ガンガン少年を語る妖しい女。
ガンガン少年を語る妖しい女。
その女性は笑みを湛えた表情のままで病室に入って来た。格好は白衣を着ているので、医者なのだろうが、俺はこの女医を今まで見た事が無い。
確かに大学付属のこの病院には見た事の無い医者や看護婦が少々存在する。現代の病院では担当部署が違えば会わない医者や看護婦が居てもおかしくはないけど、俺みたいに無駄に長く入院していると、関係の無い部署の人間の顔も覚えてしまうんだ。俺は外来の受付に居る人間のローテーションや隣の病棟に勤務する看護婦の顔も殆ど覚えてしまっていた。回診なんて殆ど来る事の無い院長やその秘書の顔まで覚えている。それ程この病院で検査以外に外に出て過ごしている時間は長いんだ。寝てばかりだと滅入るし、他にやる事もたいしてないからな。
だからそう判断した訳だが、俺はこの女医に会った事があるような気がした。それは、俺の隣に寝ていた中一の女の子。この女医はその女の子に顔が似ている。
気のせいか。
俺は黙って彼女の顔を見つめてしまっていた。
そんな俺を見つめ返しながら、彼女が手を出す、握手を求めている訳ではない。これは脈を取る時にする事だ、入院が長くなるとこんな事は日常で、サッカー用語で言えばアイコンタクトで出来る。しかし、この女医はやはり俺の担当でも無ければこの病棟の担当でも無いな。彼女は右手を差し出して来た、つまり、俺に左手を出せと無言で催促している。この病棟の医者や看護婦は皆俺の左腕が殆ど動かない事を知っているし、そんな意地悪をする医者は居ない。
俺の方が少し意地悪な気分になった。
──そうかい。じゃあ俺が左腕を上げるまで待ってな。1分じゃ俺の腕は上がらないぜ。
そう思って左腕に力を入れるよう頭の中で命令する。
──!! えっ!?
俺の顔が驚きの表情になる。それはそうだろう。この二ヶ月ですっかり動かなくなった俺の左腕は、何の抵抗もなく持ち上がり、女医の差し出す手に簡単に掴まれた。今朝まではあんなに干乾びていた腕に血色が戻っている事にも気付いた。そりゃ考えてみれば下半身に血液が溜まって起きる朝の現象があるんだから、起きてしばらく経つ腕に血液が回っていてもおかしくはないけど、確かに先程までは動かなかった筈なんだ。だから、翼翼やトオルが駆け回っているのが不思議だったんだ。それなのに、今俺の腕までもが簡単に動いた。
「成程、これは思った以上の成果ね。」
そんな呟きが聞こえた。
「ごめんなさいね。別に意地悪で私は右手を出した訳ではないの。ある人にあなたの回復の様子を見る方法を聞いたら、この方法が良いと言われたの。左腕が上がって嬉しい?」
俺はその顔を見返しながら、頷いた。おそろしく綺麗な顔だ。ますます俺の横に寝ていた中一の女の子に似ている。
一体あんたは誰なんだ?
俺の問いに薄く笑った表情を崩さずに、女医らしき女は白衣の胸を指差した。名札を見ろというのか。名札には『小児科 小柳さくら』と書かれている。
待て、小柳先生は知っているぞ。少なくともあんたみたいな美人じゃないし、顔も体型も髪型もまるっきり違う。
俺のツッコミが妙に冴えている。最近は児童とばかり喋っていたせいなのか、病状の進行のせいなのか、俺の喋りは小学生レベルにまで落ちていた。それが今のツッコミは即答で俺の口から出た。そんな事でさえ不思議に思えるのが癌という病気なんだ。
「美容整形してダイエットした事にしておいていただけると有難いわ。次にこの病室に現れた時は美容整形が失敗に終わって、ダイエットもリバウンドした事にして貰えると助かるかな。」
楽しそうにそんな言葉を返して来る。やはり病院関係者ではなく、この女医の姿をした女は侵入者だ。昨日俺の顔に血を吐きかけた少年の仲間か。
俺の右手がナースコールのボタンに自然に伸びる。左手は彼女に握られたままだった。彼女は笑顔を崩さずに物騒な事を言う。
「無用な殺生は禁じられているから、それは押さないで欲しいな。」
声の感じから、この女の年齢を推測する。顔も参考にするが、まったく判らない。否、見た目と声は女子高生としか思えない。だが、目の奥に光る何かが彼女の年齢はもっと上だと俺に告げている。しかも、何か危険な香りがする女だ。
俺は抵抗の意思は無い旨を知らせる為にボタンから手を放した。
「君や他の入院患者の様子を見に来ただけの、只の研究者だと思ってくれれば問題ないわ。」
否、そう言われてもなぁ。
俺が困った顔をしているのがそんなに楽しいのか。彼女は声を上げて笑った。
「あの少年が何故あなたたち入院患者の顔に自らの血を吐きかけたか? それをあなたは考えているのね? 勿論理解不能な行動、怪我をしてふらふらの少年がわざわざこの病室に寄って全てのベッドに寝ていた患者の顔に血を吐きかける。正常な精神では有り得ないわね。」
成程、侵入者の少年の事を知っていて、彼の行動まで知るこの女はあの少年の仲間なのは間違え無いだろう。そして、彼女が見に来た様子とは、俺のこの体の動きなのではないだろうか。
「そうよ。」
彼女は俺の表情から俺の考えを読んだようだ。やはり只者ではない。
「あなたの顔にかかった彼の血液。それが全ての癌細胞を死滅させる癌細胞。癌細胞を喰らいつくす癌細胞、それを私は癌癌と呼んでいる。」
つまり、末期の癌患者である俺たちに吐きかけたあの血液が、薬だったと言うのか? それで俺の左腕が急に動いたと言うのか?
俺の驚きの問いに、彼女は微笑んだ。
「そう。でも、リハビリはきちんとしてからじゃないと、急激に動かしては駄目よ。長期間動かしていなかった腕や足、筋肉自体は衰えたままなんだからね。」
脈を取り終えた左腕を布団の中に戻される。前までならそんな事を感じなかったであろう左腕が布団に戻される感覚を俺はなんとなく噛みしめた。健常者にこの気持ちは判るまい。
治るのか? 癌だぞ? それに、血液型とか、癌細胞だって同一の形とは限らない。
そう呟いた。世紀を跨いだ不治の病。それを少年一人の血液が救えるとなると、一体世界はどうなるのだろう。
「そうね。あなたの疑問は尤もな話。答えられる事には答えておくわね。第一の疑問、癌が治るか。治るわ。第二の疑問、血液型や癌の進行状況による差異。それを全て超越した細胞が癌癌細胞なの、だから誰にでも効果がある。そしてその細胞を持つ少年のせいで、この札幌で世にも奇妙な争いが起きている。それはそうよね。世界中只一人、癌を完全に治癒出来る血液を持った少年が居るという情報が流れれば、その少年を手に入れたいと思う、或いは実験に使いたいという科学者や国が現れ、癌でもないのに殺し合う事が起きてもね。」
それは昨夜の侵入者の一人、爆死したという人物に関連するのか?
「あら、それも知っていたの? そうね、彼は某国に雇われたあの少年を確保する為の戦士ね。これはあなたには関係ない話になるけど、世界でも有数の戦士たちがこの札幌に今集まりつつあり、現在の札幌はそんな訳で戦場になりつつあるの。」
はっ?
俺はそんな顔をしただろう。戦争って言うのは俺が生まれる数十年も前に日本が負けて終わったあの戦い以来日本では起きていないんじゃないのか? まあ、学生運動も戦争や内戦に近い状況とも言えなくはないが。少なくとも小学校レベルの日本の歴史しか俺は知らないし、そんな近代まで習わないうちに俺は倒れた。
彼女の微笑みに変化は無いが、少々苦笑いの色が見えた。俺の目の前にあるテレビの画面を指差す。その仕草が妙に優雅なのは気のせいだろうか。
「今朝方、私の知り合いが流した偽の情報に乗せられた一団が、中央警察署を襲って、建物毎崩壊させてしまった。勿論倒壊で死者も出ている、その前に戦闘が起きていて中にいた人間は警察官も運の悪かった関係のない犯罪者も一緒に殺されているけどね。その責任を取る為に彼は戦いに行ってしまった。あなたの観察力なら昨日この部屋に来た少年が羽織っていたコートが大人物だった事くらいは認識したかしら?」
俺は無言で頷いた。
「そのコートの持ち主である彼が癌癌細胞を有する少年を奪取し、数分遅れでこの病院に侵入した他国の傭兵と遭遇した。そして彼を巡って戦闘になった。結果はコートの持ち主の勝利。そんな戦いが市内の各地で行われている。でも、此処は安全なの。ある調停が結ばれていてね。どの国もこの病院で行われている実験には興味を持っているけど、手は出せない。検体であるあなたたちがこの病院に居る限りはあなたたちに手を出す勢力は滅多に居ない筈よ。」
検体? 実験? 俺たち入院患者を使っての実験で、実験結果が出るまでは安全という訳か。
「そうね。何処の所属が勝つかも関係して来るでしょうけど、退院後も経過を見たいので誰かが君やその他の患者たちに付いて行くでしょうね。少なくとも国家レベルの軍勢に手を出すヤクザもマフィアも今の時代では考えられない。人を殺す事に関してはやはり軍隊や傭兵はその比ではないのよね。」
ちなみに教えて貰えればで良いけど、中央警察署を破壊したのは何処の所属だ?
駄目元で聞いてみると、彼女は簡単に答えをくれた。
「直接的ではなく、いくつかの問屋は挟まっているけど、お米の国が依頼主。君にそういう語彙があるかわからないけど、直接国軍ではなく所謂傭兵部隊が札幌の街で暴れているわね。後は英語の国、中華、ピロシキ、印の国、北韓国、南朝鮮、仏の国、我らが日本は出遅れているかしら?」
何故そんなにあんたは楽しそうなんだ?
「そう見えるだけ。私は楽しい話は一つもしていないわ。いつからかは忘れてしまったけど、私の顔は半分笑った顔から怒りや悲しみの表情を持たなくなったの、これは今回の件にはまるっきり関係の無い話。」
そうか、それは失礼な事を訊いた。すまない。
俺は素直に詫びた。
しかし、何故あの少年を巡ってそんな争いが起きるんだ? 研究するだけならばあの少年に頼んで何処かの国家が研究を進めれば全世界に住む癌患者の為になるんじゃないのか?
「それも尤もな意見に思えるわね。そこから本当の意味での抗癌剤が開発されれば、人間は百年以上に及ぶこの病気との戦いに勝利出来る事になる。でも、今その血液を持つ人間はあの少年一人。この意味は判るかしら?」
またもや半分笑顔のままで訊かれる。俺はその表情を気にしないようにしながら、真面目に考えて、答えを出した。
全世界の何処にでも癌患者が居るからか? そして、それに対しての完全な癌駆逐細胞を持つ人間はあの少年一人。ひょっとして彼の血液は無限に増殖出来ないとか、そんな理由が付いているんじゃないか?
「その通り。彼の血液は稀有な物、彼の体を支える以上に血液は無く、一度使ってしまった血は使えず、彼の体内で再生された血液は癌癌細胞を含まない通常の血液になってしまう。彼をバラバラにしても全世界の癌患者を救える量の癌癌細胞は入手出来ない。だから各国がその情報に踊らされ、少年を巡って争う。それが今札幌で起きている戦争の真実ね。」
彼はまだ少年だった。これから子孫を残してその人間が癌癌細胞とやらを作る事は出来ないのか?
「その考えもあったわね。彼に女を与えて子供を作らせる事で解決しようという試みは実際に実験されたの、彼もあなたと同じ15歳になるかならないかの少年だけどね、全世界の命運が掛っている事だから、特例でその実験は許された。でも実験の結果は失敗。」
何故?
「彼には子種が無かったの。」
成程。それで、世界に一人しか居ない細胞の持ち主の誕生って訳か。親とか兄弟は居ないのか?
「ええ、詳しくは話さないけど、彼の両親は既に亡くなっていて、兄弟も親戚も居ない。彼に血液を吐きかけられた人間の血液から癌癌細胞を取り出す事も出来ない。癌癌細胞は癌細胞を喰らい尽くした後、普通の何の変哲も無い通常細胞に変化する事が研究済みなの。」
今あの少年の体の中に流れる血液が全てという事、一人の癌患者の癌細胞を完全に死滅させるのにどれくらいの量が必要であるかは不明だけど、それじゃあ良い所数十人の人間を救って終わりか。
「だから、世界は落胆した。そしてその数十人になる為に百人単位で人材が投入され、今もこの市内で争っているって訳。」
なんて馬鹿げた事だろう。
「私もそう思うわ。」
そう言いながら彼女はベッドの脇にある椅子に腰を降ろした。様子を見に来ただけと言う割には長居が過ぎないか。そんな俺の疑問形の表情を見て、彼女は苦笑いする。
「あなたには此処で先ずはリハビリをして欲しいの。あなたが健康体に戻る頃に、本州のある土地で開催される中学選抜サッカーの全国大会決勝がある筈なのよね。それに間に合わせて欲しいという依頼がある少年からあったと言えばわかるかしら?」
彼女は俺にこの用件を告げた。どうやら様子見がついでで、これが本題であるらしい。
俺は暫く飲み込めず、考えてしまう。
ある少年というのは俺の小学校からのチームメイトで、あの反省ノートをいつもつけていたあいつだろう。そいつ以外は今度開催される全国大会には選抜されていない筈だからな。決勝まで残る自信は大した物だが、その決勝に来いというのはどういう事だろう。俺は病室内にあるカレンダーを見て、試合の日程を考えた。
「あなたは彼にとって必要なパートナーなのよ。あなたのセンタリングが欲しいのだと言っていたからね。」
はっ?
俺はまた疑問符の付いた顔で彼女を眺めてしまった。
札幌の街は今何か得体の知れない軍隊とか傭兵とか暗殺者がウロウロしていて、あちこちで戦いが起き、人が沢山死んでいるのに、サッカーの試合にあいつは来いと言うのか? しかも今の言い草だと俺に試合に出ろと言っているように聞こえる。
「そうよ。そもそもあなたはこの件に関しては検体である事以外に関連がない。依頼主の彼もそう。大人の勝手な理屈で争いが起きているだけだから、あなたは体を治して大会決勝に駆け付けても誰も文句は言わないと思うけど、何か問題があるかしら? 故郷が戦火に巻き込まれていて、つい先週まで自動小銃片手に戦っていた兵士がオリンピックに出ている国だってあるのよ。あなた程の選手が病に負けて、更に勝手な戦争に巻き込まれる理由は一つも存在しないわ。」
確かに無いな。でも、俺の故郷であるこの街が戦場になっているのに、俺は本当にサッカーなんてしていて良いのか? 否、それ以前に俺の体の治りはそんなに早いのか? それに、あいつが俺のパスを求めているって?
「ええ、良いのよ。故郷で戦争が起きているのがおかしな状況であって、中学生がスポーツで汗を流しているのが正常な状態なの。特にこの五十年の日本はそう。だから、あなたがサッカーの大会に出場しても、誰も文句は言えないのよ。それに、彼はあなたのパス以外は『どうもしっくり来ない』と嘆いていたわ。それで私に相談して、今回の癌癌細胞を持つ少年を是非探して欲しいという依頼になった訳。それがちょっとややこしい国際機関に情報漏洩してしまったものだから、この札幌に奇妙な戦争状態を起こしてしまったのよ。そこはあなたの考える事ではないわ。」
言われればそうだが、俺は来月の今頃にはこの世から居なくなっている筈の人間で、今でも半信半疑だ。いきなり現れて俺の知り合いからの依頼が招いた戦争の話をされて、はいそうですかと信じられる物だろうか。だが、俺の左腕が動いた事で、俺は半疑の部分の大半を埋めていた。
またサッカーが出来るのか。
感慨深く呟いているのは俺の口だった。多少笑っていたかも知れない。昨日の晩から明朝にかけて一体どれくらいの人間がこの世を去ったのか、俺には判らないし、判ったとしても何も出来ない。他人の生き死によりも自分のサッカー、これは一体どんな罪だろう。俺は頭を抱えたくなった。
「昨日の今日でこんな話をされても困るでしょうけど、私も参加しなくちゃならない案件がいくつかあってね。少し急がなくちゃいけないの。だから話に来たのよ。札幌の街中での戦闘は直接あなたには関係の無い話。それは大人たちに任せなさい。」
そりゃそうだ。俺は中学生になってから一度も登校出来ていない病人で、抗癌剤で体がボロボロの半分廃人。もし健康体でも、この女のように各国家レベルの兵隊を相手に何かが出来る訳じゃない。
そうか、それは御苦労様でした。今の話は半分聞かなかった事にした方が良いんだな?
俺は顔を上げて彼女の顔をもう一度見た。
「そうね。そうして貰えると助かるかな。私は一応此処には居ない筈の人間だし、今の話は警察も政治家も知らないような、割と重要な話だったのよね。あなたが退院して、サッカーの試合に間に合ったなら、その試合後に依頼主に訊いてみてくれる? 彼にも色々事情があるみたいだから。」
ああ、そうするよ。小柳先生にその白衣返して行くの忘れないでくれよ。
俺がそう言うと彼女は座っていた丸椅子から立ち上がり、病室から出て行く。出て行く寸前に白衣を脱ぎ、ドアの取っ手に引っ掛ける。どこかの観光地で見たような紋様の布地で作られた、見事な刺繍柄の変わった服を着ているのにその時初めて気がついた。
ああ、そうだ。最後に一つ聞かせてくれよ。
俺が呼び止めると、彼女は引き戸の外側から顔だけ室内に戻る。
「何?」
俺の隣のベッドを使っていた中学一年の女の子が居たんだ。昨日の朝容体が急変して運ばれて、昼頃にベッドが片付けられちまって、俺を含めたこの病室の患者は皆彼女が死んだと思ったんだ。実際今も此処には居ないしな。だけど、あんたを見た瞬間に何故だか判らないけど、彼女は生きているんじゃないかって思えた。どうしてだと思う?
「私がその女の子に似ていたからね。」
ああ、あんたはあの女の子の関係者なのか?
「そうね。関係者よ。母親だもの。」
俺は愕然とした表情になっただろう。その顔を見て彼女は笑う。
あんた一体いくつだよ!?
その問いに彼女はドアの外から手を振りながら答えた。
「女に年齢は訊かない事。これからの人生楽しむ最低限度の大人の知恵よ。覚えておくと役に立つ日が来るかもね。あ、それから、ウチの娘も助かったわ。今朝早くウチにあの少年が来て、殆ど死んでいたあの娘を助けてくれたの。同室の患者さんに挨拶もなく自宅に戻してしまってごめんなさいね。死ぬ時くらい自宅に戻してあげたいと思ったの。私は葬式の準備までしていたから、本当に彼には感謝しているわ。だから、ちょっと戦いにも参加しなくちゃならなくなったけどね。」
彼女はそう言い残して病室のドアを閉めた。残された俺は暫く呆然とした表情でドアを眺めてしまう。
『癌細胞を喰らいつくす癌細胞、それを私は癌癌と呼んでいる。』
確かにそう言った。そして、昨日まで俺の隣のベッドに居た中学一年の女の子の母親。
そもそも研究者でも医者ですらない。白衣を着ていれば、皆医者か研究者だと言う考えも少しおかしいとは思う。『癌癌』と呼ばれる血液の効果を確かめに来た、あの少年或いは多分廊下に居た第三者の仲間、廊下に居た当人ではないだろうな。彼が羽織っていたコートは男物だったはずだし、今去った女の身長から考えると大き過ぎる。爆死した傭兵の相手をしたのはコートの持ち主だと言っていたっけ。
それにしても、癌細胞を喰らい尽くす癌細胞、略して癌癌。普通そんな略し方しないよな。
俺はそう考えながら、布団の掛った細くなった足に命令を出して見る。
──動け。
左腕よりも症状の進んだ両足が、少しだけ動いた。
俺は急いでナースコールを押して看護婦を呼ぶ。これが強力な薬による幻覚ではない事を確かめる為にだ。
これは後で聞いた話だ。
彼女はその目立つ服装のままで、病院の外来患者受付の横にある公衆電話からどこへともなく電話していた。その内容は以下の通り。
「あ、『はるみ』ちゃん? 私。元気だった? え? 今それどころじゃないって? まあ、北海道の代表になると忙しいでしょうね。それもあるけど、それとは別の緊急対策会議中? 例のテロの件ね? 『前の知事さん』から引き継ぎは受けている? そう、『退治屋』の件。それって私の事なのよね。これからそっちに伺うから、何処かに一人で居て貰えるかな? 私の職業上、他の人間に見られる訳にはいかないのよ。大抵の場所なら誰にも気付かれずに行けるから、トイレとかでも良いよ。え? 私の本当の年齢? 言える訳ないでしょ。それじゃ詳しい仕事の話はその時にね。じゃあね。」
楽しそうに電話を切った彼女は、呆然とする受付看護婦に手を振りながら、その場を去ったそうだ。
俺の記憶が正しければ、サイドロード、ホワイトヘアーホリという名の知事に続き北海道知事に当選した初の女性知事の名前がはるみだと思ったが、聞かなかった事にした方が良いのだろうな。
そしてこの日、北海道知事の要請により日本政府の命令が下り、治安維持出動を自衛隊が本格始動、テロリストと呼ばれる傭兵集団との戦闘が更に激化するのだが、それはまた別の話だ。
それから二週間が経過した。俺はリハビリで動くようになった左腕を暫く眺めている。
あの夜、この病室で俺たち入院患者の顔に血を吐きかけたあの少年のその血が、その翌日現れた女の言う『癌癌』だった。俺たちの体を蝕み、俺たちの命を削っていた癌細胞を食う癌細胞。そんな馬鹿な話は信じられないが、確かに俺の体は動くようになった。しかし、疑問は残る。
翌朝から病院に詰め掛けた家族を含めた関係者の剣幕から考えると、現在病室に残る患者の関係者の依頼では無さそうだ。あの女が語った話では、その依頼者が俺の小学生の頃のサッカー少年団のチームメイトだと言う。どうやってあんな女と知り合うのだろう。更には、依頼したからと言って、はいそうですかと、簡単に実行出来る依頼ではないだろう。
そして、看護婦たちのしていた例の爆死事件と、その後に市内で頻繁に起きているテロと呼ばれる事件の数々が、繋がっている事を俺は聞かされた。
──何かの犯罪集団、或いはテロリストと呼ばれる集団、或いは外国の傭兵が、札幌市内で、癌癌と呼ばれる血液を持った少年の所有権を巡って争っている──
謎は謎のまま、あの女が現れる事も無く、暫くの間が空いていた。
二週間経ち、俺の周囲に居た入院患者達は、奇跡的に全ての癌細胞が無くなり、再発の兆候もなく退院の運びになろうとしていた。まさに奇跡だ。それがあの少年に吐きかけられた血液のせいだとは誰も思ってはいない。検査待ちで俺だけが残った病室にあの女は現れた。だからあの話は俺しか聞いていない。
医者も看護婦も、理解不能な話。末期に差し掛かった癌患者が次々に完治し、退院する姿は、世にも不思議な光景だったに違いない。札幌が戦場になっていなければ、このニュースは国営放送のトップニュースにもなり得るような話だが、その血液の話がテレビで放送される事は俺が死ぬその日までなかった。
更に数日が過ぎて、病室にまたもや訪問者が現れたのは、俺の病状でさえも大分回復した頃だ。俺はゆっくりだが自分の足で廊下を歩けるようになっていた。勿論弱った筋力を戻す為にかなりキツイリハビリはこなしているけどな。癌癌細胞なんて凄い物が存在する筈もないと俺は思っていたんだが、こうして体が動くようになって来ると信じざるを得ない。
それも驚きの一つなんだけど、俺がもっと驚いたのはこの訪問者の顔だ。入院患者のお仕着せパジャマを着せられた児童なのだが、その顔はかつて俺の隣に寝ていた中一の女の子、或いは彼女が居なくなった翌日に現れた女医風の女。その顔にまたもやそっくりだったのだ。顔は同じだが、今度は男の子だ。
翼翼も退院が決まり、症状としては一番進んでいた俺がこの病室最後の癌患者という事だ。毎日運び込まれて来る入院が必要な患者はかなりの率で外傷患者になり、それは大人も子供も同じで、この小児病棟にも、かなり怪我人が多くなった。それでも俺たちの病室はまだ特別扱いで、癌、或いはそれに近しい重病人、緊急の患者が殆どだ。だから、退院した玲や凛、トオルの後はベッドが空いていた。この児童は後者の緊急を要する重病人だと連れて来た看護婦に説明される。隣のベッドを暫く使うのだそうだ。まあ、もうこの病室に居るのは俺だけだから、一人で退屈していたのも事実だけど、またこの顔。俺はこの児童に特に関心がある訳ではないが、顔があの女の子或いは偽女医と同じという事が妙に引っ掛かった。重病人という割には自分の足で歩いているぞ。
彼は俺の隣のベッドに寝かされた。歩いていたし、それ程緊急で重篤な患者には見えない。荷物は彼の身長にしては大きな鞄がひとつ。多分親が持たせた物だろう。親はあの女か。しかし、この顔は、一体何処に父親の遺伝子が入っているのかと疑問符が付く程、彼女に似ている。
「それじゃあ、暫くしたら先生が来るから、大人しく待っていてね。」
看護婦がそう言って出て行く。俺はベッドの上に体を起こした状態だった。もう電動ベッドの世話にはならなくても良くなっている。
お前が俺の監視者なのか?
挨拶するでもなくそんな事を訊いていた。少年は寝かされたままで顔だけこちらに向ける。
「まあ、そうなんだけど。病気なのは本当らしいよ。僕は痛みを感じない体だから、今まで病院に来た事が無かったんだよね。」
痛みを感じない?
「まあ、体質かな。お姉ちゃんもそうだし、母さんもそう。だから我が家の人間は病気がかなり進まないと自覚すらないんだよねぇ。怪我なら血が出るからわかるけど、少なくとも僕には体の中は透視出来ないからねぇ。」
見た目より難しい言葉を知っていた。あの女の息子なんだから、普通では考えられない事が当たり前でもおかしくはない。それにしても、痛みを感じないってのは、どうだろう。
「緊急で今日手術だって。今朝お姉ちゃんが僕の顔色を見て気付かなかった場合、今度は僕が死にそうだったらしいよ。」
なんで?
「えっとぉ。盲腸が爆発したとか言っていたかな? 破裂かも知れないけど、とにかくそんな理由で即入院になっちゃった。まあ、そのお陰でこの病室に簡単に入れたんだけどね。」
顔色が悪いようには見えないが。
「お姉ちゃんや母さんくらいの近い人間じゃないと、僕の顔色の変化は見分けられないんだって。」
看護婦に言われた通りこの子は大人しく待っている。顔を俺の方に向けて口だけ動いている状態。これが俺の隣に寝ていた中一の女の子の弟であるらしい。
俺は病気には詳しくないけど、盲腸が破裂するってのは痛いんじゃないのか。痛みを感じない人間だと言われて、そうですかと信じるのも馬鹿げているような気もするんだが、何しろこの間まで死ぬ寸前だった俺が、こうして歩けるにまで回復したんだから、もう世界に不思議な事なんてなにも無い。俺は言葉を飲み込んでもう一度この子供を見た。
顔は奇麗な女の子みたいだが、観察すると少々眉毛が太い。此処だけで男の子と判断するのもどうかと思うが、それ以外に顔で判断は無理そうだ。あの母親や姉をただ小さくしただけにしか見えない。
暫く見つめ合っていると看護婦が来て、何やら手術の準備説明を始めた。バインダーに承諾書か何かが挟まっていて、それを読み上げている。そのプリントの最後の部分にボールペンでサインがされ、ハンコが押してあるんだけど、俺にはそれがモザイクに見える。
──これもお前たちの能力かよ?
そういう意味合いを視線に込めて彼を見ると、俺の方を一瞬見てから頷いた。アイコンタクトが成立している。
手術はその日のうちに本当に行われ、麻酔から醒めていない状態でこの子は運ばれて来た。病室には俺しか患者が居ないからそれで良いらしい。目覚めたら知らせるようにと言い残して看護婦が去って行く。俺は伝言係かと言いたくもなったが、俺なりにこの子を観察したくもあり、その提案は無言で承認した。
痛みがないというのだから、実は麻酔も効いていないんだろ?
看護婦が去ってから話し掛けると、こいつは簡単に目を開けた。
「全身麻酔も僕には無意味だってよくわかったね。」
そりゃあわかるさ。言われてみればお前の姉さんという人も顔色なんて一つも変わらなかった。容体が急変した日だって朝は普通に起きて本なんて読んでいたんだからな。
「お姉ちゃんは本の虫だからねぇ。お兄ちゃんは本当に母さんの言う通り人間観察の能力があるんだね。」
そんなもんはお前たち親子に比べれば瑣末な能力だよ。
「いやいや。それは謙遜だね。僕にもお姉ちゃんにもない能力で、更にはサッカーで凄いボールを蹴れるって聞いたよ。僕はルールのあるスポーツが苦手だから、羨ましいと思うんだ。」
こいつはどうしてこんな難しい言葉を使えるんだろう。俺が小学生の時はこんな言葉は知らなかったような気がする。謙遜なんて漢字、俺は今でも書けない。
こうしてこの化け物一家の長男であるシイと俺は知り合い、俺が退院するその日まで何事も病院内で問題が起きる事は無かった。