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治らない病人の居る病室。

『さぁ! 入場してまいりました我らがOKDジャパン。ベスト8を賭けた絶対に負けられないトーナメントが今始まります! 相手は何処になっても日本よりランキングは上。その中で決勝トーナメント緒戦。我らがOKDジャパンは世界ランキング二位のイタリアとの決戦であります。解説のマーツーキーさん、今日の対戦いかがでしょう?』

『そうですねぇ。なんと言ってもOKD監督のゴリ押しでギリギリ登録された次代の選手二名に注目ですね! 彼等二人は何かやってくれそうな予感がします! イタリアはグループ二位ですから、隙もあると思いますよ。』

『ええ、OKD監督はこの大事な決勝トーナメント緒戦の先発に意外とも言える二人を起用して来ました。雪国が生んだ二人のスーパー高校生、燦然と輝く背番号9番と11番、昨年北海道は未曾有のテロ事件が頻発し、暗いニュースが世間を駆け巡る中、颯爽と現れたニューヒーローにして百年に一度の奇跡のコンビが今日この後、先発で出場です!!』

なんて事をテレビ中継で言われているんだろうか。ちょいと恥ずかしい気もする。まぁ、解説はゼルシオさんかもな。

俺はついこの間初めて飛行機に乗った病み上がりの高校生だぜ。あんまり期待しないでくれ。まあ、去年全国大会の優勝があったから、推薦で高校に入れたけどさ。正直中学の勉強ひとつもしてないんだけどな。札幌の街が市街戦だらけでそれ所の騒ぎでもなかったんだ。あの事件が殆ど終結して二ヶ月で受験だとか言われた時はどうしようかと思ったよ。今俺の後ろを歩くこいつに感謝だな、俺が入院していて勉強なんてしてない事を知っていたこいつが、推薦の時にゴネて、どうしてもパートナーが俺じゃなきゃ嫌だとか言ってくれたから俺の推薦も決まったみたいな物だ。俺はあの中学選抜の決勝戦にしか出場していないし、その試合もセンタリング一本上げただけだからな。アシスト1で高校進学決定は正直有難かったよ。

ま、高校も入学式に出ただけで、まだ一日も登校してないんだよ。あの試合にたまたまゲストで来ていたOKD監督の目に俺たちが留まってしまって、まさかの全日本入りだからなぁ。

合宿ばかりで高校生活も満足にさせてもらえないんだもんなぁ。

大事な試合に俺たちを使うって監督が言っていたのは聞いたけど、まさか此処で投入かよ。

相手はテレビでしか見た事ない選手ばっかりだぜ。入場の時、地元かなんかの少年クラブチームの子供と手を繋いでいたけど、正直俺の方が体は小さかったんじゃないかね。

まあ、去年の今頃はこのスタジアムの千分の一くらいの病室で来月には死んでいると信じていたから、俺の奇跡はまだ続いているみたいだ。

これが俺の昏睡状態に見た夢とか言うオチじゃない事を祈るね。

札幌に外国人が珍しい訳じゃないけどさ。こんなにスタジアム全体が外国人の中で試合なんてした事ねぇし、あの圭介と不思議姉弟とその母親のせいかも知れないけど、去年の事件で俺はちょっとした外国人恐怖症だぜ。

当たり前かも知れないけど、日本の応援団少ないな。しかし、韓国とイタリアって遠いよな。

その割にイタリア人らしき応援団がスゲェ多い。

そう言えば、90分の公式試合に出るのも初めてだ。練習はこなしたけど、スゲェ不安。

そう思っていると後ろから奴に背中をつつかれた。

うん?

振り返ると奴も緊張気味の面持ちだったが、俺よりはマシな笑顔で、スタジアムの日本応援席の上辺りを指差していた。

俺はその指差す方向をかなり正確に見る事が出来る。スタンド最上席より上の通路と思われる場所に視線を移す。視力はまだそんなに回復していないんだけど、オール青の応援スタンドに三つばかり黒い服装の人間が見える。正確には黒地っぽい色の布に刺繍が施されているちょっと変わった服装だろう。そうか、シイたちも来ているんだな。

よく入手困難なチケットが手に入ったとも思えたが、彼等三人の周囲の応援団は彼等がまるで居ないかのような動きをしている。つまり、あいつらの住むあの家と同じ仕組みがあの場所に働いているんだろう。成る程、そういうズルに使うと便利な能力だな。

『さぁ、そして、一際大きな歓声、これは日本サポーターの物でしょう。OKD監督との確執問題も解決し、晴れて日本代表に復帰したアラウンド40の鑑、キング・設楽カズヨシ選手も入場して来ましたぁ!』

『いやぁ。彼は正に日本の鑑ですね! 不屈の闘士で掴み取った代表フォワードの座、生かして欲しいです! 16歳高校生コンビとの連携も合っているようですし、本当に楽しみです!』

とか、言っているのかな。

見ている人は近所迷惑にならない程度の音量で応援してくれよ。まあ、割と浅い時間だからそんな事もないか。

整列して相手選手と握手、俺の手なんてこの選手たちから見れば赤ん坊くらいにしか思えないんだろうなぁ。なんか俺たちの方を向いてニヤニヤしながら話しているけど、きっとその類のジョークでも飛ばしているんだろうさ。どうせ俺は英語もろくに聞き取れねぇよ。だけど俺たちにはアヤの母親である彼女の言葉がある。

──真剣を笑う者は真剣に必ず敗れる──

お前たちが今その状態だと試合で教えてやるぜ。俺も奴も真剣に今を生きて、今勝ちたいと望んでいる。あんな化け物同士の戦いじゃねぇけど、俺はその言葉に感動さえしたんだ。だから負ける訳がない。

「おう、お前ら。」

カズさんが円陣後にピッチに散って行く選手を他所に、俺と奴に話し掛けてくる。

「練習通りやれば良いんだ。相手が何処でもビビるなよ。スピードもテクニックもお前ら負けてないぜ。」

「はい! カズさん!!」

「それとな。お前のセンタリングに俺たちも合わせられる所見せてやるから、前半で潰れるくらいの覚悟でどんどん上げろ。向こうは流石にお前の事を知らん。怪我で欠場のポン田の分まで動き回れよ。」

嬉しい一言を貰って俺たちはピッチに散る。俺は左、奴はカズさんの後ろ。カズさんとコンビを組むのは日本の生んだ天才サッカー選手大空先輩だ。確かに俺の変則回転センタリングに簡単に合せられるメンバーだよな。

審判が時計を見て口にホイッスルを咥える。

奴のプライド上、多分その二人より先に俺のセンタリングを欲しがるだろうと思って視線を送ると、奴が目で合図していた。

わかっているさ、俺が最初に上げるセンタリングはカズさんと大空先輩の頭上を遥かに超える変則回転のボールで、敵も味方も観客も『どこに蹴ってやがるんだ馬鹿野郎!』みたいなボールを上げろって言うんだろう。奴はそれに合せてシュートするつもりだ。これで先制出来れば、日本の勝目も出て来るだろうさ。

俺もそのつもりだという意思を視線に込めて送り返す。

さぁ、俺たちの戦いが始まるぜ。

そんな事を思っていると、主審のホイッスルが鳴り、俺たちは走り始めた。

世界一まであと4つ。


そうだな。先ずはあの言葉をアヤとシイの母親に貰った時の事を話さねば、俺が何故このピッチに立っているかも判らないな。

それは一年と少し前から話せば良いだろう。まあ、聞いてくれ。とても不思議な話だ。俺と奴とアヤとシイ、その母親、そして俺の命を救った圭介の話だ。


治らない病人の居る病室。


此処は病院。病室だ。俺はこの部屋では最年長、そりゃそうだ。俺は今年で15歳になる。

他は小学生ばっかりだ。

俗には小児病棟って言うんだろうな。俺も今年の誕生日を迎えられれば、一般病棟に移れるんだけど、それは無理な相談かな。

病院によっては12歳までが小児病棟の場合もあるみたいだけど、この病院の場合は中学生までが入る所なんだ。

更に言うなら、この病棟の病室は最後に来る場所。緩和ケア病棟の最終病室とか言う名前もついている。つまり、もう死ぬ事を前提にした患者が入る最後の病室って所だ。看護婦はやたら優しいし、見舞いに来る連中も皆優しい。終末を迎える俺たちにはその優しさでさえ苦痛だったりするんだが、それを責めても始まらない。とにかく終わりまで俺たちはここに居る。

此処は小児癌病棟と呼ばれる場所。此処に入って健康に出て行く子供は居ない。ただひたすらに死を待つ場所、そして、一瞬でも恐怖を和らげる場所であるらしい。

今は夜。とっくに消灯時間は過ぎている、だけどこの病室の電気は点いたまんまだ。6歳になる翼翼(につばさと読む)は、夜の闇が嫌いな子供で、電気を消すと泣き出してしまい、俺たち他の入院患者が眠る所ではなくなってしまうんだ。だから、医者や看護婦とも相談して、この部屋の電気は一年365日消える事は無い。世の中じゃエコだとか節電だとか言っているけど、余命いくばくもない児童を夜な夜な泣かせるなんて事はしたくないだろう。簡単に許可は下りた。

それに、その電気の無駄遣いも、後二ヶ月程でしなくて済むようになる。

つまり、翼翼は来月の今頃にはこの病室には居ない。それどころか世の中からも居なくなっているのさ。

翼翼の後にそのベッドを使う奴がどんな症状で、暗闇を恐れるかまでは考えない。皆自分の事で一杯だからだ。

そして、俺もその一人。

まあ、死に対する恐怖は無いと言えば嘘になるけど、痛みが無いので、あんまり自覚は無い。

恐怖は無自覚に近いけど、死に対する覚悟はしなくちゃならない。俺も翼翼と大差の無い進行状況だからだ。この二年で色々な事をして来たが、もう打つ手は無いらしい。それでも俺はまだ長生きな方だ。運んで来られてその場で死ぬ奴も居たし、入院が決まって二週間で死んだ奴も居た。容体が急変して病室を運び出される前に既に死んでいた奴も見た。病気を苦に自殺した小学生も居る。俺から見ればその苦痛が短い分羨ましくさえ思えたけどな。何せ俺はもう自分で自分を殺す能力も無い。大抵は急変後に病室を運び出され、帰って来ないのがその人間の一生を終えた合図だ。入院して三年目を迎えた俺はこの病室の長老扱いだよ。

此処は六人部屋。翼翼は俺の正面のベッドで眠っている。翼翼の両隣は女の子で、左が凛、小学二年生。右が玲、小学三年生。凛の正面がトオル、小学三年生。玲の正面は昨日空き、今は誰も寝ていない。ま、俺の隣だな。

昨日までは其処に中学一年生の女の子が寝ていた。居なくなった人間の名前はどうでもいいだろう。彼女は昨日容体が急変し、集中治療室に運ばれ、戻って来なかった。夕方過ぎまでは皆泣いてしまって、看護婦がなだめるのに大変そうだった。死んだと思われる人間を死んでいないというのは大変エネルギーの居る作業だと俺には思える。

俺は涙も出なかった。これは悲しくないからじゃない。涙腺がおかしくなっているんだ。目が恐ろしく乾く、目を瞑っていても同じで、俺は夜中に何度も起き出して、目薬を注す。そうしないと目がカラカラに乾いて、視力がなくなるんだそうだ。目がミイラになるって事なんだろう。目だけ即身成仏とか言って笑ったのは大分前の事だ。恐い顔のままで固まらなくて良かったと俺は思っているけど、最近表情も乏しくなって来た。全身の筋肉がおかしくなっている。

全身のいたる所に転移したこのふざけた殺人細胞は、そんな普通の事さえ出来なくなる物らしい。俺はそれ程自分の見た目を気にしない方だけど、それでもこれは酷いと思った物だよ。

左腕は動かない。何度も何度も点滴針を刺して、血管の内側が分厚くなって固まった結果、俺の左腕は干乾びたスルメみたくなってしまい、それに伴って筋肉がなくなり、一月前に殆ど動かなくなった。目薬はかろうじて動く右腕で注す。それ以前に両足も動かないんだけどな。

ベッドは電動で上半身を起こせるので、スイッチひとつ押せれば大丈夫。掛け布団に隠れた俺の下半身が視界に入ると、少し泣けて来る。と言っても涙は相変わらず出ないんだけどさ。

それが余計に悲しい。

俺の視線の先、其処に足がある筈なんだけど、この病院に入院した時とは比べられない程細く、もう自分の意思では動かせないくらい弱っていた。俺の命令を聞かない体ってのは不便この上ないな。そう、だから俺は自殺なんてもう出来ないんだよ。一縷の望みに賭けて手術も受けたし、その後も色々やったんだけどな。こいつは強いんだよ。この癌って奴はさ、本当に元々俺の体の一部だったのかよって叫びたくなる程、俺の体を破壊し尽すんだよな。まあ、なってしまった俺がいくら叫んだり愚痴ったりしても、治る見込みは一つも用意されていない。

電気が点いているので、俺の目に余計にその現状は飛び込むんだ。なんとなく主治医が遠まわしに言った言葉で、俺はもう助からないと判った訳だが、それから覚悟を決めるのに三ヶ月も掛かった。だから病状は進行して、俺の体が動かせなくなり、俺は自殺出来ないくらい弱ったのが現状だ。死ねるうちに死んでおいた方が楽だったかとも思うけど、あと少しなんで両親には我慢してくれるように頼んだ。俺はもう来月の今頃にはこの世には居ない筈だ。母は泣き崩れてしまったが、俺はその姿を見ても表情を変える事は無かった。だんだん弱って行く息子を見るのは切ないだろうし、我慢出来ない程の悲しみかも知れない。でも、俺の涙はもう枯れてしまったんだ。

目薬を注して余分をティッシュで拭き取り、固まりそうだった眼球が動くようになると、俺は暫く起き上がった姿勢で、隣の空いたベッドを眺めていた。布団が片付けられ、骨組みだけになった電動ベッド。昨日の朝までは容体の安定していた中学一年の女の子は、俺の横で読書をしているおとなしい女の子だった。世話好きで俺以外の年下連中になつかれていたっけ。ベッドの上に今は何もない。よくドラマとかマンガで死んだ人間の机とかに花瓶が置いてあるのを見掛けるけど、この病室にそれは無い。他の入院者に余計な情報を与えて混乱させない為なんだろうが、集中治療室に運ばれて、戻って来ず、更に布団を片付けられたら、どんな子供でも彼女がもう病室に元気な姿で戻って来ない事を理解出来るだろう。気遣いが逆効果を生み、俺以外の子供たちは皆今日一日泣きやまなかった。

それで、皆疲れて眠ってしまったのだろうが、小さな影が俺のベッドの前に立つ。電気は点いているし、俺は目薬を注したばかりなので、その存在に気付かない訳がない。

「お兄ちゃん。そっちに行っても良い?」

凛がそう言いながら俺に近付いて来た。中学一年の彼女が寝ていたベッドを隠すように、俺の右側に立つ。凛はまだ歩けるし、言葉も達者、薬の副作用もまだ少ない。俺は返事の代わりにベッドの左側に頑張って寄る。もう打てなくなった左腕の代わりに点滴専用の針穴を肩甲骨の所に開けたのは一週間前だ、今日はそこに点滴チューブが繋がっているので、右腕はかなり自由度が高い。それでもベッドの上を右腕だけで移動するのに健康だった頃より多くの時間が掛かった。凛はその間おとなしく待っている。

凛くらいの年頃なら、まだ母親と一緒に眠りたい年頃だろう。だけど、凛の母親は此処には居ない。この病棟に凛が移ると決まる日までは見掛けたが、この最後の病室に移ると決まった日から、一度も病室には来ていない。まあ、俺の方が先にこの病室に移動していたので、その間どのようなやり取りが母親と行われたのかは不明だ。

絶望し、ヒステリックに看護婦に八つ当たる凛の母親を見たのは、正確には俺が移動する事が決まったその日が最後だった。

『どうしてあたしばっかりこんな酷い目に遭わなくちゃいけないの!?』

そんな言葉を娘の前で吐いた母親は、俺から見ると滑稽だ。

──あんたが病気な訳じゃないだろう? 苦しいのは凛本人だぜ。

俺はそんな風に思ったが、後で思い直す。

──病気になった凛も被害者なら、その家族もまた被害者。そして看護婦も俺もこの家族から見れば他人だ。とやかく思うのは失礼だな。そして、母親の気持ちや叫びも判らなくもない。

凛の病気が発覚するまでは、この家族はそれなりに幸せな時間を過ごしていたに違いない。凛がまだ一般の小児病棟に居た頃は、父親という人物も病院に姿を現していた。でも、その姿が見えなくなった頃から、凛の母親は自殺未遂を繰り返すようになった。家族の一人が不治の病に掛かって入院し、助からないと判っただけで、この家族は崩壊したんだ。

凛の父親が吐き捨てる様に言った言葉がある。これは俺がこの病室に移る二週間程前に聞いた言葉だ。

『俺の家系は癌で死んだ人間は親戚にも居ない。これは明らかにお前の遺伝子のせいだ!!』

酷い言い種だ。

でも、人間は悪い事を他人のせいにしたがる生き物なんじゃないかな。それが愛する妻でも。

俺もこの病気になって入院した時に思ったからな。俺の曽祖父母はどうやって死んだのか。老衰だったのか癌だったのか、他の病気だったのか。爺さんが確か俺が小学生の時に死んだけど、それはどういう理由だったか。とかな。

まあ、今なら多少気持ちが違って反論出来る。この病気は遺伝子のせいなんかじゃない。食事のせいでもない。俺はまだ15歳になる手前で、タバコも吸った事がない。両親も吸わない。だからこの理由も当て嵌まらない。受動喫煙とか言う便利な言葉を最近聞くけど、これも他人のせいにしたい大人が考えた方便だろう、そんなに体に悪いならば売らなければ良いのだから。だからこれは、運命だったんだとしか言えない。俺はそう思う事にしている。

健康でも、明日交通事故で死ぬかも知れない。人の運命の過酷さは、本人にしか判らない。

凛は淋しいのだろう。前までは俺の隣に居た中学一年の女の子を母親代わりになついていたが、今はもうその娘も居ない。ある程度年上で頼れるのは俺だけらしい。体は殆ど動かない俺でも、落ち着いたお兄さんくらいには見えるのだろう。看護婦を呼ぶという手段もあるのだが、看護婦も人間だ、疲れもするし、今日みたいに忙しい日の後夜勤になった看護婦を呼ぶのは迷惑だと凛は考えているだろう。凛は優しい娘なんだ。

俺には兄弟も居ないので、年下の子供になつかれるのはちょっと嫌だったが、凛の境遇を思うと、彼女を横に寝かせる事を許せた。まだ動ける凛が羨ましかったのもある。

俺にはもう八当たりする気力も無い。これは治らない病気なんだと自分の体を見れば判る。諦めの感情だろうが、それとも少し違う気もする。14歳の俺には他の表現方法が見当たらない。

凛は簡単にベッドを登り、俺の隣に寝転がる。小さな体で、女性を感じる事もないが、例え俺がロリコンだったとしても、もうそういう感情も無い。朝ですら勃たないんだからさ。我ながら自嘲気味だ。

凛は俺の右腕に掴まると、目を瞑った。凛の体温が俺の右腕に一時の安らぎを与える。欲情は無いが、人間の体温や肌の温もりは、少しだが俺を落ち着かせる。脈を取る看護婦の手や医者の手でさえ、その温もりをずっと傍に欲しいと思う感情はまだ残っていた。

『君は落ち着いているね。流石はこの病室でも年長者だ。』

医者にそう言われた事があった。反発はしないが、死への恐怖が無くなった訳じゃない。表情に出ないというだけで、俺は勿論死ぬのが怖い。出来れば治して欲しいと願うが、今の医療技術を持ってしても、この病気は簡単には治らない。特に俺たちみたいな末期の患者が生還する率は恐ろしく低いのが現状だ。

藁にもすがる感覚で、奇妙な祈祷師みたいな連中を俺の母親が連れて来て、病院側と揉めていた事を思い出す。俺の母親は一人息子の俺をかなり誇りにしていて、自慢の息子だった。それが急に倒れ、この病院に運ばれ、病名を告げられた時に壊れてしまった。凛の母親もそうだったが、これは他の家族でも似たような物だろう。翼翼の父親は、温泉の効能に書かれた文章を鵜呑みにして、北海道中の温泉を連れ歩き、温泉に浸からせては『治ったか? 治ったか?』と言うのがクセだったと聞いた。玲の母親は病室に奇妙な匂いのする香を焚いて、看護婦に病室を追い出された。頑張る方向が皆少しずつずれていた。

俺が最初の手術を受ける為に病室から運び出される時、母親が俺の動かない手にお守りを持たせ、何かのコスプレみたいな格好の連中が俺に向かって祈りを捧げているのを見て、俺は思ったものだ。

──病院に迷惑だから帰ってくれ。

一応手術が成功して、病室に帰って来た俺。母親は医者から何か聞かされたらしく、祈祷師も宗教家もコスプレ隊も居なくなっていた。母がやつれる姿を見たいとは思わなかったが、この人も必死なんだとなんとか自分に言い聞かせた。その母が倒れ、今は別の病棟に入院している。所謂過労ってやつだそうだ。そこまで俺に付き合わなくとも良いのにと思う。だが、これが家族の愛情だという事も一応理解している。一方の俺の父親という人は、周囲から『冷たい人』の烙印を押されている。俺が入院する日に車で俺を此処まで運んで以来、病室に顔を出していない。簡単に言うと、父親は仕事があって病室には来られないという事だ。父の仕事は土曜も日曜も祝日も無く、ひたすら物を売る仕事だ。朝は早く、夜は遅くに帰る、当然面会時間なんて来られる訳もない。俺はそれを理解しているから、父が病院に来られないのが判る。そして、その父が稼ぎ出した金が、この病院に支払われている事も理解している。だから俺は、父に物凄く感謝している。冷たい人だとは思わない。多分先立つ事になり、何の恩も返せない俺自身に、腹を立てている。

凛は俺の横に来た事で落ち着いたのか、静かな寝息を立て始めた。凛が腕に掴まっているのは眠るまでで、眠った後は腹の辺りを枕にしてしまうのも、隣のベッドに居た中一の女の子に聞いていたので知っていた。俺は動く方の右手で凛の頭を撫でてやる。こうすると凛は深い眠りに入れるのだとも聞いていた。抗癌剤の副作用で一度抜けてしまった髪の毛が、元に戻ろうと必死に生えて来ている最中の凛の頭は坊主に近いが、それでもまったく無い俺よりはマシだろう。俺の髪の毛は元に戻らなかったからな。抗癌剤の副作用は人それぞれで、髪の毛が抜けない患者も居るんだぜ。俺は抜けっ放し、凛は戻っている最中、昨日死んだと思われる中一の女の子は髪が抜けなかった。

そんな事を思いながら、俺も寝ようかとベッドのスイッチを探している時に、この一連の不思議な事件の幕がとっくに開いていたという事実は、後になってから思った事だ。

この夜は一生忘れられない夜になった。

こんなに人の死と自分の死が近い場所にあり、それを考えた夜はこれが最初で最後だろう。俺に来月の下旬は迎えられない。日記をつけて置けば良かっただろうか。しかし、俺の右腕は電動ベッドのスイッチや目薬を注す事は出来ても、文字を書く握力は残っていない。元々スポーツしか出来ない馬鹿だから、日記なんてつけても意味は持たないし、何を書けば良いかも判らなく、多分三日坊主に終わるかな。

俺の所属していたサッカー少年団で、いつも反省文を書いている奴が居た事を思い出す。俺のセンタリングを綺麗にシュートする奴で、随分まめな奴だったし、その反省文を生かして次の試合で活躍する奴だった。小学生の頃の話だ。

眠った凛の頭を撫でながら、俺は思った。

──サッカーしてぇなぁ。

中学に入る直前に倒れた俺は、中学のサッカー部を知らない。小学生の頃より厳しい練習をしたりするんだろうな。この病室に移る前までは小学校の頃のチームメイトもかなり顔を出してくれていたが、今はもう誰も来ない。それは判る。俺ではなく、チームメイトがこの病室に居た場合、俺にはどう声を掛けて良いかまったく判らない。だから俺も今健康であれば、この病室に見舞いに来る事が出来ないだろう。もう少し俺が元気なら、声の掛けようもあるだろうが、病室に見舞いに来る度に動く場所が少なくなっている同級生を見る事になるのは辛いだろう。

その反省文をつけていた奴が、最後まで病室に来ていたチームメイトだった。そいつが来なくなった理由は他の連中とは少し違う。俺たちの中でも飛び抜けてサッカーが上手かったそいつは、全道選抜に選ばれて、今本州の何処かで開かれている選抜大会に出場中なんだ。正確には練習中か。まだ大会は始まっていないが、今年の北海道選抜は力が入っていて、試合の一ヶ月近く前から試合の行われる本州の何処かで合宿をしているんだ。暑さ対策の一環でもあるらしい。北海道の人間は俺も含めて暑さにやたら弱いからな。今は春なんだが、札幌と本州じゃ気温が全然違うんだ。

それにしても、奴は一体何を反省していたのだろう、奴のドリブルは誰にも止められなかった。小学生のレベルの低い大会でも、トリプルハットトリックを決めた事がある小学生はそんなに居ないんじゃないだろうか。小学生の試合だから前半後半で40分の間でだからな。

そうだ、その試合で俺が残した記録もある、一試合で8アシスト、得点2点。あの試合は18対0で俺のチームの完勝だった。その時も奴は反省文を書いて監督に提出していたっけ。

──今頃どんな練習しているんだろうな。

俺はそんな事を思いながら、俺の使っている冷蔵庫の上に唯一の私物として置いてある写真に視線を移す。それはその小学生の大会で優勝した時にチーム全員で写した物だ。俺はまだ元気で、奴と肩を組んでピースなんてしているんだ。良い思い出は割と生きて行く上での力になる。俺が癌になってこんなに生きて来られた原動力だと、俺は勝手に思っている。

写真を眺める俺の視界に何かが飛び込む。電気は点いているからそれが人間だという事は幾ら俺の目が駄目になっていても判断出来る。時間が深夜、そして引き戸のドアが閉まった音、開いた音は残念ながら聞かなかった。巡回の看護婦ではないのはその格好からすぐに判断出来る。

なんだ?

殆ど感情の無くなった俺の顔に珍しく表情が出る。驚きの表情はまだ出来るらしい。

病院のお仕着せパジャマの上に革製と思われる黒いコートを羽織った少年がこの病室に突然入って来た。他の連中が眠っていたからまだ騒ぎは起きないけど、俺がもう少し元気なら叫び声くらいは上げたんじゃないかな。否、驚き過ぎると人は黙るのかも知れない。息を飲むってのはこの事だと初めて体験した気分だ。

コートの大きさがまったく合っていない、それは大人用の物だったからだろう。少年はその頭に巻かれた包帯を鬱陶しそうに右手でいじりながら、病室に入って来たんだ。

廊下の電気は病人には関係ないので消えている。少年は急に明るい病室に入って来たので目が慣れていないらしく、暫く瞬きを繰り返す。それ以前に頭の包帯に血が滲んでいるのが見てとれるので、本来この少年は寝ていなくてはならない側の人間だろう。

小児科病棟内でも寂しさからのストレスで夢遊して歩く病人が数名居るのを俺は知っていたが、それとは違う。いくらなんでもそいつらは大人物のコートを着て歩き回ったりはしないからだ。

目が慣れて、当然彼の目に飛び込むのはこの病室で唯一起き上がっているベッドに居る俺だろうな。実際その通りで、少年と俺の視線が合ってしまう。電動ベッドを瞬間に倒す事は出来ないし、布団を被って眠っているフリも俺には出来なかった。そもそもそんな早く今の俺は動けない。驚きの表情は俺の物だと思ったが、彼も驚いていた。

まあ、普通なら消灯時間をとっくに過ぎた病室で、まさか起き上がって目薬を注してから暫く起きている患者が居るとは思わないよな。しかも病室の電気は点きっ放しだ。

彼も驚いたようだったが、声は出さなかった。何故か彼と暫く見つめ合ってしまう。彼の口が重々しく開いた。

「確認するが、此処は小児癌患者の病室だよな?」

小声でそう訊かれる。何か他の音が同時に鳴れば聞こえないような声。あまり特徴の無いアナウンサーみたいな声だった。俺は何がなんだか判らないが、思わず頷く。

少年は鬱陶しそうに羽織っていたコートを床に落とす。左腕には包帯が巻かれ吊っている。何か擦り傷の多い少年だ。顔に特徴はそれ程ないが、決して悪い顔でもない。少々目つきが悪いか。俗に言う不良少年に見える。ああ、北海道にはまだそんな人種が存在するんだよ。俺は不良になる事もなく病人だけどね。

また自嘲気味だな。

少年は俺が頷いたのを確認してから、不思議そうに俺の顔を見つめた。

あんた俺の知り合いか?

俺が小声で訊ねるが、彼から答えは帰って来なかった。代わりに彼が俺に近付く。俺の右手はナースコールのスイッチを探して布団の中で彷徨っている。明らかにこの少年は不審者だ。俺は出来る限り早く右手を動かしているが、こんな時に限ってナースコールのスイッチが見つからない。視線を彼から離してベッドの上を見ると、スイッチのケーブルを凛が握りしめて眠っていた。そんな細い物を抱き枕に使うなよ。

そんな事を思いながら視線を戻すと、彼は俺の目の前に立っている。俺の倍もありそうな腕が伸びて来て胸ぐらを掴む、不良少年らしい行動かな。俺はされるがままってやつだ。ナースコールのスイッチは凛が足で挟んでいて押せないし、こいつは少々頭がイカれているのかも知れない。困ったものだ。俺の横に眠る凛を守ってやりたいが、生憎そんな体力は微塵も残っていない。右腕は動くけど、正直人を殴った事もない。サッカーの試合での接触プレイは別の話だ。

どうする気だろう。

少年はこの病室がどんな病室かを確認した。そして俺の胸ぐらを掴んだ。つまり俺に用があるのか。彼が口を開ける。そこから出たのは言葉ではなく、唾液でもなく、血だった。

!!!!

俺はあまりに突然の出来事に目を瞑る事も出来なかった。目に少年の吐いた血が入って、流石に声を上げる。体の状態上、転げ回る事は不可能だったが、ベッドに倒れ込んでもだえた。

あまりにも意味不明だ。夜中の病室に突如乱入し、無抵抗の病人、しかも末期の癌患者に唾ならぬ血を吐きかける意味はなんだよ。

俺がまともに動けないのを良い事に、この野郎は他人の顔面に血を吐き掛ける。それは一度だけの行為だった。俺は身もだえながら久し振りに痛いという感覚がまだ目の奥には残っている事を知った。それは今語る事じゃない。奴は何処だ。

右手でなんとか顔面の血を拭う。俺の右横で眠っていた凛が突然大声で泣き出した。

──なんだ? 何が起きている?

続いてトオル、玲、翼翼の順番でおそろしく大きな泣き声が病室にこだまする。

俺が顔を拭ってなんとか視力を復帰させた時、その変態不良少年は病室に入って来た時とは向きが逆になっていた。つまり、逃げる形の後ろ姿が俺の視線の先にある。少年はコートを拾っていた。視線を素早く病室内に走らせると、俺を除いた他の患者四人も同じ事をされていた。

この野郎! 

俺は叫んだが、少年は病室から出て行く所だ。顔だけ振り向いて、そいつはこう言った。

「伝言だ。『じゃあ、待っているよ。僕の大事なパートナー』だってよ。」

その言葉の最後の方はドアの閉まる音でかき消されたが、俺はその言葉を誰が言ったか知っていたので簡単に補足出来、その言葉を発して去った少年に驚いた。

その後、ナースコールが四つ一斉に押され、大慌てでこの病棟当直担当看護婦二人と当直医一人、他の病棟の当直看護婦三人が駆けつけて見た病室の内部光景は、きっとトラウマ物の大惨事に見えただろう。病室のいたる所に今吐かれたばかりの血の跡。しかも入院患者は皆頭や顔にその血液が付いて泣き喚き。涙の出ない年長者の俺は呆然としてそのドアを見つめていたからだ。実際最初に駆け付けた一人は悲鳴を上げて気を失った。血は見慣れている筈だろうが、こんな状態は流石の看護婦も見たことも無かったんだろうさ。

「こんなバカなことが起きる訳が無い……」

年少者の顔にかけられた血液をふき取りながら、当直医が呟いた。

それはこの病院のセキュリティシステムが一切作動しなかった事を受けての言葉だろう。子供たちが眠っていたら突然頭から液体をかけられたと口ぐちに言う、侵入者を誰も見ていなかったし、警報も鳴らなかったんだ。つまり、走り去った少年を見たのは俺だけだった。しかし、不思議な事に、俺はその事実を医者にも看護婦にも、その後駆け付けた警備の人にも言わなかった。彼のした行為は意味不明だが、最後に残した言葉が俺の口を重くさせたんだ。俺のベッドは起き上がった状態だったので、言い訳を必死に考えている俺が居て、妙な気分だ。目薬を注すのに起き上がり、注して暫く起きていたが、視点が定まらなかった事を何度か看護婦に説明した。過去に巡回する看護婦と何度か鉢合わせになった事があるので、それは簡単に信じて貰える。それに、俺から介助なしに他の患者に近付く事が出来ない事は皆知っている。何といっても俺は自分で歩けないんだから出来る事ではない。

翌日、というか、夜が明けてから看護婦たちが囁き合っている会話を盗み聞きした所、侵入者に関する全てのセキュリティシステムに外部からサイバー攻撃を受けたとか聞いた。

しかし、それはセキュリティの問題であって、俺たちが第三者に血液を吐きかけられた理由にはならない。

昨夜病室に現れた、俺と同じくらいの年齢と思われる少年が、俺に向かって吐いた血の跡は、朝までには片付けられていた。

院内は大騒ぎだったが、その喧騒はこの病室にまでは届かなかった。俺はベッドを戻して隣で眠っている凛の頭を撫でてやる。

──彼は一体何をしにこの病室に来たのか?

それは疑問だが、何かをしに来たのは確かで、俺はその理由をこう考えていた。

──彼は俺を含めたこの病室の人間全員に自分の吐いた血をかけに来た。

俺以外の四人は泣き出してしまったが、俺はこの行為の裏に何があるのかを知りたかった。今は全員風呂に入れられて綺麗にその血は流されているし、布団もシーツも枕も取り替えられ、掃除もかなり念入りにされていた。

俺は天井を見つめ、凛の頭を撫でながら、暫く彼の行動の真意について考えている。

──頭に病気を持つ少年だったのか。

それは無いと思う。俺はあの少年の顔をはっきりと見た。そういう人間は目を見れば大抵判る。この病院にもその手の病棟があるから、何人か知り合いになった人間も居るし、普段暇なので、俺はリハビリセンターや入院病棟を車椅子で散歩させてもらって、大抵の人間を観察しているからだ。

彼は怪我人だったが、まともな人間に見えた。だが、人の顔に自分の吐いた血をかけるのはまともとは言い難い。

あの時、病室の外にもう一人居た筈だけど、一体誰だったんだろう。

それは他の子供たちは勿論気付かなかった事だ。俺以外は全員泣いていたしな。少年が入って来た時に羽織っていた黒い革のコートの持ち主が居た筈だ。その人物は何故か少年が俺たち患者に血を吐きかけている間、廊下で少年を待っていたんだろう。意味は全然判らないけど、誰かがあの少年をこの病室に連れて来た。そして、病室に居る子供たちに血を吐きかけさせた。

そうなるけど、理由がまったく思い当たらない。俺の隣に昨日まで居た中一の女の子なら俺の推理を手伝えたかも知れないと思ったが、その娘は既にこの世には居ない筈だ。

ヒントはあの少年が来る少し前に、この病院が一瞬揺れた事、その前に救急車の到着を知らせる館内放送が小さく流れた事。あの少年に見覚えが無いという事は、その時運ばれて来た可能性がある。手当を受けてすぐに病院の脱走を計った無一文の少年か。

では部屋の外に居た人間は何者だろう。付き添いだろうか。付き添いであれば不慮の事故とかでも保険証と治療費くらい持って来るだろう、その人は彼の身内ではないと考えられる。つまり、脱走の手引きをする為の人だった。でも、脱走させるだけなら俺たちの病室にわざわざ寄る必要性がまったくない。

俺は頭の中が整理出来ずにちょっと咳き込んだ。凛を起こしたかと思ったが、流石に昨日の今日なので目を覚ます事はない。俺はこのなんだか判らない出来事の推理を続ける。

病院が揺れた理由は医者と看護婦が話しているのを聞いたので、知っている。病院に侵入者が居て、廊下で爆死したという物だ。爆発という割に揺れは小さかったが、それが病棟の揺れた理由。俄かに信じられない事は、信じない方が気は楽だが、俺は結構考え込む方の人間だった。

だから、昨晩病院に侵入したのは少なくとも三人以上居た事になる。俺たちに血を吐きかけた少年、それを廊下で見ていた或いは待っていた人間。そして、爆死して謎の遺体になった人間。更に言うならば、俺はその爆死した人間は自爆では無いという気がしていた。つまり、そいつは爆殺されたんじゃないかって事だ。だから、病室に来た彼らのどちらかの仕業かまったく別の何者かがもう一人居たと思えたんだ。

セキュリティはどうなっているんだと怒鳴られそうだが、かなり病棟の奥まで侵入できる者の仕業なのだし、セキュリティにはサイバー攻撃もかけられていたという話だから、アルバイトで雇っている警備員を責めても仕方のない事だろう。通常の侵入者とは明らかにレベルが違うんだ。

どう繋げればこの話は纏まるのかと思案していたが、流石に目が乾いて来たので、目薬を注してベッドを倒す。

その時、病室付きの看護婦がやって来て、俺の隣で眠る凛を起こした。

「さ、凛ちゃん。先生に診てもらおうね。」

優しい言葉遣いで、まだ眠そうな凛の手を引いて病室から出て行ってしまう。俺は眠ったフリをしていた。起きて何か訊けば良かったかと心の中で思ったが、頭の中で纏まっていない話を看護婦にしても、質問にならないだろうと思えたので何も言わなかった。凛が眠っていた場所がまだ温かく、最近体温がかなり下がっている俺にはかなり暖かい。人の温もりを感じられるのは、まだ俺は死なないという事だと俺が勝手に決めていた。

凄い剣幕でナースセンター前で揉めていた各人の親たちも今は去り、病室は静かだ。玲が読みかけの低学年用読み物がベッドの脇に落ちている。足が動かない俺にはそんなちょっとした物さえ拾いに行けなかった。

そして部屋を出て行く時に彼の言った伝言。これは明らかに俺に向けられた物だ。恥ずかしい話だが、今の俺の心の支えにもなっている言葉だったんだ。それを何故あの不良少年が言ったのか。俺の唯一のパートナー、そして俺の知る限りこの世代最高のストライカー、今頃は北海道選抜の合宿で本州に居る筈のあいつ。将来はJリーグかヨーロッパの何処かのクラブチーム、或いは日本代表を担うなんて言われたあいつが、合宿前に病室で別れ際に言った言葉。それをあの不良少年が伝言だと言った。

『待っている。』 

あいつが北海道選抜の合宿に行く前の日に、この病室からの去り際に俺に言った言葉。それは末期でもう助かる事のない俺への励ましだったんだと思う。実際あいつが待っていたんだとしても、俺はもう回復しないんだからな。

その言葉を伝言として残した昨晩の少年は一体何を知っているんだ。

俺は検査の順番を待っている。今は凛も連れて行かれてしまい、この病室には俺しか居ない。元々喋る相手も居ないのが病室って場所なので、俺は自然に考え事の海を漂ってしまうのが癖になっていた。昨日の事件との関連で、俺たちは全員再検査を受ける事になったんだ。まあ、後で考えれば、この時既に俺や他の患者たちの体に異変は起きていたんだけど、今の俺にはまだそれがどう繋がるのかまったくわからなかった。

普段はそんな時間に風呂に入る事はない時間に俺たちは風呂に入れられ、その間に大急ぎで部屋が掃除され、ベッドもシーツも取り替えられた状態の部屋に戻って来た訳だ。俺たちに血を吐きかけた少年の事を俺は考えていたので、眠らないかとも思ったんだけど、そもそも体力が極限まで落ちている癌患者である俺たち五人は、簡単に眠りに落ちてしまった。

そして、朝になって劇的な変化が起きていた。俺は結構疲れていたらしく、珍しいくらい深い眠りの中に居たんだけど、奇妙な歌詞の、奇妙なメロディによって起こされた。それはこんな感じの歌だ。

『たぁーった。たぁった。俺のもお前のもたぁーった。朝からびんびんたぁーった。

(台詞?)お前のでけぇ。俺のちっさい。

たぁーった。たぁった。なまら(北海道方言で凄いの意味)でっかくたぁーった。

(台詞……)こんなのアリ!? 夢じゃないよね?

俺たちこんなんだから。お兄ちゃんはどんなもんだろぉ?』

アホみたいな下ネタ歌詞が病室に流れていた。これは翼翼とトオルの声だ。俺より先に起きてこいつらは何をしているんだ。半覚醒状態の俺はそう思いながら、寝返りをうつ。

──寝返り!?

俺の頭が急激に目覚める。俺の上にある布団を翼翼とトオルが剥ぐのと同時に起きた。

「おお! やっぱりお兄ちゃんのはでっけぇなぁ。」

「ちょっとあなたたち、やめなさいよ!」

これは玲の声だ。大はしゃぎの二人の男の子を止める、少し真面目な学級委員長風だった。

俺の股間に翼翼が手を持って行く瞬間に俺は完全に目覚めた。

こら!

俺の一喝に二人が逃げる。笑いながらだ。それは不思議な事の始まりを実感した瞬間でもある。

──朝勃ちだと?

下世話な表現になってしまって申し訳ないが、軽くパニックに陥ったので許して欲しい。

男という生き物は元来こうだ。幼年期から熟年のオッサンまで、基本的にこの現象を止める術はない訳なんだが、俺たち抗癌剤の影響か何かで、そんなのしばらく無かったんだ。これはパニックになっても仕方ないだろう。

そして、更に驚いたのは、翼翼が室内を駆け回っている事だ。俺と同等の進行状態で、凛と違って自分で歩く事は不可能だった筈の翼翼が、トオルと一緒になって走っている。流石に体力が無いのですぐに疲れたようだが、それでも昨日までとは違って翼翼の顔にかなり明るい表情が戻っていた。

そこに朝の様子を見に来た看護婦が入って来ていた。

「はっ?」

看護婦は何か幻でも見ているかの様な表情になり、一度無言で病室を出て行った。多分病室を間違えたと思ったんじゃないかな。廊下に出て周囲を確認し、この病室に居る患者の名前プレートを確認し、首を振ってこちらに振り返る。

「おしりたぁーっち!」

この部屋に来た時はかなり元気の無い子供に見えたけど、トオルは元々こういう子供だったんだろうな。健康な男の子が女性の尻に興味を持つのは普通かも知れない。続こうとした翼翼が転びそうになり、看護婦に捕まった。

「こら! 何処に行くの!?」

看護婦は半信半疑の表情でも仕事は忘れていない。廊下に出たトオルに声を掛けた。

「朝ションーっ!」

元気よく答えたトオルがトイレに消えたようだ。看護婦に捕まった翼翼もトイレに行くと言って廊下を歩き始めた。看護婦は尻にタッチされた事を忘れて呆然と見送る。

ベッドの上には俺、凛はまだ眠っている、玲はベッドから降りようともがいている最中だった。

「一体何が起こったの?」

年長者である俺に事情説明を求める看護婦。俺はなんと説明するか迷った。一応学年は中学三年である俺は、当然その手の話題を知らない訳ではない。しかし、大人の女性である看護婦に面と向かって説明するのは気が引けた。

『でーた、でーた、ショーンベェーン!』

そんな歌声が廊下に響く。トオルの喜び方は半端じゃない。トオルは泌尿器にも転移していて、自分で用を足す事が昨日まで出来なかったんだから当たり前だろう。

騒ぎを聞きつけた男の医者が現れるまで、トオルと翼翼の変な歌の合唱は続いた。

医者になんとか現状を恥ずかしながら説明し終わって、俺たちの緊急再検査が決まったって訳だ。喜んでいたのも束の間、トオルも翼翼もしょんぼりしてしまう。検査では血液採取があるので、腕に針を刺される。これが二人は苦手だったからだ。

俺はこの中でもかなり症状が進んでいるので、検査は最後になっている。一週間前までなら、俺の隣に寝かされていた中一の女の子が俺より後だったが、今は俺が最後だ。というよりは、俺が最も落ち着いて見えたからなんだろう。最も泣き叫んだ翼翼が最初に再検査に連れて行かれたからな。病状順なら翼翼も俺と大差ない筈だ。

俺はベッドを再び起こして窓の外を眺める。再検査には長い時間が掛る、結果となると二日も待たなければならない物もあるだろう。今日は外来患者も受け付けている日なので、待ち時間は更に長い。事が事なだけに、かなり急ぎの再検査の筈なんだが、外来患者を断わってまでする事ではないのだろうし、病人が居なくては病院の経営も成り立たないのもわかる気がした。救急車で搬送されても、本当に生死に関わらない限り、順番は待たなければならない。それがこの病院のルールだ。

春先の朝の光が気持ちいい。窓は自分では開けられないので、風は感じられないが、窓の外で揺れる木の葉が、まだ寒いかも知れないという印象を持たせた。日差しと気温は比例しないのが北海道の春なんだ。

俺は昨日の事を考えながら、出口の無い自問自答を繰り返す。

皆が居る時はテレビなんて見ないのだが、暇を潰す為になんとなく点けてみた。

映ったのはニュース番組とワイドショーを合わせたみたいな番組で、基本的に俺みたいな子供が興味を惹く内容は無い。だが、俺が考え込んでいた内容に少々重なる事があり、俺は音量を上げた。

内容は今朝起きた事件の続報と銘打たれている。

この病院からも近い場所にある中央警察署が今朝謎の爆発により倒壊、かなりの数の死者が出ているという物だ。

この病院が映る訳ではないが、謎の爆発と看護婦が話していた謎の爆死人の話が被った。

これが原発の暴走爆発事故であるなら俺は多分気にならなかっただろう。だが、そのタイミングはあまりに俺の心に残ってしまった。場所も近い。

警察署に居た警察官を含めた多数の死者、謎の爆死人、俺たちに血を吐きかけた怪我だらけの不良少年。その少年が肩から羽織っていたコートの持ち主。小学校時代のサッカーチームのチームメイト。何が繋がるのかまったくわからない。だけど、引っ掛かった。

テレビを見ながら思考の渦に翻弄される俺を見ている人間が居た。その人物はいつからそこに居たのか。凛が連れて行かれた後なのは間違えないだろうが、気配はまったく感じなかった。 俺が気付くまでの間、その人物は俺を観察し続けていたんだろうか。その答えが聞けそうだ。向こうから病室に入って来たのだから。



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