第十一頁「無題02」
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朝目覚めると、頭が少し重かった。昨日の最後の一気飲みがたたったらしい。弱いくせに無理はするものじゃない。少し動いただけで頭蓋骨の中で脳がミキサーにかけられるようにぐるんと揺れた気がした。とにかく頭が痛いし気持ちが悪い。
ベッドから降りた私は水分を体に取り込もうと冷蔵庫へ向かう。一歩が重たかった。こんなになったのはいつ振りだろうとぶらぶらとした脳で考える。
坂口が死んだ夜もこんな感じになっていた気がする。あの日はノルニルにも行かず、酒屋で購入したあいつの好きだった一ノ蔵を馬鹿の一つ覚えのようにがぶがぶと飲んだんだったか。
最初の一杯は弔いの意味を込めて粛々と味わって飲んだが、そのあとはあいつを救えなかった自分を責めるように、運動後のスポーツドリンクのように流し込んだのだった。確かに美味かった。米本来の甘味や柔らかさが口に優しくて、それがまるで坂口の人となりのようにも思えた。
冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを取り出した。キャップを開けて一口飲む。冷えたそれはギンと頭に響いた。
一度唸ってからまた一口飲んだ。少し上を向いてぼーっと立つ。徐々に水分が体に染み渡っていく。人間の体のほとんどが水分でできているということを実感した。
リビングのカーテンを開けると暖かな日差しが差し込んできた。壁にかけられた時計を見る。時刻は七時だった。
まずいと考えた頃には寝室からギャンギャンと目覚まし時計の鳴き声が聞こえた。ボタンを押すまで泣き続けるつもりらしい。頭を割るつもりなど毛頭ないのだろうが、それはまさに凶器だった。
酔いが回ってぐるぐるとした頭で律儀に目覚ましをセットした眠る前の自分に苛立ちながら寝室に戻る。くそったれと漏らしながらどうにかその目覚まし時計を止めた。
ベッドに腰かけて水をまた一口飲んだ。さっきよりはいい。静かになった目覚まし時計の七時五分を指した針を見やって立ち上がった。
リビングに戻ってなんとなしにテレビをつける。朝からやっているニュース番組は肉屋の事件を取り上げていた。テロップには『東京で起こる連続怪事件』とある。
確かに怪事件だと思う。何せ火元は不明で放火事件だとしても犯人の姿は目撃されていないのだから。随分と流暢に話すアナウンサーがその道のプロだという元捜査一課の元刑事に話を聞いていた。
恐らく犯人はこと放火に手慣れた猟奇的犯罪者であろうとその男は言っていた。犯罪心理学の権威だという隣の男は精神的になんらかの欠如があるが、比較的知数の高い人間の仕業でしょうとも言っていた。
これを見たら西村さんは何というのだろう。くだらんと一蹴するかもしれない。
私はくだらないと思った。くだらない。テレビの向こうで話されるような人間が引き起こした事件ではない。表向きとか裏向きとか、そんなことは一切なく、確実に標的を殺す殺し屋の仕業だ。
すると今度は掃除屋の事件を取り上げ始めた。夏に起きた二つの怪事件。これは一体どういう関連性があるのでしょうか、などとアナウンサーが問う。
またしてもその犯罪心理学の権威が机の上で手を組みながら、これは別の人間の犯行であると思われますが、おそらく、どちらも非常に残虐性の高い思想を持っています。成長するうえで何らかの問題があったため、精神的に傷ついているのでしょう、とのたまった。
首を切り離す、焼殺させる、どちらも確かに残虐性が高い。そりゃそうだ、とテレビに向かって言葉を投げた。
と、その時携帯が鳴った。薬屋からの電話だった。ちょうどいいと思い電話に出る。
「おはようございます」朝に優しい声だった。おう、と短く返す。
「もしかして起こしちゃいましたか?」と心配そうに聞いてきたので、二日酔いだと伝えた。
「ああ、二日酔いですか。葬儀屋さん、お酒弱いですもんね」
「うるせえ、こればっかりはしかたないんだ。いつもの用意してくれないか。あとで取りに行く。なるべく早く」
「わかりました、用意しておきます。ちょうどよかったです。会って少しお話したいことがあったので」
テレビでは、この秋の頭に起きた毒殺事件を取り上げていた。それが気になった。なんでも被害者は兼信会一派の構成員で、代々木公園の噴水に頭を突っ込んで死んでいるところを発見されたらしい。その男は水分を欲していたのではないかと推測されるほど、体中が干からびていたそうだ。それを見て私も薬屋に用事が出来た。私用ではなく、仕事の用事が。
「俺もちょうどいまお前と会って話がしたくなった」
一〇時に薬屋の通う大学前にある喫茶店で落ち合う約束をして電話を切った。二日酔いの薬を忘れないように念を押すのも忘れずに。
薬屋からの話はいったいなんだろうか。だいたい検討はついたが、それは会ってから確かめよう。
もう一度、水を口に含んだ。今度はがぶがぶと喉を鳴らす。五〇〇ミリのペットボトルはあっという間に空になった。
空になったペットボトルを分別してゴミ箱に入れてから再び寝室へ戻った。着替えを用意してシャワーへ向かう。
随分と目が覚めていたが、シャワーを浴びると体の重みも少しは減ったように思えた。いつものスーツに着替えて部屋を出る。
鍵をかけてエレベーターに向かった。一〇階建てのこのマンションは一人暮らしの連中も多いが、家族連れも多い。片手に大きく膨らんだゴミ袋を持って、ランドセルを背負った男の子を送る母親を見て、今日は燃えるゴミの日だったことを思いだした。
軽く挨拶を交わしてエレベーターに乗った。小学生の男の子は一生懸命に何か携帯ゲームをやっている。母親が隣でちゃんと宿題はやったのかと確認していた。男の子はそれに適当な相槌を打って、エレベーターが一階につくとそそくさと歩いて行ってしまった。
すみません、と母親に謝られる。別段謝ることでもないと思ったが、大変ですね、と月並みな言葉を返して私は駐車場へ向かった。
フィアット500のドアを開けて運転席に乗り込んだ。エンジンをかけて煙草に火をつける。車内の灰皿はパンパンになっていて剣山のようだった。さすがに汚いと思い、まずはガソリンスタンドへ向かうことにした。ガソリンも半分を切っていたのでちょうどいい。
駐車場を出るとさっきの母親に会った。お互いに会釈をする。アクセルを踏み込んで、これもご近所付き合いか、と一人つぶやいた。
ガソリンスタンドについて、ガソリンを給油してもらい、灰皿を綺麗にしてもらって会計を済ます頃には腕時計の針は八時を回っていた。
さすがにまだ早いとふらふらと適当にドライブをする。朝の通勤ラッシュにぶつからないように注意しながら走るが、それは無謀だった。当たり前か。
信号待ちをしていると、朝に見たあの小学生を見つけた。あまりのタイミングの良さに何か憑いているような気がしないでもなかったが、そんなこともあるだろうとその子を眺めた。
その子が横断歩道を渡り切ったところに、後ろから図体のデカイ小学生たちがどんと当たって行った。身長から察するに朝に出会った子はまだ高学年ではなく、その当たり散らした連中は高学年なのだろうか。当たられた子は転びそうになったがどうにかとどまった。
いつの時代も年功序列をやたらめたらと気にするものなのだなあと思っていると、その図体のデカイ男の子の一人に向かって、ドロップキックをかました男の子がいた。思わず笑ってしまった。おかげで咥えていた煙草がぽろんとスーツに落ちて若干焦がしてしまった。だがそれを気にしないくらい、そのドロップキックの少年はかっこよかった。
どうやら当たられた子の友達らしく、やんややんやと何かまくし立てている。その少年は自分よりも身長の高い連中に負けじと睨む。
そこに教員らしき女性がやってきて、その場は収まったようでデカイ子たちは先に学校へ歩いていった。
その女性にドロップキックの少年が何か言っているけれど、女性教員は何とも言えない顔をしてその子たちの背中に手を当てて学校へ向かっていく。
なんとなく、いじめかそれに近いものなのだろうと察した。
渋滞していた二車線も青信号になって少しずつ進んでいった。
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