第五頁「それは舟屋の美学(2/3)」
家を出ると二人は目的の芝浦ふ頭へ向かって移動を始めた。車もなく、電車も乗る余裕がないのでただひたすらに歩き、走る。体力に自信がある二人は息を切らすことなく走り続ける。
新宿を抜けたあたりでとっぷりと陽は沈んだ。走り抜ける街並みは宝石のようにキラキラと輝いている。東京は眠らない街だと言うけれど、夜が訪れたころから街の光が目覚め始めるのだから納得だと、葬儀屋は思う。人目を避けるように狭い路地や屋根の上をひた走る。
少し小高い丘のようになった住宅街から眼下に広がる街を眺めた。遠くに暗く、夜空と混じった海がある。その水面に近隣のビル群やゆりかもめのレールが発光しているのが映って見えた。
「あとちょっとだな」
葬儀屋が隣を走る坂口に言う。再び動き出したその足を止めることなく、そうだな、とだけ坂口は返した。どれほど走っただろうか、そろそろ電話で言われた時間に近づいている。屋根の上を飛んでショートカットを繰り返しながら二人は前進する。春だけれども、頬を撫でる夜風は少し冷たい。ずっと走っているものだからその冷たい風が心地よくあった。
しばらくして、ようやく二人は目的地にたどり着いた。電話先の主がいう部下はどこにいるのか。二人はそれらしき人を探し始める。周りには公園から見る夜景のために来たと思しきカップルが多く、場違いな気がしてくる。はあ、とため息をつきながら葬儀屋は辺りを見渡す。口数の少ない坂口は何を考えているのかまったくわからないその表情を崩さないまま、部下を探していた。ふらふらと歩いていると、二人の後ろに一人の男が現れた。
「お前たちが”屋号会”か」
かちゃりと葬儀屋の背中に冷たい何かが当たる。それに対抗するように坂口の左手に握られた短刀がその冷たい何かを構える男の首筋に当てられていた。葬儀屋も坂口も前を向いたままだが、その短刀はしっかりとその男の首筋をすっぱりと切れるところにある。坂口が自身の肩口にあげた左腕を引けばそこに血しぶきが舞うだろう。あたりは暗いから近くに寄らないとこの三人が何をしているのかはよく見えない。けれども、坂口の短刀は時折様々な光が当たって輝いていた。
「あんたが例の部下か」
「そうだ。その腕前を見るに、まあそこそこ信頼してもいいのかもしれないな」
「そりゃどうも」
「大した腕もねぇと聞いていたもんだからよぉ、捨て駒として使う気だったが気が変わった。この仕事がうまくいったらお前ら俺の下につかねぇか?」
男が冷たい何かをそのまま片づける。背中のほうに隠されたホルスターにしまった。坂口もその短刀を鞘に納める。
「答えはまだ出さなくていい。そもそも赤川を殺せたらの話だからな。とりあえず、俺に着いて来い。現場に連れて行ってやる」
葬儀屋と坂口は前を歩く男についていく。だんだんと周りの雰囲気が変わっていく。まるで別世界に足を踏み入れたような感覚。明かりも少しずつ減っていき、ビル群の明かりは背中の遠くに見えるようになっていた。
「おおまかな話は聞いているな。今回の標的はこいつだ」
そういって男は一枚の顔写真を葬儀屋たちに渡す。巌のような顔。左眉には縦一線に、鼻筋に横一線に深い切り傷があり、激戦を潜り抜けてきた風格がある。見るからに強敵だ。
「赤川は兼信会きっての好戦家だ。その鍛え上げられた肉体すべてが武器になる。俺らもあいつにはずいぶんと痛めつけられたもんだ」
「それだけのやつになんで俺らみたいな名無しの権兵衛を使うんだよ」
「”名無しの権兵衛”だから使うのさ」
そう言って男は足を止めた。隠れろ、と二人に命令して三人はすぐそこにあるコンテナの陰に隠れる。男は声を潜めて話をつづけた。
「俺らはもうあいつらに顔が割れてる。だがお前らは違ぇ。名前も顔も何もろくに知られちゃいない。”屋号会”なんて名前も風の噂で聞いた都市伝説にすらならない小さなもんだ。だが、その腕はなかなかのもんと見た。もし成功すればうちはお前らに金を払って終い。もし、失敗したとしてもお前らが不遇な最期を遂げたということで終る。こっちにはメリットしかねぇ」
「そこまで言われると傷つくな」
「まあそういうな。少なくとも俺はお前らを信用してるぜ」
「そりゃどうも」
コンテナの陰から向こうを見る。坂口が見つけた、とぼそりと言う。
「お前よく見えるな。ここからは気をつけていけ」
男はそういうとさっと姿を消した。残された二人はそのコンテナの陰から近くの倉庫の屋根上に跳躍する。それから慎重に標的の近くの屋根上までひょいひょいと跳ぶ。屋根上で身を低くし、標的の姿を確認する。人数は六人。薄暗い明かりからでも見て分かるほどギラギラと光る腕時計をつけた男が一人。その後ろにボディガードのように二人男が構えている。対して白いスーツを着た男が一人。同じようにその後ろにサングラスをかけた男が二人。距離が近いので耳を澄ますと声が聞こえてきた。
「……でどうだ。文句はねえはずだ。なんせ俺ら新元会からすりゃ破格だからよぉ」
腕時計の目立つ男がそういってふんぞり返る。うしろの男たちに煙草、と言うと流れ作業のように一人が煙草を取り出し、それを咥えると、もう一人が銀色のジッポライターを取り出して素早く火をつける。二人は即座に姿勢を正す。腕時計の男が紫煙をもくもくと吐き出す。白いスーツの男――赤川はその煙をぱたぱたと手で仰いで煙を蹴散らす。
「親父からはそれでいいと言われているわ。それでは交換といきましょう」
赤川がくいっと顎を使って後ろでアタッシュケースを持つ男を前に出した。同様に煙草を吸う腕時計の男も後ろでアタッシュケースを持つ男を前に出させる。お互いに右手に持ったアタッシュケースを差し出し、お互いに持ち変える。お互いに交換したアタッシュケースを開けて中身を確認する。中身はどちらも無事だったようで、交換が成立すると赤川は、
「これで今日はお開きね」
と踵を返した。ところがその背中に三つの銃口が向けられる。
「どういうことかしら」
赤川が背中に向けられた三つの拳銃の持ち主に問いかける。赤川はさらに威圧的に、
「どういうことかしら」
と繰り返した。今度は後ろの三人だけではない。目の前にいる二人にも向かってだった。
「おいおいおいどういうことだよ?」
「俺が知るわけないだろう」
「そりゃそうだ」
屋根上で困惑する葬儀屋と坂口をよそに下では話が進んでいく。どのタイミングで襲撃するか戸惑っているが、今出ても自分たちが蹂躙されるだけなような気もする。
胸を反らせて腕時計の男がかちゃりとハンマーをゆっくり起こす。ほかの男たちも赤川を取り囲み人数で勝っているということで優越感に浸っているようだ。
「悪ぃなぁ。うちの親父もてめぇんとこの親父も、てめぇが嫌いなんだとよ」
「私もなめられたものね」
「はっ。この人数でてめぇに勝機はねぇよ。それに、てめぇを殺した後はどこぞの馬の骨がその骨を拾ってくれるらしいからよ」
「どういうこと」
「お前を殺した疑いは全部そいつらに被ってもらうのさ。そこの屋根上にいる二匹のネズミによぉ」
その時、月光がその拳銃を構える男の顔を照らした。その顔は葬儀屋と坂口も見たことのある顔だった。ついさっき、道案内をした男、その男の顔だった。
「うわー、俺らはめられたのかよ!」
「そのようだな」
「お前、心臓に毛でも生えてんのかよ! 相手は拳銃、しかも五人だぞ!」
「はあ、お前は時折冷静さを欠くな」
「こんなときに冷静でいられるかボケェ!!」
「よく見てみろ」
坂口に言われて、それに「あ!?」とすごみながらも葬儀屋は坂口が見る方向を見る。その視線の先にいる五人のうちの四人はガタガタと拳銃を持つ手が震えていた。それを見て納得したらしく、「あーなるほどね」と葬儀屋はその呼吸を整える。