなり酷く降り、足元はドロドロ、芝は滑る、パスは水溜りで止まる。酷い状況だが、これが俺たちのチームの守りに味方した。俺もあいつもセンターラインから敵陣に殆ど入れないが、狭い場所でのプレイになったので、体力は持った。流石に退院してすぐにフルで出場するのには無理があったが、志願して最後まで監督やコーチの方に向かってバツ印を手で作らなかった。全てが守りでも、俺は楽しかったんだ。

病院のベッドで頭の中だけでサッカーをしていた事を考えれば、これは本当に奇跡と呼べる出来事で、俺は試合を最後まで楽しんだ。心臓が破裂しそうでも、吐き気が襲っても、俺は今この試合会場の中でプレイヤーとして戦っている。この状況がいちいち新鮮に思えた。

試合終了のホイッスルが少し早く聞こえるくらい、俺は集中していただろう。終わった瞬間に倒れそうだったが、勝った試合に関しては体力の限界よりも精神が勝る。出会ったばかりの他のチームメイトと健闘を称え、敵チームメンバーと握手する。膝が笑うが勝利の喜びでカバーだ。

優勝旗と優勝トロフィーの授与、そして俺は小学生以来久し振りにメダルを貰った。メダルを首にかけてくれたのはゲストで来ていたOKD監督だ。

その全日本監督が俺の首にメダルをかけて握手し、ついでにハグされたんだけど、その時に耳元でこう囁かれた。

「素晴らしいセンタリングだ。彼のヘディングも素晴らしかったが、あのセンタリングは世界を変えられる程の浮き上がりを見せた。私はなんとしても君と彼を来年に間に合わせたい。」

俺の心臓が高鳴る。中学生に全日本の監督が粉かけてる。こんな信じられないサプライズがまだ残っていた。本当に生きているって素晴らしいと思える瞬間だ。

復帰初戦は本当に厳しい試合だったが、そんな訳で晴れ晴れとした気分になったのを覚えている。

祝勝会もそこそこに、早めに宿舎の部屋に入った。正直疲れていて乾杯したジュースの味も定かじゃない。久し振りの試合は俺の体を傷めつけていた。でもその痛みが妙に嬉しい。神経にまで入った癌細胞が痛覚の神経を殺してしまったおかげで、俺は癌患者である間痛みを感じない人になっていた。それが、今では筋肉痛も打撲も痛みを感じるまでに回復したのだ。変な嬉しさだというのは判っているが、失っていた物を取り返した喜びは、失った事のある人間にしか判らない。

決勝戦が厳しい戦いだったのは、俺の体調だけではなく、他のチームメイトを見ても判る。中には俺より具合の悪そうな奴までいた。

この試合で一人得点した奴は俺と同じ部屋になった。これも奴が希望した事であるらしい。

俺は着替えも面倒でそのままの格好でベッドに倒れ込む。体が痛くて眠れそうにないが、横にはなりたかった。奴は相変わらずで、ベッド横に備え付けられた机のライトを点けて反省ノートを書いている。こいつも疲れただろうに。

俺も疲れていたが、口は動くので、ベッドに体を倒したままで奴の反省に付き合う。これは奴が中学に入って試合がある度に俺の居る病室を訪ねてビデオを見ながらしていた反省会があったので、苦痛には思わなかった。それに今日の試合は俺も出ているから、ビデオ無しでも反省会は出来る。

「僕がトリプルハットトリックを決めた試合があっただろう?」

ああ、あの試合は今でも覚えているさ。あの試合は俺の自慢でもあるからな。

「あの試合の終盤、今日の試合後半5分に君が上げたのと同じセンタリングを君が上げて、僕はシュートを外しているんだよ。小学生のレベルの低い試合だったし、何しろ時間が中学生の試合より短いからね、僕は正直10点目を狙って焦っていたんだ。」

トリプルハットトリックでも満足しないお前には脱帽だな。しかし、俺にとってはそんな事あったっけ? という事をこいつは本当に良く記憶している。

だけど、思い出して見れば、あの時のセンタリングは正直蹴り損ないだぜ。あんな変な回転のセンタリングに小学生で頭で合せられたお前はやっぱり凄いと思うけど?

「否、僕はどんな回転のボールにでも合せる自信があった。それが蹴り損ないでもね。僕はだからセンターフォワードなんだよ。どんなに相手のマークがきつくても、体勢が悪くても、ゴールに蹴り込むのが僕の仕事だ。中学生になってから、一度もセンタリングをゴールの枠内から外した事はないんだ。だから、余計に君のあの時のセンタリングをもう一度受けて見たかったのさ。」

俺があの試合の後、癌で倒れる前まで、変な回転のセンタリングの練習をしていた事をお前は知っていたから、今日の後半にそのセンタリングを上げようと俺は思っていたんだ。お前もそう思っていたのは嬉しいね。

それが俺を此処まで呼んだ訳か?

「ああ、僕の最高のパートナーである君のあの不規則な回転のセンタリングを、僕は決めたかっただけなんだよ。」

こいつにこんな事を言われると気恥ずかしいが、俺は素直に喜んだ。こいつが依頼しなければ死なずに済んだ人間が居るのは、また別の話だ。

それはそうと、お前は一体何処であんな凄い人たちと知り合ったんだ?

俺は気になったので訊いてみた。

「あれ? 気付いてなかったの?」

えっ?

「あの人は僕らの町内会に居る人だよ? 君も会った事があると思っていたけど。」

町内会!? 

俺の出身地とこいつの出身地は勿論近い、公立の小学校だから校区割によって殆どの児童は同じ学校に通っている。流石に高校生にでもなれば札幌各所から人間が集まって来ていて、見た事も聞いた事も無いような学校出身の生徒と一緒になるのだろうが、俺もこいつもまだ中学生だ。それに、こいつとは生まれた時から同じ町内会でもある。こいつが知っていて俺が知らない人間が町内に居るとは思っていなかった。

「ほら、よく放課後に遊んだコンクリートで出来た山のある公園を覚えていないかい? 僕らは『山公園』とか『なっかまど公園』とか呼んでいたじゃない?」

その公園なら覚えている。コンクリートで出来たやたら危険な遊具山のある公園、なっかまどは本来ななかまどの木がある公園という意味なんだろうけど、なゝかまど公園と表記されていたので、小学生の俺たちはそう読んでいたというだけだ。その公園で俺たちは放課後、日が暮れて暗くなるまでよく遊んでいた。

「その公園の近くに、僕たちがお化け屋敷って呼んでいる一軒家があっただろう? 大人になると見えなくなるっていう噂のあった家だよ。」

そう言えばそんな一軒家があったな。実際には普通の一軒家で、普通に人も住んでいた家だ。誰かがビデオで見たお化けの家だか悪魔の家だかいう映画に出て来る家にシルエットが似ていたから付けたあだ名みたいなものだったと記憶しているけど。

「噂の半分は合っていたんだよ。実際大人に訊くと誰もその家の存在を覚えていない。年齢を重ねると記憶から消えて行く家なんだ。不思議だろう?」

まあな。でも、今の俺は大抵の不思議には驚かないぞ。なんといっても癌が治ったんだからさ。それも不思議な力でさ。それでその家がどう関係するんだ?

「だからさ、その家の住人が君の言う人たちだよ。」

俺は暫く呆然とした。驚いたというよりは、呆れたが表現としては正しいだろう。なんて狭い世界で物事は進行しているんだ。俺もこいつもまだ大人ではないけど、少なくとも俺は既にこの家の事を言われるまで忘れていた。

確かにちょっと変わった家だった。形がではなくて、その住人がだ。そしてこれも今言われて思い出した。

変わった柄の服をいつも着ているお姉さんが住んでいた。そっくりな顔の子供二人と一緒にだ。

病室で俺の隣に寝ていた中学一年の女の子、癌癌細胞血液を持つ少年が病室に現れた翌日に病室に来た女医に変装した女。そして退院までの間一緒の病室にいた盲腸を破裂させたのに顔色一つ変えない男の子。一緒に居る間一度も俺はその公園もお化け屋敷と呼ばれる一軒家の事も思い出さなかった。

「それが普通らしいよ。僕も君のパスをどうしても受けたくなって、初めて思い出したくらいだからね。僕らは小学生の頃、その家にお邪魔した事もあったし、彼らと話した事もあった筈なんだよ。僕は思い出した翌日にあの家を訪ねたよ。ひょっとして僕の記憶の中で作られた物なんじゃないかと思ったからさ。だけど、実際にあの家は存在して、住人も僕の記憶の中に居る人だった。お姉さんは僕の記憶の中に居る人とまったく同じで、驚いたけどね。あれから少なくとも五年以上は経過している訳だから、お姉さんがおばさんになっていてもおかしくはないのにね。」

俺の記憶にはまだもやがかかっている。その家の住人までは思い出したが、彼らが一体どんな商売をしていたかがまったく思い出せない。

「僕はその不思議なお姉さんに、どうしても君からのあのパスをもう一度受けたいのだけど、君が不治の病で入院していて、もう長くない事を告げたんだ。そうしたら彼女は快く引き受けてくれた。信じていれば必ず君を選抜大会の決勝に間に合わせるってね。僕は信じて待っていた。不安はあったけど、監督やコーチにもかなり無理を言ってね。そして、願いは叶った。」

蘇る記憶、それは何故かさくさくと俺の過去を思い出させた。何故今まで忘れていたのか、まるで封印されてでもいたかのようだ。

あの公園、俺たちはそこで鬼ごっこもしたし、かくれんぼもした。時には野球ごっこ、サッカーのシュート練習、外周をひたすら自転車で走ってタイムを競ったりもした、そして、あの一軒家にお邪魔し、そこで晩飯を食ったこともあったんだ。

どうしてそんな最近の記憶が封印されているのか、俺にはまったく判らない。確かに真っ暗になって帰宅して親に怒られ、何処で晩飯をご馳走になったかを訊かれても、俺は思い出せなかった。翌日に奴に訊いても答えは同じ。

「僕も覚えていないんだ。」

あれだけまめに反省ノートを書いている奴でさえ思い出せない昨日の晩の出来事、それでも何も不思議とは思わなかった。

あの女、記憶操作でも出来るのかね?

俺の問いに奴は笑ってみせた。

「そうかもね。不思議な力を持った人間だよ、あのお姉さんはさ。」

人間かどうかもちょっと怪しいけどな。

そう言って二人で笑った。

しかし、今思い出した俺の記憶に居るあの女と、この前出会ったあの女。同一人物の筈だよな? 俺の記憶に居るあの女も、この前会ったあの女も、何一つ変わっていないのが気になる。あれから五年は経っているだろう? 小学五年六年は俺たちサッカー少年団でやたらと忙しかったから、あんまりあの公園に行かなくなった筈だ。この記憶の欠落が抗癌剤のせいでないとすると、あの女はまったく年を取らないことにならないか?

「それは僕も思ったけどね。あのお姉さんの事を偶然思い出した僕は、記憶を辿ってあの公園に行き、コンクリート製の山の上から見えるあの家を見つけて訪ねた。対応に出て来た彼女は僕の記憶の中に居る五年前の姿のままだった。だから、それは君の記憶と一致する。きっとあれだけ不思議な能力を持った少年を探せるのだから、彼女も何か不思議な能力を秘めているんじゃないかな? もう不思議だらけで頭がおかしくなりそうだけどね。」

笑顔で言われて俺も笑う。なんとなくだが納得出来た。その娘と息子はどうやら痛みを感じない人間らしいし、時々日本語で喋っているのに聞き取れなかったりしたもんな。

そうだ、お前あの女に依頼したんだろう? そんな金どこから用意したんだ? 出来れば俺も返済に付き合いたいんだけどさ。

そう俺が提案すると、奴は思い出し笑いの表情に変わる。

「それがさ、変わった報酬を彼女は求めて来たんだよ。」

変わった報酬?

俺は言葉を繰り返した。

「そう、テレビドラマなんかでも、人探しを依頼したなら、お金が掛かるなんて話はよくあるじゃない? だから僕もお金はどれくらい掛かるか訊いたさ。そうしたら、彼女はあの笑顔のままでこう答えた。『依頼料は君の依頼を私が果たせて、彼が試合場に間に合い、君のチームが勝つ事。これで良いわ。』だってさ。それって料金じゃないよね?」

そうだな。

俺は腕組みして考え込んでしまった。

依頼主が子供だからだろうか。確かに俺にも奴にも支払能力は無いだろうが、それにしてもおかしな報酬だ。

「それと、もう一つ気になる事があるので僕からも訊いて良いかな?」

俺は考えながら頷く。奴の疑問点は何だろう。

「君が居た病室の隣に寝ていた彼女、それからその弟だと言う彼、そして、その母親だと言う彼女、苗字でも名前でも良いんだけど、思い出せるかい?」

んっ? それくらいなら覚えているさ。翼翼、凛、玲、トオル……俺……あれ?

中学一年の女の子、そしてその弟だと言う男の子。名前がまったく出て来ない。母親という女は小柳先生の白衣を着ていて、名乗らなかった筈だが、俺は子供二人の名前を呼んでいた筈だ。退院してからすぐに此処に来たのでバタバタしていたからかな。否、それにしてはおかしい。だって、その弟とは今朝退院するまで一緒の病室に寝ていたんだ。

「やっぱりね。僕もそうなんだよ。あの家を直接訪問して僕は依頼をしている。それにも関わらず彼女の苗字すら思い出せないんだよ。確かに表札は門柱に掛っていたし、僕はそれを読んだ覚えもあるのにだよ。細かい所を覚えているのに、その名前だけ思い出せないのはどう考えても僕たち何かされたんじゃないかな?」

記憶操作。そんな言葉が俺の頭に浮かんだ。さっき言ったのは冗談のつもりだったんだが。

超能力を題材にした映画やテレビドラマじゃないんだぜ。そんな事が現実に起こる訳ないじゃないか。

そう言葉にして見たが、説得力は無い。この世界では俺の癌は治ったのだから、どんな事があっても不思議では無かった。

「それに関しては僕が答えようかな。」

その声が突然部屋の中でした時、俺はベッドから飛び起き、奴は向かっていた机から勢いよく後ろに振り向いた。二人部屋の筈のこの室内にもう一人人間が居たらそれは驚くだろう。

シイ。

なんとも簡単にこの少年の名前を思い出す。

「そう、見れば思い出すように仕組まれているんだよ。」

そいつの言った言葉を頭の中で反芻する。これが記憶操作という術なんだ。

それにしてもお前一体いつからそこに居たんだ?

俺の問いにシイはクスクスと笑った。こいつは小学校低学年のクセにどうしてこんな笑い方が出来るんだろう。

「こう言って通じるかどうかは疑問だけど、なかなか実体化出来なくてさ。話だけは暫く前から聞いていたんだけど、なかなか姿が現わせなくてね。僕の術が未熟なんだ、これは僕のせいであって誰のせいでもない。それで、今のお兄ちゃんたちの会話の続きだけど、僕の家はちょっと普通じゃないんだよ。僕も小学校に通うようになってからやっと理解したんだけど、今みたいな術は普通の人間には出来ないし、記憶操作と呼ばれる術も本来なら有り得ない事なんだよね。盲腸が爆発したら痛いって言うのが普通で、僕みたいなのが異常なんだよ。僕もお姉ちゃんも母さんもそういう普通の世界では生きられない人間だっていう話。」

「まるで魔法使いだね。しかし、あんまり驚かさないでよ、僕たちは君から見れば普通の人間な訳で、急に居ない筈の人間が目の前に現れたらショックで心臓が止まる可能性だってあるんだからさ。」

奴が驚きの表情を元に戻しながら、シイをようやく視認したような顔で言う。シイは苦笑いした。母親よりは表情のバリエーションが豊かだ。

「ごめんね。僕もこの現れ方には抵抗があるんだけど、職業上接点の無い人にはなるべく会わない方が後々優位に事が運べるって母さんが言うものだからさ。」

職業?

俺の目の前に居るシイはどう見ても小学生だ。職業というのは母親の仕事の手伝いという事だろうか。

「まあ、僕もお姉ちゃんもまだまだ手伝いの範囲にも入らないようなレベルなんだけど、一応家業の手伝いはしているんだ。相手が人間以外だと結構僕やお姉ちゃんでも役に立てるんだけどさ、人間相手は殆ど母さんの仕事かな。だから今回は僕がお兄ちゃんたちへの伝言係で、母さんは札幌で訳の判らない理由で戦っている連中の駆除に当たっているって訳だよ。」

ツッコミたい部分が多いが、俺はどこから訊こうか迷ってしまった。

「人間の相手というのは、その癌を治せる少年を巡る戦いと考えて良いのかな?」

俺より先に奴が質問していた。シイもその母親も簡単に答えをくれるが、去った後に俺たちの記憶を操作すれば良いのだから、なんでも答えてくれるのだろうか。

「まあ、そうだね。あのお兄ちゃんの話は前から噂では聞いていたらしいんだけど、我が家にも癌患者が居ても母さんは探そうとはしていなかった。探して実在した場合にはこんな事が起きると判っていたんだと思うよ。でも、依頼者を責める事は無い。それは、母さんが引き受けたのだからね。それに、今回の件が外部に漏れたのは叔父さんのせいだからさ。」

叔父さん? その人には俺たちは会ってないよな?

「そうだね。叔父さんはお兄ちゃんたちには会っていないね。病院に運び込まれた癌癌細胞のお兄ちゃんを奪回しに行って、帰って来た時にはお兄ちゃんの依頼を果たして、ウチのお姉ちゃんも治してくれたけど、帰って来る前に病院内で同じく癌癌のお兄ちゃんを奪取しようとしていたお米の国の傭兵と喧嘩になっちゃって、処分したみたいでね。母さんが、これはこれで国際問題に発展するから嫌だったらしいんだけど、ちょっと叔父さんは好戦的な人なんだよね。だから叔父さんとは会わずに正解だと思うよ。」

喧嘩とか処分ってのは言葉が足りない気がするが、シイの言っている事はなんとなく理解出来た。俺たちはその叔父さんに会っていない方が良かったって事だな。なんとなく危ない人なんだとシイの言葉から印象を受ける。そして、癌癌細胞を持つ少年が病室に現れた時に羽織っていたコートの持ち主はその伯父さんだという事が俺には理解出来た。

「そうか、癌癌細胞を巡る戦いを起こさない為には、その少年の存在は隠しておく必要があるんだね。僕はあの時そこまでの考えは及ばなかったな。」

そりゃそうだろ。癌癌細胞を持つ少年の血が増えない事や、子種が無い事。そんな情報をお前は持っていなかったんだから、そこまで考える訳ないじゃないか。

「まあ、その存在を漏洩したのは叔父さんだから、お兄ちゃんたちには責任なんてないよ。」

「どうして? そんな大きな争いになりそうな事を君の叔父さんはしたんだい?」

そう奴が訊くと、シイは少し不真面目な顔になって、天井を見上げた。

「だから、叔父さんは戦いたい人なんだよ。特にこういう小競り合いで圧勝するのが趣味みたいな人なんだ。サドって表現するとし過ぎだって怒られるかなぁ。単純な戦闘で人間に負ける事は無いと思うけど、母さんはそんな事に使う為に叔父さんに戦闘方法を教えた訳じゃないんだって言ってた。基本的に今回の札幌戦は母さんは指揮者を行動不能にするだけに留める方向、叔父さんは出会った組織は全て潰す方向で動いているから、かなり忙しいんだよね。」

そう言いながら俺と奴のベッドの前を交互に行ったり来たりし、この小学生は用件を告げた。

「だから、母さんからの伝言だよ。札幌は危ないから暫く帰らない方が良いって。」

お前はこの後帰るんだろう?

「うん、ここでの僕の仕事はお兄ちゃんたちの安全の確保とこの伝言だけだからね。多少ならば依頼者への説明も許されているし、僕としてはお兄ちゃんたちと少しお喋りしたかったから、時間もあるしねぇ。母さんが戦闘に参加しているから、どうせ僕は家でお姉ちゃんと留守番だからね。僕の守りたい人も居るから、出来れば僕も参加したいんだけど、その辺は母さん任せかな。」

小学生の言葉とは思えないが、こいつはその大きさとか見た目で判断出来ない年齢なのかも知れない。なんと言っても母親の年齢が止まっているらしいからな。札幌で起きている戦争もどきに参加したいとか言い出す小学生はこの世界にはそんなに居ないだろう。

「僕とお姉ちゃんは見たままの年だよ。多少普通の小学生や中学生とは言葉遣いが違うかも知れないけど、それはウチの教育方針らしいから、どうにもならないかな? ちなみに母さんの本当の年齢は僕も知らない。」

俺の表情から読み取った事に答えるのは母親と同じ能力だな。

「うーん。そうかもね。僕も母さんの全ての能力を知っている訳じゃないから、何とも言えないけど、少なくとも攻撃に関しては似ているらしいよ。お姉ちゃんは防御の仕方が似ているらしい。そう叔父さんが言っていたのを聞いた事があるかなぁ。」

「君の伝言は承ったけど、それじゃあ、僕たちは何処に居れば安全なんだい?」

ベッドの前でこの子供は立ち止まって、顎に手を当てた。考えているのだろうか?

「一応本州に居れば問題はないかな? 母さんが言うにはあと一月もあれば札幌での戦闘は片付くそうだし、その後は舞台が変わるらしいしね。」

札幌に攻めて来ている連中の国に移るって事なのか?

「そうだね。今回は特殊な事例だけど、沢山の盟約が破られているから、約束を破った国にはそれなりの報復が行くかな? 僕が退院した後だけど、あの病院を襲おうとした国があって、その国は確実に滅びるよ。母さんはそういう約束事を守れない人間や国家が嫌いらしいもんね。」

お前の母親はそんなに強いのか、俺はそんなおっかない人間と病室で二人きりになったんだ。思い出すとぞっとするな。

「それは大丈夫。母さんは依頼者を絶対に裏切らないし、事情が判れば無用な殺生はしないよ。時々記憶を消す事はあるかもね。さっきお兄ちゃんたちも、僕が現れた時にすぐに僕の名前を思い出せたでしょ? でも、僕が今この場から消えた途端に僕の名前を忘れる仕組みになっているんだ。これは母さんの得意な術のひとつ。僕には真似出来ない能力かな。」

話した事柄は覚えているのに名前だけが消えるって事か?

「うん。僕の家は名前を出す事を極端に嫌うんだ。他の情報は多分お兄ちゃんたちは忘れないと思うけど、僕の名前やお姉ちゃん、母さんの名前は僕がこの場から消えた途端に忘れるかな。覚えていられるなら、まだお兄ちゃんたちには僕たちが必要だって事だよ。」

それはそれで物騒な能力だと言えるな。

「だから、僕の家は普通の人とは付き合えないんだよ。」

まあ、そうなるか。俺は奴と顔を見合わせた。奴もそう思ったみたいで、顔が苦笑いだ。

その苦笑いの顔が途中で止まる。シイは言葉を切って暫く視線を彷徨わせる。俺たちはその彷徨う視線の先に何があるのか興味が沸いた。

「誰か居るのかい?」

奴が俺より先に我慢出来ずに問うていた。

シイは尚も中空を暫く眺めてから、視線を俺たちに戻す。

「お兄ちゃんに癌癌のお兄ちゃんが病室で出会った時、お兄ちゃんは廊下にもう一人居たのは気付いた?」

奴の質問を無視する形で、シイに質問で返されてしまった。俺は頷く。

ああ、顔面にいきなり血を吐きかけられてパニックではあったけど、彼の羽織っていたコートから廊下に誰か他の人間が居るんじゃないかとは思っていたよ。

「ああ、そういう見方なんだね。気配で探れるのかと思ってた。」

俺はお前みたいな超能力者じゃねぇよ。

「うん。まあ、僕のも母さんから借りているみたいな物だけどね。それは置いておくとして、この部屋にもう一人人間が増えたんだよ。」

俺と奴は慌てて周囲を見回した。だが、人間の姿は確認出来ない。シイは簡単に指差してその場所を教えてくれた。

俺たちは其処に視線を移して驚く。それは部屋の壁に掛けられている何処の誰が描いたとも知れない絵だったからだ。外国人の肖像画の模写と思われる洋風の絵。その顔の部分がなんかぐにゃぐにゃと動いているんだから、驚かない方がおかしい。

顔の部分が見られる程度に緩やかに止まる。その目が動いてシイと俺たちを確認し、口が動いた。

「よお、シイ。」

俺たちの視線の先に男が居た。正確には男の顔だけが居た。見るからに戦闘を好みそうな面構えをしている。

「叔父さん。札幌で仕事じゃないんですか?」

この男がシイの言う叔父さんであるらしい。成る程、顔だけだが聞いた通りの人間に見えるな。

「そっちは殆どお前の母さんに持って行かれちまったよ。お陰で俺は別の仕事に邁進中って訳だ。」

シイともその母親とも違う種類の邪悪とも言えるような笑みを湛えた30過ぎのオッサン。

そういう表現が妙に似合う。

「札幌が安全になったのであれば、この依頼者たちを戻しても問題ない訳ですね。」

シイは何事も無かったかのように話を進める。表情が無くなっていた、あまり叔父さんを好きではないのだろう。

それに気付いているのにあえて無視する形でこのオッサンも会話を進める。俺と奴は無視された状態だ。

「おう、大丈夫だろ。お前の母さんに連絡してみるか?」

「叔父さんもこっちに出て来れば良いのに。」

「ま、俺にはお前の母さんみたいな化け物能力は無いんでよ。これが普通の能力者の限界って奴だ。面白道具のアタッシュケースはお前の家に置いたまんまだし、お前の姉ちゃんは病み上がりだしな。いい年した大人が子供の力に頼るのもどうかと思うぜ。」

そう言いながらそのオッサンは絵画から手だけ出してシイに携帯電話を渡した。

充分過ぎる程化け物能力に俺には思えるが。

「ま、だから普通の能力者って断っただろ? シイの母さんは普通じゃない能力者なんだって。」

そういう意味だけど、俺も隣のベッドに居る奴もあからさまに驚いていた。シイは俺たちの表情を見てまたもや苦笑いだ。

シイは受け取って簡単に操作し、繋がった電話の先に居る母親と何やら話しを始めた。その言葉がまったく聞き取れない。これも彼等の能力のひとつと考えるべきだろう。喋っているのが日本語であるのは理解出来るのに、何を喋っているかが理解出来ないんだ。

暫く俺と奴には聞く事の出来ないモードで通話をしていたシイが携帯を放ってオッサンに返す。乱暴にも見えるが、その行動には慣れているらしく、簡単にキャッチした。携帯電話は通話状態のままだ。受け取って耳に充てる。これも俺たちには聞こえない会話モードで喋り、電話を切った。

「癌癌細胞を持つ少年はお前の母さんの預かりになったようだ。お米と中華とピロシキが停戦に合意したとさ。奴らに雇われていた傭兵たちは契約不履行でクビだってよ。札幌から完全に排除するには少し掛かりそうだな。それまでは帰らない方が何かと都合が良いらしいぜ。」

これは俺たちに言った言葉だった。俺と奴は生返事で、事態が殆ど飲み込めない。

「ま、簡単に言うとスポンサーが降りた訳だが、傭兵たちは幾つかの問屋を挟んでいるからまだ札幌で暴れている。俺が潰したお米の国から依頼を受けた連中以外の連中って事だろうな。シイの母親が後はなるべく円満に解決出来るように動くだろうが、どちらかと言うとその連中は俺に近い考えの持ち主だから、まだ戦闘は続くって寸法だ。他のスポンサーがまだ居るのかも知れないけどな。簡単に引き下がれないんだろう。負けたままで帰った傭兵は次の仕事が回って来ない場合もあるんでな。これもお前たちには判らん世界の常識かも知れねぇが、一般の傭兵はそんな考えを持っているんだよな。超が付くくらいの一流の傭兵なら一度や二度の作戦の失敗で仕事が回って来なくなる事はないんだがよ。」

邪悪な笑みを浮かべたままで俺たちに判らない話をするこのオッサンは本当に人の生き死にが楽しそうだった。

「ここもそれ程安全ではないみたいだけど。」

シイの言葉で俺たちが気付いたのは、突然館内のBGMが切れた事と、俺たちの部屋に向かって何かの足音が近付いている事だった。木の廊下をスリッパではなく靴で歩く人間はそんなに居ないだろう。

絵の中に居るオッサンもそれには気付いたようだ。器用に絵の中で視線をドアの方向に向けている。

「悪いな。どうやら携帯の電波で追跡されたみてぇだ。」

どんな仕組みでそうなるんだ?

「まあ、特殊な能力の持ち主は何も俺たちの一族だけじゃねぇって事だ。俺は此処までだ、シイ、任せたぜ。俺の方にも誰か来たみたいなんでよ。」

そう言ったかと思うと、このオッサンは絵の中から消え、肖像画は元に戻った。

シイが俺たちの前に出る。足音はひとつ、つまり相手は一人のようだ。奴は喧嘩とかしないだろうし、俺も喧嘩なんてした事もない人間だ。奥のベッドの上に移るようにシイに促され、疲れた体を引きずってベッドの上を飛び跳ねた。

音はどんどん俺たちの部屋に近付いて来る。そして簡単に鍵の掛っている筈のドアが蹴破られた。

白人の大男が目の前に立っている。残忍そうな顔は俺の中で今のオッサンの倍と判断される。相手はこの大男一人だが、中学生二人と小学生一人が相手を出来るレベルではない事は判るだろう。俺はそれ程大きくないし、俺のパートナーであるこいつは身長は高いが横幅は無いに等しい。そうなると未知の能力を秘めたシイという名の小学生に賭けるしかないんだろう。実際この外国人が俺たちの眼前に立つのと同時にシイは俺たちと大男の間に入って俺たちを庇った。 身長は大男の腰までもない。

「僕は外国語が理解出来ないから、何を言っても無駄だからね。フリーズとプリーズの区別もつかないよ。」

何故かシイが日本語でそう大男に断った。

言葉が終わるとシイの体が更に沈む。これは空手か何かの構えに似ている、要は腰を落として右腕を顔の前に上げ、半身に構えたんだ。腰の横にある左腕が俺たちに下がるように合図していた。俺たちに選択肢はないので、下がれる所まで下がる。そうは言っても壁際まで一メートルも無い。部屋は結構広いが、奥といっても限界がある。

ん? 

俺はこの危険な状況の中でひとつ不思議に思う。それはシイの構えだ。右が前で左手を後ろに引いている。こいつは左利きだったか。確かこいつ鉛筆は右手で持っていたと思ったが、気のせいだろうか。

そんな事はこの状況に何の関係も無かったが、気になってしまった。

この大男にとって俺たちみたいなのは数の内にも入っていないらしく、残忍な笑みが増しただけだ、シイの構えは嘲笑に値したらしく、更に顔を歪めて笑う。そりゃそうだ。大人から見て自分の腰までしか身長が無い子供がどんな綺麗な構えを見せても、それは実戦の型には見えないし、少なくとも俺にもその構えで何かが変わるとは思えなかった。

だが、不思議人間であるシイが本気である事だけは確かだった。後頭部しか見えないが、何か本気のオーラのような物を俺はその時感じたんだ。

観察するとその大男は腰に拳銃を持っている、抜かないのは舐められているからだろうが、俺も奴もそんな事で安心出来るような人間じゃない。格好悪いがこれが普通の人間の反応だろう。

その間に入って眉ひとつ動かさずに構えを取っているシイが異常なんだ。そのただならぬ様子はこの外国人には通じないのだろうか。

動きは最小だった。瞬きの間に大男との間合いが詰まる。シイの左掌が大男の腹に添えられ、一瞬撫でたように見えた。その行為ひとつで俺たちはこの小学生の恐ろしさを知る事になる。勿論その恐ろしさを体感したのは大男だろうが、恐怖の感想を大男は持てただろうか。

それはその一瞬で勝負が着いたから思った事だ。

大男は口から大量の血を吐き出した。この一瞬に何が起きたのか俺たちにはまったく判らないが、シイの左掌が何かを大男にしたんだという事だけは理解出来た。

大男は吐き出した血を両掌で受けたが、それ以上動く事は無い。信じられない物を見たような表情をし、掌から視線をシイに移し、その目の玉が瞼の上に消える。白目を剥いたという表現で良いのだろうか、俺にはちょっと他の表現方法が見つからない。

そして、その場に立ったままで絶命していた。

なんだよ、今のは?

思わず口からそんな疑問が出ていた。シイはその俺の問いを暫く無視して大男を見上げていたが、安全を確認したらしく、構えを解いて答えてくれた。

「僕の生まれた家が普通じゃない印みたいな物かな。人間相手に使った事が無かったから、ちょっと効き目の程と手加減の仕方が判らなかったよ。」

つまり、シイの家に伝わる術の一つという事なんだろう。人間以外の物とは一体なんだろう。気になったが訊けなかった。

更にその後シイがした事は驚愕してしまって、俺も奴も質問所じゃなくなってしまったんだ。

シイは立ったままで死んでいる大男の腹の辺りにもう一度左掌をかざし、何か呪文を唱えた、多分何か言ったんだ。俺にも奴にもそれは聞こえない。聞こえているけど聞き取れない例の能力だ。

その呪文は短い言葉だったが、何をしたのかは眼前で起きる現象を見れば一目瞭然という奴だった。大男の体が透け始めたんだ。それ以外に表現方法は無いよな。

シイは大男の体が完全に消えて、そこに何も無くなるまで掌をかざしていた。大男が吐いた血の跡までもが消える。その場には何一つ大男が居た痕跡は残らなかった。

「ふう。これは結構疲れるんだよなぁ。」

その呟きは聞き取れる。なんて便利な能力なんだろう。

「とりあえずこの場を離れた方が良いみたいだね。ここも安全とは言えないみたいだし、お兄ちゃんたち、携帯電話を持ってないかな?」

どういう話の流れで携帯電話の有無になるのかまったく判らないが、俺も奴も携帯電話は持っていない。俺は入院中に携帯が欲しいなんて思った事もなかったし、奴はサッカー馬鹿なんで、そういう機械にはとんと疎かったし、単純に興味が無いので持っていない。今時には珍しい人間かも知れないが、それが奴らしかった。

「そっか、母さんにも連絡しなきゃならないんだけど、どっかに公衆電話はないかな? 叔父さんは多分他で戦闘に入ったから呼び出せないしね。」

北海道選抜の監督やコーチ、チームメイトの中にも携帯電話を持っている人間は居るんだろうが、これ以上他の人間を巻き込む事は憚られたし、シイもそれを望んでいない。宿のロビーに公衆電話があった事を思い出した。

その前に、この部屋にある電話は使えないのか?

気になったので訊いて見る。

「ああ、内線から外線に繋ぐ電話じゃ駄目なんだよね。携帯電話が望ましいんだけど、無い時は公衆電話が第二希望かな。叔父さんは気配を消さない人だから、多分つけられたんだね。僕は叔父さんが嫌いじゃないけど、そういうガサツな所がちょっと気に入らないんだよ。叔父さんは強いから良いだろうけど、周囲の人間は少なくとも叔父さんより弱いんだから、少しは気にして欲しいんだけどなぁ。」

そう答えながら、何やら背中に背負った鞄を下ろしている。所謂リュックサックではなく、映画なんかでは悪い側の人間の取引に使われる麻薬か札束が入っているアタッシュケースみたいな物だ。それをシイは紐で背中に括りつけていたらしい。先程背中を見た時には気付かなかった。床に降ろされたアタッシュケースを開き、中を何やら物色している。

「確かテレホンカードがあった筈なんだけどな……」

そう呟きながらケースの蓋部分のポケットを漁っている。

なんだそりゃ?

俺は思わず言っていた。

シイの探し物が鞄の蓋部分のポケットに無いならば、当然本体部分の何処かにあると思う訳だが、俺と奴が覗き込んだアタッシュケースの本体部分は、何も無く、それどころか穴が開いていた。ケースの底が無く、だからと言って床が見える訳じゃない、文字通りの穴、黒い闇が支配しているんだぜ。ケースの中にそんな世界があるとは思わないだろう。

「えっと、これはなんて言うのかな。」

俺たちが訊きたい事だ。

「ここから別の場所に移動する時に使う道具だよ。持ち運び出来る瞬間移動装置だと思ってくれれば良いかなぁ。あ、『どこでもドーアー』って言えば判りやすいや。」

何故そこだけ物真似するんだ、しかも大山の方でよ。お前の世代なら水田だろうに。

「それは最近ビデオやDVDが普及しているからじゃないかい?」

奴の鋭い指摘だが、俺は暫く入院していたからDVDなんて触った事も無い。否、それはどうでも良いんだよ。

「まあ、これでお兄ちゃんたちを安全な場所まで運びたいんだけど、携帯電話か公衆電話に繋がないと使えないんだよね。安全な緊急避難場所は一箇所しか無いから、どこでもってのは言い過ぎかなぁ。」

それで携帯か公衆電話が必要なのか。

俺は納得しながら、そのアタッシュケースをもう一度見た。

しかし、そのケースの穴に俺たち三人入れるのか?

シイの背中に背負われていた小さなケースだ、俺も奴も細い方だとは思うが、そのケースに入れるかが疑問だった。この際だから瞬間移動についてはもうどうでも良い。ツッコム気にもならなかった。もう不思議だらけの世界だよ此処は。

「あ、そうだ。良い考えが浮かんだのでちょっと待ってね。」

そうシイが言い、ケースの穴に自分の両腕を突っ込んだ。床に置いたケースから腕が出る事はなく、黒い穴に吸い込まれている。

俺たちはもう驚くとかいう問題を通り越して、ひたすら呆れていた。

シイが腕を抜くとその手に携帯電話が握られている。なんとも可愛いデコレーションのされたピンクの携帯電話だ。

「完治のお祝いに母さんがお姉ちゃんに買ってくれたのを忘れてた。僕も今度退院祝いに買って貰おうかなぁ。」

そういえばお前も今日退院したんだったな。

俺は呆れながらもその行動を見守る。

シイはオッサンに借りた時と同じように簡単に携帯を操作し、母親に連絡した。まあ、会話は相変わらず聞き取れない例の能力だ。電話を一度切り、アタッシュケースの側面にコードを繋ぐ穴が付いていて、そこに携帯のコードを挿しこんだ。見えないくらいの速度で親指が動き、何やら打ち込んでいる。今時の小学生ってなんでこんな事が出来るんだろう。いや、これはこの子が特別なのか。そう思っている間に準備が出来たようだ。

「えっとぉ、出る時気をつけてね。この向きだと……今僕が立っている方が床になるかな。先に荷物を送ってみよう。」

そう言って俺の荷物と奴の荷物をケースに放り込む、結構でかい荷物だったんだけど、それはケースの穴に簡単に吸い込まれた。その闇をシイは見つめる。こいつには多分穴の向こうが見えているんだろう。

「うん。やっぱり僕の居る側が床だよ。ケースに飛び込んだら意識をお尻の側に集中しないと、出た時頭を打つかも知れないから気をつけてね。僕は鞄を回収しながら飛び込まなきゃならないから最後にこの部屋を出る。他の人たちの心配は無用、それは帰ってから母さんが上手くやってくれるからさ。」

俺と奴は顔を見合わせた、どちらが先に行くかを決めなくてはならない。

じゃんけんの結果奴が勝ち、先行を選んだ。先手必勝を売りにしている奴らしい。

その後俺も奴に習ってケースに飛び込む。成る程、シイの言う通り瞬間上下の感覚が失せる。エレベーターが急に動いた時に感じるアレに近いかな。

俺は言われた通りに尻に神経を集中し、そこが下だと念じる。数秒の間があって俺の体は尻を中心に折れ曲がる。後ろに向かって引っ張られるというか、落ちている感覚が支配したかと思うと、突然尻に何かやわらかい感触があり、落下が止まった。

俺は車酔いの気分で目を開ける、先程の宿の部屋ではなく、見覚えのある居間のソファに見事に座っていた。

「やあ。どうやら成功みたいだね。不思議な事だらけで僕には理解の域を超えているけど。」

俺はソファの真ん中に落ちている。奴は左側に同じく座った状態。ソファの後ろは壁で、そこから足が出て来る所だった。シイだ。シイは片手に携帯電話を持ち、もう一方の手にどこでもアタッシュケースを持って現れた。俺の右側に落ちる。シイの出て来た壁には大きな額縁が掛けられ、そこには微笑んだあの女の肖像画が入っている。俺たちはどうやらこの絵の中から出て来たようだ。

「あはは。大成功ー。」

妙に楽しげなテンションでシイが足元にアタッシュケースを置き、携帯電話を持って居間から出て行った。俺たちも何度かお邪魔した事のあるあの家の居間だ。この額縁は初めて見た気がするけど、確かに見覚えのある居間。俺たちはシイが戻るまでの間呆然としてこの部屋を眺め回していた。だってほんの数瞬前まで俺たち本州に居たんだぜ。

シイが戻ってくる気配と共に二人の人間が加わっていた。

それが俺の入院していた病棟から出て行ったシイの姉、アヤである事を思い出す。名前はまたもや今突然思い出した。つい最近までは俺の隣のベッドに寝ていた中学一年の女の子とか言っていたような気がする。もう一人が俺を含めた入院患者の顔に血を吐きかけたあの少年であったのは意外だった。てっきり母親が出て来ると思ったんだがな。そう言えばオッサンがシイの母親の預かりになったと言っていたっけ。

この癌癌細胞を持つ少年と母親の名前は思い出さない所をみると、本当に知らないんだろうな。例の記憶操作とかいう術のせいではないらしい。まあシイとアヤの母親はまだ本人に会っていないから、ひょっとすると本人に会うと思い出すのかも知れない。

アヤがこれまたこの一族特有の能力である、俺の顔色から俺の言いたい事を察したらしく、俺が口を開く前に答えをくれる。

「母さんはあなたたちが突然宿から消えたという事実を別の事実に変える作業があるので出掛けたわ。シイから聞いたかも知れないけど、記憶操作を行う術がこの家には伝わっているから、あなたたち二人が祝勝会の後に先に札幌に帰った事にしなくちゃいけないのね。それから、ウチの叔父さんがどうやら下手をうってつけられたみたいで、特に犠牲にならずとも良かった人間を一人シイが処分しちゃって、更に証拠隠滅の作業もしているわ。」

人の死を随分簡単に語るんだな。

「そう? 日本人という民族は自国の民が巻き込まれていない限りそれ程気にしない民族なのではなくて? テロでも飛行機事故でも地震でもね。ニュース番組みたいにとりあえずは日本人の名前を読み上げるのが国民性なんじゃないの? わたしももう少し小さい頃はデリケートだったんだけど、癌になって随分人の死を見て来て、考え方が少し変わったのね。自分ももう少しで死ぬ所だったし。」

成る程、その感覚は俺にも判るな。俺もついこの間まで死ぬ寸前だったんだからな。アヤの言葉は痛烈な批判とも取れるが、本人はかなりクールな顔だ。

「ま、お陰で色々な予定が狂って、わたしも助かったけど、本来死ぬ筈のあなたも他の入院患者も助かっちゃった。だから母さんが予定にない行動を今しているところなの。」

それを聞くと少し凹むな。確かに俺を含めた入院患者六人は助かったけど、そのせいで沢山の関係ない人々が今現在も進行形で戦って死んでいるんだ。巻き込まれて死んだ一般人とかも居るらしいという話は嫌でもテレビニュースで流れているしな。

「一般人には殆ど死者は出ていないわよ。」

アヤがそう言って居間にあるテレビのスイッチを入れた。丁度そのニュースが流れていて、犠牲になった人の名前が読み上げられている所だ。

「ちなみに、今読まれた家族は本当の家族ではなく、その名を使っていた北韓国の諜報員。その後読まれた人はお米の国の大使館関係者。次に読まれる人はピロシキ系の傭兵。皆顔は日本人だし、国籍も日本の物を取得している、所謂スパイね。先程あなたたちの前に現れた傭兵は珍しく所謂外国人だったみたいだけどね。」

なんかスゲェな。本当にスパイ映画みたいな事になっているじゃないか。でも、人が死んでいるのに変わりは無いよな。俺は曖昧な表情をしただろう。今のアヤの説明で、日本人に殆ど犠牲者が居ないと知った時に俺はなんとなく安心したのも確かだったからだ。

「まあ、死んで良い人間って訳じゃないけど、彼等もある程度国の役に立とうとしての殉死だから、あなたたちが気にしても仕方の無い事ね。」

母親に似た口調でアヤが補足し、俺たちはなんとなく納得した気分になる。

「そうね。もっと狭い了見なら、この町内では誰も死んでいない。だから良しとして欲しいという方が正確かしら? 叔父さんが後先考えずに戦線を広げるから、一般市民まで被害が出ているのも事実だし、そもそもわたしたちの一族はそれすら越えた見方しか出来ないから、今回の場合、味方の関係者で死者が居ないというだけで安心しているわ。あんな叔父さんでもわたしたちの数少ない親戚だしね。」

それも判る。俺も自分の家族や仲間に犠牲者が居ないというだけで結構安心しているからだ。俺もアヤも棺桶に片足入っていたからそう感じるんだろうか。

「それに関しては俺も責任の一端くらいは感じているがな。」

俺たちの座った正面の一人掛けソファに腰を下ろしながら少年が言う。

「俺の奇妙な血液が存在しなければ、この争いは起きていないのも事実だからな。その分小児癌患者が六人ばかり助かったという事実はあるが、人の命は天秤には掛けられない。それはアヤの言う通りだぜ。だから、俺は今回の件で犠牲になった傭兵や各国のスパイに関しては考えない事に決めたよ。それに、この先の事を考えれば、俺はまだ命の危険がある訳だし、他人の心配をしている場合でもない。」

この癌癌細胞を持つ少年はアヤと同じくその見た目からは想像出来ないような考え方と喋り方をする。

「自分第一、自己中心で良いんじゃない? 僕も依頼者な訳だから、君の言うような責任の一端くらいは感じているけど、それ以上に僕のパートナーが戻って来た喜びの方が大きいもの。」

奴にそう言われると俺は何も言えない。そこまで俺の事を大事にしてくれる他人はそんなに沢山は居ないだろうからな。

あんたの名前は知らないけど、癌を殺せる細胞を持っているあんたには本当に感謝しているよ。礼がまだだったと思うんで、今しておくよ。ありがとう。

俺は座っている癌癌細胞を持つ少年に挨拶しながら手を出した。愛想はないが瞳の奥に優しさを秘めた不良少年で、がっちりと握手してくれる。

「自己紹介もしていなかったな。俺の名前は圭介。あの母親には癌癌少年などと呼ばれているが、俺自身そんな血液が体の中に流れている事を知らなかったんだ。あんたみたいな有能なサッカー選手が死ぬと聞いて、思わず助けてしまった。」

俺はそんなに有名だったか? こいつは結構有名選手だろうが、俺は小学校までしかサッカーを出来ていないぜ。

俺はそう言いながら隣で彼と握手している奴を指差した。

「ああ、俺たちの世代の札幌生まれであんたらを知らない人間なんて殆ど居ないぜ。まあ、簡単に言うとあんたが8アシスト2得点上げたあの試合の相手校は俺の出身小学校だったんだ。俺はサッカーはしないけど、たまたま知り合いが出場していてよ。見ていたんだよな。あのチームの中では抜群に飛び抜けた二人の選手を忘れる事はないな。」

成る程、あの試合を見ていた人だったのか。

「それにあの試合は確か公式戦の中では記録になっている筈で、勝った方も負けた方も暫くサッカー雑誌とか賑わせただろう?」

俺はあの試合の後、少しして入院してしまったんで、知らない。奴を見ると頭をかいていた。

「なんか自慢げで嫌だったんだよね。だからその手の雑誌の話は君にしないでおこうってチーム内で話が纏まっていたんだよ。」

確かに体がどんどん弱くなって行く俺にその話は痛いな。折角死ぬ覚悟も決まっているのに、そんな情報寄越されたら生きたくなっちまう。

チームメイトたちもそれなりに俺に気を遣っていたんだと感慨深げに思った。

「ちなみに、負けた方の俺の出身校は、一個下の代が雪辱に燃えて練習してさ、一年後の同じ大会であんたらの学校に6対1で勝っているんだぜ。」

へえ。俺と奴ともう一人居た得点源が抜けて得点力は下がったとは聞いていたけど、ウチのチームは本来守備重視のチームだったのに、そこから6点は凄いな。

俺は素直に感心した。

「そんな訳であんたたちは有名人なのさ。俺は特に興味も無かったんだけどよ。俺を助けたあのオッサンがそんな事を急に言い出すから、何か力になりたくて……」

病室に何の前触れも無く現れて俺より年下の連中にトラウマ植え付けたのか?

圭介も俺もその時初めて声を上げて笑った。やはりシイの叔父さんというオッサンはあの病室の外に居たんだ。更には圭介に血液の特殊性を説明して、あの荒療治とも言える方法を実行させたのも、先程絵の中に現れたあのオッサンという事だったんだ。

「シイはどう思っているんだろう?」

俺の横で既に眠っているシイはこの会話に参加していない。俺と奴を救うという仕事を終えた彼にはそれ以上の考えは無いのではないかと思えた。

「弟はそんな難しい事は考えないわ。これは弟がアホだという意味ではなく、考えない事が出来るように訓練されているからよ。この子は例えわたしや母さんが瀕死の状態でも笑って見送れるように訓練されているの。恐怖も孤独もこの子には脅威にならないのよ。」

何故そんな訓練を?

「母さんの方針。弟は家を継ぐわ。母さんみたいな能力は無いけどね。わたしの能力は基本的に誰か他人を大事に思った時点で消えるような能力だから、家を継ぐ事は無いのよ。だからこの子は全てを冷徹に処理する能力と感情のコントロールを生まれた時から植えつけられているの。この子なりに葛藤はあったかも知れないけどね。」

だから一仕事終えてすぐに眠れるような太い神経を持っているというのか?

「わたしが病気で死にかけていなければ、そういう教育がもう少し弱かったかも知れないけど、母さんはわたしの死は運命だと思っていたから、これも後の祭りね。でも、今眠れるのはもっと簡単な理由よ。この子ね、所謂超能力を使うと眠るの。携帯電話の充電と大差ないわ、使った分減るから眠って充電する。それがこの子の能力の限界でもあり、利点でもある。眠れる限りは弟の能力は無限に存在するから、一度眠って起きた瞬間ならこの子の能力は母さんをも超える程強いわ。だから母さんはあなたたちのガードを弟に任せて他の事に対処出来るの。」

成程。母親の仕事量は増えそうだが、安全を確保する対象が少ないからそれで良いのか。

「まあね。それで母さんはまた出掛ける羽目になっているけど、この子の判断は正確よ。世界で最も安全な場所にあなたたちを匿えと言われれば必ず此処に戻る方法を選択するから。無駄な逃走時間を無くす為の道具まで揃える。叔父さんがあなたたちの元に来なくとも、外敵に出会う可能性があれば時間を掛けずに此処に戻るのが安全だと出掛ける前から判断出来ているの。単純に飛行機に乗るのが嫌いだという話もあるけどね。」

俺たちの泊まっていた宿まではどうやって来たんだ?

「それは母さんの能力。母さんは道具を使わなくても人間一人くらいなら何処か好きな場所に送るくらいの能力は有しているわ。」

「それはまた便利な能力だね。」

「母さんは既に人間の域を越えた存在だから、普通では有り得ない人なの。」

苦笑いのアヤを見るのは初めてだった。病室では見たことの無い顔だ。

しかし、お前たちの一族はどうしてそんな能力を持っているんだ?

俺の質問はシイとアヤ以外の三人の疑問だったようで、アヤに視線が集中した。アヤはテレビを消してそれにも答えてくれる。

「この家、違う。母さんがそういう能力者なの。ずっとね。わたしたち姉弟はついでに能力を持っているだけだけど、母さんは生まれた瞬間からあなたたちが目にしてきたような能力者で、更に言うなら世界一の能力者。母さん以上の能力を持つ者は人間には居ない。」

お前たちはよく人間の中ではという言葉を使うが、人間以外の物ってのはなんだ?

「簡単に言うと『悪魔』とか『鬼』とか『天使』とか『神様』かしら。『幽霊』も含まれるかな。呼び名は結構あるけど、それは人間が勝手に付けた呼び名であって、本人たちは『魔族』或いは『魔物』と名乗る事が多いわ。そういう中には母さんを凌ぐ者も居るって話ね。だから本来わたしたちの一族はそっちの相手が専門。弟が人間相手での戦い方がわからないのは当たり前、だってこの子、魔物以外と戦うのが今回初めてなんですもの。」

これはまたSFファンタジーな話にしか聞こえないが、俺たちは固唾を呑んだ。

今までの不思議は序章ですらないって事か。

「まあ、人間専門は叔父さんね。今回の件は半分わたしたちは巻き込まれただけなの。本来わたしたち一族は今挙げたような人間以外の化け物と戦うのが役目なのよ。『退治屋』とか『除霊師』『退魔師』なんてのが本来のわたしたちの家系の呼び名ね。最近なら『陰陽師』とか有名かしら? 本業とは逸脱している事だけど、母さんは何か考えがあって引き受けた。だから顔は笑っていてもかなり本気で物事に対処しているわ。」

奇妙な程美しい顔が俺の顔に浮かんだ。確かにどちらかと言えばあの母親は人間に見えないかも知れないな。

お前たちはあの母親から生まれた割に表情が豊かに見えるが?

「そうね。わたしと弟は母さんが普通の人間の男との間に作った子供ですもの。人間らしい部分は父に似たのではないかしら? だから母さんみたいに永遠に年を取らないなんて能力はわたしにも弟にもない。ちなみに母さんは人間の年齢で言うと17歳からまったく年を重ねなくなったのよ。わたしたち姉弟には今の所それは無いみたいね。それも父の血を濃く受け継いでいるのだと思うわ。」

永遠に17歳のまま。これはまた新しい事を聞いたぞ。奴と二人で宿の部屋で話した事の答えは貰えた訳だ。

それから俺たちは暫くの間この奇妙な家でアヤとシイ、そして圭介との共同生活を送る事になる。

着替えなどの関係で一度自宅に戻ったが、基本的に命の危険性の問題は解決していないので、彼らの庇護が必要だったからだ。後からあのオッサンがこの家に一度寄り、どうやらあの病室に居た俺を含めた六人も敵の確保対象になっていると説明してくれた。

「研究の結果、癌癌細胞は癌細胞を喰らい尽くした後で通常の細胞に戻って、二度と癌癌細胞として働かない事が証明されているんだけどよ。世の中自分以外の人間を信じない馬鹿は結構多いんだよな。そんな訳で暫くお前らはこの家に居てくれ。俺は信頼の置ける傭兵や仲間に依頼して他の元入院患者の警護もしなくちゃならねぇから、また暫くは戻らねぇからよ。」

これは後で凛や玲、トオルや翼翼に聞いた話になるが、オッサンが依頼したと思われる人物が簡単に戸籍上での親戚に成り済まして、彼らの元にそれぞれ現れたらしい。

俺とアヤに関してはシイという強力過ぎるガードマンが一人で対応出来た。一戦毎に寝てしまうのもどうかと思ったが、その充電が切れる程の相手は現れなかった。

アヤとシイの母親も殆どこの家に帰って来ない。時々深夜に突然現れてアヤに近況を報告させ、無事を確認するとまた消えて、またどこかで戦っているらしい。忙しい一族だ。

「あっ」

そんな訳でいつものように俺たちはこの家の居間に集まって、昼飯の準備をしている。ざるそば用のざるを持ったアヤが珍しく素頓狂な声を上げたのはこの時だ。

玄関から入って来るのは大抵人間である俺たちなんだが、この人物は突然居間に現れた。これはあのアタッシュケースの能力だろうか。

「八つ裂き丸さまっ!」

そう言ってアヤが突然俺にざるそばのざるを押し付けた。この家の関係者はこんな現れ方しか出来ないのかと俺は内心呆れる。奴と圭介の方に視線を向けるが、二人も驚いている。

まあ、驚くよな。現れ方もそうだけど、今回のはパッと見た目は人間なんだけど、頭の上に奇妙に黒く光る輪が浮いているんだ。背中には冗談抜きで黒い小さな翼がある。これは誰でも驚くだろう。それは確実にコスプレとかの類じゃない。

シイは昨日の夜に母親の手伝いとやらに行ったので戻っておらず、解説役が居ないので、俺たちは固唾を飲んでアヤの解説を待つ。

「まったくこの世界に来るのは苦労するぜ。」

そう言いながら八つ裂き丸と呼ばれた青年黒天使は首の辺りを掻いた。何か得体の知れない首輪みたいな物がそこには付いている。

「こんなに『魔力』を小さくしないとあの『トンネル』は抜けられないんだものな。」

何を言っているんだろう。魔力とトンネル、意味が全然わからない。

「この方は八つ裂き丸さま。」

それは聞いた。きっと名前なんだろうな。

「ちょっと説明し難いんだけど、簡単に言うと異世界の王様よ。」

今度は簡単過ぎて意味不明だ。この青年が王様なのはなんとなく理解したが、異世界ってのはなんだろう。

「あたしたちの本来の仕事については説明したでしょ? 異世界から地球に侵略しに来る悪魔とか魔物とか、名前はどうでも良いけど、異世界人を退治したり話し合ったりするのがこの家の仕事。」

ああ、それは聞いた。それで? その人がその異世界の人なの?

そう訊くと青年王がアヤの頭を撫でた。

「お前の説明じゃわかんねぇよ。こいつらは普通に人間なんだろ? 先ずはこの地球以外に魔界と呼ばれる文明を持つ世界があって、そこには王国があるって話くらいから説明しねぇとな。」

じゃあ、あんたは悪魔の王様、つまり魔王なのか?

少し後ずさる俺たちを見て、八つ裂き丸はニヤリと笑った。

「まあ、色々呼び名はある。この俺の名前もアヤの母さんが判り易く日本語に翻訳したに過ぎんのでな。本名とも言い難いんだが、俺が気に入ったからそのまんま名乗っている訳さ。この家の関係者以外に会うのは久し振りだぜ。お前たちが悪魔と言う物についてどのような認識を持っているかは想像の域だが、なんとなく今の態度で判ったとは思うな。確かに俺はこれだけ力を弱めても通常の人間に殺せる生物じゃねぇよ。」

そう言いながら首輪を指差す。

「これを付けると俺たち魔物は地球と繋がるトンネルを通れるようになるんだ。あまり力が大きいまんまだと、そのトンネル内にある人間の作った結界とやらを抜けられないんだよな。トンネルもアヤの母親が言っているだけで、この地球にあるそれと同じ物ではないぜ? ここまでは良いか?」

俺たちはこのあまりに突然の異世界からの来訪者にすっかり怯えてしまっていた。無言で頷く事しか出来ない。

「今回俺がわざわざそんな真似までしてこの地球に来訪した理由は簡単で、今この札幌で起きている事に関して、俺を含めた悪魔連中は一切手出ししない条約を結びに来たって訳だ。アヤの母さんが居なければとっくに攻め滅ぼされてもおかしくは無いほど人間ってのは愚かな生物なんだけどよ。俺たちを束ねる王の中の王が手出しを一切禁じているんでな。ちょっと地球で争い事が起きるとそれに乗じて戦争を仕掛けたがる連中も居るので、そいつらへの牽制の意味を込めて誰か代表でこうして条約締結に来なきゃならないって決まり事なんだ。いつもは鉄朗の奴が係なんだが、別件で今動いていてよ。ああ、鉄朗もその異世界の王の一人だ。それで久し振りに俺が来たんだよな。」

異世界についての話はなんとなくアヤやシイに聞いたので理解はしていたつもりだが、いざ目の前に本物が現れるとかなりビビるものだ。まだ怪物形態ではなく、割と人間に近い種族だったから良かったけど、映画とかに出て来る化け物状の物だったなら、俺たちはパニックになってこの場から逃げ去っていただろう。

「なぁんだ。あたしを迎えに来てくれたのではないんですか。つまんないの。」

はっ?

俺たちは更に固まった。アヤのこの発言の真意がまったく判らなかったからだ。

「おいおい。そんな事独断でしたら、お前の母さんに決闘とか挑まれちまうぜ? 他の王だってお前を欲しがっているんだからよ。」

魔物にモテモテのアヤという事か。

「まあ、そんな感じだ。俺たちの世界には人間を妻にしている種族の王も居るんでな。そいつらの子供が結構良い感じの能力者に育ちそうなんで、今俺たちの世界ではちょっとした人間ブームなんだよ。」

俺は自分で言うのもどうかと思うが、死という事に関して結構覚悟の決まった人間なんで、ビビりながらも八つ裂き丸に果敢に会話を試みていた。こういう時に癌患者だった事が妙に役立つ。奴と圭介は無言でその会話になんとか聞き耳を立てているだけだ。そういう意味では奴と圭介がかなり普通の人間で、俺はちょっと壊れた人間なのかも知れない。俺にしてみればこの八つ裂き丸という異世界の王に日本語が通じるだけでもありがたいと思えた訳だ。アヤとシイとその母親の会話のように、日本語なのに聞き取れないという現象も今の所起きない。この一連の不思議現象の中でかなりまともに話せる人物が現れたのを俺は内心喜んでさえいた。

「まあ、あんまり俺を恐れる事はねぇよ。俺の世界での俺は暴れん坊かも知れねぇけど、この世界での俺はおとなしいもんだからよ。お前たちの世界で作られた映画とかアニメとかいうものに出て来る魔物とか鬼とか宇宙人より俺はよっぽどおとなしいぜ。そもそも俺たちの世界では人間を食う趣味の奴は殆ど存在しねぇしな。なんか人間に卵を産み付ける異星人の話は気持ち悪かったな。」

これは俺の後ろで怯えている奴と圭介に向けられた言葉だ。俺はその前の人間ブームについてもう少し聞きたかったんだけど、八つ裂き丸の話はどんどん進んで行く。

「人間を食べる種族、そんなのが異世界には居るんですか?」

恐る恐る俺の後ろに居る奴が口を開いた。

「おう。まあ、居なくもないけどよ、そんな種族は稀だ。少なくとも俺の種族にそんな奴は居ねぇよ。お前ら人間もそうだろうが、ある程度自分の形に近い形状の食い物になる動物が居るか? そもそも俺たち魔族をお前たち人間は勘違いし過ぎだぜ。脚色された話を奇妙なくらい信じてどうするよ?」

まあ、確かに映画とかでの魔界の生物とかは人間食べる場合が多いかな?

「それは『人間』が考えた残虐性であって、主観を例えば牛にすりゃあ、その残虐者は人間になるだろう? 自分の残虐性を棚に上げるのは人間の悪い癖だぜ。」

言われてみればそうなのかも知れない。

「今回みたいに調停の場合なんか、俺は例え人間に襲われても反撃しないしな。」

「八つ裂き丸さまは核ミサイルの直撃でも死なないじゃない。」

アヤの口からなんとも恐ろしい言葉が出た。核ミサイルってのは人間の考えた兵器の中でも最高の殺傷兵器の筈で、それの直撃でも死なない異世界の人間に、俺たちの世界の人間がどうやって勝利出来るのだろうと疑問が浮かぶ。この異世界の王はそれにも笑って答えた。

「そりゃあそうだ。あれはこの世界、つまりは地球に住む生物用の兵器だろう? 対魔物用の兵器は数える程しかこの地球にはないからな。俺は大抵笑って流してやれる。まあ、アヤの母さんみたいな能力者の場合はそうもいかねぇが。」

それでも対魔物用の兵器がこの地球にはあるんだ?

「ああ、いくつかな。それで俺を殺せるって話ではないだろうが、俺も痛いのは嫌いなんでな、当たらないように逃げるくらいの事はするだろうよ。」

とにかく異世界人に遭遇した場合、人間に勝ち目はないらしい。

「だからよ。俺たちから仕掛ける事はねぇって。基本的にそういう小さい考え方は人間が最も得意とする考えなんだって。お前たちを俺の住む世界に連れて行ければ判り易いんだが、一応戒律上それは出来ねぇからなぁ。簡単に説明するとな、俺の住む世界には文明と呼ばれるような文化形態を持つ種族だけで千種族くらい居る。それがどうして小競り合いくらいで大きな戦争にならないかというとだな。俺の住む世界はお前たちの住む地球の1万倍くらいの陸地がり、更に統治する王の能力が拮抗しているんだ。だから、わざわざこんな狭い地球なんて球状の惑星には興味が無いんだ。まあ、俺の種族に関して言えば、宙に浮いている能力があるから、そもそも陸地も要らない。つまりは領土欲が存在しないに等しいんだよ。それでも地球に居る人間の中に数名だが俺たちの能力を超える奴が存在するんで、こうして条約締結なんて面倒は発生するんだがな。」

えっと、異世界って惑星じゃないの?

「ああ、俺の住む世界はな。俺の住む地域は特にそうだが、360度地平だ。そして、未開の地も含めると判らない事がまだまだ沢山ある土地でもある。俺の上司に当たる王の中の王が言っていた事だが、俺の住む世界は大いなる力を持つ者の実験場なのではないかと仮説をたてていたな。」

話が難しい方向になっている。俺も奴も圭介もちんぷんかんぷんな表情になっているだろう。八つ裂き丸はその俺たちを見て笑った。

「スマンスマン。風呂敷を広げ過ぎたな。とにかく、お前たちの考えるような怪物はそんなに居らんという事だ。ああ、これを言えばわかるか。俺たちの種族の食い物ってなんだと思う?」

形が人間なので、やはり俺たち人間が食う物しか浮かばない。

「そうだろう? だが、俺たちは実は食物を摂らないんだ。」

へっ?

呆然とする俺たちを見て八つ裂き丸がまた笑う。

「俺たちの種族、特にこのアヤたちと親交のある連中で、食い物を口に入れる種族は居ない。人間との付き合いで食う場合を除いてな。俺たちのエネルギー源は別にあるんだ。食い物を消化してエネルギーに変えていた時代はかなり昔だな。俺たちがお前たちから見て怪物みたいな力を発揮しない理由、それは領土欲がない事、そして食欲がない事が挙げられる。」

えっ、じゃあ、どうやって生きているんだ?

「大気中に放出される『精神の欠片』或いは『思念の欠片』と呼ばれる物を吸い込めば、俺たちは普通に生活出来る。そういう風に進化したんだよ。つまり、呼吸さえしていれば生きていられるのさ。」

八つ裂き丸は形は人間に近いが、かなり次元の違う生物である事が判明した。呼吸が出来れば生きて行けるのであれば、人間のように牧場や畑を作る必要もない。だから領土欲とやらがないんだ。

「もう一つ理由はあるぜ。それはアヤの母親が俺たちの世界に持ち込んだ物の中では最も役に立つ概念だ。」

それだけ地球より進んだ異世界で、地球にあってその世界に無い物ってなんだ?

俺も奴も圭介もまるで見当がつかない。

「お前たちにしてみれば当たり前の事なんだろうがな。俺たちの世界にそのシステムは無かった。それは『時間を見る』って事だ。」

はいっ? 時計って事か?

「ああ、その反応は判り易いな。俺たちの住む世界がお前たちの世界より進んでいるのに何故そんな簡単な事が出来ないか。それは簡単だぜ。先程言ったと思うが、俺たちの世界は広く、そして惑星という形ではない。」

「つまり、太陽の周囲を回っていないし、自転もない?」

「そうさ、俺たちの世界での太陽は生き物で、月といつも追いかけっこをしていると思ってくれ、しかも、その速度に法則はない。だから、気分で太陽が照ったり、月が出たりする世界なんだよ。そんな世界に時間という概念を持ち込んだのがアヤの母親だ。俺たちが地球を必要とする理由は時計が狂った場合の修正に使う為というのが最も重要な理由だ。そこに住む原住民である人間にそれ程興味はねぇのさ。あんまり無茶をして地球の公転を止めるような奴が現れた場合は結構本気で怒るかも知れねぇが、そんな能力者は今の所生まれていない。時々アヤの母親のような特例が生まれる事はあるけどよ。」

楽しそうに語る八つ裂き丸だが、俺たちは物凄く場違いな場所に居る心持だ。

この家に現れないでアヤの母親の所に直接行けないんですか?

少し質問のランクを落としてみた。異世界の原理みたいな事を言われても俺たち中学生には理解出来ない。俺は勿論、圭介も奴も、それ程頭の良い部類じゃない。

それを察してくれたのか、八つ裂き丸も快く話題を変えてくれる、俺たち人間が考える悪魔より、余程人間に近い男だ。

「アヤたちもそうかも知れねぇが、俺たちもあんまりこの星の原住民と関わり合いにはなりたくないんだよ。俺って説明が面倒な姿だろ?」

頭上で黒光りする蛍光灯大の輪と、背中の黒い羽を指差す。

「結構前に俺たちの世界での喧嘩の最中によ、偶然この世界に吹っ飛ばされた事があんのよ。今と違ってアヤの母親とかがトンネルに結界張っていない頃の話だ。つまり首輪無しでもこの世界に出る事が可能だった頃に一度何も考えずに俺はこの世界に来た事があるんだけどよ。お前たちの時間で考えると1千年くらい前の事だ。その頃は時間の概念が俺たちの世界には無かったから結構適当に言っているから、其処は流せよ。」

俺たちは絶句する。八つ裂き丸は見た目で年齢を判断しては駄目なんだ。今更そんな事が頭をよぎる。

「その時はまだ此処まで人間は愚かではなく、それでもその片鱗くらいは覗かせていた頃かな。既に領土争いは存在したからなぁ。ま、そこに俺は落ちたんだ、今の首輪有りの姿じゃない場合、俺の羽はもっと大きくてな。それがちょっと人間の文化に影響与えちまった事があったのよ。」

黒い光輪に黒い羽、髪は黒いロングのストレート、それはまさかこの異世界の住人が『天使』のモデルだとでも言うのか?

「おう。その通り。お前はなかなか良い所に目をつけるじゃねぇか。」

呆然としながら呟いた俺の頭を八つ裂き丸はぐしゃぐしゃと撫でる。ちなみに何時俺の目の前に移動したのかまったく見えなかった。

でも、なんでそのまんまの姿で描かれていないんだ? 宗教画とか見ると皆羽も輪も白く、髪の毛は金髪とかじゃないのか?

「それは簡単だ。人間は自分を中心に物事を考えるからだ。白は聖なる色、黒は悪い色、そんな考えを持っていたから、描く時に白を基調にしたんだよ。都合よく民衆を統治するのに使われたって訳だ。その事があってから俺も一応反省してさ、なるべくこの世界に来る時は目立たない姿で、更には会う人間はごく少数でって決めたんだ。まあ、それが完全に俺たちの世界に浸透したのは今から5百年くらい前か。アヤの母さんがトンネルに結界を張り始めた頃だったかな。」

アヤの母さんって本当は何歳なの?

病室を出て行く時に彼女は訊くなと言ったけど、そんな壮大な話にまで彼女は出て来るので、俺は思わず訊いてしまった。

それに関して八つ裂き丸は腕組みして考え込んでしまう。

「あいつを表現すんのは難しいんだよなぁ。俺が初めてあいつに会った時、あいつは15歳だった。姿はな。」

今より2歳若い姿?

「ああ、あいつは本当は13歳で成長が止まったんだが、何かで必要な時はその時間を動かせるんだよ。例えば子供が出来た時とかな。時を進めなくてはあいつの体の中で子供は育たない、そういう時は時間を動かせる、便利な体なんだよ。この星の生態系とはまったく別の生物だと王の中の王が言っていたな。」

アヤとシイを生む為に時が動いたから、今は17歳の姿。そんな事が出来る者を人間と言ってよいのか?

「まあなぁ。基本的な機能は人間なんだよ。ただ、あいつの場合、所謂普通の人間とは言い難いな。自分だけ時を止める能力者は俺たちの世界にも存在しないからなぁ。」

俺たちと同じくらいの文明を持つ種族が千以上も居るのに、その能力は居ないんだ?

「ああ、だからあいつは特別なんだよな。人間同士の争いは別として、あいつに手出しする魔物は殆ど居ないと思うぞ。逆に狩られてしまうのがオチだろうな。まあ、あいつの能力に興味を持つ種族は結構居るから、一概に誰もが手出ししないとも言えんが、少なくとも俺と懇意にしている連中には居ないかな。まあ、これも俺の住む世界の話だから、別の世界に行けばまたその考え方も変わるだろうな。」

なんてスケールのデカイ連中なんだろう。たった15年生きただけの俺にはもう理解出来ないよ。

「ははっ。そうかもな。お前たちにレベルを合せて話せる程、俺の日本語は流暢ではないかも知れん。」

そうか、八つ裂き丸は異世界人。つまりは俺たちの言葉を覚えたんだ。俺はそこに感心した。

その時またもや居間の壁から足が生えて来る所を見てしまう。何度見ても絵の中から突然足が生えて来るのはギョッとする。

「おう。邪魔してるぜ。」

何事も無かったように会話が続けられる八つ裂き丸はやっぱりおかしいが、それも慣れなんだろう。アヤの母親は眠ったシイを背負ったままで壁から出て来た。手にはどこでもアタッシュケースと携帯電話を持っている。

「八つ裂き丸陛下。お久しぶりです。」

そう言ってシイを背負ったままで片膝を着いて挨拶する。アヤが駆け寄りシイを受け取った。

「母さん、大丈夫?」

少し心配顔のアヤに笑顔で応え、八つ裂き丸と対峙するこの母親は、本当に不思議な女だ。

「ええ、大丈夫よ。この子、重くなったわねぇ。」

それかよ。

まあ、この女が簡単に敵と思われる人間に遅れをとるとも思えないが、ちょっと心配してしまった。

「八つ裂き丸陛下。あなたが今回の調停者なのですか?」

「おう。まさかお前との調停に王の代理なんて不義理は出来んだろ? 今も少し説明していたんだが、鉄朗は別件で動けないし、他の王もちと訳アリでな。珍しく俺が代表だ。」

「魔界で何か動きが?」

「まあ、それもあるが、それはまたそのうちな。鉄朗は別件で地球に来ているが、今は此処の裏側で行動中かな。大英とか言う国で勝手に魔王を名乗って、好き放題している人間が居るらしくて、調査に行っている。あんまり俺たちの世界のイメージを愚弄するようなら処分して構わないという『オヤジ』の命令付きだ。」

鉄朗ってのは確か八つ裂き丸と同じ王のひとりだったよな。オヤジってのは先程から会話の中に出て来ていた王の中の王か。

イギリスで魔王を名乗る人間が暴れているってのはなんだ?

「人間の中にも時々奇妙な能力を持つ人間が生まれるって話はさっきしただろ? この世界では魔法とか霊能力、超能力なんて呼ばれている類の能力だ。それを極めたつもりで魔王とか名乗ってしまう愚かな人間がまた稀に居るのさ。恐怖と混沌が世界を制する手法だと本気で信じているアホだな。」

八つ裂き丸の解説は俺たちに判り易く喋ってくれているんだろうが、この男、口が悪い。

「成程、今回の件から英語の国が妙に早く手を引いたのはその為だったのですね。」

「ああ、だから鉄朗は今その国にいるお前クラスの奴と会談中だろう。」

この女クラスという人物は一体どんなレベルの人間なんだろう。

俺の疑問をよそにアヤの母親と八つ裂き丸が手と手を併せる。何やら呪文じみた言葉が聞こえるような気はするが、例の能力が発動したらしく、俺たちに彼等の呪文は聞き取れない。

なに? 調停ってこんなに簡単に始まるのか?

「ええ、だらだらと調印書にサインするとか面倒な事はないわよ。」

シイを背負ったアヤが二人から離れて俺たちの方に戻る。

俺からそば用ざるを受け取り、圭介にシイを預け部屋に連れて行くように頼んで台所の方に行ってしまった。そう言えば昼飯の準備中だったな。



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