第十一頁「無題02(2)」
それから渋滞に混ざったり離れたりしながら走り続けて、薬屋と合流したのは九時五〇分頃だった。彼の通う大学近くの喫茶店のテラス席に腰掛けて薬屋は何か本を読んでいた。随分と分厚く立派な表紙をした本だった。薬学に関するものだろうか。
今日は天気がいいものだからきっとテラス席は心地いいのだろう。薬屋の白い顔は日光を反射するように儚く光って見えた。
寄っていき、手を挙げて挨拶すると、こちらに気づいた薬屋はその本にしおりを挟んで閉じて立ち上がった。
「おはようございます」薬屋は相変わらず柔和な表情をしている。けれどもその顔はいつもより白かった。
「よう、待ったか」
「いえ、待ってませんよ。何せ――」本を読んでいましたから。薬屋の常套句だ。
私が、それを待っているというのだ、と言っても彼はそうではないと否定する。それが薬屋なりのやさしさなのかわからないが、なんにせよ、屋号会の中でもとりわけ優しい男だった。
立ち上がった薬屋を座るよう促して、私も相対するように椅子に座った。テラス席で太陽に当てられていたこともあり、スーツの上からでもわかるほど椅子は暖かかった。
「それで、話ってのはなんだ」私が薬屋にそう尋ねる。ええと、と彼は目を伏せて少し口ごもった。
そこで私は店員を呼んでブラックコーヒーを頼んだ。それと軽い朝食ということでサンドイッチも追加した。
それからまた薬屋を見る。薬屋はテーブルにあるカフェモカを一口飲んで私の顔を見た。それから何か言おうと口を開いて、言葉を出す前にまた閉じた。薬屋の眼が私の後ろを見る。ああ、と思うと店員が義務的な笑顔とともに注文した品を運んできてテーブルに置いていった。くるくるとレシートを綺麗に丸めてテーブルに置いて去って行く。軽く頭を下げてブラックコーヒーを飲んだ。熱くて舌をやけどした。
薬屋があの、と話しかけてきた。
「あ、その前にこれ、二日酔いの薬です。どうぞ」
薬屋が小さな小包を差し出した。悪いな、とそれを受け取ってさっそく中を見る。粉末状になった漢方がそこにあった。見るからに苦々しそうな焦げ茶色をしている。喉が反射的に乾いた。コーヒーと一緒に置かれた水でその漢方を飲み干す。あまりの苦さに思わず舌を出した。やけどをするは、渋みで口の水分を持っていかれるはと散々な朝だ。
「毒じゃねえだろうな」
「毎回それ聞きますよね。安心してください。あと数時間もすれば効果覿面ですよ」薬屋が優しく笑ってカフェモカを口に運ぶ。
グラスに残っていた水を一気に飲み干して、深呼吸した。口の中はもう満足していた。
「ありがとな。助かったぜ」
「いえいえ、これくらいは」
「さて、何度も出鼻をくじいて悪かったな。話ってのはなんだ?」
煙草を咥えて薬屋を横目で見る。中々火が付かない。
「あの。話というのはゆりさんのことです」ライターをこする手を止めて、やっぱりか、と目で言うと、伝わったようで「やっぱりです」と苦笑した。
「僕は、あの日からよくゆりさんのそばにいます。それは、すごく嬉しいことです」
「そうだな。花屋のことをよく看てくれていて助かってるよ。ありがとな」
「いえ、別に僕が好きでやっていることですから、そんな風に感謝されることでもないですよ」薬屋が手を顔の前で顔と一緒に振った。
「それでその、僕は今ゆりさんと一緒に長い時間を過ごせてうれしいんですが、この気持ちが果たしていいものなのだろうかと思いまして」
薬屋は悩んでいるようだった。いつも蒼白な顔が更に血の気が引いて透明になるのではないかというくらいに。
「正しい、ってのはどういうことだ?」私が煙草をくゆらせてそう尋ねると、薬屋は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「僕は、ゆりさんが好きです。でも、ゆりさんと今一緒にいれるのはお兄さんが――肉屋さんが亡くなったからです」
「そうだな」薬屋は静かに首を縦に振った。
「その肉屋さんはゆりさんにとって大切な人です。今だってそうです。そんな大切な人がいなくなってしまって、僕はその後釜のようにゆりさんの空間に入りました。なのに、僕は、気付けば今のこの状況に喜んでしまっている。棚から牡丹餅のように僕のもとへ降りてきた――言わばチャンスを掴んだ僕は、喜んでしまっているんです。以前は違いましたよ? 仲間が死んだんです。悲しいわけないじゃないですか。でも、最近は違う。最近は日に日に嬉しさが勝つようになってきたんです。僕はそれが嫌でたまらないんです。こんなに薄情な人間だったのかと思って、こんなに薄情な人間なんて思いたくなくて、僕は今本当にゆりさんと向き合えているのかも分からなくなって」
そこまで一息で話すと、薬屋はすみませんでした、と頭を下げた。もう湯気の立っていないカフェモカを喉を鳴らして飲んだ。
「なにも謝ることはないさ」私もブラックコーヒーを一口飲んだ。「お前のその悩みはごもっともだ」
「そうでしょうか。ひどく傲慢な悩みな気がして」薬屋が目を落とす。
「そう絶望にとぷとぷと浸ったような顔をするなよ。いつもはひたひたくらいなのに」
「それ、いうほど違いますか?」薬屋が苦笑いを浮かべた。
「おそらく結構な違いだろうさ」真面目な顔で私は薬屋を見た。
「お前がそうやって悩む気持ちはわかる。といっても細部まではわからんが。肉屋ならわかってくれる、とも思わんが。それでも俺がお前に言う言葉は花屋を守れ、だ。お前がそうやって喜ぶようになって薄情な人間になってしまったとしても、それでもお前が花屋を守れ。俺たちはあいつの忘れ形見を大切にしなければならない。それが俺の思うあいつへの弔いだ。それに、お前は花屋が好きなんだろう? 好きな女の涙くらい、いつだって拭ってやれよ。なに、困ったらサポートはするさ。実際、今だって布屋が昼間は手伝いを名目に保護してる」
私はサンドイッチに手を伸ばした。ハムとチーズが中にあり、外はこんがりと焼けていた。チーズが少しとろっとしているがパン自体は柔らかい。レンジでチンなら道理であんなに早く提供できるはずだ。大きく一口食べて薬屋を見やると、その顔は今だ暗かった。
「天気いいから、少しドライブでも行くか?」私からの提案に、薬屋は顔を上げた。
「それとも、単位とかまずいか?」
「いえ、今日は特に必ず出席しなければならないものはありませんけど……」
「じゃあ行くか」私は席を立つと、吸っていた煙草を灰皿に押し付けて、レシートを持って会計へ向かった。手慣れた指捌きでレジを打つおばさんの笑顔を背に店の扉に向かう。ぼーっとしている薬屋に、
「早く行くぞ」とだけ言って店を出た。フィアット500に乗り込んでキーを差し込んでエンジンをかけたところで薬屋は店から出てきた。
「すみません、ごちそうさまでした」
助手席に乗ってきた薬屋が律儀に頭を下げた。気にするな、と手を払う。何を言うか迷った顔をして、シートベルトを締めてから薬屋は、
「どこ、いきましょうか」と聞いてきた。
「そうだなあ、どこか行きたいところはあるか? 海でも山でも沼でも川でも丘でもいいぜ」
薬屋は少し思案したあとで、「代々木公園の噴水広場なんてどうですか?」とこちらをちらりと見た。
「なんだ、俺の用事わかってたのか」頬をかくと、薬屋ははい、と穏やかに返事をした。
「電話口から聞こえてましたから」
「それはあとでいい。俺は、お前の悩みを、ストレスを解消してやりたいんだよ」
いえ、いいんです。と薬屋はきっぱりと言った。あまりにもきっぱりとしていてさっきまでの薬屋ではないような気さえするくらいだ。
「それは、きっと肉屋さんの敵討ちが出来れば、僕のこの苦しみはなくなると思うんです。僕のこの負い目は、肉屋さんを殺したそいつを討つことで昇華されると思うんです。そのためにはその溺死事件も気になりますし、一連の殺人を洗えば何か見えてくるんじゃないかと……」
「お前、俺より刑事みたいだぞ」
「葬儀屋さんが刑事の仕事をおろそかにしすぎなんです。せっかく悪人を捕まえられるって時にあなたはいつも情報を流すから」
耳が痛い。カーステレオから流れるラジオ番組を探すのに夢中で聞こえないふりをした。薬屋がため息をつくのが横目で見えた。
適当に止めた番組では今日は一日ジャズを特集して放送しているようで、延々と名曲が流れてくるらしく、ついチャンネルを合わせるまで流していた楽曲についてMCが説明をしていた。それから切り替えて、次の曲へのアナウンスをするとジョン・コルトレーンのブルートレインが流れ始めた。前奏を少し聞いたところで、薬屋があっと声を上げた。
「この曲、肉屋さんが好きだった曲ですよね」
「よく覚えてるな」
「葬儀屋さんが来たら違うものに変えるんですよね」
「そうだ。あいつも律儀なやつだったからな」
肉屋はジョン・コルトレーンが好きだった。彼の演奏するサックスたちはまるで生きているようでその音に魂がある、とよく言っていた。私も同じようなことをウェザー・リポートの楽曲を聞くたびに言っていたので、お互いに好きなものには魂が宿るのだと付喪神的な解釈をして納得した記憶がある。
久しぶりに聞いたブルートレインはこれから私たちが何かを幕開ける合図や予感めいたさわやかさを耳に残した。
延々と垂れ流されるジャズをBGMにして私と薬屋はひとまず代々木公園の噴水広場近くへ車を走らせた。
こつこつ更新です!




